お世話になります。 私は今年で30歳、一つ年下の最愛の彼女がいました。 彼女は長年うつ病を患っており、長く苦しんでいる中でも私に対して優しく思いやりを持って付き合っていただいておりました。 実は亡くなってまだ数日しか経っておらず、心の整理もつけておりません。 元気だった頃から私の幸せを願う発言をしてくれていたので、彼女なりに解放という意味も含んでの自死という選択だったのかもしれません。 周りの方からは彼女も私の幸せを望んでいるはず、だからなるべく元気を出して自分の人生を歩んでほしいと言われておりますが、心の底から愛していた方を急に失った痛みはとても大きいです。 時間薬、という言葉がございますが、自死による離別については、果たしてどのくらいの効果があるのか不明です。 何をしていても上の空でございます。 後追いなどという度胸もなく、ただ日々を鬱々と過ごしていますが、立ち直りのヒントを教えていただければ幸いです。 よろしくお願いいたします。
昨年2月、癌との闘いを頑張っていた母が逝ってしました。 母を愛していたので……哀しく、もっと何かを…何かを…の後悔ばかりを考える日々を過ごしていたところ その約半年後の8月、兄が自らの意思で逝ってしまいました。 母の死は余命宣告を受けていましたので、その時の覚悟は少しは出来ていましたが 兄の死は想像すらしておらず、まして自らの意志で…強い意志で逝ってしまうなんて本当に考えてもいなかったのです。 現在も哀しみと向き合う事が出来ず、後悔ばかりです。 兄の死を知る3~4日程前、首から背中にかけ、急な激痛におそわれ その痛みは兄の死を知ると共に治まりました。 今想えば、母が知らせていたのだと想えてならないのです。 何故、私はその身体の異変を変だと想わなかったのか… 何故、二人きりの兄妹なのに電話をかけ『何か変わったことはない?』 と、兄を気遣わなかったのか… 兄が心の病と闘っていたことも知っていたのに 何故私は兄へ連絡を取らなかったのか… 兄も私を愛していたし、私も兄を愛していたし なのに、何故…何故 私は兄の逝く道をとめられなかったのか… どんな想いでいたのか…何を見ていたのか…何を感じていたのか… どんな気持ちで一人逝ってしまったのか… 考えれば考えるほど胸が張り裂けそうで… 穏やかに笑みさえ浮かべて眠る兄の顔に 兄の意志なのだから 兄の意志を尊重しよう 穏やかに過ごせるところを探して逝ったのだから 兄の意志だから…と、 何度も何度も自分に言い聞かせてはいるのですが あの時、私が気づいてあげていられていれば 何かが変わったのかもしれなかったのに… でも、気づかなかった事が兄の為にはよかったのか… 想いが右往左往して混乱しています。 私が想いすぎると兄は母のもとへいけませんか? 母には逢えたのでしょうか… きちんと三途の川を渡らせてもらえたのでしょうか… この世で苦しみ哀しんだのだから あちらでは苦しみませんよね? 私は 兄の母の傍へいきたいです 何故私をおいて逝ってしまったのか… 私を連れて行ってほしいのです 文章が定まらず申し訳ございません。 お坊様…愛する母の死、愛する兄の死 その哀しみと向き合うことが出来ません… 受け入れる事が出来ません。 私に出来る事があったはずなのに… 何も出来なかった己が辛いです。
いつも心の迷いに寄り添ってくださってありがとうございます。 弟の死から2年が過ぎ、悲しみが癒されるどころか、ぶり返し、日がたつごとに寂しさが募ります。寂寥感、虚しさ、悲しみ。。。 母を支え、自分を支え、いろんな感情に押しつぶされそうになりながらまた立ち上がり、日々過ごすということを繰り返しています。 新しい趣味も始め、自分自身の人生を歩むことも忘れないようにしていますが、 どうしようもない悲しみ、寂しさは自分が人生を終えるその日まで続くことはわかっているのですが、こういう気持ちをだましながらというか、いやすにはどうしたらいいのでしょうか? たまに襲われる深い悲しみに耐えられる自分になるための道しるべをご教示いただけたら嬉しいです。 いつもありがとうございます。
社会人となってメンタルを壊した頃から、ストレスが掛かるたびに強い胸の痛みと戦うことになりました。 心臓に鉛を埋め込まれたような重さと痛みで、生きることに対する全ての気力を奪われてきました。希死念慮に囚われるのももはや日常です。 その度に耐え忍び、可能なら瞑想し、有耶無耶にやり過ごしてきました。 もはや正社員として働き、自立するような気力は奪い尽くされ、細々とアルバイトをしながら、両親に食べさせていただく日々です。 悩みや苦しみからストレスが生まれ、それによって胸の苦しさや希死念慮といった身体的、精神的苦痛に苛まれるため、なんとかこれらを軽減したいのです。 なお、身体的には(少なくとも健康診断レベルでは)健康であり、胸の痛みがなんらかの身体的な病気からきているものではないことは判明しています。 活動する気力がほとんど残らず、自室から動くことも難しい中で、自分に残された行動は「瞑想、または思考すること」くらいです。 限られたリソースの中で、悩みや苦しみを軽減するための考え方などをご教授いただけましたら幸いです。
高一留年しました。半年ほど不登校になっていて、また今年から登校しています。 不登校の時は軽いうつ状態だったと思っています。今は心療内科?に通っています。 ↓悩みです 趣味をしていてもご飯を食べていても楽しくないです。学校に行くのが面倒くさいです。 去年留年しましたし、今は頑張り時だと頭では分かっているのですが、何もする気が起きないし、何もしたくないと考えてしまいます。 最近(去年から今までくらい)上記のようなことばかり考えてしまいます。その結果何度も自殺未遂を繰り返してしまい、家族にも心配や迷惑をかけています。親には死なないでくれと言われましたが、希死念慮が全く無くなりません。 これからどうすればいいのか全く分かりません。少しでも楽しく生きたいです。 自分が甘いのは分かっています。でも誰かに助けて欲しいです。 まとまらない話ですみません。
9月21日に自死で息子が亡くなりました。四十九日には閻魔様が行き先を決めると書いてあるものを読み、毎日のおつとめ等を自分なりに頑張っていますが、気持ちが落ち着きません。我が家は天台宗の為、四十九日までに比叡山に行きたいと思っているのですが、行っても良いものなのでしょうか?(行ってなにをすればいいのかもわからないですが) 他の本には自死は悪行になる為に地獄行きと書いてありました。私たちが出来る事で天国へ行けるようになるのでしょうか?
自分が考える救いとは、無感覚になることです。 迷いを引き受けるとか、しっかり迷うとか、答えは自分のなかにある(道を探求する、道を歩む)とかしんどいのでどうでもいいと思います。 念仏を唱えるのも違和感があるし、修行は無感覚になれるわけではないので無意味です。 悟りの段階が上がると無感情のように見えると聞いたことがあり、憧れますが仏教の悟りは廃人化ではないらしいのでこれも救いとは違うのでしょう。 世間一般的にある努力や苦労をたくさんしろという風潮や、自分の本能的な?遺伝子に組み込まれている?より良くを求める脳の神経の反応(これが仏性的なものか?)もどうかと思います。美しくなければ生きていても仕方がないです。 感覚を断ち切るには死しかないのではないか? と考えますがそこまで思い切れる力もないので、無感覚者として浮遊しているのを夢想します。何か感覚を断ち切れる良い薬があれば欲しいです。ぶらぶらさすらっていてもなんの解決にもなりません。 これまでこれからのいいことよりも、隅々まで行き渡った平穏が楽に簡単に苦行なしで欲しいです。 心境を述べているだけで、一体何を期待しているのか? よくわからないですがよかったらなにかコメントよろしくお願いします。
初めまして。私は、10年前夫が病気で死にかけてから、死への恐怖が強く悩んでます。自分の死もそうですが、家族の死のことが怖くて仕方がありません。朝、皆を送り出してから、夜帰ってくるまで、家族の生死のことばかり考えて、苦しくなるのです。特に次男が心配で、もう高校生なのに、ちょっとでも帰りが遅いと迎えに出てしまいます。長男と夫にも似たような気持ちを持っています。自分の死も不安で、病気に神経質で、いつも体の心配をしています。どうしたら、この苦しみから逃れることができ、平穏な気持ちになれるのでしょうか?
生きる事がとても辛くて、死のうと思ってずっとこつこつと計画を進めてきました。 同時に自分以外の人間を憎んでいました。 こいつらは死にたいなんてこれっぽっちも思った事がない、安楽な人生を生きているんだと思って妬んでいました。 親しい友人、職場の同僚、すれ違う人々に至るまですべからず憎んでいました。 でも違ったんです。 みんな同じ苦しみを抱えている事に気づきました。 みんな私と同じように、悩み苦しみながら日々を生きていると気づいたんです。 生きる事は苦しいんです。 自分を恥ずかしいと思いました。ずっと惨めなのは私だけだと思っていました。 でも苦しみは皆がそれぞれ抱えている事に気がついて今は人々に対する憐憫の情でいっぱいです。 なぜ生きる事はこんなにも苦しいのに、最後に待つのは死しかないのに、人は生きようとするのでしょうか。生きなければならないのでしょうか。
今月頭に、母が急に逝ってしまいました。 あっと言う間に。 私は母の死が信じられず、棺の中の母を見ても実感がわきませんでした。 しかし、日が経つにつれ、なんとも言えない胸ぐるしさと悲しみがこみあげつらくてたまらないのです。 母は、いまどうしているのか、私を許してくれているのか、答えのないことばかり考えています。母の死を天命だと思いたいですが、もっとしてあげれることはなかったのか悔いることばかりです。 母は、浄土真宗を熱心に信心していました。教えにあるように浄土に行っているのでしょうか? 母は、いつもそばにいてくれるのでしょうか。 ほんとうに、つらいです。
高校二年生です。 先日私の友達が自死しました。 鬱病で最後まで苦しみ抜いての死だと思います。 助けてやれなかった自分が情けなく、胸が痛く、後悔の念でいっぱいです。 彼女がちゃんと成仏して、幸せになれることを祈っています。 そこで、亡くなった人はどうなるのか調べていると、自死した人は成仏できずにずっとこの世で苦しむという記述が多く見られました。 大好きな友達が苦しみ抜いてやっと楽になれるかと思いきや、亡くなっても苦しんでいるかと思えば耐えられません。 本当に彼女は成仏できないのでしょうか。 私にできることはないのでしょうか。 どうか回答よろしくお願いします。
温厚な父親がある日突然に失踪し、半年後山奥で自死の姿で見つかりました。ずっとずっと父親に対して後悔の気持ちでいっぱいです。もう十数年間経ちますが、まだ写真を見れません。私は末っ子で、よく父親に心配かけてばかりでしたから。後悔し出すと眠れなくなります。自殺するとなかなか成仏出来ないと聞きます。余計に父親が心配になります。父親は何処かで彷徨っているのでしょうか??私がもっといい子なら父親は自殺せずにいたと思うと本当に日々自分を責めてしまいます。
はじめまして。あのちと申します。 昔から死に対する恐怖が強くありましたが、最近は「最終的には死んでしまうのに、なぜ生きているんだろう?」や、 「今やってることも、持っているものも、勉強や趣味も死ぬのだから意味がないのでは?」 と考えるようになってしまいました。 この先どうやって生きていけばいいのでしょうか? よろしくお願いいたします。
はじめまして。 どうしても苦しく、初めて投稿いたします。 中学生頃からずっと希死念慮があり、早く死にたいと思っていました。 大人なり愛する人に出会って、生きていたいと思うことが増えたのですが、それでも些細なことでやはり私は生きていてはいけない人間なのでは、と考えてしまいます。 死にたいと考えることで、夫に辛い思いをさせてしまう。夫に辛い思いをさせる私なんて要らないのでは、と矛盾した思いの堂々巡りになってしまいます。 そして、今年がん検診に引っかかり前がん段階で手術を受けました。現在は病理検査待ちですが、死にたいと思っていながら、いざ実際に死の可能性が目の前に来た時、最初に思ったことは「怖い」でした。 なんて弱くずるい人間なのでしょうか。 夫は癌になっていても、一緒に頑張ろうと言ってくれましたが、不安な気持ちはなくならず、意味もなく泣いたり八つ当たりをしてしまったり、毎日生きることが苦しいのです。 このようにままならない気持ちをどうしたらいいのでしょうか。 そしてこのままたとえ死んだとして、こんな私ではお釈迦様でもお許しくださらないまま、本当に無価値になってしまうのではないかと恐ろしいです。 まとまりのない文章になってしまい申し訳ございません。 このような場をいただけたこと、感謝いたします。
10代、20代の時は「今」を生きていたので死について深く考えてきませんでしたし、死ぬことは怖くありませんでした。 しかし、身近な人が亡くなるにつれて死後について考えてしまうようになりました。 大事な人はいずれ死にますし、いつか会いたいと思っていた人もいつの間にか死んでしまいます。 子供の頃の友達、近所のおばさん、世話になった先生、みんなに昔の姿で会うことはできませんし、次会ったとしても当時のように話はできないと思うと苦しくなるのです。過去には絶対に戻れないこと、死はせまってきていることを実感していく感覚。 この感じはみんなにもあるのでしょうか? また、お坊さんに対して愚問だとは思いますが死んだ後人はどうなると思いますか? 個人的な意見をお聞きしたいです。 ①輪廻転生 ②天国、地獄 ③同じ人生を繰り返す ④無 ⑤その他 私の今の考えとしては希望も含めて③だと思います。 長文をお読みいただきありがとうございました。 皆様のご意見をお聞かせください。
恐縮ですが、ご意見を頂けたら幸いです。 拒食症を患い、入院含めて7年この病と闘ってきました。一時期は50キロ代まで体重も回復しましたが、この2年でまた10キロ近く減らしてしまいました。さらに、睡眠障害で1日4時間くらいしか寝られず、心身が苦しいです。 頭では治らなきゃと分かっているのに、何故か食べ物を捨てたり、減らしたりしてしまいます。 家族にも死を仄めかしたり、きつくあたってしまいます。でも、死ぬことが出来ずにいます。 こんな厄介者の自分は生きていても役に立たない、死んだほうが家族にとっても、世の中にとっても有益なんだと、治ること、生きることを諦めて、死をゆっくりとでも受け入れたい、そう思いました。 いつ死ぬのかは分かりませんが、治ること、生きることを諦めてもいいでしょうか。 もう、考えることに疲れました。
私には平均寿命を超えた老犬がいます。昨年この子が一番懐いていた母を亡くしたため、「もう歳だしこの子に何かあった時は治療せず、母の所に逝かせてあげよう」と決めていました。半月程前に犬が突然のたうち回りながら苦しみだし、私は浅はかにも他の家族にどう思われるかや、ただいなくならないでほしいという気持ちで悩んだ末病院に連れていきました。幸い投薬が続くけれど治る病気ではありましたし、死にそうになりながらこの子は寝たきりから回復してくれました。そして今日も病院に連れて行ったのですが、治療費の高額さを聞いてから、また浅はかにもこの子の生死を悩みだしました。 「もう目も見えず、寝てばかりのこの子をやっぱり逝かせてあげたほうが良かったのでは?」「でもせっかく頑張って生きてくれてるのに」とか「今更治療やめますなんて病院に言ったら病院の人にどう思われるか」「犬が死の淵から生き返ってくれたのは私に死を受け止める覚悟のための時間をくれたのかな」など浅はかで都合の良い考えばかりが浮かんでしまいます。 今よたよたと歩くよわよわしい犬を見てたら「死なせてあげたい、どうやったら安らかに逝けるのか」と考えています。どんな結論を出しても自分の中で否定と肯定と人からどう思われるかばかりの堂々巡りです。せめて、病院の人とお金のことを考えずに結論を出したいんですが、どうすれば気にせずに犬にとって最善の答えを出せるでしょうか。 また、この子の死を受け入れる覚悟と準備はどうすればできるでしょうか? もしよろしければご回答お願いします
こんにちは。 29歳、医療職の女です。 いつからか、タイトルのように『生きることをやめたい』と思うようになりました。ですが、自分の命を経つ一歩が踏み出せずここにいます。 とても恵まれた環境にいることは自覚しています。家族からも愛され、幸いにして友人や恋人と呼べる関係の人もいます。楽しいと感じることもたくさんあるし、幸せを噛み締めることもあります。 ですが、その楽しさや幸せを感じているときでも「死にたいか?」と問われれば「はい」と答えられます。死ねば周りの人が悲しむことも想像できます。それでも、もう生きていたくないのです。 なぜか。 自問自答すると、結局 自分のことを好きになれない 自分が無価値だと感じている ことが根底にあるように思います。 冒頭に申しましたように、医療をかじっているので、この自己肯定感の低さをどうにか変えれば良いのだろうということはわかります。 でも変えられないのです。変えてまで生き続ける理由も価値も自分にはないと考えています。だからずっと“生きていたくない”と思いながら毎日生きています。事故や事件に巻き込まれて死ねないかな。このまま寝て目が覚めなければいいのに。 ただでさえ、死ぬことすらできない自分が嫌いなのに、自分の失敗を酷く嫌い、ストレス耐性の低い私は、ちょっと嫌なことがあるとさらに自分のことが嫌いになります。 そんな精神状態で人を励ましたりケアしたり指導したりする仕事もつらい。 こんな気持ちを抱えながら生き続けるのがつらくてたまりません。このつらい気持ちから逃げたくてたまりません。 理由なく生き続けるには無価値過ぎる自分は、どうすればいいのでしょう(生きるのに目的や理由が必要とは思っていませんが…)。この気持ちにどう折り合いをつければ良いのでしょう。 むしろなぜ皆さんは生きていられるのですか?死にたいと考えることはないのですか? とりとめのない内容ですみません。 死ぬ勇気はないので、当分自ら死ぬことはないと思いますが「死にたい」「自分など死んでしまえ」「なぜ死ねないんだ」と言いながら泣く日々が少しでも楽になればと思い相談させていただきました。 よろしくお願いいたします。
教えていただきたいです。 大切な彼が自死を選びました。私は救うことも支えることもできませんでした。それなのに、最後に「ありがとう」と言ってくれた、心優しい彼でした。 彼は真言宗です。即身成仏で、現世において密厳浄土を目指す宗派と理解しております。 お父様の月命日には必ずお墓参りをしていた、心のきれいな彼です。 さて、ここからが質問です。 1 自死をした場合 自死を選んでも、心のきれいな彼であれば、密厳浄土に到達し、苦しみから解放されているのでしょうか。 2 逆縁の場合 彼のお母様は存命です。逆縁になってしまっても、密厳浄土に到達し、苦しみから開放されているのでしょうか。 3 供養の仕方 四十九日までは、追善供養が重要と理解しています。 家族でもなく、宗派も違う私の場合、彼を想って光明真言や般若心経を自分で唱えるようなことで、追善供養になるのでしょうか。 何をすることが、彼にとって最善なのでしょうか。 4 宗派の相違 私は真言宗ではありません。その場合、死後に会うことは叶わないのでしょうか。 5 悪人正機 私は様々な罪を犯しているため、こんな私でも彼のためになれるとしたら、高尚な真言宗ではなく、浄土真宗の教えに従い、阿弥陀仏に救いを求めることしかできないのではないかとも考えています。 真言宗の彼のために、南無阿弥陀仏と唱えることは彼のためにはならないのでしょうか。 質問ばかりで申し訳ありませんが、こんな私が彼のためにできることを教えていただきたいです。
先月、こちらで父の死についてご相談させていただき、大変有難いお言葉をいただきお世話になりました。 父の死から一ヶ月過ぎ、間も無く四十九日を迎えようとしています。少しずつ、気持ちも前を向くようになってきました。 時折、自分の身近に起きる自然の出来事、例えば普段見ない小鳥が近くまできてさえずっていたり、空を見上げたら急に晴れ間が広がったり、夜空に光り輝く一つの星が見えたり...そんなことが起きると、あれは父からのメッセージ?などと思えてくることがあります。 まるで歌の「千の風になって」のような...。 5歳の娘も、私がそう言うからか、星を見ては「あれはじいちゃん星だね」なんて話します。 もちろんか科学的にそのようなことはないとは思っていますが、奇遇な出来事に父を感じることをこのまま続けても良いのか、また娘もいつかは大人の考えを持つようになると思いますが、今はこのまま信じさせてあげても良いのかな?など、時々考えることがあります。 このような考えは、お坊様方はどのようにお考えになりますでしょうか? どうか宜しくお願い致します。