いつもお世話になっております。こちらでご相談を重ねるうちに、 戦い疲れた私は他人への無闇な疑念という危険な武器を捨てることに しました。疑ってしまう自分、改善していくべき言動や行動ととことん 向き合って、まさに修行をしていこうと思いました。 そこで、新たな問題が生じました。自分が汚らわしくて仕方がない のです。空気が読めない自分、人との適切な距離感がわからない自分、 列挙に暇がないほどです。 通っている近所のお寺のご住職にそれを告げ、メモを握り締めご助言 を仰ぐと、 「僕の感想を述べるけど、それはカウンセラーさんに言ったほうが いいと思う。僕が言うと越教になっちゃうな」 とのことでした。 数日後のカウンセリングで相談する予定ではいますが、できない 自分が汚らわしくて、恥ずかしくて、やはり人の目が気になります。 そこで私はカウンセリングや日々の訓練と並行し、ヒントを仏典に 求めました。通販等であらゆる経典を購入し、読もうと思います。 カウンセリングや訓練のない日はお経で勉強しようと思ったのです。 しかしそこで、 「お経を読んで解決するのは、悩んではいるけれど、医者にかかるまで ではない健常な方なのでは?」 と考えました。 私は浄土宗の檀信徒ですが、死後思想的な要素の強い三部経だけでは なく(個人的な考えですが、一時期阿弥陀経ばかり読んでいたら希死念慮 が発生して自傷一歩手前まで行きました)他宗派の…例えば理趣経、 法華経などもうまく生きるヒントを得るため読みたいと思っています。 こんな時、今は亡き親たちがしっかりしていればとつくづく思います。 思えば私が発心したきっかけは、「家庭が崩壊しているので、人として しっかり生きるヒントを仏教に求めたから」でした。 仲良くしている近所の奥さんには、 「私たちはそんなの読まなくても生きてる」 と言われましたが、それは親御さんがしっかりしているからでしょう。 (自分でも「うちの親はいいよ!あんたんとこ、酷いもんな(笑)」と 言っていました。悪意はなく、いじられているだけです) 経典を読む際の注意点、私は経典を読むのに適するのか、お言葉を 頂きたく存じます。よろしくお願い致します。
はじめまして。私は23歳実家暮らし社会人の女です。 親は高齢出産のため両親ともに60歳です。私は小さい頃から家族が大好きで、そして家族、大切な人の死が常に怖く、最近特にその事を考えてしまって一人で泣いています。 母にもその不安を話したのですが、母はいずれは人は死ぬ来る運命に従うんだよと私よりも何倍も強い気持ちです。しかし、私はやっぱり耐えられません。ずっとずっと仕事中も両親のことを考えてトイレで泣いてしまいます。大学生の頃、一人暮らしをしていたのですが、両親のことを考え、少しでも恩を返そうと実家に戻りました。感謝はできるだけ伝えたいのですが、やっぱり死を考えるだけで辛いです。 また、遠距離恋愛をしています。片道4時間程の距離ですが、いずれ自立して彼の元へ行こうと思ってます。しかし、両親のことが心配でならないのです。両親は子供が幸せならいい、自由に生きてほしい方針なのですが、私が心配でならないのです。本当に不安です。彼の元へ行きたい気持ちも両親のことが心配な気持ちふたつあって辛いです。精神的に自立して前向きに生きたいです。 心療内科も予約済みなのですが、それまで時間があります。この常に抱えてる親の死の不安、精神的自立の仕方どうかご享受願いたいです。 日々不安で辛いです。助けてください。
死んでしまえば、あらゆる恐怖から解放されますか?
ガン告知から3年。先日、転移が悪化し完治はほぼ見込めず、病巣によって骨折もし、最近は死についてよく考えます。しかしピンときていないのか「死が怖い 死にたくない」というより「死後の世界はあるのか どう人生を閉まっていこうか」といったことが気になり、エンディングノートを書いたり、断捨離したりしてます。 先日、友人とコロナについてや、痛ましいと報道される有名人の人生の集結のニュースについての話になり、私も死についてや「一人で旅立っていくときのことを考える」ということを話すと「考えすぎは良くないよ」と言われました(励ましてくれたのかなと思います) 「私にとっては、この気持ちは日常で、あまり悲観的ではなく考えすぎっていう感じでもないんだよ」と伝えると、はいはい、という感じで流されました。ある友人は「それでも不遇な死はあると思う」と述べました。 理解されなかった気がして、些細な出来事ですがショックでした。 私は、死は死でしかなく、その死は不遇であるかどうか他人が言うものではないと思うのです。また、何かしてあげられればよかった、と必ず思うものですが、簡単に言うことでもないとおもうのです。私も他界した母に何もあげられませんでしたが、してあげられなかったと思いすぎるのも、亡くなった方に対して失礼なんじゃないかと。なら生きているうちにできたではずですし、まず亡くなった人がそれを望んでいたかもわからないし、他人が人にできることは限界があると思うからです。 病気になってから、どうも周囲とのズレを感じ、30代であんまりこんなことを考えている人も今までの交友関係だと少なくて、孤独を感じます。 そして「人生のステージが違うのだ」と思うようになってきました。 それは「私のほうが死に近いステージだからだ、きっと彼らもそうなったときにわかるだろう」というニュアンスもあります。 ふと「それはおごりではないか?」と思い質問させていただきました。 確かに病気や死は近づいた人じゃないとわからないものがあると思います。私が感じた寂しさや孤独を「人生のステージが違うから」と帰着させるのはおごりでしょうか?偉そうな立場からの勝手な帰着なのでしょうか? そして、死に不遇はあるのでしょうか? 人が人の死を不遇というのは失礼なことではないのでしょうか? 私が死について考えるのは「考えすぎ」なのでしょうか?
いつもありがとうございます。 なつと申します。 今日は友人関係についてご相談したいです。 長年仲が良かったけど、最近距離を置いている友人がいます。 私が希死念慮に襲われた時にたくさんLINEをしてしまったのが原因みたいなんですが、今日その友人のブログを見て(数年前に教えてくれた)、私のことをけっこうボロクソに言っているのを見てしまいました。 私が見るかもしれないところに私の悪口を書くってことはもう修復不可能なんでしょうか。どう思われますか? また、希死念慮に襲われた時、他の人に迷惑をかけずに気をそらすにはどうしたらいいでしょうか。電話相談窓口はつながらないことが多いですし、頻繁に希死念慮に襲われるためちょくちょくかけていて「またこの人か」という反応です。友人にも家族にも迷惑がられていて、もう相談する場所がありません。 精神科病棟に入院していたときに、いろんな人に「話を聞いてくれる?」と声をかけまくって同じ話をして迷惑がられているおじいさんがいましたが、今の私はそんな感じです。人を不快にさせたくありませんが、希死念慮があるとき人のことを思いやることができません。とにかく「誰か助けて」という気持ちで誰かに話さずにいられません。 自分で自分を立て直すにはどうしたら良いのでしょうか?ご助言いただきたいです。 よろしくお願いします。
双極性障害、不安障害、睡眠障害、トラウマや解離など、複数の精神疾患・症状を抱えています。 毎日のように希死念慮を感じます。 何度も自死を図りましたが失敗に終わりました。 それは、自分の中でセーブかかかっている為だと思われます。 それは、多くの人に言われた「死なないで」という言葉、そして本能的な死への恐怖だと思います。 そしてたまに、死にたくない!と強く不安になるのです。 私の身体は、酷い自傷行為を繰り返したせいで外も中もボロボロで、恐らく短命でしょう。 しかし夢があります。 漫画家になって、作品を通して誰かの生き甲斐になることです。 私も創作物に沢山生きがいを貰っているからです。 担当編集も、私に連載作家になることを期待してくれています。 今は死ぬのが怖いです。 でも朝は死にたかった。 そして数時間後にはまた「しにたい」に戻ってしまっているかもしれません…悲しいことに、「しにたい」方がここ数年の私の日常です。 本当は生きたいです。希死念慮なんか持って生きたくないです。 でも、病気が良くなったらなったで、こんな自分でボロボロにした身体を受け入れられるとは思えません。きっと傷跡が目に入る度に苦しむでしょう。 私は今からでも取り返しがつくんでしょうか……立ち直れるんでしょうか。 何年も治らないどころか悪化していく病気にどう立ち向かえばいいのか、寛解できたとて、病気の頃の自分の行いをどう受け入れればいいのか。 わからなくて不安です。 ご教示ください。
高校3年生の男子です。 私は最近、将来、特に5年や10年後などの先についてかなり不安を感じています。特に私は、小さい頃から死に対してかなりの不安を抱いていて、思春期の不安と元々の死への不安が化学反応を起こして、本当に苦しいです。 一度、この苦しさを取り除くために、先を考えるよりも今を精一杯生きようと思おうとしたのですが逆効果です。 一番には、どうすれば死に対してある程度柔らかい考えができるのかを教えて欲しいです。
初めまして。いつも辛い時に拝見させて頂いてます。 先月末、祖母が医療ミスにより突然に亡くなってしまいました。 まだまだ長生き出来たはずなのに、そして私はいい歳になるにも関わらず、結婚もしていない、まだ何も祖母に恩返し出来てないのに、後悔しかありません。 そして祖母が亡くなる前には他人から嫌がらせを受け、今まで生きてた中で最大のトラブルになっておりその最中の出来事でした。 なぜ私だけが、こんな目に。 憎しみ、怒り、悲しみの中、突然届いた祖母の死という絶望。また、私は普段から(申し訳ないのですが)医師には適当にあしらわれた事もあり、医師に対して良いイメージを抱いていませんでした。 祖母の死も、今のトラブルも、これもネガティブな考えの私が全て引き寄せてしまった結果なのでしょうか。私のせいで、祖母がこんな目に。 毎日毎日、祖母の死に対しても実感が無く、大人になっても祖母に甘えてばっかりいないで〇〇に連れてってあげれば良かったとか、素敵なネックレスをプレゼントしてあげれば良かったとか、後悔ばかりが浮かびます。 いつも笑顔で、明るく、決して人の悪口を言わず、私含むたくさんの孫に平等にたくさんの無償の愛を注いでくれた祖母。大病を患った時も、祖母は家族に黙っていました。 きっと無念の死だったろうに、棺の祖母は笑っているように穏やかなお顔でした。 離れて暮らしているので最近は特に電話もしたりして、まさに祖母は私の生きがいでした。 そして今、生きる希望を失ってしまった。 祖母に会いたいけれど、会えない。夢にも出てこない。母親には、会いにきたそうです。 まだ終わっていない対人トラブルも抱えており、祖母も失ってしまった今、私はどうこれから生きていけば良いのでしょうか。 皆平等に愛する人の死は経験する。そうわかってはいても、辛く、毎日何に対してもやる気が出ず、ぼーっとしてしまいます。 お坊さんは、どのようにしてこの胸が張り裂けそうな苦しみを乗り越えてらっしゃるのでしょうか。また、やはり私のせいなのでしょうか。 涙も枯れ、もう出ません。 お叱りの言葉でも良いので、なにかお言葉頂けますと有難いです。
タイトルの通り私はよく自分が生きる意味について考えています。 日々の生活が楽しくないわけではありませんが、学生の頃から漠然と長生きするつもりもないし、30代あたりで死ねたらいいなと考えていました。 それを友達に話すと「早すぎじゃない!?」と言われました。逆になぜそんなに長く生きたいのか私には不思議で仕方なかったです。 というのも自分は死に対しての恐怖が周りの人たちよりも比較的に少ないのかなと思います。自分の体を傷つけるのにもなんの抵抗もありません。 嫌なことがあったり苦しいことがあっても『まぁ、いいやもうすぐ死ぬし』と思うと楽になれます。 ですがもし自分の家族が死んでしまったらと考えるととてつもない恐怖心に襲われます。 自分に対しての死にだけ不思議と恐怖がわきませんし、むしろ早く死にたいとも思っています。 何か感情が欠如しているのかとおもいました。 生きる意味について何か納得ができる答えがないかネットで検索をしても皆似たような答ばかりで納得できませんでした。 どうして人は生きていかなければならないのか。なぜ長く生きていくことが美徳とされているのか。早く死にたいと思うのはおかしいことなのでしょうか。 分かりにくい文で申し訳ございませんが、お返事お待ちしています。
ただ生きていくだけのことが難しいです。今まで何度も何度も生きるか死ぬかの地獄みたいな場面に遭遇してきました。 そのたびに「死にたい」と人に言って人から見た"死にそうな自分"をイメージすることで、なんとか生き延びてきました。 人に死にたいと言うとたいてい2パターンの答えが返ってきます。 「死ねよ」系か「死んだら悲しい」系です。どちらにも心はこもっていませんでした。面倒くさそうでした。 死ねよ系の中に私が社会で生きていると「社会やすべての人にとって迷惑だから自殺してね。約束だからね」といったものがありました。これは真だと思います。(私は生活保護を受給していますし、精神障碍者です。誰かの力を借りてもただ生きていくだけのこともできません。)一方死んだら悲しい系の中に「他の動物の命を奪って生きているのにその自分が自殺することは悪だから地獄に行き、未来永劫苦しむ」といったものがありました。これも真かと思います。 この二つは矛盾すると思うのですが、私がこのまま社会に迷惑をかけ続けながら生きていくのと、自殺すること。どちらが悪なのでしょうか。仏教的な答えをご教示いただけたら幸いです。
先日、大好きなアイドルが自ら死を選び亡くなりました 本当に急なことでショックも大きいですが、少しずつ前を向いて向いて受け止めなければいけないと分かっているのですが、なぜかいつも切ない気持ちになってしまいます。 そこで、思うことがあるのですが、自殺をすれば天国には行けれないと聞いたことがあります。 彼は沢山の人々を幸せにしてきました。 彼は天国で幸せにしているのでしょうか? 亡くなると魂はどうなるのですか?いつも見ていてくれているんですか? などととても気になります。 教えてください
最近、季節の変わり目だからなのかなかなかメンタルの調子が良くなりません。 今まで出来たこともなかなか上手くいかないです。出来るだけ焦ったりしたくはないのですが、どうしても焦ってしまいます。 直近に大好きな人の死があったので、それも多分繋がっているような気もします。 自分の将来のことも考えると不安になります。 不安をなるべく少なくして過ごしたいです。 ポジティブな思考を持って過ごすにはどうしたらいいでしょうか。
祖父母が病気や認知症になることが、最近立て続けに起きました。 その度、どうして人は忘れていってしまうのか。残される方はどんな心構えで生きていけばよいのか。残されたら悲しいのかな。もし自分だったら、もし自分の夫が......と、悲しい未来を想像してしまいます。 死が怖いです。忘却が怖いです。でも、必ず訪れる死や忘却を恐れてばかりで、今を生きられないのは嫌です。しっかり今を生きたいです。 死ぬことや、死に向かう事を、どんなふうに捉えるのが良いでしょうか。不安に思いすぎない心構えを知りたいです。
真心をこめて関わる方々が、自死を選んでしまったのがつらいです。 自分が関わると死に追いやってしまうのだろうか、立て続けなのは何か因縁があるのだろうかと考えたり、また繰り返してしまうかもとこわいです。 信頼できる人には感情を出し切って、話し合って現実的に動いていますし、皆私を必要としてくれているのを感じる一方、自分を疫病神のようにも感じてしまいます。 また、お墓参り等できないので、厳しい弾圧に耐え抜いたご先祖様の力もかりたく、自分なりにお経をあげ弔いました。が、宗教が違うのにそんな弔いをしてよかったでしょうか。
いつもお世話になっております。 死について、最近良く考えます。 中学の頃から病みやすかったのですが、最近は 死に方まで考えてしまいます。 なんだか近くに感じます。 何かあると深く考えすぎてしまうことが多くて、やめたいです。 そのような感情に飲み込まれてしまったとき、どうやって乗り越えればいいのでしょうか。 こんな私でも生きていてもいいんでしょうか。 こんな質問してすみません。
自死遺族であり、精神疾患者家族です。 精神疾患を理解しなければと家族会等へ行くと、上の子を助けられなかった失敗者の様に感じ、障碍と向き合いながら明るく対処されている方々との距離を感じます。 また、自分の心を鎮めればと参加してみる自死遺族会等でも、辛くても他の家族との幸せを語る方々を遠く感じます。 年老いた両親は他の孫の成長を嬉しそうに話すし、 友人は子供の就職や結婚の事を悪気なく喋る… どれもこれも、自分には手に入れられ無い事を普通に話して聞かされると、涙が出できます。 人は人、我は我… 言わないだけで、皆悩みは有る… そう自分に言い聞かせてますが、辛くて落ち込む事が増えました。 特に年末年始は世間を見るのが更に辛かったのです。 何かお言葉を頂けますか?
時折、無性に死ぬことを渇望してしまいます。 何より周囲に迷惑がかかるし、 してはいけないことだと理解しているのでしませんが、 幼い頃から何かと死にたがってしまいます。 死がとても魅力的に見えるのです。 昔は情動豊かすぎる子供だったので、 死んでやるー!と短絡的な気持ちで自殺する構えをしたりしていたのですが(本当にクソガキですね)、 最近はとても自然な誘惑のように思えるのです。 死ぬことで全てが完結する、とでも思っているのでしょうか。 とても救いのように思えるのです。 ですが、何か嫌なことがあるたびにいちいちこのようなことを考えていては、 時間の無駄であるし何よりますますダメな人間になっていくことも分かっているので、 (おそらく逃げ道として死を魅力的に思っているのだと思います。) この感情との付き合い方を知りたいです。 もしも完全に無くす方法があればお聞きしたいですが、それは自分自身の問題である気がするので…。 どうかご意見をお聞かせください。 よろしくお願いいたします。
以前、死ぬのが怖い、そしてこの世界はなんなのかという質問をさせて頂いた者です。その度に暖かいご回答を頂き、大変感謝しております。ありがとうございます。 ご回答や仏教について、素人ながら自分で調べたり考えたりしております。その中で、やはりお釈迦様のように、この世から執着を無くすということは、死の恐怖や今生きていることの恐怖を克服する上で大切だと考えました。 しかし、この世への執着というのが、日々の小さな幸せを感じるたびに増えて行くように感じています。例えば、今日も家族と暮らせたこと。友人と話したこと。ご飯が美味しかったこと。素敵な景色を見たこと。そのような日常の幸せを噛み締めるたびに、大切な人たちと離れたく無い、なぜ永遠に一緒にいられないのか、こんなに綺麗な景色を死んだら見られない、死んだら「今ある幸せ」が消えてしまうのだ…と、死によってそれを失うという恐怖にかられます。魂を信じてみても、自分の肉体さえ今は愛おしく、離れがたく思ってしまいます。 この世への執着を手放すことと、幸せを感じることは共存できるのでしょうか?死という自己意識の消滅の恐怖は、どういう考え方をすれば克服することができるのでしょうか? 今はまだ、死ぬのが怖すぎて生まれてきたくなかったと思ってしまうことが多いのですが、願わくば、それでも生まれてきてよかったと思いたいです。いつも、どうせ死ぬのに生まれた、最悪だ、と思ってしまうので、恐怖を克服することで、本当に心から幸せだと思いたいです。 乱文で申し訳ありません。御助言を頂けると幸いです。
人には必ず訪れる死 事故死、病死、自殺… 色々ありますが死は必ず訪れるのでどんな死に方をしても死んだら無ですよね、、、?? よく自殺したら苦しむと言われていますが…あまり信じることができません。
何をしてもうまくいきません。 仕事を長く続けたいと思ってもすぐに辞めて迷惑をかけてしまいます。 もう自分には生きてる価値もありませんが、死のうにもその勇気もありません。 いったいどうしたらいいのでしょうか