苦しむこともなく安らかに息を引き取り、お浄土へ修行に出られた我が父のことで少々ご相談致したく。 確かに父は死を迎え、我が家からは表面上姿を消しました。 然しながら何かにつけて見え隠れする父の存在の大きさに息子として見ると詠嘆するばかりです。 「それに比べて我が身のなんという小ささよ」 とふと、自分が卑下の心にとらわれてしまいます。 無論、こんな心にとらわれるのは馬鹿げていて何も生み出さないのですが時折熱病のように我が身を襲うのです。 超えられなかった父の存在、超えるべきであった父の存在。 両者の間で惑う自分がおります。 「僕は父のようになれただろうか?」 「僕は父のようになれないのだろうか?」 「父」という存在が未だ自分を動かしている。という事実が苦しいのです。 如何ともし難い現状ですが、少しでも抜け出せるお言葉をいただけたら幸いでございます。 合掌。
瞋恚の心をどう扱えばいいか悩んでいます。 昔交流があった人に無視され、強い怒りが湧きました。相手が見下してきたことや失礼な態度を思い出し、「同じ目に遭えばいい」「欠点や態度が災いして孤立すればいい」あまつさえ「死ねばいい」と思ってしまいます。自分では事実を見ているつもりでも、解釈、思考が加わって怒りが増大します。 仏教に詳しい友人からは、瞋恚を持つと悪いカルマを積むため、相手の未熟さを慈しみ成長を願うことが大切だと言われました。瞋恚の心が出たとき、溜飲を下げつつ悪業を避けるにはどう考えれば良いでしょうか?