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hasunoha 問答検索結果 : 「 お墓 」
検索結果: 1888件

過去の自分が許せない

私は先月祖母を亡くしました。  仏様になったとお寺の方が仰っていて、私に名前をくれた祖母は本当に偉大で優しい方でした。 そんな人を祖母に持ちながら私は最低なことばかりで。 小学性格の時イジメほど酷くはありませんでしたがされた事を先生に言って友達に謝らせ、不登校。祖母は大変心配していました。 そして祖母のお金を盗んでしまう。 中学の時は どうしても行きたくなく不登校に。 高校時に友達の悪口を言って それを聞かれいじめられ。不登校に。 20歳になってからも、仕事の応募を忘れてしまったり、バイトや派遣の仕事のメールをすっぽかしたり、バイトを1度バックれてしまったこともあります。 今お付き合いの方のお母様の愚痴までも言ってしまう始末です。 自分は何故似たような同じ過ちを犯してしまうのだろうと心の中が苦しくてなりません。 余計なことや人のことを考えずに発してしまう発言や行動が、形となって返ってきているのだと勝手ながら思っています。 どうしてこんなに頭が悪いのか 人の気持ちを考えないのか本当に本当に 悔やんでいます。 祖母もきっとこんなことを望んでいなかったはずです。  祖母は頭がいい人で心の清らかな人で何をしても優しく包んでくれたひとだったんです。 それでも私は酷いことばかりで 自分が許せません。 私はこの過ちと過去の自分をどう受け入れたらいいのか どうしたら私のしてきたことが許させるのか。 祖母はがっかりしていないのか。 どんな言葉でも構いません。 私にお言葉をください。 よろしくお願い申し上げます。

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考え方

実家は本家 祖母 父 母 兄 私の5人家族 私が23歳の時、父は57歳それまで定期的に腰が悪いので病院もよく行っていた、健康診断も受けていた働いていた。 その日も腰が痛いと病院に、レントゲンを撮影した際気になるところがあり大きな病院へ、結果、末期の肺がん余命3ヶ月、医者の宣言通り治療も虚しく亡くなる。 祖母と母ひ、昔から仲が悪く、祖母がとても強い人で、母を言葉の暴力で追い詰めました、結果精神を病み、通勤中川へ落ちて亡くなる。溺死。52歳。 それから、祖母は90歳まで生きました。 そして、それから三年。兄が風邪で病院へ行くと、末期の肺がんでした。余命2ヶ月。 そして、私の誕生日25日、父の誕生日26日、そして27日同じ月に並んだ形で亡くなりました。 兄はちなみに42歳でした。 葬式の際、親戚のおじさんから、遺体の前で兄嫁にうちの息子と結婚すれば、孫は2人貰えばいいと言われてました。ちなみに兄貴は、子供が3人居ます。 田舎なのであの地域は住みづらいだろうから誰かに貸せばいいなど、散々暴言を吐かれました。こういう人たちには、何の罰も無いのでしょうか? 父が亡くなってから親戚の人たちには、想像を絶する発言をされるので、何回忌もやりたくなくなります。 どう考えれば、生き方が楽になりますか? ある、神主さんに 相談したら天命をまてとか、癌のご利益のある神社は金儲けだ、親の写真に向かって兄が治る事を祈ればいいと兄が病気の時に言われました 両親が亡くなってから、金をよこせと祖母や親戚に言われ、たちをよこせ、お前の親はまともでは無いなど散々言われて私も耳が聞こえなくなったり精神的に追い詰められました。 有名な、センダツさんがいるからみてもらいなさいと知り合いに言われ五千円払いみてもらいましたが、敷地内の木を切ったのが悪い、お母さんの最後の言葉はえっ?お父さんの言葉は、やり残したことがいっぱいあったといわれました。祖母のことは、早めに亡くなるように拝みますといわれました。 しかし、数ヶ月して、如何ですと?問い合わせすると、その人は豹変、あなたは私の手には会えないのでと言われ電話を切られました。それ以外は衝撃的亡くなり方で、深く考えると精神が崩壊しそうで、私は開き直って生活してます。 死んだことは事実だし、いつまでもそれを考えて自分の人生生きられないのは嫌です

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祖母の遺髪とお地蔵様について相談です

僧侶の皆様お世話になります。いつもありがとうございます。 今回はまずお地蔵様のことを相談させて頂きます。以前勤めていた会社は敷地内全面禁煙でした。その為私は休憩時間に近くの草むらで隠れタバコを吸っていました。その時小さな屋根を見つけたので、もしかしたらお地蔵様の祠かもしれないと思いましたが草が凄くて確認できませんでした。 暫く経ち地域の方がそこの草刈りをされており、やはりお地蔵様の祠だということが判りました。中にはスプレー缶、濁った水が散乱しており、私は掃除しました。そうすると地域の方が来るようになったようで一円玉が増えるようになりました。 私は退職した為暫くそこには行きませんでした。しかし先日行くと草が生えており、誰かがお世話をしている形跡がありませんでした。昨日セーターを取り替え草刈りを少ししましたので、また地域の方がお参りするかもしれません。ただ、私はこれ以上何もしない方がいいでしょうか?中途半端な接し方はお地蔵様に失礼になりますか?私は持病がありいつも元気ではない為、行けないことが多いと思います。 もう1つは、祖母の遺髪についてです。 昨年秋、家を片付けていると、祖母の遺髪を入れたポーチが出て来ました。逝去したのは10年以上前です。火葬の前に切ってティッシュに包んで身内と持ち帰りました。 逝去後初めてティッシュを開くと懐かしいグレーの髪が出て来ました。胸が一杯になりました。しかしよく見るとティッシュに小さな血がついていました。勘違いでは?と思われそうですが、確かに血でした。 昨日また見てみると血は消え、茶色いシミになっていました。遺髪の量も1/3ぐらいに減っています。見間違いではありません。 身内は遺髪を切ったことを覚えていませんでした。「最初から無いよ」と言っていますが私の手元にはあります。これはお寺に行ってどうするか相談した方がいいでしょうか?もしかしたらこの世に未練があるのでしょうか? お忙しい中恐縮ですが、回答をお願い致します。私は何をどうしたらいいでしょうか?

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幸せに暮らすとは

自分は産まれが、鹿児島で育ちが愛知になります。 まだ、戸籍は鹿児島です。 父母が鹿児島になります。 小さい頃は、よく両親の実家のばあちゃん、じいちゃんの家の鹿児島に泊まりで行ってました! 鹿児島が大好きです! 両親の実家は山の中になりますが、山があり川がありで自然がいっぱいあります。 だからと言って愛知が嫌いなわけじゃありません。 育ってきて、沢山の知り合いや仲間、親友後輩が出来ました! 何が言いたいと申しますと、大人になり、鹿児島にも帰る⁈ことも少なくなりました! やはり、たまに帰ると自然が自分を癒してくれます! お金がかかるので、しょっちゅうはいけません。 鹿児島から愛知に帰る際、とてつもない、寂しさに追いやられます! 何故かは分かりません! この気持ちはなんなんだろう⁈ って考えても考えても答えが出ません! だからと言って鹿児島にずっといる訳にはいけません。 仕事もありますし、友達などもいますし家族もいますし! 一人でたまに、一人にになりたくなり電車に乗ってあまり人がいない時間帯で旅とまではいきませんがのんびりしたい時があります。 年を重ねる度に思いが、ありよくぶらつきます! 本当はどちらにいるのが自分にとって幸せなのか? 鹿児島にいて、毎日、自然に囲まれた、畑仕事や、他の仕事もするのもいいし、 愛知でこのまま頑張るのも⁈ 身体が疲れているのか、心が疲れているのか?良く最近になって強く思えるようになってきました! 自分へ本当に、どちらにいるのが幸せなのかがわからなくなる時があります! 多分、お坊さんはどちらも幸せですとお答え頂けるんじゃないかと思いますが⁈ お坊さんにこんな質問するのは、どうかと思いましたが質問させていただきました!すみません。

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悲しみから抜け出せない

20日の日にとても大好きな父が亡くなりました。 自分は母を4年前に病気で亡くしてます。 その病気の介護のときからの15年間父親と生活していました。 母の死後、父と2人で田んぼをやってコレからはもっと2人で田んぼ大きくして行こうとしていました。ところが去年の4月頃に父に前立腺癌が見つかり、父は入退院を繰り返す様になりました。 それまでは父と2人で楽しく作業していた事が自分1人になり苦痛の作業になり、自分でもどんどん自分がすさんんで行くのがわかりました。 そして12月になり病院から「これ以上治療は出来ないので、緩和治療になります」と言われました。頭が真っ白になりました。そして泣いて泣いて泣きました。 家に戻る事も無く年を越し、1月10日に転院しました。そして改めて父を見て見るとがっしりとしていた身体はヒョロヒョロで、色は白く、お腹の両脇からは尿を出すための管が出ている、そんな身体になりながらも自分が行くと「ちゃんとご飯食べてるか?」「無理はするなよ」と私の事を気遣ってくれます、私は家に帰ると毎日泣きました。1月19日、父は大分弱って起き上がる事はなく、だか問いかけると目を開け「うん」「ちがう」などの返答をしていました、そして夕方に父に「どうする?今日俺、病院に泊まる?」と聞くと、とても嬉しそうに「うん、うん、」と答えてくれました。次の日の朝、「おはよう」と問いかけると目を閉じたまま、何の反応もありませんでした、先生が来て「今日は危ないかもしれないです」と言われました、それからは、父の耳元で「俺は親父が大好きだよ」「親父俺を1人にしないでくれよ」「反応してくれないとわかんないよ」「ほら一緒に田んぼいくべ」など色々言ってました、そしてお昼になり、父の呼吸は止まりました…67歳でした。 それから私は喪主として御葬式を務めあげました。 そして今は大きな家に自分1人となってしまい、家の中、納屋の中、田んぼ、すべてにおいて私が大好きだった、元気だった頃の父の姿が重なって見え、涙が止まらなくなってしまいます。本当に大好きなのです。 また一緒田んぼをやりたい、会いたい、他愛無いことで喧嘩したい、会いたい、話したいです。 ツライ、ツライ、ツライです

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