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hasunoha 問答検索結果 : 「私 煩悩 」
検索結果: 3414件

仏教徒に対する疑問パート2

この掲示板に2度目の質問をしに来た者です 本日もよろしくお願いします 最近仏教について色々調べたんですが 仏教にも原始仏教と大乗仏教があるそうですね そしてそれぞれの宗派ではお釈迦様に対する供述が違うようで・・・?  どちらを信じればいいかわからないのですが なんとなく原始仏教のお釈迦様について考えることにしました  そしてある疑問にぶつかりました お釈迦様は全ての煩悩を絶って涅槃入滅されたんですよね?  そして輪廻の輪から出て2度と生まれてくる必要もなくなった それなのになぜ人々を救おうとするのですか? 人々を救おうとする考え自体も煩悩なのではないのですか? 五陰盛苦?を超越して全く煩悩がない白紙の状態になると一切の考えはもはや沸き起こらなくなり 人々を救おうなどとも考えなくなるんじゃないんですかね?  たとえ当初のお釈迦様は人々を救いたいために修行してても 涅槃入滅した状態になるともう昔のことなんてどうでもいいやってなるんじゃないですかね? それなのにお釈迦様はまた人間界に戻って人々を救おうとしてるのはなぜですか? お答え出来る方がいらっしゃったらお答えください

有り難し有り難し 62
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世間体を異常に気にし、『普通』ではない自分がコンプレックス

初めまして、拙く読みにくい文章でしょうが、ご回答頂けるとありがたいです。 私は昔から、人からどう思われているかばかり気にしてしまい、常に挙動不審で卑屈です。 何故なら人と比べて自分がかなり劣っていること、世間一般の普通からズレた人間であることが強いコンプレックスとなっており、普通はこうでなければいけないという強迫観念に常に捕らわれているからです。 私は、恋人ができたら、結婚したら、子供ができたら、しあわせになれるものだと漠然と思い込んでしまっており、現在アラサーで恋人の一人もいたことがない自分がとてもコンプレックスに感じています。 恋人が居る方や既婚の方が、酷く羨ましく思います。少なくとも異性と恋愛出来る程度には人間能力が出来ている、普通の人間だからです。でもそれに比べて私は… 私は異性に好意を向けられると途端にウッと嫌悪感が走り、胸の奥にグッと鉛が詰まったような重く憂鬱な気分となってしまいます。 男性に慣れていないからだ、いつか自分がずっと一緒に居たいと思える方に会えるだろう、と思い、婚カツパーティー等も数回してみましたが、結果は全て同じでした。 どんなに素敵な方でも、一緒に居るのは酷く憂鬱で、辛く、大変失礼ですが気持ち悪いとさえ思ってしまいます。 今時小中学生でもしている恋愛すら私は出来ない欠陥人間のか、普通の人が普通に出来ることがどうして出来ないのか、私は将来恋人もつくれないまま一生独り身なのか、だとしたらそんな女を周りからはどう見られるだろうかと悪い方にばかり思い込んでしまいます。 わかってるんです、結婚が幸せとは限らないというのも、結婚しない生き方をしている魅力的な女性がいるというのも、世間一般の『普通』なんてないのも。ひとそれぞれ個性がありますから。 それは百も承知ですが、こうであるべきだ!こうでなくてはいけない!これが世間一般の普通だ!そんな普通のことも出来ない私は欠陥人間なんだ!と思い込む癖があり、この呪縛から逃れられません。 そんな事を考えてしまう私はとても醜く、嫌な人間です。 どうすればこの思考回路から解かれるでしょうか。毎日、苦しく、悲しいです

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仏教徒に対する疑問パート5

お坊様これは対機説法の修行だと思って怒らずに聞いてくださいね 因果の法則についてですが 前回の質問の答え見て思ったんですよ 蕎麦のレシピなんか見ないで(原因)蕎麦を食え(結果) ごんぎつねは悪戯の過去を見ないで(原因)今反省して修行しろ(結果) 理屈で考えるから真理がわからない(原因)実際に修行して真理をわかれ(結果) 過去や未来や死後なんかより今という悟りの境地 これって因を無視した果の法則ですよね 前回言った、人間も娑婆の世界も全てのものは最初何に作られたのか? きっと煩悩の塊の無明でそれは 何かに作られそしてそれも何かに作られそれも何かに作られ 永遠と原因と結果が連なって最終的に本物の原因は見つからず結果だけが見つかる 因を無視した果の法則 悟りも煩悩の塊の無明も因を無視した果の法則なら 悟りも煩悩も同じフィールドにいるんじゃないですか? というかこの世界そのものを先に作った煩悩の塊の無明のほうが先に 因を無視した果の法則としてあったわけですから悟りすらこれの産物じゃないですか? だとしたらやっぱり悟りも煩悩と同じフィールドにいるんじゃないですか? 悟り開いたら煩悩はなくなるらしいんですが お釈迦様が悟り開いて涅槃の境地行ったのに梵天に頼まれて 輪廻から解脱しないでまた娑婆の世界へ戻るって話って 煩悩である梵天と悟りであるお釈迦様が同じフィールドにいるような気がします お釈迦様は本当に煩悩がなくて悟ってる根拠はなんですか?

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宗教の悩み

ご無礼な表現が含まれる文章があるかも知れません。 もし、不快に思われたらごめんなさい。 質問ですが、 私は、クリスチャンの家に生まれました。 ですが、私個人は、キリスト教の教えよりも仏教の教えに癒しを得ます。(勿論、キリスト今日の教えにも良い教えが沢山ありますが。) そこで、私は、キリスト教の教えも尊重しつつ仏教の教えを心の支えに生きていきたいと思っています。 ですが、どうしてもその前にお坊さんに質問したいことがあります。 仏教では、欲望を煩悩と呼び、否定しているように感じますが、 私は、固執してしまうことは良くないとは思いますが、ある程度の欲望(あれしたい、これ欲しい、それ食べたい。)は生きる活力になるので、必要ではないか? と考えます。 またアダルトなビデオも観ます。 ですので、これからも、自身の欲望を大切にして楽しく生きていきたいと思います。 それでも、弱い人間なので、時には落ち込みます。 そんな時に、仏教を心の支えにしたいと思っています。 そんな私でも、 仏教の教えを心の支えにしても良ろしいのでしょうか? 失礼な質問かも知れません。 もし、不快な気持ちを持たせてしまっていたら、ごめんなさい。 お許し下さい。

有り難し有り難し 41
回答数回答 3

信ずるものの矛盾について

前置きとして、私は仏教に深く関心し、このサイトでも別の質問をさせて頂き有難い回答も頂いております。 お気持ちを害するかもしれませんが純粋な質問として受け止めて頂ければ幸いです。 私の現状はご指摘もしてもらいましたが煩悩により、自らを囚え振り回されている状況です。 まず、仏への道として宗派は道程であり、すべからく目的は苦からの脱却、解脱であると勝手に認識しています。事実、それぞれの教えから自己満足の範囲でいろいろ学ばせてもらいました。 煩悩を拭いひたすらに。 しかし、人を救いたい、苦から解放されたいと願うことこそ人智を超えた最大の煩悩の気がしてきてしまいました。だからこその仏様でしょうか。 これが一つ目の問いになります。 心の有り様。全てはここに集約されているのかも知れませんし、因果や縁、前世、今世、来世の繋がりも頭では理解していますが、私個人として、苦がなければ生ではないと強く根底にあります。 苦しみこそが人を最大限に無意識のうちにでも足掻かせ、思考を巡らし、結果が悪かったとしてもその後も全力を尽くした経験値として忘れることがないものと思うのです。好きなことより回避したいことの方が望む望まないに関わらず人は本気を出せると思うのです。出さざるを得ないという方が多いですかね。 往々にして心が弱いですから。 それが成長の種になると。 纏めますと、私は己の弱さ故につまらない選択肢と隣り合わせな苦しい日々が続いていますが、この苦しみから解放され 楽しい、安楽なことだけになることも怖いのです。 弱い心が解放も囚われも恐れるのです。 一つだけ身を投げ打ってでも生きる意味として手に入れたいものがあります。 これは教えに反していますよね。 また、その対価としてというわけではないですが苦難を望んでいる自分がいるのはおかしいですかね。 宜しくお願い致します。

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仏教徒に対する疑問パート7

前回の質問で回答したお坊様に言いたいことがあるんです 実は僕は丹下様が薦める瞑想をやってるんですよ 瞑想やってて気づいたんです 瞑想で雑念を払いリラックスしてるとヒッグス粒子みたいな赤や黄や青の粒が見えてきて そしてその状態でいるとだんだん神妙な気分になって 我欲の全てがその粒の流れと共に消えていく感じになってボーっとするんです その状態でいるとだんだん無になってく感じで無になったような瞬間 瞑想してたことも忘れたかのようにハッとしてまたさっきの状態に戻るんです この繰り返し まるで息を吸って吐くように 煩悩と悟りが交互でくるように 蕎麦食ってまた腹へって蕎麦食ってまた腹へってそれを繰り返してたら なんで腹減らなきゃいけないんだなんで蕎麦食べなきゃいけないんだ 誰がそんなルール先に作ったんだってなりません? そうなると人間もこの世界も全てを先に作った原因と結果だってなりますよ でもそれを作ったのは?それすらも作ったのは?それすらも作ったのは? こうなると原因はわからないでもなんかの原因と繋がってて結果が出る 因のわからない果の法則じゃないですか そうなると悟り開いても原因はわからないでもなんかの原因と繋がってその結果で煩悩が湧くと思うんです この因のわからない果の法則が悟りであればなぜ人は煩悩があって生まれるのか?それが煩悩ならば悟りは諸行無常で形を変えただけの煩悩ではないのか? それが量子力学みたいに悟りと煩悩なら両者とも同じ境地にいるのではないか? とにかく悟り開いても原因はわからないでもなにかの原因と繋がり煩悩が湧くと思うんです この因のわからない果の法則や因果関係は実体があって悟りは空だから悟り開けばそことは無縁になれるってぶっ飛びすぎじゃないですか? 実という原因あっての結果の空なんですから その空に行ったお釈迦様の前に過去仏がいるって変ですよね それが居座る場所をまるで因のわからない果の法則がすでに結果となって作ったような 因のわからない果の法則や因果関係から解脱できなければ悟りと煩悩は共存し続けると思うんです だから悟り開いたお釈迦様は梵天に煩わしい娑婆の世界に行かされたと お釈迦様が煩悩のない悟りを開いたと証明できないなら そんな人は全知を知りえないそんな人の教えは瞑想を神格化して ありもしない悟りという虚像の神を拝んでるだけじゃないですか?

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浄土真宗の教えについて3

おはようございます。 今回も引き続き浄土真宗の教えについての質問です。 昨日文法様に教えて頂き、私というものがいかに自我という錯覚に踊らされ執着し、分別に苦しめられているのかという事がわかりました。仰る通り自分にとって都合の良い物は欲しいし悪い物は遠ざけたい。 そしてこの道理を知った所で「はい、そうですか。では自我の錯覚を見破りますね。」と簡単にはできそうもありません。 吉武文法様の御回答より引用 〉煩悩を煩悩と知るところに、煩悩の身のままでも煩悩を引き受け、煩悩を活かしていける道が開けれるという救いです。 1、この煩悩を活かしていける道というのは具体的にどういう事でしょうか? 「道理としては病む。でも病気になりたくない。これは煩悩だ。でも何とかしたい!病気になっても治せる様に医者になろう!」という様な事でしょうか? 病む事に変わりはないけれど、少し安心し救われる。安心して迷っている。という様な。 〉これは味わいが強い表現ですが「安心して迷っていける、悩み苦しみ切っていける」とも言われます。 2、ここも具体的に文法様の例えやすい物で構いませんので何かに例えて教えて頂けないでしょうか? 本当は正確には言葉にできない所の様な気がしますし、もしかするとすべきではない様な気もしますが「安心して迷う」という一見矛盾している様なこの表現や「悩み苦しみ切る」という一見普通に過ごす以上に辛そうに見えるこの表現に文法様が込められた真意に触れさせて頂きたいのです。 文字数の関係がありましたら、2の方の質問を優先して御回答下されば幸いです。どうぞよろしくお願い致します。

有り難し有り難し 61
回答数回答 2