愛するペットが亡くなったとき「虹の橋を渡る」と言う言葉が使われることがあります https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%B9%E3%81%AE%E6%A9%8B_(%E8%A9%A9) 元は 外国の詩人が書いた散文詩のようです。 この世を去ったペットたちは、天国の手前の緑の草原に行く。食べ物も水も用意された暖かい場所で、老いや病気から回復した元気な体で仲間と楽しく遊び回る。しかしたった一つ気がかりなのが、残してきた大好きな飼い主のことである。 一匹のペットの目に、草原に向かってくる人影が映る。懐かしいその姿を認めるなり、そのペットは喜びにうち震え、仲間から離れて全力で駆けていきその人に飛びついて顔中にキスをする。 死んでしまった飼い主=あなたは、こうしてペットと再会し、一緒に虹の橋を渡っていく。 原作者を主張する人物は複数いて 誰なのか確定していないそうですが、いずれにしても虹の橋を見たわけでもなく 宗教家でも霊能力者でもないようです。 心霊写真を撮ったとか ペットの声を聞いたなどの心霊体験をしたとかそのような体験談も無いと思います このことを知らない小さい子供がペットを亡くして嘆き悲しんでいるときに 親が「○○ちゃんは虹の橋で待っているよ」と慰めたとします。 子供は虹の橋を信じて友達に伝えて 友達の中に虹の橋が事実のように伝わったとします でも 実際は根拠のない創造ですよね? 親は子に嘘を教えた可能性が高いわけです。 ここからが本題の質問です。 私は宗教については本当に無知なのですが 仏教でも他の宗教でも 天国 地獄 あの世 霊魂 輪廻転生 などは どれぐらい 信憑性や根拠がある話なのでしょうか? 仏教なら経典 キリスト教なら聖書になるのでしょうか? それが 虹の橋と同じではない と言える納得のいく説明はできるのでしょうか? 「あれは虹の橋と同じようなもんだよ」と言われたら「それは違う」と確信を持って言えるのでしょうか? 私の亡くなった親族は 私が将来大成功したらそれを共に喜んだり、破滅したら共に悲しむことはあるのでしょうか?
お世話になっております。 柴田秋です。 私は10年ほど前に自殺に失敗しました。 複数回の失敗の上、死ぬのは少なくとも生きることと同じくらいには面倒で疲れることだと感じたため、久しく実行には移していません。 それから、どう生きるのかと同じように、死について考えるようになりました。 死後の世界とかではなく、死ぬことで私の周囲に与える影響についてという意味です。 迷惑云々や、コストや、私の心とは関係なく死後に振り分けが行われるのであろうなということなどです。 こちらの質問の回答に対して、疑問が浮かび上がりました。 https://hasunoha.jp/questions/38774 余談ですが、今は少なくとも怒りは自覚していません。 「仏教は死んだらどうなるの教えではなく、生きているからどうするの教えです」 とあります。 多分、きっと心構えのことをおっしゃっているのだと思いますが、疑問が沸き起こってきます。 背景は語りましたが、それはあくまで単なる動機です。 私のことは私で考えるとして、他者のことは私には分かりません。 よろしければ、質問に応えていただきたいです。 仏教の最終的な目標は、悟り、無限に続く輪廻から脱し、六道のひとつである天道に行くことではないのですか? 仏は天道に在すもののことですよね? つまり、死後のことこそが目標なのではないですか? あくまで、そこに至るための過程として、どう生きるかが重要なのだと思っているのだと思いました。 つまり、生き方は手段で目的は死後の行き先であると。 なんとなく、キリスト教やイスラム教、パスタファリアニズムの天国を目指すのとは異なるのだとは思ってはおりましたが、疑問が起こりました。 仏教は天道を目指し、輪廻から脱すること、つまり解脱が目標ではないのですか? 絶対の正解を求めているわけではありませんので、ご自身の考えで構いません。 ※私の拠り所とする科学(科学的方法)にも絶対の正解はありません。 あれらは、今のところ否定されていないというだけです。 当然、ご回答なされた方以外の方には、天道へ行くことを目標とされている方もいるかも知れません。 それぞれのご回答を伺いたいです。 よろしくおねがいします。
31歳女です。独身で家族と同居、独り暮らし経験なし、いつか結婚したいと思いつつも周囲の同年代や年下が結婚出産を順調に進めている姿を見て焦りを感じています。 私は元々キリスト教の家庭に育ち、将来は仲間同士で結婚するものと思っていました(そう勧められてきました)。 自分でもそれが幸せと信じていましたが、ある時親が宗教に対する反感から活動を離れ、私も最初は親の圧力に抵抗していましたがそれに疲れ、現在は宗教自体から離れています。一時期親との間に亀裂が入り相当な精神的苦痛を味わいましたし、ずっとキリスト教で育った為一般の人とお付き合いしたことも殆どありません(一度だけ宗教の教えに反してお付き合いしたことはありましたが、自分に見る目がなかったのと、教えに反する罪悪感で自分から交際を終わらせた経緯があります)。 女性には出産にリミットがあることや結婚市場で年齢が上がると価値が下がるなどの不安もあり、結婚相談所のカウンセリングにも行きました。ただ、ずっと宗教絡みでしてこなかった推し活や制作や友人とのライブ、旅行等の楽しみをごく最近体験し始めたこともあり、このまま独身生活を終えてしまってよいのかという気持ちと、環境が変わることへの不安を大きく感じています。 また宗教を離れてから占いに頼ることが増え、個人的に信頼する占い師から今年は出会いに積極的な方がいい、踏み出すのは今だ、とアドバイスをされたのに、いざ結婚相談所に登録する段階で上記の迷いもあって踏み切れずにいます。 結婚している・彼氏がいる人は羨ましい、自分も欲しい、人を好きになりたい、将来的に子供も欲しくなるかもしれないからリミットも心配、でも結婚し出産すれば今ようやく経験してる自由はきっと同じように謳歌できなくなる、相談所に登録するということは自分の手でそれに終止符を打つことになるからそれも怖い。今なのか、違うのか。占いや世間常識、自分の中の不安に苛まれて、何が本当の願いかわからなくなってしまいました。 本当は自然と出会って自然な流れで好きになり心動かされて結婚したい。 人間て本来そういう生き物だと思うのに何故こんな生き急がなくてはならないのだろう、周りにできていることがどうして自分にはできないのだろう。 少しでも生きる希望を見い出せればと今回頼らせていただきました。 とりとめなく恐縮ですが宜しくお願い致します。
私は 以前 お不動さん、観音巡りもしたことがあります。五戒をおこさないようにと思い 写経をしたりもありました。 日蓮聖人の教えを弘教している人達に 会うことが 多くなり 仏教の教義 謗法について 回想することになりました。その時から 幻聴が始まりました。 救いや懺悔を 日蓮聖人のご本尊にすればよかったのでしょうが 攻められているようで 他の宗教や念仏に救いを求めてしまいました。 キリスト教の本を読んだりして 教会に行ってみたり 新興宗教から日本神話を読んでみたり 神社に行ったり しましたが 原因になった仏教が気になりました。 日蓮聖人は 法然さんを 立正安国論で 謗法といい 布施までやめるように 国に論じてました。法華経を捨ておき 念仏を信心しなさいと言われたから法華経に対する謗法だということでした。法然さんは 他のお坊さんからも意見が多かったようですが。法然さんは 他は 気にしないで 念仏をしなさいといっています。 法然さんの教義では 念仏以外を謗法とは言わず 雑行と言われてますが 気になります。 法然さんは 法華経を学ばれた上で 念仏を選びとられたのだと思いますが 私は 自分が救われるのかが不安です。かといって 日蓮聖人の教義に没頭するには 不動巡りや 法然さんに 執着があったのだと思いました。 お寺にいってもお坊さんには 聞きづらく またどういって伝えたらいいのかもわかりませんでした。 幻聴があることでの死への恐怖があります。克服したくて 介護の勉強 カウセリングの勉強をしています。 幻聴がなくなり 仕事として 役立てたいのです。が 幻聴があることで自信がありません。 幻聴は大分落ち着いたのですが 仏教を正しく学ぶことで 良くなることを願ってます。 メールで お話しできることが 救いです。 祈祷を頼むのもいいのかなぁと思ったこともありましたが 思いも定まってなく 内容も深そうで 迷惑かなぁとも思いました。 お墓は 宗派問わずとありますが 質問も宗派問わずでいいですか? 法華経と 念仏は 敵対してるのですか? 私は 宗派より 心が整理できて 赦され 勉強している介護やカウセリングが 人に役にたつ仕事が できるようになりたいのです。 よい方法はないでしょうか?
小さい頃より母から暴力と暴言を受けて育ちました。 常に死ねと言われてましたし、道に出たらトラック見たらすぐ飛び込めとか飛び込みの練習?とかさせられていまして、中々自分を肯定する能力が低いのはこういった事が原因かなと思っています。 顔半分青あざとかお風呂のお湯に顔をつけられたり、殴る蹴るとか当たり前だし小さめのクリップでお尻をいつも挟まれてました。 私が成績良くなると不機嫌になりましたし、何を頑張っても頑張らなくても意味なかったです。 父はいましたが、私が高校生の頃に離婚しました。 あまり何かしてもらった記憶もないですが、先日母から虐待を見て見ぬ振りをしていた旨を父にメールで伝えたのですが無視でした。 大学の途中で一人暮らしをして、33歳の現在も地元とは違う場所で一人暮らししています。 母は何かと昔の事を謝罪してくるのですが、それは私に対し暴言を放った後です。以前は母のことは無視してしまおうと思い全ての連絡を無視していました。 が、その時は自殺未遂騒動を起こしたので関わらざるを得ませんでした。あの時それも無視していれば良かったかもしれませんけどね。 現在今後をどうしていくかを考えてまして、親を捨てることはいいことなのかも分かりません。今は天台宗のお寺に通い始めたばかりで、お寺の方にこういった個人的事情を話せる感じでもなく比較的若いお坊さんも多いとこなので言えません。 中高とキリスト教の学校に行っていたので、母のことは虐待をすることでしか子育て出来ない哀れな人、違う方法を知らないだけで逆に可哀想と思うようにしてはいました。 逆に私は批判できるほど完璧なのか?とも他人を批判する人に対してイエス様が言っている章もあったりで、永遠に答えが出せませんでした。 ただ人は変われません。きっと母は私に対して今後も暴言を言います。 最近お寺に通い、信仰心を持とうと思っているのでどういう状態でも母を許すべきなのだとは思います。 ただ謝罪してくる割に毎度無神経な発言も多く、うつ病とかで病院に行ってますが最近病状も酷いです。そういう時に見捨てるなんて事も出来ないのは結局母に必要とされたいだけなのかなとも思ってます。 理由がしょうもないのですが、こういう場合どういう理由で母をみていけばいいのでしょうか。 よろしくお願い申し上げます。
何年もずっと考えている疑問があります。 『何故この世界は残酷なのか』 私は神様も仏様も運命も信じています。敬虔な信者ではありませんが、キリスト教も信仰しています。 現在ウクライナでの戦争で、日本含め世界中(主に欧米諸国ですが)の人々が戦争に反対し、ロシア国民の中にもロシア政府を非難する声をあげていますよね。 多くの人が平和を望み声をあげているのを見て、彼らの善良な心に感動する反面、『ウクライナだけ?』とも思ってしまいます。 戦争はシリアやアフリカ、ベトナムでも未だ続いています。 ひいてはウクライナでのロシア政府による殺戮より、もっともっと非人道的で残虐な行為が私がこうして文字を打つ間にも起こっています。 あるイギリスのキャスターが『彼らが青い目をした私たちと同じ白人だから声をあげるんだ』と言って非難されていました。 しかし、それが事実なのではないのかな?と思います。 非難した人々は、有色人種の危機に何かしたんでしょうか。 実際、シリアではアメリカは軍を派遣しただけで他の国も何もしていません。アフリカでの内戦なんて放置です。自国の利益に関係ない事だから、アフリカはそういうものだからで片付けられている気がしてなりません。 実際、日本のニュースでもそうですが不倫なんかが取り上げられて、他人が口を出す。 ウクライナの問題が流れれば、戦争反対と言う。 でも、ウクライナ以外での人道的危機は取り上げられず、寄付も集まらず、ましてやデモなんて起こりもしない。ほとんどの人は知らないし、知る気もない。 他にも思う事柄はありますが、 私自身も含めて、人間ってこんなものなんだなとずっと感じています。 何を言っても綺麗事で、エゴにまみれていて、何が美しい世界なんだろうと思います。 何故産まれてしまったのか、意味なんて無いのかもしれませんし、そんなものは自ら定める事とも思います。 いっそ消えてしまいたくなる日も少なくないですが、自死は神様が赦してくれず苦しみは永遠に続くもの、試練を乗り越えて往生しなければならないとも理解しています。 月光の歌詞が気持ちにとても近いです。 人間って本当に不完全で醜いです。 こんな事真面目に話し合える人もおらず質問させていただきました。読みにくくてすみません。 よろしくお願い致します。
丁度一年ほど前に、最愛の彼女をガンで亡くしました。 その事で落ち込んでしまい、なにも手につかず、ただ死にたいと思う日々が続いています。 精神科などにも行っても、納得の行く前向きな考え方がまったくできません。キリスト教や仏教の教えを聞いてもまったく納得できません。 彼女は僕が知りうる人の中でももっとも出来た人でした。 余命を宣告されても、自分よりも僕や自分の親のことを案じ、手術で子宮卵巣を摘出されて、術後の激しい痛みの中でも、子供を産める女性を羨ましく思う自分を律するほどでした。 なぜ彼女が死ななくてはならなかったのでしょうか、なぜ僕は彼女を失わなくてはならなかったのでしょうか。 「彼女は今天国で幸せにしている」と人は言います。 果たしてそうなのでしょうか? そう信じるほかないのは他でもない僕自身ですが、その保証はどこにあるのでしょうか? 「彼女はあなたに優しくされて幸せだったの」と人は言いますが、はたしてそうでしょうか? 僕のことを愛してくれていたからこそ、僕と家庭を築き子供を育てることこそが本当の幸せだったのではないでしょうか? 僕にはわかりますが、彼女は幸せではなかった。 できることが減っていく毎日の中で、死を感じてゆく日々に絶望し、毎日を当たり前に過ごす他人が恨めしく、またそう思う自分と戦っていました。 人は等しく罪人であると、僕も心からそう思いますが、それでもやはり彼女は若くして死ぬにはあまりにも惜しい人でした。 彼女があのように苦しむ謂れはあまりにもあり得ません。 彼女と僕のこの無念は、あまりにも大きすぎます。 僕はただ、また彼女に会いたいだけです。 どうして会えなのでしょうか、なぜもう一緒にいられないのでしょうか。 相談する身でありながら、何を聞きたいのかもよくわからない状態の自分をお許しください。 ただ、なにか、お言葉を戴ければと思います。
初めて相談申し上げます。一人でずっと苦しんできました。この場所を見つけて、本当に嬉しいです。宜しくお願い致します。 私には息子と娘(共に30代)がおります。元夫とは昔に離婚いたしました。 苦しくて、苦しくて堪らない悩みがあります。娘には生来、重度知的障害があります。会話はありませんが、いつもニコニコと可愛い子です。辛いのは知的障害ではなく、付随する二つの持病です。てんかん発作と嘔吐症です。 嘔吐症は、器質的にどこかが悪い訳でもないようですが、本人の意思の外で神経的にスイッチが入ると吐きまくって止まりません。安定剤を処方されたこともありますが、只ボーっとするだけで嘔吐自体には効きませんでした。一日に数十回と何日も吐き続けるので入院を繰り返した時期もありました。嘔吐の合間を縫っててんかんの服薬をさせるのが大変で、神経を苛まれます。薬が身体に入らなければ恐ろしい発作が起きます。風邪の引き始め等、ちょっとした体調の変化、ストレスがきっかけで吐き始めます。外泊も大きな引き金です。ホテルや施設等に私と一緒に泊まる練習も重ねてきましたが、施設での単独宿泊には遥かに遠い道のりです。 そんな娘を残して、私はいつか死なねばなりません。入所施設にお願いするつもりですが、施設の方々がどれ程熱心でも、私ほどの目配りは無理です。産み育てた私でさえ逃げ出したくなることが何度もありました。仰向けのままバーッと吐くこともあるので、吐瀉物を誤嚥すると思います。私の死後は長生きしないと思います。私の魂は、死後も娘の頭上をうろうろして、「吐かないで、吐かないで!」と唱え続けるんだろうと思います。 どの様な心の持ち方をすれば、この苦しみ *「ここが痛い」とさえ言えずに、吐き、発作を繰り返す子を残していく不安。 *私から娘を託される息子が引き受けることになる辛さを思う申し訳なさ。 から救われるのでしょうか?以前、キリスト教の本で、「自分より大きな神に子を託すのだから安心できる」と書いてあるのを読んだことがありますが、私はとてもそんな心境には至りません。 どの様に思えば安心して死ねるでしょうか?それが分かれば安心して生きてゆかれます。どうかお教えください。お願い申し上げます。
自分の家庭は実の両親はキリスト教プロテスタント(聖書の教えの宗派)で継父(僕が中学2年生の時に母が再婚しました)は浄土真宗です。 自分も小学校低学年まで信じていたので一様洗礼は受けたのですが、高学年になってからお寺や神社の目の前の鳥居でこの寺や神社がなくなるようにお祈りしたり、牧師が直接他人の家である我が家庭に直接口出しをして制限をかけたりする行動にすごく違和感を感じたのと、幼馴染や友達と同じ宗教(仏教)を信仰して同じ生活を送りたいと思って教会を行くのをやめて母が認めてくれた中学3年生の1月までは無宗教でやっていました。 その後、仏教無宗派(まだ宗派は決めてません)になりました。 僧侶になりたい理由は色々縛ってきたキリスト教との決別。 小さい頃にとあるアニメを見た時からお坊さんの修行に興味を持ったのを思い出し、自分自身を鍛えぬきたいと思ったからです。 ただ、自分が住んでいる愛知県では僧侶見習いの求人が少ない(家からめっちゃ遠い)のと、僧侶になれる大学や専門学校も関西にあり遠いのと学力に自信がなく難しいかもと考えています。 また、住み込み僧侶や修行僧もありますがそれも関東や関西にあり、面接まで辿り着いても受かるかどうかは分からないという点やずっと前から掲載されておりそもそも返信が来ないという可能生があり応募に悩んでいます。 そこでお坊さんに質問なのですが、まずは僧侶になる前の見習い僧を目指したいのですが、どうしたら見習い僧になれるのでしょうか? 回答よろしくお願いします
今まで来世・霊魂・輪廻転生について質問しました ご丁寧な回答ありがとうございます 回答を頂いた内容だけでなく、他の質問に対する回答も読むようにしております。 そこで新たに知りたいことが出てきたので 日本になじみのないチベット仏教について質問します。 【質問 その1】 チベットのダライ・ラマ法王とは日本の僧侶から見てどんな立場の方なのでしょうか? ①日本に存在するカトリック教会から見たローマ法王のように頂点に立つ人物である認識ですか? ②日本の仏教界から疎遠にみられているのでしょうか? ③昔の院政をしていた皇族(白河法皇など)のように高貴な身分の人と言う認識でしょうか? (②ならば キリスト教における カトリックとプロテスタントの関係、イスラム教のスンニ派とシーア派の関係のようなもの) (③ならば人の道を説く宗教家と言うより権謀術数を駆使した政治家) 【質問 その2】 チベットの ダライ・ラマで検索すると 以下のような話が出てきました https://diamond.jp/articles/-/34724?page=2 上記サイトから転載 輪廻転生、前世の存在については、現在まで多数の文献等に報告されています。 また、チベットのダライ・ラマ法王は何度も転生を繰り返しているとされ、その位の継承は、代々転生者(生まれ変わり)を探し出すことでなされています。法王が亡くなると、次に生まれ変わってくる方角などが予言され、数年後、それにあてはまる幼児を探し出すと、先代の遺品を選ばせたり、先代の身近にいた人物を見分けさせるなどして前世の記憶を試すのです。現法王も幼少時に、先代ダライ・ラマ13世の愛用していた数珠を見分け、側近の名を迷わず言い当てたと言います。 この話は信憑性の高い話なのでしょうか? 【質問 その3】 上のURLは 東大病院で責任のある地位にいた医師が書いたものです。 ここでは 前世の記憶がある人の話が出たり、 霊媒師を通して自分の亡母と会話をした話が出ています Yahoo 知恵袋ではこのようなQ&Aもありました https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14270511814 これを読んで お坊様はどのような感想を持たれますでしょうか?
質問失礼いたします。 春から大学生になった者です。 一週間ほど前、キャンパス内を歩いていたらサークル勧誘を受けました。サークルの内容は、韓国料理を作って食べたり、韓国からの留学生と交流したりするというものでした。 気になって先日参加してみたところ、活動内容は聞いていた通りだったのですが、 活動場所は教会で、帰り際に聖書を渡されました。勧誘のときは一切教会について触れられなかったため、宗教勧誘なのではないかと少し怖くなりました。 私はキリスト教や聖書について興味があり、学びたいとは思いますが、このサークルに入って入信を強制させられたり、高額なものを買わされたりしないか不安です。 よくネットやYouTubeで宗教勧誘には気を付けた方が良いというものを目にしますが、全てが全て危険なものなのでしょうか? このサークルとは縁を切った方が良いのでしょうか。サークルのメンバーは皆とても優しく、居心地がよかったのですが、姉からそれは全て罠だと言われ、人を信じるのが怖くなりました。 アドバイスいただければ幸いです。 よろしくお願いいたします。
こんにちは。 お坊さんに質問したりお寺に行ったりしている中で思い出したのですが20数年前通っていた幼稚園がお寺(真言宗)が運営していました。 そこでやっていた行事をふと思い出しましてあれの名前は何だったのか知りたくて質問しました。 ・恐らくご本尊か弘法大師空海さんのお誕生日の時にあげられていた ・選抜された園児が綺麗な服を着て榊か何かの枝を持って音楽に合わせて舞いをした ・最後にご本尊に甘茶をかけていた うろ覚えなのですか、これは幼稚園独自の行事だったのかそれともこういった行事をするお寺はあるのでしょうか。 もし観に行けたら行きたいな~と思ったりしています。
運が良い人とはどういう人ですか? 自分の人生は波乱ばかりでどうして自分だけがこんなに悪いことが続くんだろうと考えてしまいます。 どうして自分だけがこんなに不幸なんだろうと。 人を貶めたり、騙したりした事はありません。 騙される事、貶められる事、いじめがあまりにも多かった。 いい環境で歩んでいくにはどういう事が必要ですか。それともある程度運命って決まっているものなのでしょうか? またお金の運はどうですか?これまで何不自由なく暮らしてこれましたが、近年お金で大金を損をする事がありました。悔しくて悔やみきれません。今後はそれが気にならない程度にお金に余裕が持てればと望んでおりますが、今働ける状況じゃなく、貯金が減っていく日々でお金にヒヤヒヤしています。 投資や株などはやりたくないと思っております。 アドバイスよろしくお願いします。
よろしくお願いします。 向かいの老夫婦、隣のおじいさんの過干渉に悩んでいます。 向かいの老夫婦は自分の出入りにいつもカーテンを少し開けて覗いています。 隣のおじいさんは女好きで有名な人で若い女性の家をよく覗いています。 私にもねっとり視線を感じます。「いつ出入りしてるか知ってるよ」と言われたこともあります。ストーカー発言です。実際お年寄りのストーカー事件は増えています。怖いです。 お巡りさんに相談した時はお年寄りは暇だから話し相手が欲しいのだろうと言われましたが、実際相手をする暇もありませんし、気持ち悪いので嫌です。 過干渉をやめてもらう方法ってありますか?
もう5年苦しんでいます。 ヒルティと言う偉人が書いた幸福論3部作を数年前に読んで感銘を受けたのですが、、 神を信じよ、書物や人との出会いは神の導き、とか間違いも書いてあったと思います。当時私の知らない宗教の神秘かと思って信じてしまいました。当時出会った女性が導きの人だと思って結婚、すぐ後悔しました。私のタイプの人ではなかったから。でも別れるの悪いし懸命に頑張ったけど自分を偽り続ける事は出来ませんでした。離婚しましたが、神の導きに背いたと自分を責め続けています。私が悪いのでしょうか。神に関して書いてある本とか、間違いも結構ありますか?洗脳みたいになってヤバい感じがしています。神が何故こんな事をしたのだと考えますが、分かりません。地獄を歩いています。批判は辞めて欲しいです。私は真摯に神を信じて、世間では名著と言われてるヒルティの幸福論の記述を信じただけなので、、どうしたら脱出出来るのでしょうか。よろしくお願いします。涙
私はいろんな宗教の教えに興味があります。その中でも特に仏教に興味を持っています。 海外では激しい宗教対立がある中で日本では独自の均衡を保っているように思い非常に素晴らしいことだと感じています。 しかし教えを拝聴することも有り難いのですが、等身大で「話し合える」お坊さんとお酒でも飲みながらぶっちゃけトークをしたいと常々思っていました。 ところで、私の両親は敬虔なクリスチャンのはずなのですが、幼い頃から私を殴ったりののしったりして、彼らが思う通りにした時だけ「愛してる」と言われてきたので、「相手の思う「何か」をしないと私はいてはいけないんだ」と思うのが当たり前でした。 そして心身ともに病んでしまい、病院に通うも長年の投薬の副作用でホルモンバランスを崩し体重の激しい増減を繰り返し、免疫力がなくなり肝臓、腎臓、皮膚疾患、病気になりやすく転職を繰り返しています。 そんな私を両親はののしり、私は自分自身の不甲斐なさに落胆しています。 何回も挫折を繰り返してきましたが自分や病気、誰かのせいにするのではなく心の平穏を得たいと前から気になっていたお寺に通い始めました。 最初はただ境内を歩いたりするだけでしたが、本堂でお経を読む会に参加したりお坊さんとお話をするようになりました。 そして少しずつ前向きになり転職先も決まりこれからという時に 檀家さんの派閥争い?の様なものに巻き込まれ、悪口を耳にし凄く悲しい気持ちになっています。 なぜ同じ「仏」「神」を信仰しているはずなのに、他人の行動を批判するのか? 私には解らないのです。 また同年代のお坊さんの考えや展望など率直な意見を交わしたいのです。 そんな思いの中、少し年下のお坊さんでフランクな対応をして下さる方に最初に記述したお酒を飲みながらぶっちゃけトークをこの方なら出来るのではないかと思い連絡先を渡し飲みに行きたい旨をお伝えしました。 今はこれが知的好奇心、興味なのか恋慕なのかわからなくて混乱しています。 そしてそれが相手のご迷惑になっているのか不安です。 皆様からしたらこういう事は迷惑でしょうか?
親がとある新興宗教にハマってしまいました。 私は仏様や神様は誰でも救ってくださると思っているのですが、母の話を聞くとその宗教に入らない限り天国には行けないらしく、またその宗教の名前や信じられない体験(実際に私も目にしたのですが)を他言してしまうと地獄に落ちる。と脅されました。 家庭環境が昔から悪かったのですが、その宗教に入ってから家庭がいい方向へと向かったので母を無理やり辞めさせたい。とは思いませんが、多額の費用を払っているらしく心配です。 そこで質問なのですが、ホンモノの宗教に入らないと地獄に落ちるのでしょうか...そうでなければ天国へいけないのでしょうか...とても怖くて夜も眠れません。 教えていただけたら嬉しいです。 また、母とはこれからどのように接すればいいでしょうか?(新興宗教が怪しい!と感じてから母の存在が気持ち悪くなってしまうようになりました...)
まず、自分は、浄土真宗 祖父母と親族は、浄土宗です 亡くなった祖父母の墓を管理することになりました。 ただし、祖父母と孫の自分は名字が違うことで自分の墓は別にあります。本来は墓じまいをしてもいいかと思うのですが、見れるうちは見ていこうと思い管理することにしました。 しかし、宗派が違うので自分のやり方で進めようとしてたら 浄土宗の人たちからおかしいと言われて、浄土真宗との違いを気付かされます。似ているようで、成仏のタイミングや供養など両者と違っている点がちょっとずつあって親族間でトラブルが続きます。 ずっと見ていくなら、遺族の思うようにいっそ宗派を変えさせてもらいたいですが、きっと親族でトラブルになりそうです。かといって、浄土宗の考え方に寄せていくとなるとちぐはぐした気持ちになってしまいます。 どうすれば良い着地点になるでしょう
手を合わせ 線香と蝋燭2本を御供え 無作法でありましたが 帰って来ました。 これまでの事が嘘の様に穏やかな状態になりました。 大変感謝しています。 何故かとても不思議です。
子ども達のところへボランティアに行ってきました。 元気づけようとペンパイナッポーアッポーペンを皆んなで歌って踊りました。 逆に元気になりました。医療の勉強をしたくなりました。救急救命に行きたかったことを思い出しました。