変な話ですが、ずっと家族に迷惑をかけていた親戚が病気で余命半年って宣告されました。 わたしはずっと彼に死んでほしいと思っていたのでその話を聞いて悲しむどころか嬉しくなりました。ようやく死んでくれるんだって。 かなり近い親戚なので、両親にも礼服を買っておくよう言われており、必ず出席させられると思います。 彼は精神障がい者なので周りに人がいなく、式も家族でのものかと思われますが、こんな考えの私がどんな顔で参列するのでしょう? こういうものはかなり前に祖父の葬式に出たきりですが、思い出してもどの場面でも今の私に悲しい顔をできるとは思えません。 こういうのは仏教的にどうなんでしょうか? 私にはそもそもあんなにお金をかけて葬式をする意味がわからず(お坊さんに対しすみません)、形だけで悲しむだけなら参列したくないです。 昔、朝起きるのが難しかった時期に、お葬式に行くのを嫌がったところ激怒された経験があり、尚更そういった場が苦手です。 親を説得できるとも思えませんが、何かアドバイスいただけたらと思います。
プロフィール欄に書ききれないほど悩みがあります。 ただ、どれも甘ったれた内容で 自分がみっともないです。 子供たちと会えて幸せなのに、いつもどこかで居なければと考えてしまったり 守るべきなのに子供たちにお金をかけれず一緒に居ることが苦手です。 母親失格です。なぜ産んでしまったの?とよく言われます。私が一番わからないです。妊娠を知った時なれもしない母親だと勘違いしてしまいました。 今の彼氏とは金銭の援助もしてもらってません。結婚の約束もしてません。 むしろ、結婚は嫌がるかなと私が諦めてしまってます。 周りには強がって結婚なんてしたくないと言いますが本当は誰かに甘えたいです。今度こそ父母が揃った家族になりたいです。 そんな自分が情けない。 仕事も転職ばかりで落ち着かず、自分が何のために働いてるのかわからないです。 子供たちの父親にも養育費がもらえず仕事するしかないのですが結局家族に甘えてます。 早く死にたい。それしか思えません。 一番頼りたい彼氏にも根本的に性格が合わないのか死にたいなんて口にしたら喧嘩になり、どこにも弱音が吐けず泣く時間も無く我慢の限界に達したら泣いてしまい、またそれで心が疲れて仕事に行く気が起きません。 こんなに精神病が治らず苦しむくらいなら死にたいのだけど死ぬ勇気も死ねない事もわかってます。 生かされてる、と誰かのせいにして逃げ続けているのももう疲れました。
すべての苦しみから逃れたいという気持ちと、自死や自暴自棄などで身近な人に迷惑はかけられないという気持ちの間で葛藤しています。 私の悩みの種の大元は人間関係にあります。周りの人と同じように、誰かと暖かで安定した関係性を築くことができず、それがコンプレックスになっています。つかみはうまくいっても、関係が思い通りにいかなくなるといつも人が怖くなって逃げてしまいます。長く一緒に生きた家族との間でさえなんともいえない気まずさがあります。 人間関係で失敗して誰かを傷つけたり迷惑をかけたなら、反省して同じ過ちを繰り返さなければよいのですが、いつも私は反省するよりも先に拗ねてしまい、「私は相手の人生を損なった。私がいなければ最初から何も起きなかった。こんな私の存在のせいで誰かが不快になることもなかった。」と考え、人と関わることを避けたくなります。そして人とうまく関われない自分には価値がないと思い、自らの人生を虚ろに感じます。そうしているうちにやがて自死について思考が至りますが、私と関わった人に罪悪感を与えたり、家族に迷惑をかけたりする可能性があると思うとできません。自死もまた私の存在によって周りを不幸にさせる行動のひとつだからです。しかしこのストッパーさえなければ私はいままでのどこかのタイミングで自死を選んでいます。「自分が生きていても迷惑をかけるだけだ」と感じたとき、死ぬのもまぁ迷惑だけどそっちのほうがコストパフォーマンスがよく思えてしまいます。 私の不幸の根幹は私の深刻な逃げグセにあるのだと思いますが、だからこそ「変わる努力をしろ」という真っ当な言葉からも逃げたいんだと思います。自分自身の人生から逃げています。 全てが面倒です。 くじけずに生きていくことがすべてだとは分かっていますが、くじけずに生きていくための元気がありません。 自分に生きる価値がないと思っていながらどう生きていけばいいでしょうか。どのように考えればよいでしょうか。どのように考えれば死の魅力から逃れて、自分や他者を大切にできるようになるのでしょうか。
介護の仕事をしています。 そして家では相棒の20歳の猫が弱っていく様を目のあたりのして、 人間も動物も歳をとり身体が思うように動かなくなり肉体的にも精神的にも痛く辛い思いをするように思います。 なぜかはわからないけれど命には寿命があって、皆いずれ死なねばならない。なのになぜ命は、わざわざ苦しみやすく出来ているのか、 脳ミソが、老いて寿命が近くなったら自動的に幸せホルモンのようななにか痛みを緩和させて穏やかになるような麻薬物質でも分泌すればよかったのに(そういうものがあるかもわかりませんが)、なぜそのように進化せず、やはり苦しみがちになるのだろうかと疑問に思っているのです。 また、相棒の猫は確かに20年いっしょに暮らしてきた家族だけれど、言葉を通してなにをしてほしいか、なにが食べたいかを迅速に伝えられない訳だから、きっとひとりぼっちで寂しくて、体も痛かろう、初めて老いて初めて死に向かうのに淋しかろうと、100%助けてあげられなくてすまなくて悲しくて眠れません。 やはり施設で暮らす高齢者の方々も寂しい思いで暮らしているだろうと思います。猫と比べるなと言われるかもしれませんが、同じように思ってしまいます。 道元禅師の生死の巻で、薪と灰の話、 前後裁断があったかと思いましたが、 今の私には死はやはり老いた先にあるもののように思えてなりません。身体の細胞ひとつひとつが活動できなくなった先にある死で、やはり苦しまずにはいられないんじゃないかと感じてしまいます。 あのお話だったか、生と滅にそれぞれ“さきありのちあり”とあった気もしますが、なにか私が今目の前にしているものの解釈のヒントになりそうなのに、いまいち理解ができません。 わかりにくい質問で申し訳ないのですが、ようは、なぜ命は苦しまなければいけないのか、なぜ苦しむのに生まれてくるのか、そしてそれをずっと繰り返してきたはずなのに、脳ミソが苦しみを除外するよう進化しなかったということはやはり必要があっての苦しみなのかしらと素人考えをしているわけです。かといって私の相棒の猫さんが死に向かって1人老いて苦しむのは切ない事です。。。それらが不思議で切なくてならないのです。 自然の摂理だから仕方がない事なのでしょうか?
初めて質問をします。よろしくお願い致します。 先日、祖母が亡くなりました。それをきっかけに浄土真宗の教えを(ネットの情報からではありますが)学び始めました。 妙好人について書かれていることを読んで思ったことがあります。 他力信心を得ると言うことは、仏の悟りには至らなくても高いところの悟りに達しているように思い、阿弥陀様のお力を気づかせて頂くのは、簡単なことの様に説かれているものの難しいなと思っています。 他力信心によって死への恐怖や不安がなくなるのは、頭では理解できたかなとは思っています。しかし日常生活生活における死に直結しない様々な不安があります。なぜそれらも気にならないようになれるのでしょうか? ご助言をよろしくお願い致します。
死にたがりです。 とにかく早く死にたい人間です。 自分がおかしいのか周りがおかしいのか、 自分の苦しみが伝わってない気がします。 一応障害者雇用枠で働いていますが、 仕事先でも家庭でも鬱を風邪かインフルエンザのように発症する前に戻るという考えでいるみたいです。 家庭では体調よりも仕事が第一という家庭環境で、休んだら悪という風潮が大きいです。 なので、頭が痛いとか風邪っぽいとか最近のコロナ疑いでも、何があっても仕事先に行くようにしています。怒られてしまいますから。そうしないと何が起こるか分からないです。必要な家具を買ってもいらないだろう、とか、よく金があるな!(怒りが入っている) と言われ、消費をするなと言われているような感覚です。居場所ほ既に消えました。 希望としてはモルヒネとか打ちまくって感覚が無くなり、感情もないロボットのようになりたいです。AIロボットみたいにです。 なんにも感じられなくなりたいです。 死に憧れて実行に移すのはいけないことでしょうか?私はそうは思いません。私にとって[生]とは[死]であり[死ぬこと]で[生きている]ことが実感できます。 この先どうすれば良いでしょうか?
愛を失い続ける人生に疲れました。 何も得られない人生に疲れました。 もう投げ出していいですよね?私はもう疲れたんです。私はもう何かを得るなんてことはありません。私には何も残されていません。少しでも価値あるものは次々と消えていきました。夢も最愛も。何もかもが私のもとからさっていきました。 もう投げ出してもいいですよね?私はもう十分戦った。もう休んでいいですよね?阿弥陀様、貴方様のお慈悲こそが私の唯一の希望。私を導いてくれる光です。 阿弥陀様、どうか死を選ぶしかなかった憐れで惨めでみっともない私をお救いください。あなた様のお慈悲の光ころが私の唯一のよりどころ。どうか私を憐れんで、お浄土へとお導きください。それだけが私の望みです。死しか選べなかった私を、どうかお導きいただき愛するものと再開させてください。これ以上は望みません。だからあの子に合わせてください。再会させてください。なんの苦しみのないお浄土で。それが叶うなら私は喜んで死にます。どうか私を救ってください。
社会人となってメンタルを壊した頃から、ストレスが掛かるたびに強い胸の痛みと戦うことになりました。 心臓に鉛を埋め込まれたような重さと痛みで、生きることに対する全ての気力を奪われてきました。希死念慮に囚われるのももはや日常です。 その度に耐え忍び、可能なら瞑想し、有耶無耶にやり過ごしてきました。 もはや正社員として働き、自立するような気力は奪い尽くされ、細々とアルバイトをしながら、両親に食べさせていただく日々です。 悩みや苦しみからストレスが生まれ、それによって胸の苦しさや希死念慮といった身体的、精神的苦痛に苛まれるため、なんとかこれらを軽減したいのです。 なお、身体的には(少なくとも健康診断レベルでは)健康であり、胸の痛みがなんらかの身体的な病気からきているものではないことは判明しています。 活動する気力がほとんど残らず、自室から動くことも難しい中で、自分に残された行動は「瞑想、または思考すること」くらいです。 限られたリソースの中で、悩みや苦しみを軽減するための考え方などをご教授いただけましたら幸いです。
はじめて質問いたします。 先日、祖父が亡くなりました。 小さい頃たくさん遊んでもらった楽しい思い出ばかりが思い出され、祖父のことを考えると涙が溢れてきます。 亡くなった顔がとても綺麗で、綺麗すぎて、ああもう違うところへ行ってしまったんだ、と思いました。 もっと会いに行けばよかった、自分の名前を呼んでほしかった、と後悔の思いがあります。 ただ、闘病、介護生活が長かったため、祖父も大変だったろうな、ようやくゆっくりと休めて、自由に動けるのかなとも思います。そう思いたい気持ちもあります。 しかし、祖父にもう会えない、と思うと信じられないし信じたくないと思ってしまいます。 また、祖父の死から、自分にとって大切な人たちにはいつか亡くなる日が来てしまうんだ、そして自分は今後それに向き合わなければいけないんだということを実感しました。 でもそんな日が来るのがとても怖いです。昔に戻りたい、と思ってしまいます。 それでも時間は進みます。しっかりと向き合っていかなければならないと感じます。 どうしたら人の死を受け入れられるのでしょうか。
享年29歳で私の子供が事故で亡くなりました。あるお人に聞いたところその子の運命は生まれる前から決まっていたとの事、子供は親を選べないと言いますが、そうじゃなくそれも生まれる前からどの家に生まれるかも決まっているとの事でした。私の家に生まれて不幸だったのか、子供の今までの人生を考えるといたたまれない気持ちで、まだ死を受け入れきれなくてどうしようもないです。もうすぐ四十九日です。何も手に付かず悲しい毎日を送ってます。教えて下さい。
子供の頃から虚弱体質で、疲れやすく無理ができない体質でした。中学生の時には原因不明の頭痛が続き、髄液までとって精密検査しても異常が見当たらず、自律神経失調症と診断され服薬を続けました。 成人してからもパニック障害や狭心症、子宮内膜増殖症、良性ですが乳腺の腫瘍など病気だらけの人生です。 現在も激しい頭痛や神経痛など原因不明の痛みが発作的に起こるため、いつ来るかわからない痛みに怯え、やりたいこともためらってしまいます。 あまりにひどい痛みに、時に生きていることも辛いと感じてしまいます。 苦しさのあまり死の恐怖が頭をよぎる半面、死んだらこの痛みから解放されると思う自分もいます。 仏様は病気を通じて、私達人間に何を教えたいのでしょうか? また、私は病気の不安と痛みを抱えながら、どう生きていけばよいのか。 その心構えなどをご教授いただけたら幸いです。 何卒、どうかよろしくお願いいたします。
初めて質問させていただきます。 私は死にたいと思いながら25年経ってしまいました。 毎日目が覚める度に『死にたい』と思い、幸せな時期は『幸せなうちに死にたい』、辛い時期は『辛い。もうヤダ死にたい』と考えてしまいます。 子供の頃からのことなので最早これが当たり前ですし、子供の頃や二十代前半の頃は何度か行動に起こした事もありましたが、いつも失敗してしまいます。 そうこうしているうちに無気力な大人になってしまったので、惰性で様々なものに依存しながらただ時間を過ごしています。 こんな事を言うのは不謹慎極まりないのは自覚してるので言葉にするのは初めてですが、自分で死ぬより、事故や事件、病気で死を迎えるのを待つ毎日です。 最近、死にたいと毎日思うことは異常だと認識しました。 僧侶の皆さんは死にたいと思うことはありますか?また、もし思うような時にはどうやってその思いを断ち切りますか?
今年の1月に実母が病気で亡くなりました。 もうすぐ亡くなって1年がたつのですが、今でも病室で苦しそうにしていた母の様子を思いだし、悲しくなってしまいます。 病室にお見舞いに行く度に、衰弱してゆく母の様子を見るのは辛かったです。 きっと母は、そんな辛い病気の時のことよりも、楽しい想い出を思い出して欲しいのではないかなと、勝手に思っているのですが、 夜中に目が覚めてしまった時などに、いつも病室の苦しそうな母を思い出してしまいます。 時々、今でもとても悲しくなってしまいます。 私はどう過ごせば良いのでしょうか? よろしくお願いします。
少人数の学校に通ってます。 なんとなく一緒にいる3人組の方はいますが遊んだりもありません。私以外の2人で仲良しなので、空きコマも居づらいなと思ってしまいます。 気にしすぎなんでしょうか? かといって他に一緒にいるような方もいなくなんだかモヤモヤしてしまいます
自殺対策は仏教の最も得意とする分野ですが、現状の効果はNPOのそれと大差がないのがはがゆいです。 もし輪廻転生が否定されるなら、自殺対策は有害無益で、むしろ自殺を奨励すべきです。 釈尊も若い頃自殺しました。(般若心経の呪文、梵天勧請) 仏教の目的は、涅槃(解脱、心の死)ですから、輪廻転生が否定されれば死後が無いので心は死んでいます。 まさに涅槃状態です。死即涅槃と言えます。 輪廻転生が真実であっても、自殺は諸刃の剣です。 釈尊のように涅槃状態であれば、自殺は奨励されます。 「厭離穢土 欣求浄土」と言う佛教語もある位ですから。 我々も、釈尊に倣って寿命が尽きる前に自殺によって涅槃を得なければなりません。 寿命が尽きた瞬間では多分涅槃は無理だと思います。 私はその修行の厳しさに初めから諦めています。 「現世安穏 後生善処」ならばまだ希望が持てますので寿命が尽きるまで待ちます。 しかし通常の自殺は防止しなければなりません。 何故なら心が死んでいないからです。 六道輪廻で脅しをかけるのです。 それも真実の脅しですから遠慮はいりません。 この自殺対策は有効だと思います。 ちなみに自殺者と通常の死者との死後の風景は、丹波哲郎制作映画「大霊界2」で参考できます。劇場映画ですからフィクションや甘さはありますので、その点は考慮が必要です。 輪廻転生が普遍化している国の庶民の思考については、 NHK「世界ふれあい街歩き」の「チンプー」(ブータン)が参考になります。
初めて相談いたします。 自死で亡くなった両親のことについてです。 私の両親は3年前に自死で亡くなりました。 両親は米農家を営んでおり、3きょうだいの末の弟があとを継ぐ予定で一緒に住んでいました。 2021年6月9日、弟からlineで「2日前に出かけた両親と全く連絡がつかない。どこに行ったかもわからない。」と連絡があり、警察に探して頂いたところ、町外れの山中で2人共亡くなっていました。6月7日の朝出かけたあと、昼頃に自死したのではないかとのことでした。 後の警察の事情聴取では、父が地域やJAの役員活動が大変だと話していたこと、母の両親が貯蓄を使い込みお金の援助を求めてきていたこと、ちょうどコロナ禍で私も妹もなかなか帰省できず、友人に会うことも難しく寂しがっていたことなどがわかりましたが、日記や遺書もなく決定的な理由はわからずじまいです。 亡くなる2日前に母と電話したときにもいつもと変わらない様子だったように思えました。 急な別れだったため3年たった今でもなかなか心の整理がつかず、ふとした時に両親が何について自死するほど悩んでいたのか、私に何かできることはなかったのか、と考えてしまいます。 また1年前に私に子供(両親にとっての孫)ができたのですが、他のお母さん達が大変なときに実家を頼れることがとても羨ましく思えます。 やっぱり子育てについてもっと気軽に相談したかったし、助言や手助けしてほしかった。 私の子供が私の両親に会いに行くことはできないんだと、育児に少し疲れたときに涙が出てしまいました。 なんともいえないこの気持ちにも、いつか折り合いをつけられるのでしょうか? ひとりの大人として、親として、がんばっていくしかないとわかってはいますが、もっと両親に頼りたかったと思うのは甘えでしょうか? 長文、乱文を失礼しました。
お世話になります。 亡くなった魂は、あちこちと移動して私達の事を見に行ったりできるものですか? よく、白いのが見えたとか、光が見えたとか、見える人は言います。 同じタイミングで、亡くなった時の人の匂いがしたとか、お骨の匂いがするとかも聞いた事があります。 亡き魂は、行きたいとこに行けたり、会いたい人、そばにいたい人にくっついたり、できるものかなーと毎日考えてなりません。 夫を自死でなくしましたが、そんな夫の魂も家族を見守る側として、きちんと私達を守ってくれるのかと毎日思う日々です。 毎日、毎日、夫の魂はいまどこに…とずっと考えてなりません。 自死してしまっただけに…
私は最近、死んでしまったら今している努力や 今までの努力が無駄になってしまうのではないかと考えてしまいます。 また、死後の世界を想像してしまい恐怖心を覚え、考えた日は何にも集中できなくなってしま います。 そして、私の生きている意味がわからなくなってしまいました。 死への恐怖心におしつぶされてしまいそうです。 この苦しさを取り除いていただけないでしょうか。 回答よろしくお願いします。
1年半前に夫が自殺をしました。 周りから良い人に見られたいで、周りの評価ばかりかにする人でした。 知り合った時には鬱病を患っていましたが支え合っていこうと結婚しました。 結婚2ヶ月後に鬱病が悪化し、夫はやり場のない気持ちをお酒に逃げるようになり、 やめたと言いながら私に隠れて飲んでいました。 仕事には行けないけど遊びには行けるみたいでパチンコに行ったり釣りに行ったりしていました。 ある日飲酒運転で捕まり保守的に警察、会社に嘘をつき、その嘘がバレないかと不安になり自殺未遂をしました。 私は嘘をついていた事をその時初めて聞かされました。 会社からの処分を聞くのが怖かったみたいで、その前に会社を退職する事を決めました。 私が仕事に行っていない日に会社の人が退職の手続きをしに来ることが決まり、日にちの変更をしてもらおうかと夫に聞いたのですが大丈夫だと言われたので任せる事にしました。 退職の手続きの当日の朝はいつもと変わらず私は家を後にしました。 仕事が終わり帰宅すると夫はおらず携帯は繋がらず家の中は整理されており1週間後、自宅近くの森で発見されました。 結婚生活は2年で終わりました。 私がちゃんと支えられていたら、あの時無理を言ってでも一緒にいたら夫はいなくなる事はなかったのでないかと今も隣に居たのではと思いましす。 夫が死を選んだ場所に行けず、逃げたし引っ越しをしました。 きちんと夫の死に向き合う事ができずにいます。 どう先に進めば良いのかわかりません。 夫への気持ちに整理をどうつけたら良いのでしょうか 後悔、罪悪感にどうして良いのか分からないです
温厚な父親がある日突然に失踪し、半年後山奥で自死の姿で見つかりました。ずっとずっと父親に対して後悔の気持ちでいっぱいです。もう十数年間経ちますが、まだ写真を見れません。私は末っ子で、よく父親に心配かけてばかりでしたから。後悔し出すと眠れなくなります。自殺するとなかなか成仏出来ないと聞きます。余計に父親が心配になります。父親は何処かで彷徨っているのでしょうか??私がもっといい子なら父親は自殺せずにいたと思うと本当に日々自分を責めてしまいます。