いつも心の迷いに寄り添ってくださってありがとうございます。 弟の死から2年が過ぎ、悲しみが癒されるどころか、ぶり返し、日がたつごとに寂しさが募ります。寂寥感、虚しさ、悲しみ。。。 母を支え、自分を支え、いろんな感情に押しつぶされそうになりながらまた立ち上がり、日々過ごすということを繰り返しています。 新しい趣味も始め、自分自身の人生を歩むことも忘れないようにしていますが、 どうしようもない悲しみ、寂しさは自分が人生を終えるその日まで続くことはわかっているのですが、こういう気持ちをだましながらというか、いやすにはどうしたらいいのでしょうか? たまに襲われる深い悲しみに耐えられる自分になるための道しるべをご教示いただけたら嬉しいです。 いつもありがとうございます。
プロフィール欄に書ききれないほど悩みがあります。 ただ、どれも甘ったれた内容で 自分がみっともないです。 子供たちと会えて幸せなのに、いつもどこかで居なければと考えてしまったり 守るべきなのに子供たちにお金をかけれず一緒に居ることが苦手です。 母親失格です。なぜ産んでしまったの?とよく言われます。私が一番わからないです。妊娠を知った時なれもしない母親だと勘違いしてしまいました。 今の彼氏とは金銭の援助もしてもらってません。結婚の約束もしてません。 むしろ、結婚は嫌がるかなと私が諦めてしまってます。 周りには強がって結婚なんてしたくないと言いますが本当は誰かに甘えたいです。今度こそ父母が揃った家族になりたいです。 そんな自分が情けない。 仕事も転職ばかりで落ち着かず、自分が何のために働いてるのかわからないです。 子供たちの父親にも養育費がもらえず仕事するしかないのですが結局家族に甘えてます。 早く死にたい。それしか思えません。 一番頼りたい彼氏にも根本的に性格が合わないのか死にたいなんて口にしたら喧嘩になり、どこにも弱音が吐けず泣く時間も無く我慢の限界に達したら泣いてしまい、またそれで心が疲れて仕事に行く気が起きません。 こんなに精神病が治らず苦しむくらいなら死にたいのだけど死ぬ勇気も死ねない事もわかってます。 生かされてる、と誰かのせいにして逃げ続けているのももう疲れました。
以前、相談をしてお答えを貰った者です、あれから色々ありまして、毎日今この時を大切に共に生きようと楽しく生きてきました。今回は前に相談した家の老猫の話です。 前回、居なくなるのが不安で仕方ないと言っていましたが、あの時はまだ老化が出てきたばかりでジャンプをしたりご飯を食べたりと今思えばまだ元気でした。 先月辺りから食欲もなくなり元気もなくなり眠ってばかりで、病院に連れていき検査をしてもらいました。 膵炎と診断され、高齢猫、16歳なのでいつ最期がくるかはわからない覚悟をしていて下さいと言われました。 膵炎の薬は無いとの事で、対処療法として皮下点滴をしに病院に通っています。 次の血液検査で数値が下がっていればいいのですが、そうでなければ治療が長引きます。 高齢猫にとって病院に行くストレスも物凄いものだと思います。 膵炎は痛みが出ると先生が仰っていました。 猫本人は皮下点滴をすることで少しは痛みも楽になっているみたいで、今はゆっくりゴロゴロしています。 私はこの子と出会って沢山の事を教わりました。 だから最良の選択をしてあげたい。 本音を言えばもっともっと一緒に暮らしたい。 でもここまで一生懸命生きて今苦しんでいるこの子にまだまだ頑張って生きろとはさすがに言えないと思いました。 お坊さんに質問です。 人間でも自然死が尊重されつつあります。動物もそうだと思います。 同じ死を迎えるにあたって、私は自然死が良いと思います、何もせずゆっくりと死に向う方が穏やかな死に方になると聞いたことがあります。 ですが、痛みだけは取ってあげたいと思っています。 でもそれは病院で点滴をしなければなりません。 私が愛猫にしている行為はただのエゴでしょうか。 この子を苦しめているのは病気だけではなく私自身なのではないかと思ってしまい、悩んでいます。 私がしている行為、お坊さん方はどう思われますか? お答えを頂けましたら幸いです。宜しくお願いします。
いつも有難いお言葉をありがとうございます。 この度親戚のおじさんが家庭や仕事など色々と悩んでおり、自殺をしてしまいました。 おじさんの奥さんも後追いしそうな勢いで、精神状態がかなりきており、死を受け入れたくない、かつお金をかけたくない等で葬儀もまともにとり行わない、死化粧•死衣装などもせずにそのまま火葬する、お経も戒名も頼まない、故人へのお供え物もろくにあげない等… とにかく供養を行っていない状態で、私の祖父(おじさんからしたら父親)•母(おじさんからしたら姉)が凄い怒っており、私の実家にて供養をしてあげる事となりました。 別宅での供養を行う場合の供養のお作法や、気を付けるべき事、しなくてはいけない事等ご教授いただけますと幸いです。 ちなみに骨も納骨せず、奥さんが亡くなるまで手元に置いておくと言っています。 (奥さんの支配(身体をつかう仕事なのにご飯も食べさせない、行動の制限、嗜好品の取り上げ等々)のせいで、おじさんが亡くなった様なものなので、私達家族としては早く奥さんから解放してあげたいです。) 何卒、宜しくお願いいたします。
先日の母の死でかなり動揺しておりましたが、 お坊さまの御言葉で 救われた気もしましたが、涙が止まらない状況は今も変わらないです。 ところで、私の憔悴しきった姿は 亡くなった母は心配してしまうのでしょうか。 喪失感の大きさに、頑張って生きていこう!という気力より、 生きていくのはつらいな…と意味があるのかと ネガティブな考えしか浮かびません。 かといって、自ら死を選ぶことはしません。 生き抜くことが天命だと思っていますから。 矛盾した考えの狭間で、悲しみが薄らぐ気もしないのです。 私は、今後、生きていく意味があるのでしょうか? あるならば、何の知識も経験もないのですが仏様のおそばで生きていきたいと思います。
私は人生が辛いです。 今までたくさんこのサイトで相談させていただきました。 家族にも当たり散らしました。 しかし父だけは比較的優しかったです。 そんな父が残業を150時間やっていることを知り心配でたまりません。 小さな頃から夜遅くまで働いていたのでそれが普通だと思っていたので一般的には過労死ラインである150時間も働いているとは思っていませんでした。 ここ数年で親会社から子会社を任され社長をしてるので上司に振り回されているわけではないのが唯一の救いですがとにかく心配です。 今まで父には苦労ばかりかけていて学費などのお金には困ったこともありません。 過去相談に書いた様に恨みもありますが過労死して欲しくないです。 私は父のために何が出来ますか?
考えれば考える程、わかりません。 私は何故生きてるのか?この先、何の為に生きなければいけないのか? 今、心から安まる場所がないんです。 朝、職場に向かう車の中が1人になれる場所です。このままどこかに行ってしまおうかなんて考えたり…親に相談すれば、働くのはお金の為、生きて行く為。確かに現実問題はそうかもしれないけれど、私は素直に受け入れられないんです。働いてお金を稼いで、生きて…何の意味があるのか? この世界で、死を認められたら私はすぐ死を選びます。生きたいのに生きられない人には申し訳ないですが。 きっと私を責める人がほとんどでしょうが、私にも私の過去からの苦しみ理解してもらえる人がいるならわかってほしいです。
50年生きてきましたが鬱、希死念慮もり、毎日辛く苦しく何も楽しくないです。 自殺は悪いことですか? もうラクになって休みたいのです、ゆっくり眠りたいのです。 自殺は責められることですか? そんなにも悪いことですか?
初めて相談させて頂きます。 祖母がコロナで亡くなりました。 みんなから好かれていて、とても良い人でした。 死ぬことは悪いことではないと、頭ではわかっています。良い人ほど早く亡くなるという話もよく聞くし、個人的にもそう思います。 しかし、やっぱり死なないでほしかったです。まだ一緒にいたかったです。 このように思うことは悪いことなのでしょうか?私のわがままでしょうか? また遺族がきちんと死を受け入れられないと、祖母に悪い影響が出てしまうのでしょうか? よろしくお願いします。
ずっと休職していましたが回復の目処が立たず来月中に退職しようと考えています。両親にはまだ相談していません。 生活と家族の為に少しずつ転職活動していますが、生きる自信も希望も全くありません。 また、最近は妹と母との口喧嘩が頻繁でどうしたらいいか分かりません。 毎日が辛く希死念慮が常に頭から離れません。両親に何一つ親孝行できない役立たずな自分が情けないです。 転職活動を含め今後について両親に相談すべきか悩んでいます。しかし、これ以上迷惑や心配はかけたくありません。 支離滅裂な文章で大変申し訳ありません。
すべての苦しみから逃れたいという気持ちと、自死や自暴自棄などで身近な人に迷惑はかけられないという気持ちの間で葛藤しています。 私の悩みの種の大元は人間関係にあります。周りの人と同じように、誰かと暖かで安定した関係性を築くことができず、それがコンプレックスになっています。つかみはうまくいっても、関係が思い通りにいかなくなるといつも人が怖くなって逃げてしまいます。長く一緒に生きた家族との間でさえなんともいえない気まずさがあります。 人間関係で失敗して誰かを傷つけたり迷惑をかけたなら、反省して同じ過ちを繰り返さなければよいのですが、いつも私は反省するよりも先に拗ねてしまい、「私は相手の人生を損なった。私がいなければ最初から何も起きなかった。こんな私の存在のせいで誰かが不快になることもなかった。」と考え、人と関わることを避けたくなります。そして人とうまく関われない自分には価値がないと思い、自らの人生を虚ろに感じます。そうしているうちにやがて自死について思考が至りますが、私と関わった人に罪悪感を与えたり、家族に迷惑をかけたりする可能性があると思うとできません。自死もまた私の存在によって周りを不幸にさせる行動のひとつだからです。しかしこのストッパーさえなければ私はいままでのどこかのタイミングで自死を選んでいます。「自分が生きていても迷惑をかけるだけだ」と感じたとき、死ぬのもまぁ迷惑だけどそっちのほうがコストパフォーマンスがよく思えてしまいます。 私の不幸の根幹は私の深刻な逃げグセにあるのだと思いますが、だからこそ「変わる努力をしろ」という真っ当な言葉からも逃げたいんだと思います。自分自身の人生から逃げています。 全てが面倒です。 くじけずに生きていくことがすべてだとは分かっていますが、くじけずに生きていくための元気がありません。 自分に生きる価値がないと思っていながらどう生きていけばいいでしょうか。どのように考えればよいでしょうか。どのように考えれば死の魅力から逃れて、自分や他者を大切にできるようになるのでしょうか。
今年の1月に実母が病気で亡くなりました。 もうすぐ亡くなって1年がたつのですが、今でも病室で苦しそうにしていた母の様子を思いだし、悲しくなってしまいます。 病室にお見舞いに行く度に、衰弱してゆく母の様子を見るのは辛かったです。 きっと母は、そんな辛い病気の時のことよりも、楽しい想い出を思い出して欲しいのではないかなと、勝手に思っているのですが、 夜中に目が覚めてしまった時などに、いつも病室の苦しそうな母を思い出してしまいます。 時々、今でもとても悲しくなってしまいます。 私はどう過ごせば良いのでしょうか? よろしくお願いします。
少人数の学校に通ってます。 なんとなく一緒にいる3人組の方はいますが遊んだりもありません。私以外の2人で仲良しなので、空きコマも居づらいなと思ってしまいます。 気にしすぎなんでしょうか? かといって他に一緒にいるような方もいなくなんだかモヤモヤしてしまいます
介護の仕事をしています。 そして家では相棒の20歳の猫が弱っていく様を目のあたりのして、 人間も動物も歳をとり身体が思うように動かなくなり肉体的にも精神的にも痛く辛い思いをするように思います。 なぜかはわからないけれど命には寿命があって、皆いずれ死なねばならない。なのになぜ命は、わざわざ苦しみやすく出来ているのか、 脳ミソが、老いて寿命が近くなったら自動的に幸せホルモンのようななにか痛みを緩和させて穏やかになるような麻薬物質でも分泌すればよかったのに(そういうものがあるかもわかりませんが)、なぜそのように進化せず、やはり苦しみがちになるのだろうかと疑問に思っているのです。 また、相棒の猫は確かに20年いっしょに暮らしてきた家族だけれど、言葉を通してなにをしてほしいか、なにが食べたいかを迅速に伝えられない訳だから、きっとひとりぼっちで寂しくて、体も痛かろう、初めて老いて初めて死に向かうのに淋しかろうと、100%助けてあげられなくてすまなくて悲しくて眠れません。 やはり施設で暮らす高齢者の方々も寂しい思いで暮らしているだろうと思います。猫と比べるなと言われるかもしれませんが、同じように思ってしまいます。 道元禅師の生死の巻で、薪と灰の話、 前後裁断があったかと思いましたが、 今の私には死はやはり老いた先にあるもののように思えてなりません。身体の細胞ひとつひとつが活動できなくなった先にある死で、やはり苦しまずにはいられないんじゃないかと感じてしまいます。 あのお話だったか、生と滅にそれぞれ“さきありのちあり”とあった気もしますが、なにか私が今目の前にしているものの解釈のヒントになりそうなのに、いまいち理解ができません。 わかりにくい質問で申し訳ないのですが、ようは、なぜ命は苦しまなければいけないのか、なぜ苦しむのに生まれてくるのか、そしてそれをずっと繰り返してきたはずなのに、脳ミソが苦しみを除外するよう進化しなかったということはやはり必要があっての苦しみなのかしらと素人考えをしているわけです。かといって私の相棒の猫さんが死に向かって1人老いて苦しむのは切ない事です。。。それらが不思議で切なくてならないのです。 自然の摂理だから仕方がない事なのでしょうか?
初めて質問をします。よろしくお願い致します。 先日、祖母が亡くなりました。それをきっかけに浄土真宗の教えを(ネットの情報からではありますが)学び始めました。 妙好人について書かれていることを読んで思ったことがあります。 他力信心を得ると言うことは、仏の悟りには至らなくても高いところの悟りに達しているように思い、阿弥陀様のお力を気づかせて頂くのは、簡単なことの様に説かれているものの難しいなと思っています。 他力信心によって死への恐怖や不安がなくなるのは、頭では理解できたかなとは思っています。しかし日常生活生活における死に直結しない様々な不安があります。なぜそれらも気にならないようになれるのでしょうか? ご助言をよろしくお願い致します。
享年29歳で私の子供が事故で亡くなりました。あるお人に聞いたところその子の運命は生まれる前から決まっていたとの事、子供は親を選べないと言いますが、そうじゃなくそれも生まれる前からどの家に生まれるかも決まっているとの事でした。私の家に生まれて不幸だったのか、子供の今までの人生を考えるといたたまれない気持ちで、まだ死を受け入れきれなくてどうしようもないです。もうすぐ四十九日です。何も手に付かず悲しい毎日を送ってます。教えて下さい。
死にたがりです。 とにかく早く死にたい人間です。 自分がおかしいのか周りがおかしいのか、 自分の苦しみが伝わってない気がします。 一応障害者雇用枠で働いていますが、 仕事先でも家庭でも鬱を風邪かインフルエンザのように発症する前に戻るという考えでいるみたいです。 家庭では体調よりも仕事が第一という家庭環境で、休んだら悪という風潮が大きいです。 なので、頭が痛いとか風邪っぽいとか最近のコロナ疑いでも、何があっても仕事先に行くようにしています。怒られてしまいますから。そうしないと何が起こるか分からないです。必要な家具を買ってもいらないだろう、とか、よく金があるな!(怒りが入っている) と言われ、消費をするなと言われているような感覚です。居場所ほ既に消えました。 希望としてはモルヒネとか打ちまくって感覚が無くなり、感情もないロボットのようになりたいです。AIロボットみたいにです。 なんにも感じられなくなりたいです。 死に憧れて実行に移すのはいけないことでしょうか?私はそうは思いません。私にとって[生]とは[死]であり[死ぬこと]で[生きている]ことが実感できます。 この先どうすれば良いでしょうか?
愛を失い続ける人生に疲れました。 何も得られない人生に疲れました。 もう投げ出していいですよね?私はもう疲れたんです。私はもう何かを得るなんてことはありません。私には何も残されていません。少しでも価値あるものは次々と消えていきました。夢も最愛も。何もかもが私のもとからさっていきました。 もう投げ出してもいいですよね?私はもう十分戦った。もう休んでいいですよね?阿弥陀様、貴方様のお慈悲こそが私の唯一の希望。私を導いてくれる光です。 阿弥陀様、どうか死を選ぶしかなかった憐れで惨めでみっともない私をお救いください。あなた様のお慈悲の光ころが私の唯一のよりどころ。どうか私を憐れんで、お浄土へとお導きください。それだけが私の望みです。死しか選べなかった私を、どうかお導きいただき愛するものと再開させてください。これ以上は望みません。だからあの子に合わせてください。再会させてください。なんの苦しみのないお浄土で。それが叶うなら私は喜んで死にます。どうか私を救ってください。
社会人となってメンタルを壊した頃から、ストレスが掛かるたびに強い胸の痛みと戦うことになりました。 心臓に鉛を埋め込まれたような重さと痛みで、生きることに対する全ての気力を奪われてきました。希死念慮に囚われるのももはや日常です。 その度に耐え忍び、可能なら瞑想し、有耶無耶にやり過ごしてきました。 もはや正社員として働き、自立するような気力は奪い尽くされ、細々とアルバイトをしながら、両親に食べさせていただく日々です。 悩みや苦しみからストレスが生まれ、それによって胸の苦しさや希死念慮といった身体的、精神的苦痛に苛まれるため、なんとかこれらを軽減したいのです。 なお、身体的には(少なくとも健康診断レベルでは)健康であり、胸の痛みがなんらかの身体的な病気からきているものではないことは判明しています。 活動する気力がほとんど残らず、自室から動くことも難しい中で、自分に残された行動は「瞑想、または思考すること」くらいです。 限られたリソースの中で、悩みや苦しみを軽減するための考え方などをご教授いただけましたら幸いです。
はじめて質問いたします。 先日、祖父が亡くなりました。 小さい頃たくさん遊んでもらった楽しい思い出ばかりが思い出され、祖父のことを考えると涙が溢れてきます。 亡くなった顔がとても綺麗で、綺麗すぎて、ああもう違うところへ行ってしまったんだ、と思いました。 もっと会いに行けばよかった、自分の名前を呼んでほしかった、と後悔の思いがあります。 ただ、闘病、介護生活が長かったため、祖父も大変だったろうな、ようやくゆっくりと休めて、自由に動けるのかなとも思います。そう思いたい気持ちもあります。 しかし、祖父にもう会えない、と思うと信じられないし信じたくないと思ってしまいます。 また、祖父の死から、自分にとって大切な人たちにはいつか亡くなる日が来てしまうんだ、そして自分は今後それに向き合わなければいけないんだということを実感しました。 でもそんな日が来るのがとても怖いです。昔に戻りたい、と思ってしまいます。 それでも時間は進みます。しっかりと向き合っていかなければならないと感じます。 どうしたら人の死を受け入れられるのでしょうか。