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検索結果: 1716件

仏教の教えについて

 こんにちは。再びこちらで質問させていただきます。  以前読んだ呉智英著「つぎはぎ仏教入門」という書物の中では、私の従来のイメージとはかけ離れた仏教観が述べられており衝撃を受けました。お釈迦様の物語では、お釈迦様は家族を捨てて出家しており、出家者に対しても①家族を捨てること・②生涯独身でいること・③労働をしないことを要求しています。また梵天勧請のお話では、お釈迦様が悟った後に「私が悟った法は、その内容はあまりにも高度なものであるから、一般の人に説いてもわかるまい。」とそのまま涅槃に入られようとしていたようです。  これらの物語を読むと、仏教とは決してヒューマニズムのような耳障りの良い教えではなく、むしろ社会の常識を揺るがす危険な思想なのではないかと思いました。また、仏教の一番の目標は、やはり「悟りを開くこと」ですが、「悟り」とは私が今まで考えていた「あるがままの世界を観じる」というような単純なものではなく、もっと峻烈で幽玄なものではないかと思いました。  これらを踏まえると、日本の仏教ではお坊さんは妻帯をして、労働されている方もいらっしゃるのが普通の光景です。社会に歩み寄るという点では、ある程度の妥協も必要であるとは思いますが、釈尊の本来の教えから見ると、修行や悟りを軽視している面があるのではないでしょうか? また、その教義が初期仏教とは異なる宗派もいくつかありますが、ある教えが仏教であると言える条件は何なのでしょうか? 日本で悟りを開かれているお坊さんはどれくらいいらっしゃるのでしょうか?  その辺りを、お坊さんはどのように考えられているのか伺いたく、質問させていただきました。どうぞよろしくお願いします。

有り難し有り難し 77
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南無阿弥陀仏をおとなえする意味について

私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。

有り難し有り難し 711
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霊魂の存在を否定されるお坊さまへのご質問

 こんにちは。先日は私の拙い質問にご回答頂き、誠にありがとうございました。また、こちらで何度もご質問させて頂いておりますが、その度毎に丁寧なご回答を頂いておりまして、大変感謝しております。本日は、多少突っ込んだ質問になってしまいますが、自分の中でどうしても整理がつかない点があり、それを質問できるような場が他にありませんでしたので、この場を借りて質問させて頂きたいと思います。どうぞよろしくお願いします。  こちらのサイトを拝見しておりますと、「霊は存在しない」と回答しておられるお坊さまが何人かいらっしゃいます。お坊さまの中でも意見が分かれる問題なのだと思いますが、私は霊魂の存在を信じており、また輪廻転生もあるのではないかと考えております。霊魂の存在を否定されるお坊さまは、霊感商法やカルト教団への対応など、現実的な対策の観点から、またお坊さま個人の世界認識から、そのような発言をされているのだと思います。しかし、素人の私から見ると「悟り」や「阿弥陀仏の救い」を前提としてお話をされているお坊さまが、「霊魂」の存在を否定されることが、どうしても理解できないのです。  素人の私から見ると、「悟り」も「阿弥陀仏の救い」も、それが一体何であるのか分かりません。そのため、お坊さまが「悟り」や「阿弥陀仏の救い」をお話されることは、「霊魂」や「輪廻転生」のお話をされることと同じくらい荒唐無稽なもののように感じてしまうのです。唯物論者の方が霊魂の存在を否定されるのは理解できるのですが、お坊さまが否定されることは、私にはどうしても理解できません。霊魂の存在については、「分からない」とおっしゃることが最も妥当なのではないでしょうか。  実際に、現代には様々な宗教がありますが「霊魂」や「輪廻転生」の存在などを説いている宗教も数多くあります。もし、お坊さまが霊魂は存在しないと考えておられるのであれば、それらの宗教についてはどう理解されているのでしょうか。  このような突っ込んだ質問をして、誠に申し訳ありませんが、霊魂を否定されるお坊さまのお考えをどうしても伺いたいと思いました。ご回答頂ければ幸いです。どうぞよろしくお願いします。

有り難し有り難し 168
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人間とは此の世一番の悪だ!!!!

やまたのおろちは人々を苦しめたためスサノオノミコトが退治した? 何ですか、此は? 其は人が先に動物を苦しめたから、当然の酬いが来たんでしょうが! 人は加害者なんですよ? 被害者ぶるのもいい加減したらどうですかね? ですから、神様が人を見守っているだなんていう思い込みもいい加減にしたらどうです? 動物愛護なんて言いますが、一部で動物を殺処分、馬等を飼う、調教等をしていて、 勝手に自然界から動物を奪い、動物を不自由にしているじゃありませんか! 人が殺しているのは動植物だけじゃありませんよ? 金属だって殺しているんですから。 ピアノやお金だって、動植物や金属等を大量虐殺した挙げ句に手に入った物なんですよ? 人は虐殺されて加工された動植物や金属等を喰ったり、見たりして嘲嗤う生き物なんですか? そうか、そうですか、そんなにそんな事で楽しいですか。 其がそんなに愉快ですか! 善行をすれば罪は軽くなりますなんて気休めの嘘ですよ? 人は此の世で大昔から最も殺しをしていたんですから、何をしたって罪等償えませんからね? あれだけの大罪犯して許されないのは勿論、罪なんて軽くされませんからね? 動物や機械や同種の人に殺されたり、震災に襲われたり、毎日毎秒、人が死んでいくのは天罰なんですよ? 被災者は決して、人ではなく、自然界や神が被災者であり、人は加災者なんですよ? 人の苦しみなんてノミ以下ですからね! 何故なら、人同士の問題等より、人の仕出かした問題の方が重大なのですから! 自然界や神様の方がよっぽど苦しんでいるのですからね! ですから、人等生きる価値なんて無いのは当然、人全ての魂が死ぬべきなんです! 此で本当に自己中、身勝手極まりないのは人だと漸く解ったでしょう? 人は此の世一番の悪だということも 極限迄悟りを拓いたんだよ! 陰口や騒ぎ等起こす奴等など愚か極まりない、其こそ愚鈍の骨頂だ! 「そんな手口に引っ掛かる様じゃ、総理なんて務まらないぞ!」 なんて仰いますが、貴方はどうなんです! 人は完全じゃないのですよ? 人なんて滅亡、根絶やしにされるなんて自業自得でしょ? 出来れば、テレビ番組やラジオ番組、講演等で人々に広めてください! 本当にお願いします!

有り難し有り難し 47
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感情移入し過ぎずに働くには

質問させて頂きます。 私は集中治療室で看護師(2年目)をしている者です。  先日私が連日担当していた患者さんが脳死になり、亡くなりました。 今まで亡くなる方は沢山見てきましたがそこまで感情移入せずに振り舞うことができていました。 しかし今回は、連日ご家族とも親しくさせてもらっていた事や急な病状の悪化もあり、寄り添う事が大事とは知りつつも辛く苦しく自分への無力感も強かったです。 何か出来たのではないかと後悔する事の連続でした。  また今回の事を経験した直後、自身に病気が見つかりました。手術により一命はとりとめ今は入院し傷が治るのを待ちながら、今後薬物療法を続けていく予定です。 今回自分が絶望的な痛みを経験した事で他人の気持ちを安易に分かると話すのは人を傷つけるのではないかと怖くなりました。寄り添うと言葉では簡単に言えても極めて難しい答えが無いものだと思いました。  また、自分がなかなか手を抜けない性格であり忙しくなると自分を蔑ろにしてしまうため、自身の働き方を模索している最中です。 今の職場はスタッフも優しく働きやすいと思います。 少しでも感情移入しすぎず、悩みすぎず働くにはどのような心構えを持てば良いのでしょうか。  最終的には自分が判断しなければという心づもりではいます。稚拙な文章ですが、ご意見いただければ幸いです。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 12
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「言葉」なしで見る

 個人的に仏道に勤しんでいます。凡夫の一考です。  お釈迦様は、思考して達成されたのでしょうか。それとも、言葉で表現できない「体験」で真実を感得されたのでしょうか。  特定の人しか「体験」できない事を伝えたのでしょうか。誰もが「体験」できること伝えたのでしょうか。  過去から現在まで数えきれない人が存在しました。もし、「言葉」を使い、思考するだけで達成できるのなら、ほとんどの人が達成できないわけがありません。日々だれもが思考におぼれるほど思考にお世話になっています。思考によって達成することが正しければ、お釈迦様の達成された過程を「知識」として教われば、だれもが達成できるはずです。  「教外別伝」「不立文字」と言われるように教えはすべて「体験」してもらうための方便だと思います。「知識」と「体験」はまったく異なります。思考して導き出された答には千差万別があり、どれが正解なのかは個人にゆだねられています。一つしかない「真実」にいくつもの答えがあるはずがありません。思考して達成できないことは我々が身を持って実証しています。  静寂とは思考する必要のない状態であり、あるがままを感受して分別を持ち出す必要のない状態、問題がつくられない状態であると推察できます。  そもそもあらゆる対象は「言葉」による「名前」などついていません。「名前」をつけることによって自分と切り離され差別・区別・区分する対象となります。一切は「それ」や「これ」でしかありません。  「名前」をつければ個としての存在を認め個として識別可能なものになります。認識対象となれば、所有の対象としたり、得失や好き嫌いの対象となり、苦しみの種となるだけです。  「真理」という言葉は「真理」ではありません。「真理」という言葉を見たり聞いたり読んだりしても真理を理解することは無理だと思います。  我々の素は、「言葉」など持っていません。だれもが素になることができます。「言葉」を離れた真実と共にあります。

有り難し有り難し 21
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