五蘊という言葉を聞いたことがあります。 これらの要素が「私」を構成しているものだとしても、これらを「私のもの」としてリンクさせる力はどこから来るのでしょうか? 例えば「私の思考」「私の感覚」「私の体」というように、なんでも個人的にしてしまう力です。 もちろん人間の発達した脳のせい、とも言えると思います。 では、脳に損傷を負ってしまった人や、痴呆が進んで自分のことがわからなくなってしまった人は、いわば悟りに近い状態ということ? 自分のことがわからない「自分」、が残るので、違うんじゃないかと思いますが、皆さまはどう捉えますでしょうか? 科学的なことはさっぱり分かりませんが、脳の仕組みとはまた別に「経験を個人的に所有する力」について、仏教の視点からご教授いただきたいです。 よろしくお願いいたします。
自由意思はあるのでしょうか? 全ては決まっていると考えた方が、 現実を受け入れやすくなり、 苦や自我から解放され、 悟りの状態に近づけるのではと思いました。
はじめまして。仏教について疑問を持っているのでお答えいただけると助かります。その過程でキリスト教の例を出すことをお許しください。 キリスト教ではイエス様を地上にお与えになったほどに地上に生きるものを神は愛しており、自分の御姿に似せて人間をおつくりになるほどに人を愛している、と習います。その神の愛こそがキリスト者の信仰のよりどころだと思います。 一方で仏教は悟りを開くことが目的であると聞きました。悟りを開くということと仏様を敬い信仰するということがいまいちつながりません。また仏様は人間をどう見ているのでしょうか?キリスト者にとっての神様と同様に、愛していくださるのですか。仏様を信仰する人にとっての心のよりどころとは何なのでしょうか? 何分仏教について全くわかっていないため、見当違いの質問を多くしてしまいごめんなさい。ほんの少しでも回答をいただけると助かります。
仏教に興味を持ち悟りについて考えるようになりました。 そして最近物に対する執着が薄れこだわりなどが無くなって来ました。 ですが、今まで物欲をエネルギーに仕事を行っていた部分もありそれが薄れてしまいました。お金のためではなくやりがいや人の為に仕事をしようとふうに考えたのですが、そうすると長時間の残業、休日出勤、出世競争などに矛盾を感じるようになりました。 今は自分のコントロールが難しいと感じている状態です。 どのように考えればよいのか、どうかご教示のほどお願い致します
私は、現在住宅メーカー人事として勤務しております。 入社して今年の4月で3年目になります。 お仕事をしていくなかで、ライフワークバランスが充実していないように感じております。 勤務時間が長く、家族との時間が持てないこと 本当に悲しく思います。 そのせいか、今私は、ただなんのために働いているんだろうと疑問が浮かぶことが多くあります。自分自身の中で目標もなく働き続けることが本当に嫌です。 また、家族との時間も大切にしたいとも思っています。 どんな働き方が自分にあっていて、働くということにどんな意味があるのか知ることができれば、私は、目先のことだけでなく先のことも見ることができると思っています。 どうか、働くということはどういう意味があるのか教えて下さい。 長文申し訳ありません。宜しくお願い致します。
こんにちは。再びこちらで質問させていただきます。 以前読んだ呉智英著「つぎはぎ仏教入門」という書物の中では、私の従来のイメージとはかけ離れた仏教観が述べられており衝撃を受けました。お釈迦様の物語では、お釈迦様は家族を捨てて出家しており、出家者に対しても①家族を捨てること・②生涯独身でいること・③労働をしないことを要求しています。また梵天勧請のお話では、お釈迦様が悟った後に「私が悟った法は、その内容はあまりにも高度なものであるから、一般の人に説いてもわかるまい。」とそのまま涅槃に入られようとしていたようです。 これらの物語を読むと、仏教とは決してヒューマニズムのような耳障りの良い教えではなく、むしろ社会の常識を揺るがす危険な思想なのではないかと思いました。また、仏教の一番の目標は、やはり「悟りを開くこと」ですが、「悟り」とは私が今まで考えていた「あるがままの世界を観じる」というような単純なものではなく、もっと峻烈で幽玄なものではないかと思いました。 これらを踏まえると、日本の仏教ではお坊さんは妻帯をして、労働されている方もいらっしゃるのが普通の光景です。社会に歩み寄るという点では、ある程度の妥協も必要であるとは思いますが、釈尊の本来の教えから見ると、修行や悟りを軽視している面があるのではないでしょうか? また、その教義が初期仏教とは異なる宗派もいくつかありますが、ある教えが仏教であると言える条件は何なのでしょうか? 日本で悟りを開かれているお坊さんはどれくらいいらっしゃるのでしょうか? その辺りを、お坊さんはどのように考えられているのか伺いたく、質問させていただきました。どうぞよろしくお願いします。
この前、阿難尊者のお母さんが餓鬼道へ落ちた話を聞きました。 お母さんは自分の息子ばかりを可愛がっており、周りに気を配らなかった為に落ちたと解釈しております。 そこで思ったのですが、上座部仏教の僧侶達は自分の悟りのことしか考えていないように見受けられます。 これだと餓鬼道においてしまうのでしょうか? それともこれはまた別なのでしょうか?
正見正思がどういうものかこちらのサイトで教えていただいたのですが、つい自分の価値観や判断を挟んで見てしまいます。 最悪なのは、そういった価値観や判断を挟んで見ているということさえ気づけずそれに囚われてしまうこも非常に多いです。 お坊さんは正見正思をどのようにおこなっていますか?やり方を教えてください。
何度も質問してすみません。どうしようもなくなりまた質問しました。 左目の目尻からまぶたをある事故(アルコール依存の父親からの理不尽な暴力と、傷跡治療失敗)から損傷し、別人の顔になりました。損傷のない右顔は彫りが深く気に入っていましたが、左顔は見て身震いします。人工的な顔でもあります。しかし、これは自分の新しい顔と言い聞かせ、認知を見直そうとしますが、まだまだ修行が足りません。なんとか、仕事やプライベートの時間を気にせずに過ごしたいのですが、...生き地獄のようです。なぜ自分が...。なぜ一番気に入っていた部分が...。人に親切にしてきたのに...。経済的に恵まれいなく、全て自分のお金で学歴を身につけなるなど努力してきたのに...。自殺をすると周りを悲しませるのでできません。今は生きる屍のよう。なぜ...。仕事で評価され、プライベートでも一人ですが、静かながら楽しく生きていました。しかし、なぜ...。 絶望感が数ヶ月、定期的に訪れます。よく耐えました。 自分いじめをやめたいが、この違う醜く、別人の顔で一刻一刻をどう過ごすか。悟り(涅槃)でしか救われないでしょうか?
私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。
アングリマーラは大量に人を殺したにも関わらず、お釈迦様に出会う有り難いご縁があった上に悟りを開いたと聞きます。 アングリマーラは何故こんなにも恵まれてるのですか?不思議でなりません。 アングリマーラに殺された人の気持ちを考えると何故こんなやつが悟りを開くんだと強い憤りを感じます。 自分も悪人ですけどアングリマーラより酷い事はしてません。 なのに、アングリマーラはお釈迦様の弟子になれて僕は地獄に堕ちて苦しむ。 この差はなんでしょうね? 嫉妬してます。
仏教における幸せとはなんでしょうか? 修行を積んで悟りを得ること? 煩悩を滅し苦しみから解放されること? 私にはよく分かりません。
こんにちは、 般若心経について詳しく知りたいです。 オススメのわかりやすい書籍などを教えてください。 いろいろと自分で読んで見たのですが、 基礎知識?がないとわからないことばかりで 正しくきちんと理解したいです。 一体どこから踏み入れれば、般若心経を 正しく理解を深められるのでしょうか。 私のいまの知識は 般若心経とは、 御釈迦様?の優秀な弟子が作ったもので その弟子の後輩に対して渡した、 「悟りっていうのはこんなことだよ。」的な要約レポートだと思っていて、 (これすら間違ってたらすみません。) ほんと、へんな知識しかないです。 中身が難しい。 この優秀なお弟子さん?もなんだか正体つかめないし、 般若心経は仏教上級者向けですか? ご回答よろしくお願いします
知識のない一般人としての質問で大変申し訳無いのですが・・・ ブッダがいた時代は、大乗仏教や宗派ができる前ですが、ブッダが一番言いたかった、伝えたかったこと(メッセージ)というのは、大乗仏教の中にどう生きていると思われますか(大乗仏教の様々な宗派の中でどの部分に一番それが象徴されていますか)? 大乗仏教において、ブッダの教えとその宗教としての儀式などがどこか矛盾していると感じてしまうことがありますがそれはどう捉えればよいでしょうか。(ブッダのいう悟りから得たもの(教え)と大乗仏教の在り方が矛盾してみえることがある) 菩薩という存在は、大乗仏教のなかでどう捉えたら良いのでしょうか。
悟ったら毎日どんな感じですか? 悟ったら毎日たのしいですか? たのしいだと つまらないが対極について回るから たのしいというより 静かな感じですか?
生き方がよくわからなくなりました。どう生きればいいですか? 私はASDという障害を持っています。その特性上、他者を傷つけたり、感情のままに行動したり、誤解を招いたりと、まあとにかく加害者側の立場になることが多いです。 私が昔聞いた話で、「魔王が生まれる」という予言を聞いたら、その子を産まないようにお願いするというものがあります。その魔王が生まれたら、壊滅的な被害が出るからです。 そしてこの話から、予言に出てきたり、産むのをやめてもらいたいと頼んだりするのは、本当に取り返しのつかないレベルの被害であり、魔王未満の存在が生まれてくることは多々あるのではないかという仮説を立てられます。 その仮説通りなら、おそらく私もそういったタイプの人だと考えられます(障がい者がすべからず悪だという意図の発言ではありません)。産むのをキャンセルしてほしいと頼まない程度の悪です。 きっと、ここまで読んでくれる方はやさしい方なので、「それでも生きていていいんだよ、今の自分を受け入れるようにするといいよ」的なことをお話ししてくれるかもしれません。無論、私にもそういった考えが一応ありますし、だからこそ今こうやって生きています。 問題なのは、悪性の強い人間はどうやって生きていくべきかという話です。ただ単純に生きていけば、他者も自分も傷つけることになります。 しかし、悪も善も悟りの前座に過ぎないと考え、悟りを開こうと精進するのも無理な話です。悟りを開こうとすればするほど、それが遠のくことはお坊さんでなくてもわかります。 もちろんこれらは極端な例です。普通に生きていけばいいじゃんと私も思います。しかし、普通に生きていこうとすればするほど自他ともに苦しむのは経験済みです。 もうどうやって生きていけばいいのかわからなくなってしまいました。いくら真剣に考えても、答えが出てきません。助けてください。
こんにちは。先日は私の拙い質問にご回答頂き、誠にありがとうございました。また、こちらで何度もご質問させて頂いておりますが、その度毎に丁寧なご回答を頂いておりまして、大変感謝しております。本日は、多少突っ込んだ質問になってしまいますが、自分の中でどうしても整理がつかない点があり、それを質問できるような場が他にありませんでしたので、この場を借りて質問させて頂きたいと思います。どうぞよろしくお願いします。 こちらのサイトを拝見しておりますと、「霊は存在しない」と回答しておられるお坊さまが何人かいらっしゃいます。お坊さまの中でも意見が分かれる問題なのだと思いますが、私は霊魂の存在を信じており、また輪廻転生もあるのではないかと考えております。霊魂の存在を否定されるお坊さまは、霊感商法やカルト教団への対応など、現実的な対策の観点から、またお坊さま個人の世界認識から、そのような発言をされているのだと思います。しかし、素人の私から見ると「悟り」や「阿弥陀仏の救い」を前提としてお話をされているお坊さまが、「霊魂」の存在を否定されることが、どうしても理解できないのです。 素人の私から見ると、「悟り」も「阿弥陀仏の救い」も、それが一体何であるのか分かりません。そのため、お坊さまが「悟り」や「阿弥陀仏の救い」をお話されることは、「霊魂」や「輪廻転生」のお話をされることと同じくらい荒唐無稽なもののように感じてしまうのです。唯物論者の方が霊魂の存在を否定されるのは理解できるのですが、お坊さまが否定されることは、私にはどうしても理解できません。霊魂の存在については、「分からない」とおっしゃることが最も妥当なのではないでしょうか。 実際に、現代には様々な宗教がありますが「霊魂」や「輪廻転生」の存在などを説いている宗教も数多くあります。もし、お坊さまが霊魂は存在しないと考えておられるのであれば、それらの宗教についてはどう理解されているのでしょうか。 このような突っ込んだ質問をして、誠に申し訳ありませんが、霊魂を否定されるお坊さまのお考えをどうしても伺いたいと思いました。ご回答頂ければ幸いです。どうぞよろしくお願いします。
人生が上手くいかず、悩みます。 男性に告白してもふられ、仕事も叱られてばかり。人間関係もうざがられ、親も呆れて果てて。 自分は生きる価値がない人間です。 甘えもひどいし、周りの人は私のこと嫌いだと思います。 事故でなくなったりする人の身代わりになりたいといつも神様に願っています。 優秀な美人で仕事がばりばり出来る人に生まれて来たかった。 もう40代も後半で生きる希望が見えません。 他の人のように人生順調に行きたかったです。 諦めて悟りを開くにはどうしたら良いですか?教えて下さい。よろしくお願いします。
質問させて頂きます。 私は集中治療室で看護師(2年目)をしている者です。 先日私が連日担当していた患者さんが脳死になり、亡くなりました。 今まで亡くなる方は沢山見てきましたがそこまで感情移入せずに振り舞うことができていました。 しかし今回は、連日ご家族とも親しくさせてもらっていた事や急な病状の悪化もあり、寄り添う事が大事とは知りつつも辛く苦しく自分への無力感も強かったです。 何か出来たのではないかと後悔する事の連続でした。 また今回の事を経験した直後、自身に病気が見つかりました。手術により一命はとりとめ今は入院し傷が治るのを待ちながら、今後薬物療法を続けていく予定です。 今回自分が絶望的な痛みを経験した事で他人の気持ちを安易に分かると話すのは人を傷つけるのではないかと怖くなりました。寄り添うと言葉では簡単に言えても極めて難しい答えが無いものだと思いました。 また、自分がなかなか手を抜けない性格であり忙しくなると自分を蔑ろにしてしまうため、自身の働き方を模索している最中です。 今の職場はスタッフも優しく働きやすいと思います。 少しでも感情移入しすぎず、悩みすぎず働くにはどのような心構えを持てば良いのでしょうか。 最終的には自分が判断しなければという心づもりではいます。稚拙な文章ですが、ご意見いただければ幸いです。 よろしくお願いします。
人生を賭けて芸術と学問を極めるか、仏道に進むかで悩んでおります。 絵や小説、哲学、初期仏教が好きで個人的に学んでいるのですが、美や知識を探究することは煩悩や貪欲にあたりますか? 最近、何かを追い求めること自体が、迷いの只中に入ることなのではと感じます。仮に死ぬまで絵や小説を書き哲学を学んでもどこにも到達しないんじゃないかという不安が常にあります。 いっその事すべてを捨てて仏道に専念して、悟りを目指したいという思いもあります。しかし、芸術の極致を見たいという思いが寝ても覚めても頭の中から離れません。 今後どのように生きていくべきかわかりません。 何かしらの指針を頂けたらと思い質問させていただきました。 要領を得ない質問で申し訳ございません。