3月に娘が亡くなってからお世話になっております。 2ヶ月数日後の先日私の祖母が亡くなりました。95歳でした。 生前、私共夫婦、長女、二女で入院先にお見舞いに行っておりました。 長女が亡くなってから祖母は、順番が違う、一人でかわいそうだと泣いていました。早く行ってやりたいとみるみる弱くなっていきました。 きっと長女の側に居てくれるんだと思います。 続けて悲しむわたしの姿を見て二女の気持ちが心配なので心配させないようにしたいのですが、空回りしているような気がします。 長女に手を合わせて落ち着かせていますが、手を合わせる際には念仏を唱えるのでしょうか? 長女に話しかけたり、近況を話したりしますが本来長女にしてあげることは何かと思いまして聞きたいと思います。
こんにちは。表題の件について質問させて下さい。 忌中には、天部の神様を祀ってあるお寺に参ってはいけないという話を聞きました。 理由は「死は穢れで、特に聖天さんなんかは穢れを嫌うから」「天部の神様は人間に近いから、死を思い出させることで荒れ狂ってしまうから」「本当は神様はそんなこと気にしないんだけど、あなたが悲しいときに無理してお参りしなくていいよ、という意味だ」など、お坊さんによって様々なようです。 私も最近祖母を亡くしました。 祖母とは生前不仲でしたが、遺体を見ていると「生まれて生きて死ぬとは本当に大仕事で、この人はそれをやってのけたんだな。お疲れ様」と素直に見送る気持ちになれました。 死ぬのは怖いけど、それは死に際しての苦痛への恐怖が主であって、死自体はどんな生き物にも訪れるものですし、決して穢れではないと思うのです。 肉体が腐ることだって、微生物に分解され、本来なら動物や植物の糧になり、土に還るという尊い過程です。 何なら生きることより尊いと思うし、衛生管理のため仕方ないとはいえ、死んでまで化石燃料バンバン使って骨にして何の役にも立たない壺に収めて保管して、アホらし、とすら思いました。 そう考えると、「死は穢れだから」とか「天部の神様が死を恐れるから」という理由は、個人的にはあまりしっくり来ません。 人によって死への解釈や意見は違うものでしょうが、実際のところ、天部の神様にとって人間の死とはどういう扱いなのでしょうか? どうして忌中に参ってはいけないのでしょう? 現役のお坊さんの意見をお聞きしたいです。 よろしくお願いいたします。
数日前に母が亡くなりました。 朝起きたら冷たくなっている母を見つけました。 亡くなる数日前から胸が苦しいと言っていて、病院に行こうかなと話をしていましたが、体が辛くて行けなかったようです。 亡くなった日、私が仕事から家に戻ってから病院に行ったか確認したら、行かなかったと言われ少しイラっとしてしまい、明日はタクシーを使えばいいから病院に行くように伝え、その後は特に特に話をせず… 23時過ぎにそろそろ寝ようかと思っていたところ、部屋の外で母が苦しそうに息をしているのが聞こえました。 いつも少し休むと落ち着いていたので、そのままにしていたら、別の部屋に戻っていきました。 少ししたら2階に来るだろうと思い、母の状態を確認しないまま私は寝るために2階に行きました。 まだ上がってこないなと思いながらも、そのまま寝てしまいました。 次の日、朝起きて母が部屋にいないと思いつつ、1階におりて自分の支度をして母の様子を見にいったところ、なにも掛けないまま横になっていたので、風邪ひくよと声をかけつつ体を触ったところ、すでに冷たくなっていました。 弟に連絡をしたら、救急車を呼ぶように言われ呼びましたが、すでに亡くなっているので警察が来ることになりました。 警察が調べたところ、亡くなったのはたぶん前日の23時頃ではないかということでした。 前日の夜、苦しそうにしていた時、寝る前に様子を確認していて救急車を呼べば、今もまだ生きていたかもと思うと後悔しかありません。 あの日、病院に行っていないというだけでイラっとして声をかけなかった自分に怒りしかありません。 母への申し訳なさで泣くこともできず、顔を見ることもできません。 葬儀が終わったら母のお骨と一緒に年末年始をひとりで過ごすことになります。 後悔を抱えたまま過ごすのは仕方なことだと思いますが、年末年始がただただつらいです。 この後悔はいつか落ち着くのでしょうか。
母が急死してしまいました。 母が検査入院のまま入院してしまい、気になって帰省した翌日の事です。 暴力から疎遠になっていた兄との事も母の為悔しさを押さえ8年振りに帰省したのに、一言も喋る事なく逝ってしまいました。 偶然死に目に会えて良かったと言われても、気持ちに整理が付かず、後悔と信じられないショックと不安でどうしていいのか分かりません。 死に目に会いに行ったはずじゃないのに、何なの? 私に与えられた罰なのか?なんの為に長年の苦しみを押さえて帰ってきたのか分からなくなってしまいました。 もう今は何もする気が起きなく、このまま消えてしまいたい気持ちです。 子供がいるからしっかりするんだよ。 泣いてるとお母さん悲しむわよ。 言われれば言われるほど、苦しくて苦しくて消えてしまいたくなります。 誰に何と言われようが今は母の事しか考えられません。 どうしていいのか分からないのです。 何故こんな別れ方をしなくてはならないのか。 これから先、誰に気持ちを打ち明けて行けばいいのか。 何故母がこんなに突然死ななくてはならないのか。 今月末には会う約束さえしてたのに。 何故何故と問うばかりです。 母は最期私の事を少しでも考えてくれたのか、話はなかったのか、考え出すときりがありません。 いきなり1人ぼっちにされた気分が拭えません。 私が弱いのか、子供なのか、整理ができません。
数年前に父を病気で亡くしました。 父の命日が近づく度、思い返して悩んでいることがあり、誰にも言えず数年抱え込んでいます。 父の病気が発覚した時、私は進学のために既に実家を出ており遠地にいたため、闘病にはあまり付き添うことが出来ずにいました。 いよいよ症状が酷くなり、亡くなる直前に私も実家へと戻り、母と交代しつつ父の傍に居ました。 痛みや、症状のしんどさが増して「痛い痛い」と苦しんでいる父を見ていることが辛く、どうにか和らげることは出来ないのかとそればかりを考えていました。 それを相談したところ、鎮痛薬を入れることしか手段がない、という話になり、母はかなり迷っているようでした。 というのも、最終手段のようなもので、恐らく鎮痛薬を入れてしまったが最後、しっかり会話をすることが難しくなるかもしれないというような状況だったからです。 痛みが酷く身体を休めることすらままならない、と苦しんでいた父を見ていられず、最終的に私が母を説得するような形で鎮痛薬を入れることになりました。 鎮痛薬で痛み自体は落ち着いたのか、その後父はほとんど眠った状態で過ごすことになり、そのまま亡くなりました。 医学的な知識はないので、なにがどうなって父が亡くなったといった詳しいことまでは分かりませんが、鎮痛薬を入れるという選択を私がしてしまったことで、父はもっと頑張ろうとしていたのにその選択を奪ったのではないか、母はもっと父と話したいことがあったのではないか、あの選択が父の死期を早めたのではないか、と亡くなった日からずっと考えています。 あの時の私の選択が父を殺してしまったのでしょうか。 相談というより打ち明け話のようになってしまい申し訳ありません。 もし、可能なら、この悩みとしっかり向き合う勇気をいただけると嬉しいです。
数年前、従兄弟が39歳で病死しました。私の歳になると友人の中にはご両親を亡くした友人もいます。今日も通夜に行ってきました。身内の死が耐えられないです。何もしたくなくなります。死とはいずれ来るものかもしれませんが耐えられなく おかしくなりそうです。前向きになれるのでしょうか。
先日、祖母が亡くなりました。老衰によるものでした。 . ふとした瞬間に祖母との思い出が蘇っては、もうこちらにはいないという事実に絶望してしまいます。 何も考えられず、何をしても悲しく、寂しく、つらく……。 祖母との思い出を探しては、無くなった物の大きさや多さに心が苦しくなってしまいます。 . 死とは順番に訪れるもので仕方がないことだと理解はしていますし、落ち込んでばかりでは周りに心配をかけてしまうこともわかっています。 しかし、頭では理解していても心がどうにもなりません。 . 祖母の死を受け入れるにはどうすれば良いでしょうか。やはり時間が解決してくれるのを待つしかないのでしょうか。 . ご教示いただけますと幸いです。何卒よろしくお願いいたします。
昨日の早朝、愛猫が突然死しました。 11才の娘の枕元で 瞳孔が開き、舌が出てヨダレがで出ている 状態でだらんとなっていました。 パニックになりながらも、胸を触ったら 微弱に心臓が動いていましたが、 皆んなで呼びかけていたら 心臓の音が聞こえ無くなってしまいました。 そのまま亡くなってしまいました。 でも、無知な為、心配蘇生もしなかった事を 今更ながら悔やんでいます。 娘達は泣き叫び私もパニックで ただただ愛猫を呼びかけて撫でてあげる事しか 出来なかった。 あの時、すぐ心臓マッサージや息を吹きこんでたらと。もしかしたら。と 後悔と悲しみと入り混じり、本当に 苦しいです。 前日までいつも通り元気に過ごしていたので 突然死が信じられなく、 悔しくて悲しくて。 本当に可愛く本当に大好きな子でした。 まだ8才でした。 どうしたら良かったのか… 胸が苦しくて苦しくて相談させて頂きました。
先日弟が21歳の若さでなくなりました。 友人と海に遊びに行き、流され行方不明となりました。 幸い1週間後に出てきてくれたので通夜、葬儀をやってあげる事ができましたが、少し落ち着いた今辛くて仕方がありません。 弟は行きたかった企業に内定をもらい、これからって時にこのような事になり本当に可哀想です。 小さい時から喧嘩もせず、わたしを頼ってくれる本当に自慢の弟でした。 流された時に苦しまなかったか、怖くなかったかと考えてしまい毎日苦しくなります。 そして、もう少し会っておけば…しっかり話しておけば…と後悔の念に駆られています。 弟と2人兄弟だった私は、1人になってしまった今両親をしっかり支えなければならない。 私も仕事をしなければならない。 支えてほしい彼氏は弟が行方不明の時も浮気をしている。 と今精神的にとてもキツイです。 どうすれば、楽になりますでしょうか。
はじめまして。 なぎと申します。私は文がうまくないのでよみにくかったり脈絡がきちんとしていないと思います。すみません。 私は現在21歳で、高校1年のときに友人をひとりなくしました。交通事故でした。当時、私はすごく落ち込み、しずみ、とてもショックでした。しかし、年月がたつにつれて、彼のことを思い出す頻度がだんだんさがり、それに気づいてしまって、とても悲しいです。自分に失望します。こんなにも薄情な人間なのかと。 私は高校2年のころから躁鬱病を患っています。そのことも逃げなのでしょうか。彼の死を言い訳に人に甘えているのでしょうか。そんなことを絶対にしたくないけれど、絶対にしていないとは言い切れないのが悔しく、虚しく思います。苦しいです。感情ばかりの文で申し訳ないです。 二十歳を過ぎ、お酒を飲むようになってから、飲酒をしたときの感情の起伏がはげしくなりました。大泣きは当たり前、自殺しようともするらしいです。記憶がないので彼氏いわくですが。二十歳をこえて、泣くのはおかしいでしょうか。みんなは泣かないのでしょうか。私だけ子供のままでいるような気がしてなりません。つらいです。 長くなってすみません。ここで誰かに聞いてもらいたかっただけなのかもしれません。ですがご返答いただけるととてもありがたいです。 友人の死を思い出す頻度が下がっていくことをどうしたら苦しく思いませんか。思い出さなくなっていく私がおかしいのてしょうか。ごめんなさい。お通夜で彼の顔をみましたがショックで思い出せません。最後に見た彼の顔を思い出せません。ごめんなさい。忘れられないほうがよかった。忘れたくなかった。でも、彼の家に近づくにつれて濃くなっていくお線香の香りはずっと覚えています。 書き殴りの文章ですみません、誰かにわかちあってもらいたかったんです。すみませんでした。
はじめまして。 先月、不妊治療の末授かった大事な息子がわずか10ヶ月で亡くなりました。 死因は解剖の結果もわかりませんでしたが、私の寝かせ方が悪かったのではと今でも思っています。 息子は本当にかわいくて優しい良い子で、息子から愛される幸せを毎日感じ、とても幸せな日々でした。 あんなにかわいい良い子がなぜ死んでしまったのでしょうか。沢山の幸せをくれて感謝している一方で、こんなに早く死んでしまうなら生まれてこなければこんな絶望を感じることもなかったのにと思ってしまうことがあります。 あの時こうしていれば、今も生きていたかもしれないと考えると余計に辛くなるので、あれが息子の運命だったんだと思うようにしていますが、それでもなお「なぜ死んでしまったのか」と毎日のように考えてしまいます。 主人や両親は、また赤ちゃんを産んで母親になれると励ましてくれますが、30代も後半で不妊治療を再びして授かることができるのかとても不安です。 息子は帰ってこないことはわかっていますが、もう二度と母親になれないかもしれないと思うと、人生に絶望します。 もう生きていても良いことなんて起こらないから死んでしまいたいとも思いますが、両親にこの辛さを味合わせる訳にはいかないので両親が亡くなるまでは死ねません。 なぜ息子は死んでしまったのでしょうか。 私の行いが悪く、その罰として息子は死んでしまったのでしょうか。 もう生きていく自信がありません。
お世話になります。 娘が亡くなって3ヶ月。お墓が建ったので納骨をすることができますが、それが近いからかホンとに実感させられる気がして辛いです。 明るくいられたり、でも急激に甦りたまらなく寂しく苦しくなります。 家族で写ってる写真を見ると存在していたんだと思うのに苦しくなります。 何も考えなくても思いだしますが、自分の意思で最期の姿を思いだしたりします。 苦しいのに。 いつか、この気持ちから解放されるのでしょうか。 苦しいじゃなく笑って思い出せるときが。
今年の7月18日に母を癌で亡くしました。 発見が遅く約2ヶ月の闘病生活でした。 幼少期の親の離婚などで 私は母のことが嫌いでした 年明け、母が体調崩し出した時には 「私はお母さんに愛されてると思ったこと 1回もない‼︎」 など、、酷い言葉を言ってしまいました 絶対にお母さんみたいな大人にはならん と昔から心に決めて生きてきました でも、約2ヶ月の闘病生活の間 母の必死に生きようとする姿 どんだけ辛くても笑顔で 周りの人に感謝をする姿 頑張るから、と毎日、亡くなる直前まで 言っている姿を見て 母の凄さに気づきました 学校終わりに毎日病院に通い 今までにないくらい、喋って、笑って、泣いて、、1番幸せな2ヶ月間でした。 母が亡くなった直後は正直ほっとしました 学校終わりに病院、家帰って学校 とゆう生活から解放された。。と思い。 でも、今は、悲しさや怒り なんで?なんで私なん? とゆう気持ちが増していくばかりです もうすぐ5ヶ月が経とうとしてますが 時の流れの早さに 自分の気持ちがついて行けてなくて 色んな言葉にプレッシャーを感じます 私は少し精神疾患をもっているのですが そのせいなのか、母を亡くしたからなのか 自分でもわからなくなります。 学校も辛いです。 先生からは、 ・集団行動ができてない ・病気だから仕方ないんでしょ ・周りの生徒に迷惑 など言われました。 そんなこと言う大人が居るんや と 正直ショックでした 兄は、休学してもいい、辞めてもいい と言ってくれますが 母が女手一つで働いて 通わせてくれた学校を、休学や辞める 決断はできませんでした 文章ごちゃごちゃですみません。 今は八方ふさがりでなにもかも どうすることもできません。 この悲しみや辛さから 抜け出す日はきますか?
私は毎日、大切な人たちの死を考えてしまい、悲しくて苦しくてこの先の人生に希望が持てなくなるような瞬間があります。 大切な人たちというのは主に家族で、特に両親や姉妹のことです。 昨年、結婚し初めて実家を出ました。 元々結婚願望がなかった私でしたが、婚約してからはあっという間に家を出ることになってしまい、当時29歳でしたが、なんだか現実に起こっていることと自分の心がついてこないような感覚でした。 あぁ、私も結婚する歳なんだなぁ…大人になってたんだよなぁ…というような感じです。 結婚生活はとても楽しく、実家にもよく顔を見せに帰っていますし、姉妹とも連絡は頻繁に取っています。 しかし、いつも楽しく幸せだと感じる裏側で、いつかこの幸せも終わってしまう、いつまでも幸せではいられない。そう思ってしまうのです。 もしかしたらあと10年後には両親がいないかもしれない。もう少し前の私であれば、そんな考えが浮かんでも「まだまだ若いし元気だから大丈夫」と自分を励ますことができたのですが、最近ではもう親の死も他人事ではないというか、あり得ないことではないと落ち込んでしまいます。 いつだって人は死と隣り合わせで生きているし、親がいくつだろうと、自分が大人でも子どもでも関係ないことだったのに。 この先私が親や姉妹よりも長生きするとすれば、私の未来にはとても悲しくて辛い出来事が必ず当たり前のように訪れます。 「大切な人の死」という、想像しただけでも胸をえぐられるような悲しみ以上に、楽しいことや幸せだと思えることが今後あるのでしょうか。 もちろん私の両親も自分の親とのお別れを経験しているわけですし、人はそうやって生きていくものだと思いますが、こんなことを夜な夜な考えてはこの先の未来に影を落としてしまいます。 少しでも前向きに考えていけるようになりたくて、ここでお話しさせて頂きました。 わかりにくい文章で申し訳ございませんが、何かお言葉を頂けたらと思います。
私は数年前に母を突然亡くしてしまいました。亡くなったとわかった時は信じられない、受け入れられないという気持ちで、それから時間が経つにつれて少しずつその気持ちや寂しさ、悲しさを自分なりに克服出来たつもりでした。 でも、今も時々思い出して寂しくなったり、家族と意見が合わず喧嘩した時に「お母さんがいてくれたら私の気持ちをわかってくれたのかな…」と考えて悲しくなったりします。 また母の死が本当に突然だったこともあり「人はいつ死ぬかわからない」という事実を改めて突きつけられたようで、それ以来家族や友達、恋人が死んでしまったらどうしようとふとした時に不安で仕方なくなります。例えば恋人が仕事で遠くに行くと聞いたら「行った先で事故や事件に巻き込まれたら…」とか、家族に車でどこかへ送ってもらう時に「私を送りに外出して、帰りに事故に遭ったら…」とか。 こういった不安やふとした時の寂しさ、悲しさがあるのは仕方ないことなのでしょうか?それとも、気持ちの持ちようで少しは軽減されると思われますか?
実家で火災があり家が全焼、昼寝をしていた父が亡くなりました。 祖母と後妻さんと暮らしていた父。後妻さんの手前、会うのは年に数回でしたが、今年息子が誕生してからは毎月会っていました。 気性の荒い父でしたが初孫の誕生を心から喜び可愛がってくれました。ただ私がコロナを非常に警戒していた事もあり、抱く時はマスク二枚重ね必須。差し入れを持って家まで来てもらったにも関わらず抱かずに帰ってもらう事もありました。息子にキスしようとした父に『やめて!』と怒った事もあります。 まさか父がこんなに早く、しかも突然亡くなるなんて。息子が生後半年を迎える5日前に亡くなってしまいました。『今忙しいから』と言って数十秒で電話を切ったのが最後の会話です。 母との離婚を通して精神を病み、いつも声を荒げていた父ですが、孫の前では常に目尻が下がっていました。ここ数十年見たことのない笑顔は昔の優しかった頃の父でした。なので今思い出すのは笑顔の父ばかりです。 息子の成長をもっと父に見せたかった。私も親になりようやく父の苦労が分かり始めてた矢先にこのような事が起こり涙が止まりません。父と息子の写真は3枚のみ。しかも全てマスク着用。家が全焼してしまったので遺影がこのマスク姿のものしかありません。 なんであの時マスクを外して撮影しなかったんだろう。なんであの時息子を抱かせてあげなかったんだろう。ぷにぷにの赤ちゃんの頰にキスするくらいいいじゃないか。後悔ばかりです。 父に会いたい。不器用だけど、たくさん私を愛してくれた父。母をたくさん傷つけた父が許せず顔を合わせば常にぶつかってばかりだったけど、本音は父の事が大好きでした。 気持ちの整理をするために私は今後どうしたら良いのでしょうか?
先月父を亡くしました。 本当に仲の良い家族で、いつも一緒にいました。家族思いの父が本当に大好きです。父はいつも周りから羨ましがられているくらいでした。 その日も普段通り仕事から帰ってきて、たくさん話をしました。いつも通りの夜でした。頭が痛いと言って普段から頭痛持ちなので、暑さもあり、水分を取るようにお茶を渡したり薬を渡したりしました。本人もマシになったようで、ご飯を食べたりしていました。 夜中に変ないびきをしていて、見に行くと意識がなく、すぐに救急車を手配しました。 病院までなんとか頑張ってくれましたが、亡くなりました。 なんの覚悟もありませんでした。 私含め、家族みんな信じきれない様子です。いつも帰って来る時間に帰ってこない、座っている場所にいないのが辛すぎます。 私が夢を叶え、もうすぐ働く姿も見せられなかったし、定年後、行きたがってた海外旅行にもいけませんでした。後数年で定年だったのにと思うと私達のために精一杯働いてくれた父が無念でありません。亡くなったことも本人は気づいているのか、、などずっと考えてしまいます。 私たちが精一杯生きて、いつか大好きな父と再会できますか? 父は亡くなった愛犬とも再会できていますか?
2ヶ月前にボロボロの猫を保護しました。毎朝同じ場所に現れこちらを見ていました。長くないかもしれないと思い、最後を看取るつもりで保護しました。 病院につれていったところ、かなり年寄りで栄養失調ではあるが特に重篤な病気はみつからなかったので、しばらく一緒に生きていけると嬉しくなり、病院に入院させ、退院後も検査と経過観察の為に通っていました。去勢済みだったので捨てられたんじゃないかと言われました。それなら余生はこれから私とゆっくり過ごしていけばいいと思っていました。しかし、つい昨日までは元気だったのに次の日亡くなってしまったんです。2ヶ月しか一緒にいられませんでした。体重も増えてこのままゆっくり良くなっていくと思っていたので言葉では表せない程のショックです。私が病院に通ってストレスを与えてしまったからなのか?あのまま外で過ごしていた方が幸せだったのか? 保護したのは私のエゴだったのか? 正解は無いと思いますが、あの子に申し訳ないのです。捨てられたのかもしれないのに人が好きな様でゴロゴロ懐いてくるかわいい子でした。 私が余計なことをしなければあの子はもっと生きていられたのかもしれないと罪悪感があります。自分のエゴであの子の命の期間を縮めてしまった気がして心の整理がつきません。何かお言葉を頂きたく相談しました。
前回の質問時に生じた質問です。 もう何年前のことだか正確に覚えていませんが・・・ある日のこと、前途ある若き僧侶が殺害されました。夜間、路上で危険行為をしていた青少年らを注意したところ、逆上した彼らに暴行され、その末に息を引き取ったそうです。 当時、この報道を偶然テレビで観ていた私はとてもショックを受けました。僧侶という特殊な立場の人が犠牲になったことや、私個人のそれまでの想いや経験とも重なったのでしょう。暫く、忘れられませんでした。けれども、年を経るごとに少しずつ忘れ、思い出すこともなくなりました。しかし、数年前にお坊さんが書いたあるエッセイを読んだ時、一気に思い出したのです。 そこには偶然にも、あの事件のことが書かれていました。もちろん、実名などの記載はありませんでしたが、私はフラッシュバックのように、当時、テレビに映し出されていた事件現場を思い出しました。どこにでもありそうな人気もまばらな夜間の風景、暗い夜道と街頭、街頭に照らされた白いガードレール、記事を読む女性アナウンサーの声。 筆者と被害者の男性は、修行道場で先輩・後輩の関係で、男性は修行を終えて実家のお寺に帰った後に急死。彼の父親であり、師匠でもある住職は、葬儀の挨拶の中で、こう述べたそうです。 「それでも、許さないといけないのでしょうかね・・・」 仏教の教えでも、何であっても、人は皆平等で、言動には大なり小なり理由があります。加害者となった青少年らにも、殺意があったかどうかはともかく、腹立ち紛れに暴力をふるった原因や理由がそれぞれあるでしょう。しかし、だからと言って許せるかどうかは、また別の話。けれど、許すか諦めるかしなければ、生きている限り、苦しみ続けなければならない。また、こういったことが二度と起こらないように、暴力事件の被害者の方々が活動しておられますが、その活動は別として、果たして、彼らに救いはあったのでしょうか。 「許す」って何なんでしょう。諦めたら救われるのか・・・ただ、どうしようもない「ままならぬのが人の世だ」と分かっただけではないのか・・・「救い」って一体、何なのでしょうか。
祖母が亡くなってから半年が過ぎました。未だなお立ち直れておらず、ふとした時に悲しみや絶望に苛まれます。 わたしはおじいちゃんとおばあちゃんが昔から大好きでした。とてもよくしてもらいました。とても可愛がってもらいました。10年以上前におじいちゃんが亡くなったときも大変つらいおもいをし、泣いてばかりの日々が続きましたが、おばあちゃんを支えないとという気持ちもあり立ち直れたような気がします。しかしおばあちゃんも亡くなった今、生きる希望がありません。わたしをあんなに可愛がってくれる人はもういません。わたしももう良い歳なのに、はやくわたしも死んでおじいちゃんとおばあちゃんに会いたいという気持ちばかりです。おじいちゃんとおばあちゃんがこの世にいないなら死にたいです。思えば、小学生の頃でしょうか。死というものを知ってから、わたしがこの世で最も恐れていたのはいつかくるであろう祖父母の死でした。寝る前に手を合わせて祖父母と家族の健康を祈ることが日課となっていました。それほど恐れていた祖父母の死を経験した今、もう怖いものはなくなりました。ひたすら祖父母に会いたいという気持ちしかありません。このまま生きていても二度とおじいちゃんと話せないしおばあちゃんのおにぎりと卵焼きも食べられない、二度とふたりに会うことができないことをふとしたときに思い出し、絶望し打ちのめされます。思い出の場所や外食した店、買い物した店など日常を過ごす中でふとしたときにも思い出がたくさん甦ってきて悲しくなったり泣いてしまったりします。仕事は頑張って行っています。趣味も楽しめてはいます。でもやっぱり祖父母に会いたいと思ってしまいます。仕事帰りにお墓に行き、ひたすら泣いて疲れて帰るという日もあります。夢にも出て来てくれるときもあります。 この気持ちは日にちが経てば落ち着き、癒えるのでしょうか。亡くなって少し経った頃、地元のお寺さんに供養に行った際に教えていただいたのは、悲しむのは悪いことではない泣いていいということでした。とても救われました。しかし半年も経ったのにまだまだ悲しく苦しいです。 わたしはどういう気持ちやおもいで日々を生きていけばよいのでしょうか。わたしはどうしたらよいのでしょうか。