自殺した子供があの世で辛い思いをしないように、親としてどの様な供養をしてあげたら、良いでしょう?お釈迦様は、自殺者にも優しい手を差し伸べてくれますか?自殺の理由も解からず、家族は辛い思いをしていますが、亡くなった子供に家族は、離れて暮らしていても、何時も気にかけていた事を、伝えてあげたいです。
おはようございます。 前回に引き続き浄土真宗の教えについて質問させて下さい。 吉武文法様の御回答より引用 〉「覚りの世界に触れさせていただく」の具体的な相が「南無阿弥陀仏」のお念仏です。御念仏を申すところに阿弥陀仏の願いを聞き、智慧がはたらくことを感得する。 〉それは私自身が「まこと」になるのでなく「念仏のみぞまこと(歎異抄)」であるという感得により「まことならざる私」が明らかになるという形での覚りとの接触です。 かなり乱暴ですが、例えるならウサインボルト(阿弥陀様)の存在を知る事によっていかに自分は足が遅いか、まだまだダメな存在(煩悩にまみれた存在)かという事に気づけば、具体的な距離として自分のダメさに気づく事ができる。 そのダメさに気づく事ができれば、もっと練習(修行やお念仏)をしよう。と具体的に問題が解決に向かう知恵が出る。 という様な事なのでしょうか? どうも私の理解力が不足している様で、前回の御回答を通して「凡夫の君には煩悩をなくす事はできないのだから、生きている間は煩悩まみれの苦しいままでいるしかないじゃないか。」と言われている気がきました。 それとも、死後は極楽に往生するという教えを苦しんでいる「今」の私がお念仏を通して触れさせて頂いたとして 「死ねば確実に苦しみから免れる事は約束されているのだから、今苦しくてもいつか終わるじゃないか!苦しみながらでいい、気楽にいこう!それをいつも忘れない様に南無阿弥陀と唱え、覚りに触れ続けましょう!」と仰っているのでしょうか? もしトンチンカンな事を言っているようならば、ハッキリと仰って頂いてかまいませんし、回答者様の個人の味わいで問題ありませんので、お手数ですが御回答下されば幸いです。
はじめまして。 誰にも相談できず、ここへたどり着きました。 先日夫の携帯を見てしまい、出会い系で知り合った複数の女性と関係を持っていることを知りました。 全面的に信頼していたため、頭が真っ白になり、裏切られたことへの怒り、女として見られていない悲しみなど、様々な思いが沸き上がりました。 数ヶ月一人で悩み苦しみましたが、まだ夫への気持ちがあるため、再構築を選びました。 辛かった気持ち、二度としないでほしい、今も好きであることを伝えました。 夫は、私を苦しませ、泣かせたことを反省し、後悔し、自分を恥じていました。 これから何十年もかかるかもしれないが、信頼してもらえるように態度で示していくと言ってくれました。 その場では心が軽くなったのですが、ふとした瞬間に辛くなります。 妊娠していたときも、慣れない育児に奮闘していたときも、家族のために家事をしていたときも、浮気をしていたと思うと苦しいです。 再構築を選んだ以上、夫を責めることはしないと決めたのに、全てをぶつけてしまいたい衝動に駆られます。 今までと変わらない態度を望んだのは自分なのに、いつも通りの夫を見ていると、本当に反省しているのか?と腹が立ちます。 浮気相手との生々しいやり取りも頭から消えず、セックスしても、私では満足できないんだ、もし今妊娠したらまた浮気されるのだろうか、とマイナス思考になり、なんとも惨めです。 嫌いになれたらどれほど楽だろうかと思います。 私は今後、どのように自分と向き合っていけば良いのでしょうか。 アドバイスをお願い致します。
公務員として今年から働きはじめた僧侶です。 タイトルの通りに悩んでいます。 詳細としては 今、大学を卒業したばかりで、父が住職をしており、私は寺院付の僧侶でもなんでもありません。 しかし、職務専念義務から外れるとはいえ、任命権者への申請は必要なのかということに悩んでおります。 狭い世界故に申請を出すだけでもあっという間に知れ渡るので、色眼鏡をかけて見られたり、出世に響くと思うと辞めたくなります。 なので、なるべく申請を出さない方法を模索しております。 そこで、少し調べた結果、報酬をもらわずに寺院の活動を手伝う場合は任命権者への申請はいらないというような旨の記載を見ました。 本当なのでしょうか。教えていただきたいです。
イライラしている人、怒り狂う人、自分の感情や他人の振る舞いに支配されきっている人を見ると本当に可哀想になってしまいます。 最近人と接する仕事に転職し、それらをますます生々しく感じ取る機会が増えました。 般若心経の一節に「色即是空 空即是色」とありますが、 自分という人間は色即是空、で止まっているような人間なのです。空即是色までどう頑張っても至れないわけです。 もしかすると自分は仏教的思想とは無縁で、西洋的な虚無主義者にすぎないかもしれません。 根本的に意味のない世界で、意味のないことに踊り狂わされている人々を見ると本当にこの世は惨たらしい地獄なんだと思ってしまい嘔気を催してしまいます。 通勤ラッシュの人混みで、具合が悪くなります。人間がロボットに見えてしまうのです。実際彼らは「生きる意味」というありもしないものに支配されているから出勤しているわけです。 自分は人生の当事者であるくせにどこか傍観者的です。 観るもの聴くもの感じるもの全てに根拠がありません。 全てに意味がなく、自殺することも出来ないまま、今朝も非常に可哀想なお客さんは私に怒鳴り散らしました。 苦しみの悲鳴に聞こえて、今でも頭に灼きついて胸が痛みます。(情けないことに謝ることしか出来ませんでした。私が彼らにしてやれることは何もありません) 何もないこの世界に対して私は何を行えばいいのでしょうか? 苦痛が大きいですが、私は彼らを救えないし、身寄りがありませんので、引きこもることも出来ませんし、自殺も出来ません。
次の文章は、「シュタイナー 魂について」(ルドルフ・シュタイナー著 高橋巖 訳 春秋社)の一節です。 人間の魂は輝く月に似ている。しかしその輝く光を月は太陽から受け取っている。人間の魂は水に似ている。その水は、それ自身では冷たくも温かくもなく、熱を火から受け取っている。人間の魂は高次の動物魂に似ている。しかしそれが人間の魂でありうるのは、その光を人間の霊から受けとるからなのである。 シュタイナーは、シャタイナー教育を提唱した人で、読み進めるには難しいです。 この一節から、人間は影響を与え合うことで、魂を高めるということだと理解しました。前の文脈から引いてこないと分かりづらいとは思いますが・・・ いろいろな人がいていい。どんな光を受けとるか。そう考えると、技術が発展して、人間にとって都合のいいように外界世界を操作(著者の考えにあっていないかもしれませんが、霊を操作する)と、せっかくの魂の向上が妨げられるのではないかと考えました。 仏教では、どのように考えますか?
先日、手相占いをしてきたんですが、占い師の方に言われた事が納得できず、ここで質問させて頂きたいと思います。 私の父は浄土真宗大谷派で、3年半ほど前に亡くなりました。私は父の事が大好きで、亡くなったあと上手く心の整理がつかず、遺骨を少し手元に欲しいと、家族に相談しました。家族はお寺さんがOKならいいよ、と言ってくれました。その後お寺さんに相談したところ、"いいですよ"とお返事を頂いたので、私だけ少量の遺骨を手元に置いております。 占いをしていた時、たまたまその占い師さんも浄土真宗だという事が分かり、私が父の遺骨を持っているという話になりました。 そしたらその占い師さんは、遺骨を手元に置くなんてとんでもない、故人が成仏出来ないと言われました。また、手元に置いていいなんて言う坊さんも信じられない、そんな考え方をしているあなたもおかしい、あなたは何をやっても上手くいくはずがないとまで言われました。 私は今でも、自分のお寺さんを信じていますし、間違っているとも思いません。そもそも遺骨に魂は宿らないと聞いています。 それでも自分の信じているお坊さんを侮辱され、とても腹立たしく思っています。 実際のところ手元に遺骨を置いておく事は、良くない事なのでしょうか? ご回答頂きたく、宜しくお願い致します。
こんにちは 下世話なお金の話で恐縮ですが、ご助言いただければ幸いです。 私は山登りが趣味でよく山歩きをしていますが、山頂などにはお寺があることが多く、門が開いていれば参拝させていただくようにしています。 恥ずかしながら私には仏教や宗派などの知識はほとんどないのですが、それでもお寺に一歩踏み入れた時の、あの独特の落ち着く雰囲気が何とも心地よく、 また、お堂を参拝して掲げられている由緒などを読むと、なぜこんな山奥にお寺があるのかがわかったり、あるいは意外な歴史上の有名人が登場したりして、そんな発見が楽しくてお寺を訪ねています。 (そもそもそのような動機でお寺を訪ねることが良いのかどうかも自信がありませんが…) そのようなときにお坊さんが声をかけてくださることがあり、いろいろと興味深いお話をお聞かせいただいたり、お茶を出して下さったり、秘蔵の文化財を見せて下さったところもあります。 ある山頂のお寺では「精進料理で良ければ食事していかれませんか?」と庫裡にお誘いいただき、当然有料だと思ったので遠慮なく頂いて代金を申し出ると受け取っていただけないということもありました。 どのような場合もありがたくお礼を申し上げ、お布施についてお尋ねするのですが、たいてい「そのようなお気遣いなく」と仰られますので、せめてもの気持ちで、帰りがけにも賽銭箱にいくらかのお金を入れて辞去するようにしています。 しかしお坊さんが時間をかけて興味深いお話や案内をしてくださることに対して、賽銭箱にコインを投げ込むというのではなく、やはりきちんとお礼をしたいと思いますし、 請求されなかったからといって何もしないと作法知らずと思われているのでは?、とも思ってしまいます。 このような場合に、お坊さんを煩わせることなくスマートにお礼をお渡しするには、どのようにするのが宜しいでしょうか?。 そもそもこのような場合の「相場」もわかりませんので、何卒お導きを賜ればありがたく存じます。 よろしくお願い申し上げます。
私の生まれた環境は複雑で、親戚の家で母と共に暮らしておりました。 親戚一家(男のみ)は浄土真宗と神道を深く信仰しておりました。 母屋には神棚が三つ、仏壇が二つ、もう一つ巨大な石が飾ってある棚がありました。 その一方で物凄い男尊女卑の家庭でもありました。 特に母と私は余所からきた居候という位置づけの為、人として扱われていなかったように感じます。 服や下着は全て親戚一家の男たちのお古でした、当然パンツもです。 「女に服を買い与えると我が儘になる」という理由でした。 汚いシミのついたパンツを履くのが嫌で裏返して履いていました。 大人の男の下着なのでブカブカでずり落ちそうでした。 靴下も穴が空いてゴミ箱に捨てられていたものを穴を縫って履いていました。 食べ物は親戚一家の食べ残ししか食べられませんでした。 「女が男と一緒に食事をとるのはおかしい」という理由です。 白ご飯は滅多に残らないので基本的にお漬物や賞味期限の切れたお惣菜を食べていました。 親戚一家が食べ終わらないと食事が出来ないので、朝は何も食べずに登校することもありました。 お風呂は「女が入った湯に男が浸かると穢れる」という理由で、親戚一家が全員入り終わった後にしか入れません。 シャワーだけでも駄目です。 しかし親戚一家は入浴時間がバラバラで私達が起きてる間に風呂に入るのは至難の業でした。 生理用品を買う為には親戚一家の長男に「穢れを垂れ流して申し訳御座いません」と言いながら土下座をしなければなりません。 親戚一家はもともと一人だけ女がいますが、その人は私たちがやってくる少し前に妊娠し、どこか違う家に連れて行かれたそうです。 私たちが居候になってから半年くらいたって母が急に妊娠し、数日後に自殺しました。 理由は分かっています。 警察に言っても証拠がないせいか全く信用してもらえず、親戚一家は罰せられないまま今も存続しています。 一体信心とはなんでしょう? これが浄土真宗や神道の教えなのですか?
お坊さんって所属してるお寺で事務とかして働いてなくても給料が出るんですか?だからお坊さんはなかなか弟子をとらないんですか?
初めてここに質問するのでおかしい所があったらすいません 私は純日本人ですが、その事に自信をもてません。 理由は良く掲示板などで「ブス」「スタイルが悪い」「貞操観念が低い」など言われているからです。 なので私は「日本が先進国なのは男性のおかげで女性は役に立っていないのかな」と考えてしまいます。 それを改善しようとしない女性達にも腹が立ってしまいます。私の偏見だったらすみません。 ランキングなどでも不人気で、 本当に日本女性が嫌われているなら改善したいですが、 改善しようとする女性もいるけど少ないし。 一生世界中から嫌われないといけないんでしょうか。
私は学生なのですが、小さい頃から、親が共働きで、祖父母の家で過ごす時間が多くなりました。しかし中学に入ってから、自分の家で過ごすようになり、祖父母と関わることは少なくなりました。祖父母は小さい頃から面倒を見てもらい、大好きな人たちです。ですが人間いつかは死にます。私は、もし祖父母が死んでしまったら立ち直れる自身もないし、どのような心境になるかもわかりません。最近そのようなことを、考えるようになりました。もし祖父母が死んでしまった場合、どのような立ち直りをしたら良いでしょうか?
愛犬を2日前に亡くしました。 5日前から食事をしなくなり、獣医に連れて行ったところ子宮蓄膿症と言われすぐに手術したほうがいいと言われました。 翌日、手術することに決めて入院をさせました。帰る前、最後に会わせてもらい、わたしにスリスリすり寄ってきてブンブン尻尾を振っていたので、結構元気だな。と思いながら病院をあとにしました。 翌日朝、病院から「◯◯ちゃん、結構元気なんです。1度退院して体調が落ち着いてから後日手術にしますか?いずれ必ず手術はしなくてはいけませんが」と連絡がありました。 わたしは主人と相談をして、また痛い思いするなら今日手術をしよう。体調が悪化したらかわいそうだ。と決めて獣医さんに今日手術をすると回答しました。 しかし、その手術中に愛犬は亡くなってしまいました。心臓がもたなかったみたいです。 愛犬はわたしに「病院に置いていかれて、そのまま殺された」と思っていそうで後悔ばかりしています。 わたしが手術をすると言わなければ、あと1日は一緒にいれたかもしれない。わたしがあの子の寿命を縮めた。あの子に「また迎えにくるから大丈夫だよ。」と声をかけたのが最後の言葉だったのです。 嘘つきと思っているのでしょうか。どうしてこんなことしたの?とわたしを責めているでしょうか。 わたしが殺したと思っています。立ち直れそうにありません。
ふと熊本地震の家屋解体(公費解体)や土地の名義変更等で戸籍を曾祖母の出生まで遡って取得しました。約30年前に曾祖母は亡くなっていて放置状態だったために手続きも複雑化している現状です。 祖母や曾祖母は某学会の会員で、早く亡くなった曽祖父、子供のときに亡くなった祖母兄妹の遺骨(いづれも土葬)は、掘り返して焼骨にして学会の納骨堂(永代供養墓)に納められています。これは祖母から聞いた話です。 もちろん亡くなった曾祖母も死亡してから荼毘に付されて納骨堂にはいっています。 そこでふと気になったのはそれよりも前の世代の先祖の墓です。 祖母に聞いても正直もうわからないとのことです。 また、父方の墓についても 墓誌を見る限り、高祖父母の1代前から曽祖父までの計7名(うち戦死者である曽祖父の弟が入っている)が入っていることが分かります。 ありがたいことに皆長生きでまだ納骨というのを経験した事が無いので中は見たことがありません。 父曰く、墓誌に書かれている人全員だから結構な数の骨壷がはいっている とのことです。 しかし私が気になったのは、高祖父母の1代前よりも前の世代の先祖の墓です。時代的に土葬だとおもわれますが、本家の墓がある墓地は土葬の墓など見当たりません。存命の祖父に聞いても分からないとのことです。 そういった先祖がいるからこそ今の自分があるのだと思います。 全ての先祖の墓を探し出すというのはむりがあるとは思いますが、あるのであればぜひ掃除をしたり合掌したりして先祖を供養したいものです。 現在入っている先祖よりも前の先祖の墓を探し出すことはできますでしょうか。 特に母方については曾祖父母の代より学会に入っているのでそれよりも前のことが全く不明です。
巳の日に、友達と弁才天様に 金運の願掛けにお参りに行こうと思って そのお寺に問い合わせして、祈願の作法を質問しましたが、自由で良いですと、言われました お寺の本堂に弘法大師様がいて、その横に弁才天様が、いらっしゃいましたが、 お賽銭とか、必要なのかな? お参りは、神社とちがうだろうし、 わからないことばかりで どうか教えてください
同じ会社の女性に質問されました「コート、何着もってる?」。私は片手でたりるほど。その瞬間「やだー、貧乏人。たった、それだけ?」 物を大切にする主義なんです、私。ちゃんとクリーニングに出してお手入れしてますもの。 また別の日に彼女から質問が…「何人と関係もった? 私は付き合うたび! 愛されてるか確認だもん。子どもができた、ったら言って去っていくかどうか。そしたらさー、できちゃった、子ども。望んでないのに超、迷惑。で、何人と?」 バカじゃないかと思いました。 本当に超迷惑、赤ちゃんからしたら、たぶん。 そのような事があり、彼女がいろんなひとに私の事を話し、私は「貧乏人で男しらずオンナ」と言われています。 会社の中で広まっています。 どう対処したら良いのでしょうか? というか、私はそんなに「おかしな人」ですか? 「おかしな人」はあなた達です!と彼女達に言いたい私ですが…。
仏教のことについて、著作権法では私的利用の範囲なら 著作者に許可を取らなくても画像を保存するなどが許可されていて、権利者が無断での転載.使用などを禁止している場合でも法律的には問題ないそうです。 ですが、仏教ではこれが偸盗に当てはまる様な気がします 権利者が保存などを明確に許可していない場合(無断での転載や使用を禁止している場合も含む)また、無許可で作者がXなどで公開している作品の画像を保存するのは、私的利用でも偸盗として罪に当てはまるのでしょうか?過去に違反してしまったことがあったので、罪なのかどうかが気になりました
改宗について教えてください。 改宗すると、改宗以前の先祖も改宗されたことになるのでしょうか? それとも、戒名の付け方が宗派で異なるので、戒名を受けた時点の宗派はずっと変わらないと考えるのでしょうか? お墓は個人管理地の個人墓です。
地元から遠く離れた場所にある大学に進学しました。地元では毎年クラス替えをする度に気が合う友人が何人かできていたのに、こちらで出会う人には気が合う人がなかなかいませんでした。大学入学から3年が経とうとしていた頃、気が合うなと思う女性と出会い、付き合うことができました。元々私は交際相手に依存するタイプではなかったと思うのですが、こちらでは上辺だけでなく本当の意味での友人は彼女1人だけという環境のせいで重い男になってしまった、そう感じられてしまったのでしょう、相手に冷めたと言われ、私も彼女の気持ちの変化が苦しかったので9月末に別れようと伝え、別れました。 地元に戻るまで残りの5ヶ月また1人でこの場所で生活するのだと思うと、とても苦しく、就職が決まった地元に早く帰りたいと常に思っていました。また、約4年間ずっとこの場所はつまらないだのと自分の中で、一人暮らししている県やここでの経験、思い出を否定、罵っていました。 そんな中、地元に戻るまで残り4ヶ月となったことをきっかけに、4ヶ月後地元へ出発する日を想像しました。 想像し始めでは、この場所での失敗から反省し、成長したこと以外は全て切り捨てて、それ以外の記憶はここに置いていこうと考えていました。 しかし、色々なことがあったなあ、辛いことばかりだったけど成長したできたなあ、辛い経験・思い出でも全部自分の大切な財産で、成長した自分の一部になっている。どんな経験でも実は大切で実は大好き、愛してるんだと、ふと思った瞬間、涙が止まらなくなりました。なぜ泣いているのかわからないのに、こんなに泣いたのは初めてです。 自分ではこれは、どんなことも受け入れる、またはそれ以上のどんなことも愛する、ということができるようになったのかなあと思っていますが、実際そうなのでしょうか?ただ彼女と別れ、この場所での孤独な生活のストレスの限界を迎えたことによる、開き直りやこじつけなのでしょうか。彼女と別れて泣き足りない分泣いただけなのでしょうか。それともこれら以外の涙なのでしょうか。 わかりにくくなってしまいましたが、私はどんなことでも愛することができるようになったと思っても良いのでしょうか?ということをお聞きしたいです。
私はバガヴァッド・ギーターというインドの聖典が大好きで、その中に「奉仕活動によって解脱ができる。それは行よりも有効な手段」という記述があります。私の夢は解脱とみんなが幸せな世界であり、そのためにボランティア、人助け、世界のためになる選択肢を選ぶことが大好きです。 しかし、達磨大師はこう言われました。功徳(つまり私でいう、解脱を目的としていること)のために寺を建築したり写経したりしても新たな煩悩を生むだけであり無功徳であると。これは、解脱という利己的な目的を持って人を助けたり救ったところで自分は何も得られるものがない、ということなのでしょうか。 奉仕活動によって解脱を目指すというのはシク教やヒンドゥー教的な考え方のはずで、確かに私は若い頃にいっぱい罪を犯したためその分、誰かを助けたり誰かの役に立ったりよりよい世界を作るために努力することは損得を抜きとして心から大好きです。しかし、その先で自分も解脱したいという利己的な抱きがあるのもまた事実です。 私のしていることは、解脱を目指す上で無駄なのでしょうか? 私の行いで誰かが喜びを味わったり救われたりしているので、それは決して無駄なことではないのは確かなはずです。しかし、やはり達磨大師のおっしゃられたことにも一理あるので、そこがずっと引っかかっているのです。例え自分に得が無くとも、奉仕活動自体は好きなのでそのスタンスは崩さないつもりです。 私はちゃんと正しい方向へ進めているでしょうか? よろしくお願いいたします