自殺をすると地獄に落ちる、成仏できない、と聞きますが実際の所どうなのでしょうか。 何故成仏出来ていない方達は成仏出来ないのですか? 死後の世界はあるのでしょうか? 自殺をすると成仏できないのは何故なんですか? 自殺をするのが罪ならば、自傷行為はどうなんですか? 私は自傷行為をしているのが3回親にバレてしまいました。「お前は苦労していないからそんな事が出来るんだ」や「お前がそこまで人間性が低いとは思わなかったわ」と言われてしまいました。理解してもらえないんです。正直、他でもない実の親にそこまで言われるとは思っていませんでした。本当に辛いし、死にたいです。 あと、幽霊?魂?は、現世と死後の世界を自由に行き来することは出来ますか? また、成仏するのは死後どれくらいなんでしょう?49日経ってからなのか、死んだ直後なのか。。。
私は死後の世界は必ずあると思います。魂の存在も信じています。昔からそれが当たり前だと思って生きてきました。 自殺で死んだ彼は、死後の世界で苦しんでいないか心配です。 インターネットでいっぱい調べました。自殺で死んだ人は死後も苦しむ、地獄にいく、ずっと孤独など見ました。彼にはせめて死後の世界では幸せに暮らして欲しいです。一方、彼の後を追いたいという気持ちもあります。これもまた、調べてみると後を追っても彼には会えないとばかり出てきます。では自分の寿命を全うしないと会えないのですか?やはり自殺は死後も苦しむのでしょうか?
こんにちわ、またまたご相談です。 現在、私は引きこもりのような生活をしています。理由としては人間関係で色々とあって、精神的にも疲れきってしまい人と関わるのが怖くなったからです。 親に「外に出ろ」と言われますが、私は何かを強制されるのが嫌いな部分があるので反発してよく喧嘩を起こしてしまいます。 今は落ち着いてきており、私もいけなかった部分があるんだろうなと思うようになってきました。だけど、そのせいなのか、前にご相談した通り自分の嫌な所ばかり思うかんで自己嫌悪に落ち込んだり、マイナス思考に落ち込んだりしています。 今度は地獄の次には輪廻転生について恐ろしく感じる様になりました。 もし来世があるとしたら正直に言ってもうこの世には生まれたくないという気分になっております。 昔にもそんな事を考えた事があって、死を怖がったり生まれ変わりがあるのなら動物になるのも虫になるのも嫌だなと思った事があり、人の事は言えませんが人間に酷い目にあわされている動物を見て気分が悪くなって、こんな目に合うのは嫌!怖い!と思ったりしました。 生まれ変わるのなら人間が一番いいと言われてますが、人間だって必ずしも平穏な環境で生まれるとは限らないし、人間同士だって諍いがあるし、人を人だと思わないような人間だっていますし。 転生してしまえば記憶がなくなって別人になると言われてますが、それも正直に言って怖い。今いる自分自身が消えてしまうと考えるととても怖くて仕方ない。 地獄も怖いけれど、転生も怖い。 今まで他人事のように感じていた物が急に恐ろしくなり、だからもし、死後の世界があるとしたら、転生などせずただ穏やかでありつづけたいと思い、本当に自分勝手だと思いますが、もし本当にお釈迦様がいるのなら、もう、この世に輪廻させないでください。苦しいのも怖いのも痛いの嫌です。自分が消えてしまうのが怖いですと言いたい気分になりました。 自分の人生の中には楽しい事もありましたし、生きていれば考え方など変わると思いますが、今はこういう考えをしてしまい気力が削れ恐怖心でいっぱいになったりします。 前に進まないといけないのに、前に進むのが怖くて仕方のない状態で自分の身勝手さになんだかなと思い、こう考えるのに何の意味があるのでしょうか。 私はなんで生まれて来たのかと悩みばっか思い浮かんでしまいます。
人生をより良くしたい。希望や自信を持って生きていきたい。 「わたしにはこれ」というものを持って堂々と生きたい。 2016年1月に夫を亡くし(子供なし)、現在一人暮らしをして仕事は派遣事務。 夫の死に伴う、環境の激変、不眠等の精神の不調を乗り越えて最低限の社会復帰は出来たと思っています。 更に以前やっていた趣味(着物の着付け)も再開したり、旅行にも出かけたりするなど、気持ち的にもどん底の状態から這い上がる意欲も湧いてきました。 でも今でも周り(特に同年代の子供を持ち家庭生活が充実している女性、仕事でもキャリアも重ねている女性)と比べると惨めな気持ちになるし、 何よりもわたしを愛してくれる人が傍に居ないと寂しさを感じることもあります。 自分に自信をもって笑顔で生き生きと毎日を送りたい。でないと、新しい出会いは生まれない。 そもそも夫を亡くした自分が新たな出会いを求めても本当にいいのだろうか? でもずっと一人ぼっちでこれから先の人生を過ごしたくはない。 色々な感情を抱えて毎日を過ごしています。 仕事やこれと言った特技もないし、年齢は増えていく一方。 どん底から更に這い上がるにはどうして行けばいいのか。 わたしも心から愛してくれる人は再び現れるのか。 幸いながら、もっと幸せになりたい、人生をよりよくしたいという思いは以前と比べて高まってはきました。 時折訪れる不安や迷いがクリアになればと思っています。
現代人は地獄行きが確定ということを中学生の時知りました。小さい命を潰しても、大人がお酒を飲んでも、それがすべて引っかかるとのことでした。果てしなく、痛い罰に恐怖でいっぱいです。そのため死後に恐怖や不安が積もっています。私はどうすればいいのでしょうか…
初めまして。御質問させていただきます。 天国でも地獄でもない、 「無」の世界は存在するのでしょうか? 暗黒、無感、無音、無人、無物、無味、無臭。とにかく何も無い空間です。 二度と魂・霊は転生せず、消えて無くなる。 此処への逝き方、遺体、遺骨の処分方法について、「無」への行き方を教えていただきたいです。 自死(首吊り)、散骨(場所は海・業者に依頼)と考えております。葬式は挙げません。 どうでしょうか?御知恵をください。 藪遅く、お忙しい中、お手数お掛けしまして、すみません。 この様な事は、お坊様にしか御尋ね出来ません。 どうか、御回答、宜しくお願い致します。
この度、競馬時代から応援し、引退後引き取っていた馬が、26歳で天に召されました。老衰の自然死でした。 馬の耳に念仏といいますが、般若心経と馬頭観音様のご真言を唱えております。最近はペットのお墓もあるといいますが、なにぶん馬ですので処分し、たてがみだけを残しました。 今流行のアパート式の墓を持っておりますが、たてがみを入れたいと言ったところ断られました。動物は畜生、地獄の畜生道につながるという話は聞いていました。それで難色を示されるお寺があることも聞きました。 うちには子供がいなく、この仔が唯一の息子でした。犬猫は葬祭の商売があって、お祭りもしていますが、馬はありません。 この仔は供養もされずに放っておくしかないのでしょうか? 自分なりに何とかするしかないのでしょうか。 ご教示願います。
結局一日券眠っていましたが、死ねませんでした。はやく死に死にたいです。からだと心の病気が辛くて生きているのが苦痛でしかありません。今週中にもう一度そうするつもりです。色々アドバイスをくださった僧侶の方、私を心配性してくれる人ありがとう。しねるとおもうと少し穏やかな気持ちになれるのです。 地獄とか天国とかそんなことを超越した穏やかな世界へ旅立ちます。もう、痛いのも苦しいのも怖いのも散々です。逃げたいです。さようなら。さようなら。さようなら
質問させていただきます。 回答しづらければ、スルーでお願いします。 母の四十九日法要の和尚さんの法話でのことです。 「亡くなった人はどこへ行くか?」と和尚さんは私の甥に尋ねました。 小学生の甥は、「心の中」と答えました。 それは、亡くなった母が教えたことです。 母は「自分が死んでも、いつも見守ってるから」という意味で、生前、そのように話したのだと思います。 が、その和尚さんは、それを完全否定しました。 人は死んだら「無」になる、と。 何もなくなる、心の中ということはない、と。 実際に仏教でどのように考えられているかは知りません。 和尚さんが仰ることが正しいのかもしれません。 ですが、そこはあえて否定する必要があるのでしょうか? マチガイハ タダスベキということですか? 甥だって大人になるにつれ、母の言葉の意味は理解するだろうし、何より母の法要で母を否定されたような気がして、何とも言えない気持ちになりました。(「黙れクソ坊主がっ!」と思ったことは内緒です) また、その話の流れで、ホームレスは人間のクズだから地獄に堕ちるという話をされました。 いや、ちょっと待て! 人は死んだら無になるんじゃなかったのか? 無になったら、地獄も何もないのではないか? それとも、ソレとコレとは違うとでも言うのだろうか? それより、ホームレスが人間のクズとはどういうことなのか!? それが仏教なのか? 和尚さんの偏見ではないのか? 和尚さんに対しての怒りの感情と、母に対して申し訳ない思いと… お前が地獄に堕ちろ!とマジ思いました… ホームレスの方達に炊き出しをするボランティアをしていたので、色々と思うところがありました。 もう数年前のことですし、そのことを引きずって悩んでいる訳ではありません。 過去のことに上書きすることはできませんし、それはソレで、そういう事実があった、でよいです。 ただ、その本当のところが知りたいです。 数年前のことを、なぜ今、このタイミングで?と思われるかもしれませんが、今まで聞く人がいなかったからです。 hasunohaのサイトを最近知りました。(遅っ!) よろしくお願いいたします。
火の鳥鳳凰編で、死後、輪廻しても虫やカメにしかなれず、この世がなくなるまで永久に人間になれないという輪廻が描かれていました。(「火の鳥 茜丸 トラウマ」などで画像検索するとそのシーンが出てきます。) 漫画ですが、こうした輪廻は仏教的なのでしょうか? 仏教の輪廻の教えは、どのような救いがあるのでしょうか?
夢と希望がなくなり 生きる望みがなくなった時 人は死を選ぶべきでしょうか 生きるとはなんですか 人生の修行ですか だとしたらなのん為の修行ですか
こんばんは。 明日、ひいお婆ちゃんのお葬式があります。 どうして人は死ななければいけないのか、 おばあちゃんや親族とと一緒にいた方が幸せなのに、どうして離れなければいけないのか、全部忘れてしまうのかと 死 についてずっと考えていました。 夜、ねれなくて、死後の世界について調べていると、天国や地獄も実際にあることを、臨死体験の方の証言で知りました。 証言によると、お釈迦様やイエス様の愛が心にある人は天国へ行き、守れなかった人は(宗教が心になかった人は)永遠に地獄で苦しんでいること。誰もが死の後、この裁きを受けこと。 急に全てが怖くなりました。 ひいおばあちゃんも裁きを受けるのか、天国で安らかに過ごしてほしいです。 そして自分も、今、23才ですが、不平不満を言ったり、自己中心的であったり、自分のことが嫌いだったり、正しい行いはできていません。これから正していけば、赦していただけるでしょうか。とても怖いです。 大切な家族や、友人や恋人も、 いつも宗教が心にあるわけではないと思います。 すごく熱心に宗教に精通している家族ではないので、、申し訳ありません。 お釈迦様、イエス様の教えに背いてしまったり、してしまうこともあったのかもしれません。(わたしよりはみんなとてもいい人たちなのですが、) それでも大切な人たちにはみんな天国で過ごしてほしいです。 明日のお別れが辛いこと、 そして今後、大切な人たちや、自分も裁きを受けることが不安で、 死への恐怖が、裁きへの恐怖が怖くてどうしたらいいかわかりません。 これから行きていく上での指針や、 自分がこれからできること、 わたしがこれから家族や大切な人たちの今後のためにできること 仏教の面から助言を頂けますと嬉しいです。 何卒よろしくお願いいたします。
恋人との別れ、いずれくる親の死。 後なんかい会えるのか・・・ 辛いことは数えれば一杯あります。仕事も基本辛いです。 仕事のせいで親の死に会えないこともあるかも知れないとか、様々なことを考えてしまいます。 私は前向きに生きていきたい。 毎日悩んでます。
私は、HSP(高感受性)の者で、霊は、見えないのですが、人の細かい感情や動物の気持ちも感じやすかったり、植物や大気のオーラを感じる事もあります。私は、見えないものに興味があり、死後の世界についてもよく考えるのですが、人生とは、魂を成長させる為の修行なのでしょうか? 死後の世界について、いくつかご質問したいと思います。お願い致します。 ①人は、体が死ぬと魂が体から抜け出て、人生を全うした善人であれば、現世への拘りが強く無く、死んだという自覚がある魂であれば、お迎えが来たり、来ない場合でも天国のような霊界に行くことが出来る。 ②現世への拘りが、強い魂や自分の体が死んだ自覚がない魂は、現世に留まり浮遊霊や地縛霊になって拘りがとれて、死を自覚するまで何年でも何千年でも現世を漂い続ける。 ③悪人(人殺しや自殺)をした者は、死後恐ろしいところや暗闇をさ迷い続けて生きていた時よりも苦しむ。 ④霊界で再度人間に生まれ変わる時は、霊界の偉い方と相談をして、どの体に入るか自分で選択する。そして、選択した体に魂を宿し、生まれてくる。体を選択するときには既に、その子どもとして生まれたら、どんな親の元で育てられ、どんな友人、恋人、結婚相手等と出会うのかわかった上で選んでいる。 ⑤霊には、私達と同じでお経の意味がわからないことが多い。 ⑥霊には、私達と同じ記憶と感情があり、精神は生きている者となんら変わらない。 ⑦霊は、生きている人と話せる。瞬間移動を出来る。軽いものを動かせる。電気機器などを動かせる。夢枕に立つ。体を生きている人と同じ見た目の姿に出来る。体に重量をつけれる。霊能力者と頭の中で会話が出来る。霊が見える人だけに憑依出来る。写真や映像に写り込める。 霊感の鋭い人には見えるが、普通は見えない人の方が多い。 ⑧地獄に鬼や閻魔大王はいない。死後の世界では、現世でのどの行いが良かったことで悪かったことか自分で解るようになる。死後の世界は、自分の心の現れでもある。 死後の世界は、精神世界で異次元空間。その空間は、現世と重なりあうように存在している可能性がある。 上記の①~⑧は本当でしょうか? 私が、死の世界について真剣に調べて、直感で感じたことです。長々と失礼いたします。ご意見お願い致します。
まず、タイトルが世情に鑑み、著しく不謹慎かつ忌むべきものであることをお詫びいたします。 もう疲れました。 家族がどんどん醜い存在になってしまいつつあるように思えてならない。 妻からのモラハラ。実家破産により、親族バラバラ。 バラバラになった親族は、夜叉のように罵る。 私の家を新築してから、皆おかしい気がする。 せめて私は言葉による業をつくりたくない、不悪口だからと言いたいことも口を閉ざす…というのは口実で、実は怖いだけ。 疲れたので、旅立ちたいです。 でも、自殺者は地獄行きだとか、地縛霊になって苦しむとかいう話も聞きます。 自称密教僧が、自殺防止のためか、ブログで散々そのように説いています。 それは、怖い。 真実はどうあれ、薫習といって、生前のクセに引きずられるという話もあり、一度、自殺者の予後について聞けば、それは呪いのように私の中に刷り込まれる。 なら、大義名分のある死ではどうだろうか。 トラックにひかれそうな幼児を助けて死ねば、英雄だ。 遺族も納得できよう。 しかし、そんなシチュエーションもそうないうえに、不悪口を口実に口をつぐむビビリな私では、実行もできまい。 なら、コロナで死ねば、どうだろうか。 幸いにも基礎疾患がある。死ねるかどうかは分らぬが、死ねば今の苦しみから解放される。よしんば死なずとも、今の家族の現状に一石が投じられるかもしれない。 どうやったら、後生よく、苦しまず、遺族の悲しみも比較的少なく死ぬことができるでしょうか?
私は、自殺者が嫌いです。憎いです。心が弱いから自殺したのだ、自殺しても地獄に行って苦しむだけだ、という具合に。 そして同時に、私はこの考え方が不適切であることも知っています。この考え方は、明らかにその人たちの背景や状況を考慮していないし、観測もできないあの世のことについて、浅い見識で断定しているからです。 しかし、それじゃあ自殺者たちが無条件に救われると考えてしまえば、きっと私は首を吊るでしょう。 おそらく、これらの考え方はどちらも極端なものだと考えられます。 なにか、バランスの良い考え方などはありませんでしょうか?
病弱孤独悲運の霊位を示す最凶数 多くは努力が伴わず悲惨な人生を送ることが多く、肉親子女の縁も薄く、悲惨な人生の暗示があります。 ネットの姓名の画数判断でこうでました。 占いだし、気にすることないでしょうか? 悲しいことに(あとづけではないです。)この通りの人生を送っているとはっきりといえるだけに、どきっとしました。 孤独すぎてこのことに異常さを感じるほどです。ずっと友達を作ろうとしても仲良くなった子が転校したり引っ越したり、病気で亡くなった子もいます。自分の周りには嫌な人しか残らず、いじめられたり 仲間はずれにされるばかり。 自分が嫌われ者に生まれてしまったことと、人から遮断されているような隔離されているような感覚もあります。頑張ってもどうしても 孤独なままです。顔見知りすら作れません。仲良しを作れないよう誰かに邪魔されてるかのようで、どうしてもお前は一人でいろと言われているかのようです。 親もぼっちでしたし、私の遊び相手してくれたのは自分たちが話し相手もいず、さみしかったからなだけとはっきり言われました。 親からも、こんなこと言われるくらいだし、きっと私自身異常なんだろうなと思います。だから仕方ないことと諦めようとしても このまま残りの人生、誰とも関わることができず一人なのかと思うと悲しい。 (孤独死や餓死を覚悟していたり、地獄におちるか気にしていた根底はここにあります。)
相談ではないのですが。死ぬきっかけを与えてくれるのかと期待して記さずに居られず。生きるきっかけになることは望んでいない。 生きる意味はないように思えるが。生きる意味があると盲信して生きることも望まず。生きる意味があると盲信して生きることも不幸だと思えて。 生きる意味はこの世にあるのか。私にあるのか。 死ぬことによる私という存在の消滅のみ真の救いに思い。 死ぬことに勝る不幸の回避はなく。 明日、昨日死なずに良かったかと思う可能性は否定できないが。その可能性があることは救いにならず。 むしろ明日、幸福だと錯覚し死ぬ機会を失うならば尚更今死ぬべきだと思う次第で。 話は戻るが生きる意味だが。どこにあるべきか、、、この世にあるべきか私にあるべきかと考えると。 この世にないのは、この世に産まれる価値で。 私にないのは人生を始めるに値しないという人生で。 未来のことは断定しないが断定しようがないが今私が未来を考える限りでは未来の私は今死ぬべきだと言っている。 今の私も過去の時点に死ぬべきだと言っている。 死にたいと感情があり、死ぬべきだと考え、生き続けることに意味があると思えず。 今死ぬことになると明日の私は存在しないのだが。 それは失われたというよりも得ることができなかったという表現に近く。 自殺することの間違いとはなんだろうか。自殺することが間違いか。 その自殺は一瞬の間違えで。 間違えという点では死ぬべきだと考え続け生き続けることの間違え、、、間違え続けることに負担はあるが。 あまりに仏教に興味はないが。キリストやイスラムは自殺を禁じているそうで。 仏教でも自殺は肯定されておらず、輪廻転生も自殺を肯定していないと考えている。 仏教か知らないが、自殺をすると地獄に行くなどの教えも。 自殺をするような不道徳な人間こそ救われるべきであるし、悪人こそ救われるべきに思い。 罪も犯さず、自殺もしない善人こそあの世で苦しまなければ割に合わず。 死について。私について。存在について。生きる意味、不幸と幸せ、希望や絶望について。などを遺書に記したがまだ死ねず。 地獄に行くならば地獄で私の存在の消滅の仕方を考えるとしよう。 存在を消滅させることが地獄では不可能ならば、まだ諦めもつく。 この世で存在を自殺により消滅されることができるのに、それをできないことが絶望である。
相談させて頂きます。 食事が苦痛です。 また空腹に苦しむと分かりながらの一時凌ぎに、屈辱感を抱きます。 睡眠が苦痛です。 束の間の休息も、明日の苦しみを迎え入れる、忌むべき儀式に感じます。 生きることが苦痛です。 息継ぎの快楽と溺れる苦しみを強要された、水難事故のようですから。 死ぬことが苦痛です。 どんな死であれ、私にとっては最も辛い、生理的な痛みに襲われますから。 生まれたくもないのに生まれて、死にたくもないのに死ぬ。 こんな馬鹿げた地獄が一体どこにありましょうか。 学校など小学生からまともに通っておりません。 他人が学ぶ時間を使い、私は怒りに任せて欲を満たしました。 自らで自分を救えないと知れば、警察の指導を守りました。カウンセラーに相談をしました。 それらは彼らの中の私を救うもので、自らの私を救うものではありませんでした。 それでもとあがくうち、怒りの他に無力感が棲み付きました。 今では無力感は無気力を産み、怒りは破滅的殺人衝動をもたらします。 意思疎通が苦痛です。 私は理解しませんし、私を理解されないでしょうから。
タイトルにあるような質問を、自殺志願者の男性に言われて答える事が出来ませんでした。彼は、彼女と一緒に死ぬと言ったまま音信不通になりました。あれから、彼に言われた問いが、私の中に残っています。お坊さんだったら何と答えますか?