他国の仏教と比べて(中国・チベット・インド・韓国・タイなど)、日本仏教の特色とはどのようなものですか?詳しく教えてください。よろしくお願いします。
なぜ在家得度はこんなに難しいんですか?たらい回しです
戒名・法名は、人が亡くなり仏になった事の名前だと良く聞くのですが、以前戒名等を調べた時に、生前に付けてもらっても良いと書かれていて、ミドルネームと一緒みたいなものだとも書かれていました。 何時から法名・戒名が、亡くなった時に付ける名前と言う認識に変わったのでしょうか? それと、今は戒名・法名も付けない人が多いと 最近TVで見ました。 主人も付けなく良いと言っていますが、どうなんだろう?と、考えています。 実父が亡くなった時に遺言で、葬式するな・お骨拾うな・法名付けるなと言われましたが、結局法名をつけました。 生まれた時に付けてもらった名前が有るから良いと言う考え方も確かに出来ますが、どちらが良いのか分からないので、アドバイスをもらえないでしょうか?
戦国時代の大河ドラマをみていました。 織田信長が比叡山を焼き討ちにした後、信長の奥さんがお坊さんをたくさん殺すなんてとんでもないと信長を激しく非難します。 しかし、信長は「比叡山の僧は酒をくらい女を抱き、夜盗のような暮らしをしている。あんなものは僧ではない」といいます。 だからと言って殺していいわけではないと思うのですが、確かにお坊さんなのに武器を持って武士を殺し、仏を敬わず酒色におぼれる。 お寺に住んでいるけれど、戒律を守らずに略奪ばかりしている。 とてもお坊さんと呼べるような人たちではありません。 もちろん時代劇ですので、面白いように脚色しているのはわかります。 しかし、現代でもお坊さんなのに悪いことをする人もいるし、権力闘争で世間を賑わす人たちもいます。 一度仏門に入ってしまえば、悪いことをした後でもお坊さんとしていられるのでしょうか。 お坊さんも僕らと同じ人間なので、誘惑に負けたり間違った判断をすることがあると思います。お坊さんが悪いことをするとどうなるのですか?悪いことをして死後地獄におちた場合、お坊さんだと仏様に近い生活をした分だけ罪が軽くなるのでしょうか?
川崎登戸殺傷事件、とても心が痛みます。 胸が苦しくてとても悲しいです。 犯人は何も失う物がない 「無敵の人」ともいわれています。 これからの日本、無敵の人が どんどん増えると思います。 無敵の人に対して、一般市民やお寺は どう接すれば良いと思いますが? このような事件が起きないように出来ること、あると思いますか? (家族?にも無敵の人がいて、同じような事件を起こしてもおかしくありません。私の子供も狙われるんじゃないかと想像して涙が出ます。マイナスな想像は無意味と分かっていても、どうしても考えてしまい、恐ろしくて、吐き気がします。。)
こんばんは、以前友人関係で相談させていただいたものです。その子とは和解できました! この春高校生になりました。わたしの通っている高校は進学に力を入れています。しかし、私は将来の夢ややりたいことが決まっていません。 前は動物と小さい頃から一緒で困った時には支えてくれるので恩返しがしたいと思い獣医など動物にかかわる仕事がしたいと思っていたのですが、経済的に厳しくなくなく諦めました。 別のことをさがしていました。 修学旅行の時法話を聞き、自分でも誰かを救えるのではないかと気づき仏教やお坊さんについて興味を持ちました。 先日駒澤大学のオープンキャンパスに行ってきました。仏教学部の資料館の見学や写経を体験させていただきました。写経ではすっと集中でき、周りの音が気にならなくなり、とてもいい気持ちよくなりました。また、仏教の世界に感動しました。 仏教やお坊さんについて教えてください。 1つ目は身内にお坊さんがいないのですが、私が志しても良いのでしょうか? 2つ目はお坊さんや尼さんをやっていて良かったと思ったことを教えてください! 3つ目は尼僧さんはどのような場所でおつとめできるのでしょうか?また女性を受け入れていただけるお寺はあるのでしょうか? まだまだ未熟なので失礼な質問があったらすみません。よろしくお願いします!
昨年祖母が亡くなりました。 葬儀は密葬で行い、お寺を通さなかったので祖父や曾祖父母が入っているお墓に納骨しておりません。 当方は結婚して実家を出ている為、このお墓に今後入る予定はないのですが実の両親はこのお墓に入りたくないので祖母のお骨も入れていません。 両親がこのお墓に入りたくない理由としては祖父が他界した時(約20年前)このお寺から戒名代もかなりな高額で、その時の住職さんやお寺関係者の態度も傲慢だったのが父には我慢出来なかったそうです。 その後、事あるごとに実家にとって高額なお布施やとうば代を要求するお寺のやり方についていけないのもあり、お寺の方針を受け入れられないのです。 その為両親はお寺に不満が溜まり、祖母と話し合った結果、祖母のお骨は手元に置いておくという約束を生前の祖母としたみたいです。(当方は祖母から実際にこの話を聞いていないので両親が本音で話しているかは不明ですが…) しかしこの決断を受け入れられない叔父や親戚から「祖母をきちんとお墓に入れるべき・お金の問題ではない・祖母が可哀想」と言ってきます。 父は断固として叔父や親戚の意見を受け入れずにいます。 私は嫁に出た立場なので何も言えませんが、故人のお骨で家族や親戚がいざこざ起こすのは祖母が一番悲しむと思います。 私は今後どのようにしたら良いでしょうか? 私は祖母の意思を尊重してあげたいとも思うし、交友があった親戚が祖母をお参りしたい気持ちも分かります。 ただ喪主である父の意思が固すぎるので何を言っても父は受け入れてくれません。
いつもこちらではお世話になっております。 沢山の教えの中に日々気づきを頂いております。 ありがとうございます。 今日相談させていただきたいのは、檀家というお寺との関わりに関してです。 以前にも相談したことがあるのですが、私には歳の近い親戚が突然死したこともあり、不安症なところがあり、発作的に「家族の死」を考えて落ち込みます。 ですが、従姉妹の死が「その時が来たら、自分が見送られる側じゃなくて、見送る側だったことを見つめるんだよ」「あなたがこっちにきたら私も、祖父母も、みんないるから、会えるから寂しくないからね」と、教えてくれているようで、時間を要しながらも、今目の前にいる家族を大事にしよう。と、顔を上げることが出来ています。 そして、いつも思うのが、 わたしには今恋人も、自分の家族もいないので、いつか一人になった時に、誰にもこの悲しみを言えずに悲しみから抜け出せずに潰れていくのではないかということにも不安の要素があるのだと気付きました。 そこで思ったのが、 自分が日頃から関わっているお寺があれば、日頃からもっと仏教に触れることはもちろんですし、葬儀でお経をあげていただくことになっても、知っているお寺の方でしたら気持ちが落ち着きますし、法名の相談もできるかもしれません。 何より一人で辛い時には説法を聞きに行けたりして、孤独ではない、自分が生きているのは今であるということを感じる時間を持つことができるのではないかと思いました。 ですが、我が家は既に地域の納骨堂を用意しており、お墓のことを含めて檀家にというのは難しく思います。 更にお寺によるかと思いますが、お金もだいぶ掛かると聞きます(収入はそんなに高くないので) この場合、檀家になったり、馴染みのお寺を見つけることは難しいことなのでしょうか。 もちろん一番大事なのは場所ではなく、気持ちだというのはわかっているのですが、未熟者ゆえ、このように考えてしまいます。
はじめまして、24才の禅大好きなものです。僧侶様の皆様に質問があります。 自分は昔からお寺が好きで、18才になると僧侶になりたいと思うようになりました。ですが知り合いもいなくなんの行動もおこさず生きてきました。ただ年をとるだけてます 出家について疑問点があります。 自分は学歴が中卒で刺青が体にあります。 そんな自分でも出家できますでしょうか? 自分は禅宗でと考えてます。 またお寺様に急に出家したいのですがどうしたらいいでしょうか?と質問したらやっぱり失礼ですよね? お盆がちかずいてくるとよりいっそう僧侶になりたいと思う気持ちが強くなります。 本気で好きです。 今まで迷惑かけてきた方々ごめんなさい。 次は自分が助けるばんです。 半端な気持ちではありません! すみません。文章力ないため意味の通じないところもあるかもしれませんがご了承ください。 それでは回答お待ちしております。
先日は御回答頂きありがとうございました。 ところで、色々な宗教では自分で命を絶つことを禁じていますが、最近どうにもならなくなってあの世へ旅立ってしまう人のニュースを見聞きするようになりました。いつの世もこんな事はあるのでしょうが、そうは言っても哀しい話だと思うのです。誰でも一歩間違えたらそうなるのだと思います。 もし生まれ変わりがあるのなら幸せになってほしい、もしあの世に行けたのならゆっくりお休みになってほしい、迷っていたら安らかな場所へ一刻も早く辿りつけますように、と全く関係のなかった私が祈るのは無意味なのでしょうか。 私が暮せているのは、本当に運が良かっただけの話ですかないので、どうしても他人事とは思えないのです。
約1年前に3人兄弟の末っ子の弟を自死で亡くしました。(私は長女です) その日以来、どうしても精神状態が不安定になってしまいます。精神科にも通い、安定剤を飲んだりしていますが、不眠が続いており、突然ぼろぼろと泣いてしまうことも多いです。 「なぜ自殺なんてしたのか」「もっと弟の力になれたことがあったんじゃないか」「弟に会いたい」と、考え出したら止まりません。 自死したことは、弟が決めたことなので、受け入れなければならないと毎日必死に考えていますが…。遺書もなく、自死の原因も定かではないので、やはりどうしても納得できず。悲しくて、寂しくて、会いたくて堪らなくなってしまいます。 家族(父、母、真ん中の弟)のことも心配で堪りません。3人ともあまり感情を表に出さないですが、空元気で実際はとても落ち込んでいることがわかります。でも言葉にしないから、余計に心配です。 弟の自死に対する向き合い方、私が家族にできることは何か…。助言いただけますと幸いです。 乱文失礼致しました。
私の周囲に、守護や視察のお勤めで、お越し下さる霊がいらっしゃるのですが、 私と生前のご縁はなく、 皆様、御自分の懐かしいご家族とは離れ離れになっております。 皆様が天に帰られた際には ご家族に逢えるのでしょうか…。 こんな風に考えるのは出過ぎた事かもしれませんし大変恐縮なのですが、 私のような、赤の他人を助ける事よりも、 「天でご家族と安らいで過ごして頂いたり、 お一人お一人のご親族や 大切な方々の守護者になって頂けたら…」 という気持ちがあります… 叶える方法はあるでしょうか…。 離れ離れでこちらに来て頂いてるのにもご事情があるのかもしれませんが、 「守護者は本来、御先祖様やご縁の深い方がお就きになる」 というお話を聞いて育ちました。 それが本当であれば、 皆様を、ご家族の元に返して差し上げたいんです。 僭越ながら、何か私に出来る事はあるでしょうか… 霊界のどちらでお尋ねすれば ご家族に会えるようになるのか それさえもわからず、皆様の事が心配で御座います。 恐れ入りますが、どうかお話をお聞かせ下さい。
もうすぐエイプリルフールですが、お坊さんならではのエイプリルフール体験談ってありますか? 笑える話、シュールな話、びっくりな話 なんでもOKです
再就職が決まりました。私は50代女性です。 その職場は30代のスタッフが活躍しているとの事。新しい職場に馴染み、仕事を教えて頂きたく思います。私はどういう感じでスタッフと接していったら良いのかな?と、少し不安に思っています。まずは、どう挨拶したらいいのか、なんとなく悩みます。 今までは年上の方に指導して頂く事がほとんどで、年下の方に教えて頂く立場になり、なんとなく身構えます。自分の心の中に大丈夫かな?と、思う気持ちがあります。 私は若い方と働くなら、明るくさらりと、気楽にお付き合いしていきたいなあと思っています。感謝も伝えて行きたいと思っています。アドバイスがあれば、よろしくお願いいたします。
私の実家はお寺です。 民間企業で働いていたのですが家族や檀家の方々のことを考え、急遽地方僧堂へ修行に行きます。 実家は継がなくて良いから好きに生きなさいと言われ、自分のことしか考えずに生きてきました。お寺の息子でありながらお寺のこと、仏教に関しての知識はまったくありません。 こんな私でも檀家の方々を導けるのでしょうか? 最後に上山前に最低限覚えること、心構えなどを教えていただけると幸いです。
高校3年生です。 僕は、多分周りの誰よりも死ぬのに臆病です。 人は必ず死ぬ。その事実をなんとかして受け止めようと、色々模索していたところ、お釈迦さんの教えである「無常」に辿り着きました。 「世の中にある万物は変化し続け、ずっと変わらないものなどない」という様に自分は解釈し、自分の生き方に当てはめてみました。 しかし、ある疑問が出てしまったんです。 僕はあの世とか魂などというものを、あったらいいなとは思いますが、なかなか信じられないでいます。 それ故に、人は死ねば終わりだ、「無」だ、と考えているんです。 お釈迦さんも、死後のことについてはあまり説かれなかったと聞いています。 ならば、死んで「無」であったとしたら、 「無常」という考え方は果たして通用するのか自分には分かりません。 お坊さんなりの解釈やヒントを教えていただければ幸いです。
8年前に脳出血で倒れて施設暮らしだった父が、1,2ヶ月前から体調が優れず、とうとう麻痺側の足が壊死、そして今週急変し、持ち直したものの、もうそんなに長くはないという状況になりました。 もう80だし、この8年間施設でずっと暮らしてきた父には早く来世を楽しんでほしいという思いと、別れの時間が近づいてきている寂しさで毎日が辛いです。 覚悟を決めているつもりですが、涙が止まりません。 親の死への考え方、ご教授頂きたいです。
不躾な事を相談させて頂くのですが お寺を変える事は可能なのでしょうか。 理由は、お寺の方の対応に嫌な思いをしたからです。 以前、大切な身内の法事がありました。 住職は体調が悪いとの事で代理で女性の方がいらっしゃいました。 恐らく身内の方なのでしょうが、その方は法事をあげる人の名前を間違え何回忌かも把握していませんでした。 後ろにいた身内から名前を訂正され、何回忌かを振り向いて聞いてました。 怒りの気持ちでいっぱいでしたが親族がいたので堪え、ぐだぐだな法事になり説法も説得力なしでとても嫌な気持ちになりました。 慣れてないのか仕方ないです。 お経も間違えても仕方ないです。 せめて名前と回忌をきちんとしてほしかったです。 これから身内が亡くなった時などこんなにいい加減なお寺にお葬式を任せたくないです。 お寺を変える事は可能でしょうか? また変えるにはどうしたらいいでしょうか?
日々、心の中に焦りのような恐れのようなものがあります。 死というものが、必ず訪れる、しかもいつ訪れるのか解らないということに言いようのない恐怖と悲しみがあると同時に、いまこのある生を良く過ごせているだろうか、という強い焦りがあります。 以前は楽しめていた趣味も、こんなことをしていていいのだろうかと過ぎってしまい楽しめません。 仕事をしていても、こんなことを続けていていいのだろうか、と身が入りません。 休日、一日中布団の中で寝たり起きたりをして体力を回復するだけに一日使った日はとても悲しい気持ちになります。 コロナ問題もあり家からあまり出ない生活をしていますが、まったく人と会わないままあっという間に日が過ぎてしまう・・・ 日本人の平均寿命からして、健康寿命がこれくらいなので、そうするとあと1万日程度だろうか、いや、何らかの理由で死ぬのは明日かもしれない。そんな貴重な1日を、1週間を、1ヶ月を、こんなふうに暮らしていていいのだろうか。そんなことばかりを考えてしまい、特に夜になるとつらい気持ちになってしまいます。 ずっと、時間が無限にあるかのように過ごしてきてしまいました。 いつかやればいいだろう、と色々なことを先送りにしてきましたが、先送りした先に時間がない、というのが、この人生の折返しの歳になって切実になってきてしまいました。 それにも関わらず、これまでのクセがあってなかなか動き出せない、そんなことにも強く焦りを感じます。 どのように心を持てば、穏やかに過ごせるようになるのでしょうか? お導きいただけますと幸甚の至りです。
今月離れて暮らす姉が突然亡くなりました。訃報を聞いた時からなにが起こっているのか現実を受け止められずにいます。 駆けつけ、姉の顔を見た時に本当に亡くなってしまったのかと思いました。 葬儀やその後の手続きで忙しかったということもあり何かよくわからない感情のまま時間が過ぎてもうすぐ1か月になろうとしています。 姉が居なくなってしまったという空虚感が残りました。 ただ本当は帰ってくるのではないかとか、どこか遠くに行ってしまっただけではないかとか受け止められずにいてまだ悲しみに暮れるということがありません。 年老いた両親の憔悴した姿を見たということもあり、支えることに必死だったというのもあります。 強がらなくていい、気丈に振る舞わなくていいと言われますが私自身普通にしているつもりではないのですがよくわからない感情の中で今を生きています。 葬儀のときも私は涙は出ず参列者の方々の方が泣いていたりしていました。 昨日は、姉とよく行ったショッピングセンターで夕陽を見た時に胸が苦しくなったり、夢で会えた時涙がつたっていたりと小さな悲しみがくる時があります。 いつか姉の死を受け入れ、こんなふわふわした感情ではなくなる時がくるのでしょうか。