私は、現在25歳の男性で、性同一性障害に幼い頃から悩んでいます。 治療をすると子孫は残せなくなります。 親は性同一性障害に理解がまったくなく、治療に真っ向から反対で 「この代でこの家系を途絶えさせたらあの世でどうご先祖様と顔を合わせるのか?」と言われております。 今現在、味方が家族の誰もいません。 私自身、そういう言葉や状況で身体に手をつけるのは踏みとどまって生きてきました。 しかし、苦痛が限界を突破しているのか数年前に精神疾患を発症し、かなり追い詰められており、もう少し自分に素直に生きようと思い、家族との問題はいったん諦め、支えてくれる友人たちに助けてもらい、親には秘密で思い切って手術を受けることを決めました。 しかし、家庭環境以前にまったく関係のないご先祖様に対し、大変罰当たりなことをしていることは私もわかっています。 まずは大好きだった祖母の墓前で「ごめんなさい、あなたにひ孫を見せられませんでした。お許しください、また、私の代で家系は終了です、申し訳ありません」と謝罪しました。 とにかく打てる手は全て打ち尽くし、来週手術に臨むつもりで、自分の人生にとっては最高の選択なのに、どうしてもご先祖様のことで心の中にもやもやが残っており、前向きな気持ちで手術を受けられそうにありません。 1.あの世に行った時に私はどのようにご先祖様に顔向けすればよろしいのでしょうか…。 2.このまま我慢して男として生きていくべきだったのでしょうか…、、。 3.私が最後の代=墓が無くなってしまうのですが、それは罪なのでしょうか…? 4.罪深いことをしてしまった私は、残りの50年くらいの人生、どのようにご先祖様と向き合っていけば良いのでしょうか… 長文乱文申し訳ありません。何卒よろしくお願いします。
このタイトルの質問は多くたくさんは拝見するのですが、少し私は考えが違うかもしれませんので、投稿させていただきます。長文御容赦ください。 私は死について考え出したのは小学6年生の時でした。 そのときは、死んでしまうともうこの世には帰ってこれないし、今楽しいと思うことはもう二度とできない。といったものでした。 そして、考え方は年々変化しました。 今は以下のことを考え、夜になると吐き気をもよおすこともあります。 ・死んだらどんな姿になるのか ・姿が変わっても親や妻、夫に会えるのか、また後から来る人にも会えるのか ・生まれ変わるというが、今実際前世何かだったという記憶も多分ありません… ・あの世でも老化ということがあるのか?あればどのくらい前の人まで会えるのか?なければ老けない姿でどうやって会いたい人を探すのか? ・なんといっても向こうでも働くのか?食べるのか?ずっと活動するのか? といったことがこれでも一部ですが、考えてしまいます… 誰も死に逢ったことはないし、わからないものです。 ですが、かといってこういうふうな捉え方をするなと言われてもできそうにはありません… ありがたきお言葉をお待ちしております……
最近、家族の死について考えてしまいます。 祖父母と同居しているのですが、83歳と79歳です。毎日元気に挨拶してくれてとても嬉しいのですが、彼らが死ぬと考えると辛いです。お葬式なんて考えられません。 また、親の死と自分の死も怖いです。心配しているのは、死ぬのもそうですが、死に方です。殺されたり、溺れたり、災害で死にたくないです。死は苦しいというイメージがあって、嫌だと思います。 家族に先立たれて、この世に取り残されるのが怖いです。日に日に歳をとっていく家族を見ていると、怖いです。 生まれ変わりってあるのでしょうか?死ぬ時辛いでしょうか?あの世ってありますか? 本当に怖いです、心を落ち着かせる方法などがあったら、教えてください
人は死んだら無になるのでしょうか。仏様になって私たちを見てくれてはいないのでしょうか。 幼い頃から大好きで大切だった祖母が最近、亡くなりました。私の家には仏壇が無いため(親戚の家にあります)、祖母の写真を置き、その前にお供え物をしています。祖母は亡くなるまでの半年間は食べ物や水を一切口にすることができませんでした(病院から飲食を禁じられており、栄養はカテーテルで摂っていました)。しかし本人はずっと「食べたい」「水が飲みたい」と言っていたのにそれが叶うことなく亡くなってしまったため、あまりにも哀れで、せめて天国ではたくさん食べてほしいと思い、お供え物をたくさんしています。けれど、ふと思うんです。こんなことをして、祖母は食べてくれているのだろうかと。人は死んだら仏だのあの世だの霊だのそんなものはなく、完全に無になるだけなのではないかと。だとすれば、毎日あれこれと飲み物や食べ物をお供えしているのは、単なる私の自己満足に過ぎません。それを考えると、虚しくなります。仏もあの世もなく無になっているのなら、お供え物もお墓参りも完全に意味の無い行為と言えます。ネットで色々と検索してみたら、霊感のある人は「ちゃんと食べてくれている」という意見を述べていたのですが、私には霊感がないので何も感じ取ることができません。 それに、祖母は20年以上前に亡くなった祖父のお墓参りをずっとほぼ毎日やってきましたが、祖父が見てくれていたようにも思えないのです。なぜなら、祖母は長年、体の不調に苦しみ続けていましたし、長文になるので割愛しますが最期の時もあまりにも惨めなものでした。よく「故人を思ってお墓などを大切にすると幸せになれる」ということを聞きますが、祖母は最後まで哀れでした。このことを考えると、やっぱり人は死んだら無になるだけで、それ以上は存在しない、つまり私たちを見てくれてはいないのかなと思えてしまいます。 難しい質問かとは思いますが、回答、宜しくお願い致します。
先日最愛の祖母が亡くなりました。私はおばあちゃん子で、祖母もわたしをとても可愛がってくれました。 私は兄と二人兄弟で、祖母にとって孫は私たち二人しかいませんでしたが、私は兄よりも可愛がられたと自覚しています。 祖母と私は相思相愛で無償の愛でした。祖母は絶対的な愛情を注いでくれましたし、私も祖母のすべてが愛しく、何より大切な存在でした。 祖母が快くあの世に行ける事を心から願い、寂しいですが祖母の心残りになるようなことは慎み過ごしています。 もうすぐ49日で祖母はあちらに逝ってしまいます。祖母がまたこの世に生を受ける時、どうか私の元に来て欲しい。どんなかたちでもいいからまた祖母と会いたい。できるならまた家族になりたいと思っています。 その思いは通じるものなのでしょうか。 魂と魂として、私は祖母とまた繋がれることが出来るでしょうか。
はじめまして。 今回はじめて相談させて頂きます。 将来入るお墓についてなのですが、子供は二人いるのですが、二人とも県外に住んでいるため、わざわざお墓参りにきてもらうのが申し訳なく、私は将来は自分の墓を持ちたくないと思っています。 そこで、永代供養などいろいろ考えたのですが、近くのお墓だと合祀という形になると言われました。でも合祀だと他の人の骨と一緒なんですよね?それが、少し引っかかってしまいまして。 私は以前から人が苦手で普段も一人でいるほうが疲れなくていいほうで、死んでから見ず知らずの人と一緒のお墓と思うと少し考えてしまって。 生きている感覚で考えているから駄目だと思うのですが、未知の世界ですので、わからなくて。魂はあの世にいくからお墓は死んでしまえばどの墓に入ろうが関係ないということでしょうか? 海の散骨も考えましたが、そもそも海が怖くて。わがままですみません。 そもそも死んだあととお墓とは、どのような、関係なのか、自分の家ということであれば、また話は別ですし、自分にどの方法があっているのかしりたいので何かヒントがあれば教えてください。
二度目の質問になります。 昨年他界した夫は、夫側の先祖代々続くお墓で眠っています。そして、私と義父母は険悪な状態です。 義父母は長男である息子が亡くなったことで、その子供であるうちの長男を跡継ぎにと考えているようですが、夫の死から数知れぬ仕打ちをされてきた私たち家族にとって、義父母とは二度と会いたくない存在です。 私自身、婚姻関係終了届を提出すれば他人になれますが、子供たちはそうはいきませんし、完全に縁を切ることで夫が眠るお墓の問題が出てきます。夫には姉が一人いますが、すでに嫁いでいます。 百か日は私と子供が欠席で、あちらの親族のみで行いましたが、今後は義父母が欠席しても、しっかり喪主を務めてほしいと言われました。 私自身、喪主をするのは全然問題ありません。しかし、正直お寺さんも義父母とは精通する仲、しかも葬儀の時子供たちのいる前で散々夫の死を悪く言われたのでお願いしたくありません。 彼らを見てると、所詮見栄と体裁と金だけか!と強く感じています。 義父母は、相変わらず私の兄弟や友達に電話し生前残した夫の負債額や私の悪口を散々語り、挙句には残された財産や年金額をしきりに聞き出そうとしています。もう、はっきりいって全てが恐いです。 私は、鬼になろうと思いました。もうこれ以上振る舞わされたくありません。もう終わりにしたいんです。 私が死んでもあのお墓には入るつもりはありませんし、子供がお墓を守るか否かは子供が成人し物事の分別が付くようになってから子供自身に考えさせたい。だから、無理やり押し付ける事だけはしたくない。 でも、義両親はそれを待ってはくれない。 そんなんだったら、今後争うことを覚悟で夫のお位牌とお骨を家族のもとに返してもらい、全てを清算したいと考えています。 これって、矛盾ですか?これって勝手ですが? これらを実行することで、夫はあの世で苦しむのでしょうか?独りぼっちになって悲しむのでしょうか? 宗派が違うお墓に夫を眠らせたら夫は苦しみますか? 私の考えは、この世にいる身勝手さで、あの世では通用しない話なのでしょうか?すべてが分らなくなりました。 支離滅裂な文章ですみません。 どうか、どうか、助けてください。
4年前 大学卒業間近の息子を事故で亡くしました。あまりにも突然の死を受け入れ事は出来ず、未だに涙する日々ですが、毎朝、お仏壇にお花、ご飯、コーヒーをお供えしお線香を上げて、「我が家に生まれてきてくれてありがとう。亅と語りかけています。友達も多かったので 帰省の折には、必ず我が家にお参りに来て下さり、お線香を上げ息子を偲び、私の体調を心配してくれます。 優しいお友達に恵まれて、本当に幸せな21年間だったのだなあと思います。 お坊様にお聞きしたい事は、月命日に 来て下さるお坊様が、お供えしてある お土産や本、手紙などを、当たり前のように、手に取って、中をみたり読んだりされるのが嫌で、辞めて頂きたいという相談です。 お茶を出すために、席を外し戻ってきたら、遺品の財布を開けられている事もありました。お坊様だから勝手に触る権利はないですよね。その方個人のモラルだと思うのですが、お坊様が来られる日は、お仏壇の周りには、何も置かないようにしています。 ところが、先日お茶を持って部屋に戻ってきたら、息子のパスポートを見ながら 「あちこちの国に行かれたのですね。」 とー 床の間の端に置いてあったパスポートや 本を離れている場所から持ってきたようで、パラパラめくっている所でした。 悪意はなく、ただ興味本位でされている様ですが、不快でたまりません。 実はお経を上げている時も、珍しいものがないかと、首がぐるぐる回ってあちこち見ているのが、後ろに座っていてもわかります。世間話でも、自分の息子の話をされているので、配慮のない方だなと悲しくなります。 主人の家が長くお世話になっているお寺ですが、月命日の日が本当に憂鬱です。 主人は、私以上に悲しみの底にいて 未だに、お墓にも行けず、お仏壇にもお線香を上げる事はできない状態ですので、相談もできません。 私が、神経質なのでしょうか? 出来れば、月命日に来られる方も、他のお坊様に変えて頂きたく思っています。 どうか、良いアドバイスをお願いします。 長文読んで頂き、ありがとうございました。
8月に兄がアパートで孤独死しました、40代で独身でした、死後2週間以上たっていて死因は不詳でした、検死で自殺ではないことはわかりましたが死因やいつ亡くなったのかもわかりません。兄は借金を残して亡くなり仕事もしてなかったようでアパートの片付けや現状回復費用(50万くらい)もだせず私と母は相続放棄することになりました。何もできずに大家さんに押し付けるような形になってしまいました、遺品整理やどんな暮らしをしてたのか知りたかったですが特殊清掃しないと臭いなどがひどいと知りお金も出せなくて何もできなかったのが申し訳ないです。兄は成仏できますか?小さい葬儀だけしてまだ納骨もできてません、お墓もなくてどうしたらいいかわからずまだそのままです、形見もスマホとほとんど入ってない財布だけでした、亡くなる前に炊飯器を売ったレシートがあって500円くらいの食品の買い物をしてました…どんなに寂しい最期だったと思うと可哀想で…せめて成仏してほしいです、そして私がいつかあの世にいったらなんで亡くなったのか聞きたいです。
昨日、母の初盆で自宅にお坊さんに来ていただき、読経していただきました。 今まで無宗教だのあの世は信じないだの威勢のいい言葉を並べて生きてきましたが、母の死に直面して、純粋に「苦楽から解放されてあの世では安らかに過ごして欲しい」との思いで父方の宗派の浄土真宗大谷派のお寺さんにお願いして節目の法要をお願いしています。 お坊さんの法話で、私たちが心配しなくても極楽浄土で過ごされているから心配は無用なんだとの旨を教えていただき、少しずつ自分でもネットで調べて仏教に触れ、今まで無知だった仏教に対しての印象も段々と変わってきました。 そんな私のお坊さんに対する疑問ですが、母の法事のお坊さんの読経中は生前の母は「こんなことあったな」「あんなことあったな」と色々思いを馳せたり、お坊さんの「南無阿弥陀仏」が聞き取れた時はお坊さんの言葉に重ねて頭の中で南無阿弥陀仏と唱えているのですが、未熟なものでそのうち「お経長いな」とか「お坊さん、歌うまそうだな」とか「お経は何て言ってるのかな」とか色々と雑念がわいてきて、母や法事と無関係なことを考えてしまいます。正直お経の意味すら知らない自分が読経に合わせて手を合わせることに意味があるのかなんていう素朴な疑問もよぎります。 自分でも失礼だと思うし、「せめて今日ぐらいはお袋や先祖さま、お袋も可愛がっていた先代のペットのことを考えてやれよ!」と自分自身に突っ込みをいれたくもなるのですが、失礼な言い方ですが読経に自分でか「飽きてしまってる自分」もいるのだと思います。 そこでお坊さん方にお聞きしたいのですが、法事はもちろんこれからも参列する機会もたくさんあると思いますが、お葬式やお通夜など含めてお坊さんの読経中はどういった心持ちでいるべきなのでしょうか? もし同じような雑念が出てきてしまったら、どのように持ち直す?脱線を修正したらよいでしょうか? またお坊さんたちは自身のお勤めの際、どのようなお気持ちで読経なさるのですか?例えば劇の時のように、感情を込めてそのたちばになりきるように、お経の中の言葉の意味に思いを込めて唱えられるのでしょう?また同じような雑念がわくことはありますか? 子供じみた質問で申し訳ありません。
こんばんは。 長年、事実婚を続けてきた夫が亡くなり1年がたちます。毎日毎日涙と共に眠り御本尊様をお迎えし念仏を唱えながら心の拠り所にして何とか生きてこれました。一周忌を前に納骨します。夫の供養は私があの世に行くまで行い御本尊様に南無阿弥陀仏と唱えるたびに夫がそばで寄り添ってくれていると信じていきたいとおもっています。そこで小さな仏壇を購入し1年間見守って頂きました御本尊様をお迎えすることにしました。しかし私の親族は大反対します。何故反対するのかわかりません。 現在、私は一人暮らしです。夫は浄土真宗で、夫の親の家に先祖代々の仏壇があり過去帳もあります。また、49日、100ヶ日は私の家で行いました。月命日も毎月私の家で行っています。一周忌も私の家で行います。 お坊さんのご意見をお聞かせください。 よろしくお願いいたします。
大切な子どもが自死しました 自閉症と性違和があり、登校もままならず 精神科にかかっていました まさか自死するとは思わず苦悩の日々です 子どもが死を迎えるとき、 ご先祖さまや阿弥陀さまは 止めずに どんな顔で、それを見届けてたのでしょう パワハラ夫のもと、子どもの将来のために耐えてきました 夫の顔色を伺いながら生活してました しかし、子どもが亡くなって夫は やり直そうと言ってきました 心の喪失感から受け入れましたが 夫と共にいることが苦痛でしかありません 夫が家族に与えた傷をご先祖さまは、ちゃんと見ていたなら、子どもではなく夫をあの世に送るべきではなかったでしょうか 夫が仏さまやご先祖さまから、守られているようで納得がいきません 本人に自覚や反省がないのが悔しいです
こんにちは。 『今』を大切にする方法が知りたいです。 私は毎日のように死後のことを考えてしまいます。 早く死にたいという気持ちで、早くあの世に行きたいから、がんばっているという感じで毎日を過ごしており、どこか苦しさを感じています。 『今』という時間を大切にしたい。 日頃から小さなことでも感謝できるように なりたい。 亡くなったあとのことを心配をするよりも、 『今』を大切にしたい、『今』という時間を大切に思いたいということは考えられるのですが、どのようにしたらいいのか分からないです。 数日前に神社に行き、おみくじを引きました。 おみくじの内容は『今を大切に』と記載されていました。 二度とない『今』という瞬間を大切にすることで、人生はより実り多いものになると神様に教えていただきました。 今、この瞬間、この時間を意識して生きる方法を探しています。 死後のことばかり考えるのではなく、『今』という時間を楽しく過ごせるようになりたいです。 よろしくお願いいたします。
詳しくは書けないですけど、当時の父の心情や諸々の理由から自死だと私は確信しましたが、でも母と弟は頑なに認めず周囲に不慮の事故死だと説明してました。 生前の父は普段は寡黙でしたが、毎晩家で大量の飲酒をして酩酊状態でコンビニや行きつけの呑み屋まで行こうとしたり(さすがに車には乗りませんでしたが、自転車で蛇行運転して警察のお世話になった事が何度かありその度に私と母が迎えに行って謝りました)、友人や親戚に片っ端から電話を掛け朝方まで長話に付き合わせたりしてました。 それでも、私達に暴力を振るったり仕事を辞めたりしなかったのは不幸中の幸いだと思ってます。ただ、父は最期まで精神科を受診せず、代わりに(?)母と私が通院し、私は通院してた病院が最近閉院してしまって以来、どこにも通えてないですし薬も服用していません。 弟は父がまだ生きてた頃には既に自立してましたし、今は家庭を持ってますけど義妹(弟の妻)とは結婚どころか交際を始めたのは父が死んだ後です。なので彼女は父の事は一切知りませんし、母の介護にも非協力的です。 実は父は自分が亡くなる50年前に大学の同級生が命を落とす現場に居合わせていて、その方とは死因や状況がほぼ同じだったため、葬儀に参列した一部の友人が『あいつは◯◯(前述の若くして命を落とした友人)にこの50年間恨まれ続けてたに違いない。だから◯◯があの世に連れて行ったんだ‥。』とヒソヒソ言い合ってたり、中には母がその事実を知らずに父と結婚したんだと思い同情した人もおりました(何を思ったか、葬儀終了後に母に直接伝えに来たので)けど、母は『そんなのとっくの昔に知ってた。でもその上で私は一緒夫の側にいようと、むしろ自分の愛の力で死にたい気持ちを払拭させてみせよう!と決意したんだから後悔してない。』と、泣きながら話していました。 ですが、それが母の本心だったならあまりにも軽率というか、正直浅はかだなと思いました。 母は加齢と共に希死念慮が年々強くなり、同居する私の手に負えなくなりつつあります。私は独身なので、可哀想ですが近い将来施設に入れる事も考えてます。 浴びる様に酒を呑んで大勢の人に迷惑を掛けて身体も壊して、最終的に親友と同じ死に方をした父は、今度は私や母を道連れにする気でしょうか? 私は別にいつ死んでも構わないんですけど、死んでからもこれ以上母を苦しめるのは許せません。
最近ハスノハで人の物を盗んでしまった事、悪口、友人を突き放した、人に冷たく当たった、自分も虐められていた身であるのに人に触らないでと言ってしまったこと人の物を勝手に処分してしまったことを懺悔させて頂きました。 現在は良いことを心がけようと月に一度の募金(数百円程度ですが)だったり、人を傷つけないこと、家族を大切にすること、心の中でですがなど改善の努力をしていますが、やはりついうっかり約束を破ってしまったり、邪な感情が湧いてしまったり、カッと怒ってしまうことがあります。 全く反省できて無いじゃないかと辛いです。 つい最近、ネットで地獄の様子を表現したお寺を拝見しました。 地獄に行ったことがあるという人の話も目にしました。 人の物を盗み、心を傷つけ、手を上げてしまった私はあの様な恐ろしい所に堕ちてしまうのかと不安で堪りません。 あの世は本当にそういう所なのでしょうか?私はこのままそこに堕ちてしまうのでしょうか?恐ろしくて吐きそうです。 こんな愚か者ですがどうかご教授をお願いいたします。
2回目の投稿になります。 先日最愛の母が亡くなり、無事に四十九日を終えました。 亡くなった当初と、いまは感情が少しずつ変わってきました。 いまも、毎日、淋しい悲しいツラいは変わりませんが、一番に会いたいって気持ちが強く…。 私自身が亡くなったら、母とまた会えるのかなって。 私を娘として、迎えに来てくれるのか、あの世で、また、会いたくて会いたくて。 毎日、『寂しくない?』『もう痛くない?』『寒くない?』『おじいちゃんに会えた?』『また必ず会える?』『チビッ子達の入園式見たかったね?運動会見たかったね?』そんなことばかり母に話しかけては涙がとまりません。 母と、いつも訪れていた場所にも、ツラくて行くことが出来ません。 笑うこと、前に進むことが母が喜ぶことだと分かっているので、普通の生活になるべく戻し、人前では元気になったふりをしていますが、ひとりになると、『会いたいよ』『また会える?』って話しかけては涙が止まりません、 また母に会えますか? 母と話がしたい。。。 ツラいです。 淋しいです。
毎日毎日死にたいです。 死ぬ方法も考えて挑戦したけど今日も生きてしまっています。 でも今日こそ挑戦したいと思います。 この回答にお礼がつけられなかったらいいなって思います。あの世はきっと美しいでしょう。どんなところか想像するだけでワクワクします。 生きててごめんなさい。生まれてきてごめんなさい。こんな馬鹿な子供でごめんなさい。って気持ちです。 プロフィールにも書いてある通り苦労の多い人生でした。ここでも簡単に書くと、貧困で毒親の元に生まれ、兄弟の病気で悩み、自身も病気になりました。間違いも沢山してしまいました。犯罪と犯罪じゃない境界ギリギリのこと。辛かった苦しかったしんどかった。どうして私なの。って。 夢はあります。でも私が叶えられるかなって思います。医師になって多くの人を救いたいです。こんな、医師になりたいだとか。 でも、そんな夢もあるけどもう疲れてしまいました。休みたいです。新しい自分になりたいです。次は虫でも犬でも植物でも人間でもいい。 取り止めのない文章になりました。 後悔のないように生きたかった。 もっと愛されたかった。 一生懸命生きればよかった。
ニ週間前 母が亡くなりました。89歳 享年 90歳でした。今日は敬老の日 90歳のお祝いを楽しみにしていましたが残念でなりません。 お葬式の日にご住職様が亡くなった方は今は自分の死を受け入れなくてこの世とあの世を行ったり帰ったりして四十九日頃 仏になって 極楽浄土に行かれるとおっしゃっていました。声に出して 南無阿弥陀仏と言ってあげる事が亡くなった方は一番うれしいということも おっしゃっていました。ここで質問なんですが 南無阿弥陀仏とはどういうことで極楽浄土とはどういう所かお教えください。また 亡くなった母に四十九日まで そして それ以降も出来る事がありましたらお教えください。 私自身 やらなければならない事が多く母の死をまだ受け入れられていません。残された 六十五年連れ添った 実家の父のことが遠方ゆえ 心配です。
今日、我が家の犬が旅立ちました。 ペットは今や【家族の一員】とまで言われています。 そんな大切な家族(所謂、動物=畜生)のお弔いについて、 家族内で意見が分かれてしまいました。 父は『家族であっても、そこは畜生だから、お弔いしなくても良い』 子供は『大切な犬だったけど、人ではないので収骨まではしたくない』 私は『お経をあげてもらって、少しでもあの世で楽になれば』 家族内でも様々なので、仏教でも様々な捉え方があるのではないかと疑問がわきました。 我が家は曹洞宗ですが、祖父母は「もんとさん」(すみません正式名称忘れました。)、本家には「馬頭観音」があったり、 前に飼っていた猫が死んだ時は日蓮さんにお経をあげてもらった記憶があったりと、今まで様々な仏教に触れる機会がありました。 それぞれの宗派の中で【動物】や【畜生】に対してはどのような定義・教え・考え方なのでしょうか。 是非、ご教示いただけますでしょうか。 お忙しいとは思いますが、宜しくお願いいたします。
最近死ぬことがとても怖いです。今私は20代でまだまだ先の人生があると周りに言われます。死ぬ時よりも死んだ後無になるのだと思うと怖くてたまらなくなり涙が出てきます。今は祖父母も両親も夫も健在で幸せな生活を送ることができています。だからこそこの幸せがいつか無になることが怖いです。また、時間には逆らえないので祖父母、両親が先に亡くなるのだと思いますが、自分が死んでから会えますか?お母さんは必ず迎えにくると約束してくれました。夫も死ぬからといって離れ離れにはならないし、ずっと一緒だと言ってくれています。ただ、死んだら怖いとか迎えにきてくれるとか、そのようなことも思うことすらできなくなくなるのでしょうか。意識が無くなり、思いや感情や記憶も全て無くなってしまうのでしょうか。怖くて仕方ありません。自分が数十年前はこの世に存在しなかったというのも不思議でなりません。死んでも幸せな時間が続くという保証があればきっと怖くなくなるのだと思いますが、そんなことは誰にも分からないし、だからこそ怖いという思いが無くなりません。これまで亡くなってこられた方々も生前にこのような気持ちを持ちながら生活し、気づかないうちに亡くなっていたのでしょうか。文章がまとまらずすみません。辛く、怖いです。