約20年前に通っていた学校で出会った友人が18歳と言う若さで亡くなりました。死因は不明のままなんです。 友人とは3つ歳が離れているんですが、当時はいつも一緒にいました。 波長というのでしょうか?話を交わさなくても友人がそばにいるだけでも幸せに感じていました。いつも友人から幸せを分けてくれました。なのに私は、何もしてあげられませんでした。恩を仇でかえしてしまいました。 友人の死を知った時は、もう頭の中が真っ白になり、何も手につかなくて軽いノイローゼになってしまいました。何かつらい事や嫌なことがあると、彼女のところへ行きたいと思っていました。 今は、あまり笑わなくなったり、私だけ幸せになってもいいのかな?と思っています。本当に、私だけ幸せになっていいのでしょうか? 夏になると友人との思い出がよみがえり、毎日ないています。
先日の身体的弱者と出家の質問を書いていてふと思ったのですが、 重度の知的障害者というのは仏教のなかではどの位置にあるのでしょう。 重度の精神・知的障害者の方たちが僧職にはつけないことは理解できますが、仏教というものを私達の言葉・ものさしでは理解・表現できない、身体的・精神的に障害があるひとたちは、仏教徒にはなりえるのでしょうか。 仏教によって、例えば先ほどの浄土真宗の死後成仏し救われるといったような仏道の道というのは彼らにも開いているのでしょうか。
人生の中で苦しい時に勇気づけれられるようなイイ言葉をお坊さんに聞きたいです。このサイトを見ている皆さんの応援歌となるような勇気づけられるような言葉をお願いします。お坊さん自身が勇気づけられている言葉でも大変ありがたいです。
お坊さんは本気で、死んだら仏になると信じているんですか?
私は看護師なのですが、患者さんが不安や恐怖で辛いときに繰り返し唱えられる言葉を探しています。 その患者さんはお経を全て覚えることは難しいので、お経の中に、繰り返しやすく支えになるような言葉があれば教えてください。 心に握りしめて唱えることで、落ち着けるお守りの一つになればいいなと思っています。
お世話になります。じゅんちです。 15歳の娘の突然の死から8ヶ月が過ぎました。まだまだ涙が乾く日はありません。 月命日には友達が相変わらず来てくれて賑やかにしてくれます。 寂しい、会いたい、いろんな気持ちにもちろんなります、二女が姉の服を着たり同じような仕草をしたり、行事があるたびに思いだし二女の姿を見ながら同じような事が起きやしないかとたまらなく不安になったりの繰り返しです。 私自身が楽しい時間を過ごすことに罪悪感を覚えます。 友達に会ったり、笑う時間もありますがそれがふとたまらなくなるのです。 長女にも楽しい時間がたくさんあったはずだと。 長女は空から私が笑ってるのを見たいはずだよねと思うのですが、気持ちが頭がバラバラです。 どんな思いでいたらいいのか整理がつかず辛いです。 お言葉をいただきたいです。宜しくお願い致します。
お坊さんたちはお釈迦様の教えが 全て正しいものだと思いますか? あまり詳しいわけではないのですが 仏教はかなり女性蔑視的な 宗教のように思えます。 世尊、長老に告げて曰く、女人に九つの悪法あり。云何が九つと為すや。一に女人は臭穢にして不浄なり。二に女人は悪口す。三に女人は反復なし。四に女人は嫉妬す。五に女人は慳嫉なり。六に女人は多く遊行を喜ぶ。七に女人は瞋恚多し。八に女人は妄語多し。九に女人は言うところ軽挙なり。 この一節を知った時 私は女性ですし、 お釈迦様がこんなことを言うのかと かなりショックでした。 変成男子なんて言葉もありますよね。 仏教の専門家とも言える お坊さんたちはどう考えているのか 気になります。
私は現在主人と息子(3か月)の3人暮らしです。 初めての子育てで、わからない事ばかりで毎日奮闘しています。 私の幼い頃の家庭での思い出は辛い事ばかりでした。父親は定職につかず家でお酒を飲んで気に入らない事があると私に暴力を振るいました。 母には暴力をふるわなかったのですが、そんな父に怯え助けてくれず知らないふりをされていました。 私は両親に気に入ってもらおうと必死で何をされても笑顔で素直な自分を演技して生きてきました。 いつの間にか自分自身の事がわからなくなってしまい、突然不安におそわれたり、感情がシャットアウトしてしまいます。 そのためか、主人や子供との接し方がわからず混乱します。 今までは我慢や演技で乗り越えてこれたのに、子供が産まれてから何かがか変わったようで、 感情に抑えがきかず不安定です。 主人の優しさの受けとめかたがわからず傷つける事をしてしまいます。自分が嫌になります。 本当は幸せで暖かい家庭を築きたい気持ちは人一倍あるのに空回りしています。 家族や家庭の意味がもうわからない状態です。
2年前から精神病を患う彼について、ご相談いたします。 会社で上司と折が合わず、2年前に会社を退職し、 その後、突然倒れ意識不明でICUに入院していましたが、回復し今は病院に通いながら療養しています。本人からは、検査をしても倒れた原因ははっきりわからず、体調が良い時は外に出かけられますが、悪い時には一切の連絡がなくなります。 そのような繰り返しで、私も見守り続けて3年目になります。 毎日顔を合わせるのであれば、彼の様子がわかるので私も安心できるのですが、ずっと遠距離恋愛のため、見えないなかで、待ち続ける日々です。 現在も、11月の季節の変わり目で体調が良くないと連絡がありそれから、一切の返事がありません。 私も、会社までの通勤が片道2時間かかるため、日々の生活にクタクタで精神的にもキツイなと感じてきました。 願望成就の本に書かれてるような、未来の生活を楽しくイメージなんてする余裕もなく毎日いっぱいいっぱい1日を過ごし、休日は体を休めるだけで終わるような日々です。 どうか、私のこの心をお救いいただけませんでしょうか?よろしくお願いいたします。
先日、年忌法要の為に帰省したのですが、そこで受けた説法が今も引っ掛かっています。 その説法とは『身内葬で済ますのは不幸なこと』『親族の傲慢』といった内容で、 (忘れようとしているのか)細部まで記憶していませんが、とある事情から恥ずかしながら非常に怒りを覚えました。 その事情とは、年忌の前日に別の親族が亡くなり、事情から親族だけの葬儀にしていたからです。 つまり、その説法と亡くなられた親族が被ってしまい、 『なんて身勝手なことを言うのだろうか』という怒りがあったのだと愚考します。 ただ、親族の代表として向かった手前、怒りを堪えたものの、未だにお坊さんが唱えられた話が引っ掛かっています。 身内だけの葬儀は悪いことでしょうか?確かに親族や友人、知人を呼んで大きく葬式を行うのが一般的でしょう。とはいえ、それが絶対かというと腑に落ちません。 また、説法を行ったお坊さんとは今後も顔を合わせることになるでしょう。 その時にどう顔を合わせたものかと思うと、辛いものを感じます。 (今は説法に対する怒りの感情というより、疑問が凝り固まっているような状態です。) 不躾な文ではありますが、ご教示願えればと存じます。 余談ですが、出来れば浄土真宗本願寺派のお坊さんのアドバイスを頂ければ幸いです。 もちろん他宗の方のお話もお聞きしたいです。
お願いします。 災害についてはどのように捉えたらよろしいのでしょうか。意外に同様の質問が見つからなかったので、お願いします。 記憶に刻まれた大震災の数々、この世でいうところの善人も悪人も区別なしに命を落としました。 もし、これが何かの意思によるものならば、無差別テロのようにも思えてしまいます。 明日を信じていた者もいるでしょう。受験、スポーツ、出産。未来を信じて生きていく思い、願いはこんなにも簡単に途切れてしまうのです。家族の未来を願っていた者もいるでしょう。残された者には更なる悲しみが続きます。亡くなった方がた以上に残酷にも思えます。 私たちは乗り越えられる試練しか与えられない。という考えも聞きますが、残された者にとって、これは命が続く限り決して乗り越えられない悲しみに思えてしまいます。 何か意味があるならばお考えを教えて下さい。 それとも、起こる事象には何ら意味がないのでしょうか。加えて、この世の未来を願うことは仏教においては何の意味も持たないのでしょうか。
わたしはサラリーマンとして働いていますが、 小さい頃から我が強く、中学生位から対人恐怖、劣等感等でずっとなやみっぱなしでした。正直今でも生きるのが辛いのです。そしていずれ老いて、病気になって死んでしまうのかと思うと、生を厭う他ありません。 歴史上も、人間は戦争、飢餓、貧困、自然災害、病気の流行等、多くの人が圧政、侵略、理不尽に苦しみ、そして、死んでいったのでしょう。 そして現代の資本主義社会では強いものが勝り、弱きものは犠牲になります。豊かさとは何なのでしょうか?物質的なゆたかさ?はたまた心の平安? 生まれも選べない、容姿も才能も、環境も全て理不尽です。 悩みの大小はあれ、人生は圧倒的に理不尽すぎます。 また、単なる生物として遺伝子を残すためだけの存在ならばなぜ、人間は高度な意識を持っているのでしょうか。神は信じていませんが、単なる自然淘汰の産物だとは思いたくありません。 生きることに意味があると思いたいのです。生きていくにはそうして辛いことに目をふさいで自己欺瞞を積み重ね、社会という牢獄につながれた囚人として生きていくほかないのだという絶望も受け入れたく は無いですが、受けいれざるをえません。 どのような生き方が正しい生き方といえるのでしょうか? 囚人として生きるか、死という自由を迎えるか 支離滅裂で済みませんが、何か生きるヒントをください。
もともと、あまり寝つきのよい方ではないのですが、最近特に寝付けません。 お坊さんはすぐに寝れたりするのでしょうか。寝つきが悪いときはありますか?そのときは何をしていますか?
初めまして、この度自分では消化できない思いが芽生えまして。 お時間のある時に疑問に答えて頂けたらと思います。 先日、身内に「お坊さん方が相談にのって下さるサイトがあるんだよ」とこのハスノハを紹介したところ、身内が「なんか脱サラして僧になった人や元プロレスラーの僧がいるんだな……」となにやら神妙な顔で呟いたなと思いきや、 「この人らって僧になる前に大なり小なり犯した罪ってどうしたんかな?」 「人の悪口を言ってしまった、ネットで誹謗中傷してしまっただの相談に説教かましてる坊主がいるけど、この坊主らは今までやってきた前職でおかしてきた罪や行いはどう折り合いつけたんだ?」 「例えば元プロレスラーならそういう職業とはいえ汚い言葉で相手に暴言吐いたり殴ったりしただろうに」 「仏の道に入るんだから前に殴った相手だとか1人1人にちゃんと謝罪したんかな?それとも仕事だから別に悪い事じゃないとか思ってんのかな?もしくは過去は過去ってことでその事は切り捨てたり忘れたりしてるのかな?仏道に入ればそういう行い全部帳消しになったつもりでいたりするんかな?」 「なんにも過去を清算してない坊主が、ここで必死な思いでどうしたら良いか相談しに来られてる方々に説教してる姿に違和感がある」 「自分の事棚に上げて説教してるんならある意味偽善者よりタチが悪い気がする」 と、そのような事を言っておりました。 私はそれを聞いた時にギョッとしたものの、確かに…とちょこっと共感するところがありました。 お坊さんになられる前の職業でいろいろあった方々がいらっしゃると思いますが、過去の自分の行いにはどのように向き合っていらっしゃるか教えて頂きたいです。とても気になります。
中3女子です。 自殺を考えています。 色んなことに疲れてしまいました。何でこんなにも病んでしまったのか、自分でも分かりません。 原因等を考えてみても、「私の人格のせい」この結論に辿り着きます。 自傷行為もしています。 親にバレてしまった時 「お前がそんなに人間性が低いとは思ってなかった」「失望した」「お前が苦労していないからそんな事ができる」「贅沢」 と言われてしまいましたし、顔を叩かれました。他のどの大人よりも信頼出来るはずの親にそんな事されるとは思っていませんでした。 でも、死ぬときはちゃんと感謝の言葉を遺すつもりです。 私が自殺しても成仏出来ないでしょうか 神様、仏様は無宗教の人でも異教徒でも愛してくださいますか? 私は神様や仏様にも見捨てられてしまっているのでしょうか
阿弥陀様のお力でどんな悪人も浄土へ生まれ仏になれるという教えは、現在うつ病で死にたい人の背中を押してしまうものではないでしょうか? 私は救いのお力が決まっていることの安心感で今をより力強く生きていけると思うのですが、それは私が健康で、頑張れる心身の状態だからだと思います。 うつ病の人は今の状況がつらすぎて、ただでさえ消えたい、死にたいのに、死んだら悟りを開く仏にさせていただけるとわかったら、その言葉は非常に魅力的で、喜んで死んでしまうと思うのです。 私にはそういううつ病の人に、阿弥陀如来の誓願に包まれて強く生きてほしいのです。 どう考え、お話すればいいですか?
こんにちは。 昔、芥川龍之介の書いた『蜘蛛の糸』という小説を読みました。 お釈迦様がガンダダが救おうとして結局救われないという話だったと思います。 しかし今思い返すとあの話は少し変だと思いました。 あの話ではお釈迦様は極楽浄土にいて、そこから糸を垂らしてガンダダを救おうとします。 しかし仏教では解脱したら輪廻が終わり、無に還るだけだと説いているので、浄土にお釈迦様がいるのは場違いです。 そして調べてみると極楽浄土というのは阿弥陀仏の浄土なのでお釈迦様がいるのはやはりおかしいそうです。 またお釈迦様が人を物理的に助けるというのもおかしな話です。 お釈迦様は神様ではありません。(仏教的には神さまよりも上の存在(?)) あくまで現世で弟子たちに教えを残しただけです。 この作品は日本人に誤った仏教感を植え付けていると思いませんか? もちろん作品の演出だと言えばそれまでですが、日本で古くから信仰されている宗教だからこそ日本人は仏教を正しく認識する必要があると思います。
私たちはなぜ存在しているのでしょうか。もっと言うと、この世界はなぜ存在しているのでしょうか。「無」ではいけない理由が分かれば教えてください。 中には、私たちのいるこの世界は魂の修行と言う方もいます。 そもそも、何のために魂は作られて、未完成だからと修行を強いられているのでしょうか。修行の先の目的が分かりません。 よりよい力を身につけて世の中の辛い悲しみを抱えた魂を救うために修行しているのでしょうか。 それならなおさら魂がある意味が分かりません。最終的にどこに行きついたらよいのでしょうか。もっというと、意図して私たちの魂が存在するなら、世界が「無」ではない意味を教えてください。全てが「無」ならいけないのでしょうか。 時間も、空間も、何もかもが「無」ではない理由です。 それとも、目的とか関係なしに魂というのがなんかの拍子に偶然世界にできてしまったから精一杯生きるんでしょうか。それなら解りますが、意図があるなら教えてください。 よろしくお願いいたします。 このあたりの事は仏教とは関係ないのでしょうか。
今はただ、ただ、死にたいです。 先のことは何も考えられません。 明けない夜はない、止まない雨はないと言いますが、私の心はいつも土砂降りで、暗闇の中にいます。 家族は、「おまえの居場所は、家だ」と言ってくれますが、私の居場所はありません。 妹たちの姿を見ただけで、吐き気がするのです。 他の人と関わりたくない、自分の存在をこの世から一日も早く抹消したいのです。 どうしたらよいでしょうか。 教えてください。よろしくお願いします。
では回答率99.9パーセントのお坊様に質問です 前回の質問の答えに大慈様が言われた内容ですが 仏教では世界の始まりは「わからない」、「無始」、「無記」であると これって原因である始まりを無視して結果であるこの世界だけを見てる 因を無視した果の法則ですよね そして「蕎麦のレシピばかり論じる(原因)蕎麦がのびる(結果)とっとと食え(対策)」 「頭の中でこねくりまわすから(原因)迷いが続く(結果)頭の中でこねくりまわすのを止めましょう(対策)」 この対策こそが瞑想で悟りを開くことですよね お釈迦様は生まれた時から瞑想すれば悟りを開けるなんて知らないですよね ではお釈迦様に瞑想を教えた人は誰ですか?そしてその人にも教えたのは?そしてその人にも教えたのは? 仏教→バラモン→ヒンドゥー→ゾロアスターと土着信仰の融合→メソポタミア こうやってどんどんどん突き止めると悟りを開く瞑想を教えたのは因を無視した果の法則ですよ 因を無視した果の法則が悟りの瞑想法を作り因果関係のシルクロードを渡って我々に瞑想を教えたというのに 瞑想で悟りを開けばこの因果関係や因を無視した果の法則からも解脱できるってぶっ飛びすぎてないですか 悟りの境地の空間ですら先に因を無視した果の法則が始まる前から終わった状態での結果として作られたと思うんです そうすると煩悩と悟りは最初から二つの性質が同時に存在する量子力学みたいに共存してると思うんですが? あと諸行無常の教えで全てのものは変化するなら 善業も悟りも幸せも形を変えただけの煩悩ではないんですか? 涅槃の境地で夜に眠り煩悩で朝に起きて 涅槃の境地で瞑想してて煩悩で仕事行かなきゃいけなくて 涅槃の境地のお釈迦様は煩悩の梵天に娑婆の世界行かされた様に 悟りと煩悩は共存してると思うんです もしくは形を変えただけか 良文様が言われたヴィトゲンシュタイン様の形而上学的な疑問は言葉で説明できないという話 最初から量子力学としてある言葉に出来る世界と言葉に出来ない世界 その言葉に出来ない世界のような概念のないような形而上学の世界に神ならまだしも人間がいけると思いますか? たった6年の修行で・・・この6と言う数字・・・666 お釈迦様が実はフリーメーソンのメンバーで仏教をある理由で作ったとか思ったことないですか? 物事を理屈で考えさせない政治的プロパガンダのためとか