質問が殺到している何故なんだろう?と思っていたら、TVで紹介されたからなんですね。 今回は寺関係などの質問をさせて頂きます。 ただ字数足りなくなり、PART1とさせて頂きます。 近いうちにPART2も出させて頂きます。 1、(といいながら複合的…)皆さんのお寺は、檀家との付き合いはどんな感じですか? 自分の家は遠くてほぼなく、自分は住職の顔を8年は見てないし、このままだと次会うのは誰か死んだ時かなと思っています。 ちょっと寂しいかなと思ったり…。 大変不躾なのは承知ですが、「レンタル駐車場みたい(契約更新のときだけ会う)」が、自分で考えていて、いい得て妙だと思ってしまいました。 どこもこんな感じなんでしょうか? 檀信徒の集会もありますが(ウチは毎年不参加)、そういうのではなく、寺(菩提寺)の中に入って、個人的に歴史が好きで寺の話を住職から聞いてみたい、本堂で一緒にお経を上げたりしたい、法要の時は興味がなかった絵の説明をもう一度聞きたい見たい。 前にお墓参り行ったら、お経の声がするも、分厚い壁が、自分と菩提寺を区切って、声なんて掛けられませんでした。 どうなんでしょう、どうしたらいいでしょう?例えば、お墓参りのついでに会うのも駄目なんでしょうか? 家長でもないのに勝手すぎですか? どうにもならない高望みなんでしょうか? また、父はお寺ってもんは何かしらにつけて、お金を取ろうとすると言い、お金を取られやすくなるんじゃないかと不安に思ったりもしています。 2、無知ゆえの心得違いかもしれない興味本位の質問ですが、菩提寺が檀家さんのために行っている事ってあるんでしょうか? 疎いので業務連絡と墓周りの清掃しか思い浮かばないです。 例えば法要じゃなくても、檀家さんの事を想ってお経をあげたりするんでしょうか? 3、ぶっちゃけ寺で檀家回りを知ったんですが、自分の家に来たことは一回もないです。 日蓮宗ではやらないのでしょうか?それとも遠すぎるから?(家は埼玉、菩提寺は神奈川) 今年はやって欲しいと言ったら来てくれるんでしょうか? 日蓮宗の方、教えてください。 今回はここで一旦区切ります。 近いうちにPART2を出したいと思います。 追記、前回のお坊さんの贅沢についての返礼が遅れましたが書けましたので、回答頂いたお坊さんは宜しかったらどうぞです。
死にたい 死にたい 死にたい 死にたい 死にたい 死にたい 死にたい 死にたい 死にたい 死にたい 何度もhasunohaで 相談して お坊様達から お言葉をいただいても 死にたい気持ちは変わりません。本当に死にたい。
私は幼少期から親から虐待され育ちました。 当時はわけも分からずに受け入れるしかないと思っていましたが、今考えると産後鬱から私に当たってしまったと思ってます。 そのせいなのか今までずっとこんな私が生きてていいのかと何度も何度も自分に問いかけるようになりました。 鬱病にもかかってPTSDも持ってて自殺未遂も何度もしました。 でも死ねませんでした。 死にたくなかったけど死ぬという選択をとるしかなかったぐらいに苦しかったけど、でもやっぱり生きたいです。 でも生きるためには社会に適合しないといけません。働かないといけません。国に納税し、国民としての義務を果たさなければ私だけじゃなく家族全員が白い目で見られます。だけど働きたくない。死にたい。 もう嫌です、なんで人間になんか生まれてしまったんでしょうか、どうしてここまで苦しまないといけなかったんでしょうか。 もういっそ誰かに殺されたいです。この負のループから抜け出して楽になりたい。本当に死は救済ならば、死んで救済されたい。 どうしたらこの世から解放されますか? やはり死しかないのですか?
このような質問をしてよいものか迷いましたが 悩みが深まるばかりでしたので、質問することにいたしました。 本当に汚い文章で申し訳ございませんが、よろしくお願い申し上げます。 お坊さんは、煩悩である性欲とどのように向き合っていらっしゃいますか? 私は大変悩んでいます。 大学生になってから1人暮らしを始めて性欲が強くなってしまい 2、3日に1度は自慰行為をしてしまいますし、 アダルトビデオ(AV)もみてしまいます。 しかし、人格形成のうえで良いこととは思えません。 できることなら自慰もAVもやりたくも、みたくもありません。 にもかかわらず、自然と性欲が湧き上がってきてやってしまいます。 このままじゃ駄目だと、ひたすら自慰やAV鑑賞を我慢したこともあります。しかし、寝れなくなったり、学業に集中することができなくなりますし、我慢することも違うように感じています。 それでいま、 「人として道を踏み外さないようにするために、性欲とどのように向き合えば良いのか」 ということで悩みが深まっていました。 そこでお坊さんにご意見をいただこうと思って質問いたしました。 人として道を誤らないために ・自慰行為はやめるべきなのか ・アダルトビデオをみることはやめるべきなのか あとは自由に性欲についてお答えいただければ幸いでございます。 ご指導のほどよろしくお願いします。
お寺に嫁ぎました。元からそのお寺とも宗教とも関係なく、普通に生きていました。婚活して出会った人がお寺生まれのお坊さんで、その人個人は良い人そうだったので結婚したのですが、家に入ってみると、思っていた以上に夫も家族も宗教にどっぷり浸かっていて驚きました。義父が住職、義母がその寺の実娘で、外からの風通しが悪い義実家というのは分かるのですが、ここまでとは。結婚する前は寺生まれでない私の意見も大事にしたいとか言っていたのに、入籍した途端頭ごなしにお参りしないといけない、お題目を唱えないといけない、それをしないと不幸になるとまで言われて、汚いやり方に呆れるばかりです。挙句の果てにはお参りをしていない私は夫に意見してはならないと舅に言われました。お寺に嫁いだ手前、お寺のことはやっていかなければならないというのは分かるのですが、あまりの豹変振りと上から目線の頭ごなし振りに付いていけていません。本当に結婚前はお参りするのは自由、仕事を持つのも自由と言われていたのに、お参りは必ずどころかコロナに罹っていても来い、他所に働きに出るなと言われる始末。世間体もあるからお寺にお参りして欲しいと言われた方がまだマシなのに、お参りしなければならないという宗旨だからと宗教の崇高な話を持ち出して人の幸せや不幸をそれで説いて何とかしようとしてきます。カルト宗教ではないそうですが、人の罪悪感を煽り立てて自宗教に取り込もうとする様はカルトと言われても仕方ないと思います。もう諦めて自分を殺して、仏を信じ、子どものために良い母、良い嫁を演じるしかないと分かってはいるのですが、やっぱり今までの自分は捨てきれないし、宗教二世問題のようなことが自分の子どもに向くと思うと怖いと思ってしまいます。それに割り切って演技で信仰するのも、それこそバチが当たりそうで恐ろしいです。既にバリバリ信仰している義弟家の傍若無人の子どもたちややたら生気のない義弟夫婦を見ても、この中に自分が入っていく価値を見出しにくいです。 色々書きましたが、私も逃げ場がないのはよく分かっています。カルトのように感じられる宗教ですが、宗教自体を真っ向から否定したいわけでもないです。寺の嫁として覚悟を決めたいです。何をよすがにしたら良いのでしょうか? 質問の形になっていない内容で恐縮ですが、様々なご意見をいただけたら嬉しいです。
「いいね!」を「有り難し」にしてみたり、FacebookやTwitterへの誘導を「この問答を娑婆にも伝える」にしてみたり。 言い方は悪いですが、イメプレ臭がします。 質問の大半についても、「何もお坊さんに訊く必要はないのでは…」と思います。 お坊さんが答えても良いでしょうが、質問者と近い経験をしている人の方が、もっとためになる回答ができるのでは?と思えるものばかり。 大した回答でもないのに、質問者の大半が、「お坊さん」という仕事に対する過剰な期待と幻想にごまかされて、必要以上に有り難がっていることが多い気がします。 とくに熱血系の回答を見ていると、何だかなー…って気分になります。 こういうサイトこそ、人々を宗教の本質から離れさせていくのではないでしょうか? 利得が絡んでいそうなので、回答はないかもしれませんが、僧侶のみなさまの本心をお聞きしてみたかったので、質問させていただきます。
私は、約12年前からうつ病や不安障害などのために治療を受けております。 約1年8ヵ月前に父がガンのために他界いたしました。 私は元々寂しがりな性格であることもあり、また、私の発病後は友人との接点が全くなくなり、とても寂しい気持ちで毎日を過ごしておりましたので、父が他界してからは、物凄い悲しみや寂しさが続いております。 悲しみや寂しさの強さや、落涙する頻度は、時期によって多少の強弱があります。 主治医にこのようなことを相談したこと もあるのですが、「普通の人は、家族とか仕事などがあるから、そんなことばかり考えていられないんだ。」というようなことを言われてしまいました。 (私は無職で独身なので、このようなことを言われたのだと思います。) 前述のとおり、友人と呼べる人もいなく、誰とも話をしないことが日常ですので、悲しくて、寂しくて、困り果てております。 いい年をした中年男が涙を流す日が続いております。 こんな私に何かアドバイスをいただけませんでしょうか。 どうぞよろしくお願い申し上げます。
以前テレビで島田紳助さんが以下のように述べていました。(ブログからの抜粋です) 「仏教っていうのはね、自分のための拝む人へのもの。 両手を合わせた瞬間に、自分の心の中が穏やかになる。 そこに極楽が生まれんねん。例えば、あーもうムカつくわ、競馬まけた博打負けたから墓参り行こうって思う人はいないのよ。心が乱れてるから墓参り行こうとは思わない。ある日、ふとあ、長いこと行ってないな。お墓参り行こうか。と思う。その、お墓参り行こうか、と思った時、自分の心が穏やかになる。その瞬間、心に極楽が生まれんねん。だから、お墓参りの行為自体よりも、行こうと思った時の穏やかな心、それが大事なの。仏壇だってね、仏様が中にいるけど、あれは職人さんか誰かが木かなんかを彫ったものだよ。所詮。もしあれがほんとに仏様なんだったら、供えてある花も、仏様の方を向けて供えなくちゃいけない。でも実際はそうなっていないでしょ。向こうからしたら、花の裏、葉っぱの裏しか見えないよ。拝む人に向かって、拝む人の心に向かって供えてあるから。だから仏教っていうのは、心の中、拝む人の心の中に極楽があり、仏があるという教え。」 私はこのような考えに感銘を受けました。実際、極楽というにはこのようなものなのでしょうか?お坊さんたちの意見が聞きたいです。
おはようございます。先日、父の仏壇の部屋と居間での供養について教えていただいた者です。あれから、亡くなった人が成仏することについて考えれば考えるほどわからなくなってしまいました。お暇な時に教えてくださると助かります。 私は今まで、亡くなった父は天国に行ったと思っていました。時々仏壇やお墓のような祈りの場に降りて来るのかな....とも思っていました。 ハスノハに入ったのがきっかけで、成仏という字の意味を考えてそれは仏に成ることだと考えるようになりました。そうか、父は仏さまになるんだ....と思ったけれど、いざ祈ると自分の心の中に生前の人柄のままの父がいて仏さまになった父は想像がつかなくて、今まで仏壇の前で「ねえお父さん」と普通に呼んでいました。もしかしてとても失礼なことをしていたかもしれないですが、仏壇には仏像の絵があり、神様が祀られているんだろうと思いながらもよくわからなくて父にだけお祈りしていました。 本当は、深く考えないで父が安らかでいてくれれば仏でも何でもなっていていいのですが(不謹慎だったらごめんなさい)、亡くなった人の成仏とはどういうことか考え始めたからには知りたいです。でも私にとってはとても難しい部分なので、仏教初心者向けに教えてください。お願いします。
お世話になります。じゅんちです。 15歳の娘の突然の死から8ヶ月が過ぎました。まだまだ涙が乾く日はありません。 月命日には友達が相変わらず来てくれて賑やかにしてくれます。 寂しい、会いたい、いろんな気持ちにもちろんなります、二女が姉の服を着たり同じような仕草をしたり、行事があるたびに思いだし二女の姿を見ながら同じような事が起きやしないかとたまらなく不安になったりの繰り返しです。 私自身が楽しい時間を過ごすことに罪悪感を覚えます。 友達に会ったり、笑う時間もありますがそれがふとたまらなくなるのです。 長女にも楽しい時間がたくさんあったはずだと。 長女は空から私が笑ってるのを見たいはずだよねと思うのですが、気持ちが頭がバラバラです。 どんな思いでいたらいいのか整理がつかず辛いです。 お言葉をいただきたいです。宜しくお願い致します。
仏の教えを感じさせる日本の歌(JPopでも童謡でも演歌でも構いません)ってありますでしょうか? 歌のタイトル、アーティスト名、できればその歌を象徴する仏語を教えていただけますと聴く際の参考になります。
変な質問ですが(;゜O゜) お坊さんが『これは仏教的な歌だな』って曲を教えて頂け無いでしょうか? それを聞いてみたいと思ってます。 個人的は、THE ブルーハーツの 「情熱の薔薇」‥‥諸行無常的な 「リンダリンダ」‥‥衆生の命の尊さ ミスチルでは「HANABI」‥‥煩悩の執着心 です(笑)あくまでも個人的な解釈なんで‥‥ 仏教に仕える方々の音楽観を知る事が出来れば、ますます仏教が面白くなると思い質問させて頂いております<(_ _)>
初めまして、この度自分では消化できない思いが芽生えまして。 お時間のある時に疑問に答えて頂けたらと思います。 先日、身内に「お坊さん方が相談にのって下さるサイトがあるんだよ」とこのハスノハを紹介したところ、身内が「なんか脱サラして僧になった人や元プロレスラーの僧がいるんだな……」となにやら神妙な顔で呟いたなと思いきや、 「この人らって僧になる前に大なり小なり犯した罪ってどうしたんかな?」 「人の悪口を言ってしまった、ネットで誹謗中傷してしまっただの相談に説教かましてる坊主がいるけど、この坊主らは今までやってきた前職でおかしてきた罪や行いはどう折り合いつけたんだ?」 「例えば元プロレスラーならそういう職業とはいえ汚い言葉で相手に暴言吐いたり殴ったりしただろうに」 「仏の道に入るんだから前に殴った相手だとか1人1人にちゃんと謝罪したんかな?それとも仕事だから別に悪い事じゃないとか思ってんのかな?もしくは過去は過去ってことでその事は切り捨てたり忘れたりしてるのかな?仏道に入ればそういう行い全部帳消しになったつもりでいたりするんかな?」 「なんにも過去を清算してない坊主が、ここで必死な思いでどうしたら良いか相談しに来られてる方々に説教してる姿に違和感がある」 「自分の事棚に上げて説教してるんならある意味偽善者よりタチが悪い気がする」 と、そのような事を言っておりました。 私はそれを聞いた時にギョッとしたものの、確かに…とちょこっと共感するところがありました。 お坊さんになられる前の職業でいろいろあった方々がいらっしゃると思いますが、過去の自分の行いにはどのように向き合っていらっしゃるか教えて頂きたいです。とても気になります。
悟るにはどうしたらいいですか? 坐禅をする? 仏教の本をたくさん読む? 悟るにはどうしたら良いのか教えてください。
悟ったら毎日どんな感じですか? 悟ったら毎日たのしいですか? たのしいだと つまらないが対極について回るから たのしいというより 静かな感じですか?
僕は日々陰鬱に生きていて、変わらなければならい節目を迎えた時、生きる意味について考えるキッカケを授かりました。生きる意味というか、今、生きているということに納得する理由がほしくて。僕はその理由をなんとなく自分の中に見出しました。 それは「人は善を為そうとし、真に為し得ない。優しくあろうとし、真に優しくあれない。愛そうとし、真に愛せない。」その善を為そうと、優しくあろうと、愛そうと努力することこそが生きる悦びだと、僕はそう納得していました。そしてその「生きる意味」を職業(カウンセラー、精神科医、臨床心理士、お坊さんなど)にしようと、大学を入り直すことさえ考えました。 しかし、その友達は、僕の生きる理由を「現実を決済する」こと、僕が信じる「美しいものを美しいものだと感じる心そのもの」を妄想と否定し、浄土、成仏の存在を真っ向から否定しました。 僕は、その友達の考えを否定することはできませんでした。かといって僕の本来持っていた考えを否定する気を起こそうとも思いませんでした。 またある人は「誰かがあなたに、本音や弱音を告白しているときに絶対に言ってはいけないことがある。正論です。」と言いました。 浄土、仏性、成仏は、そして仏教は、自己満足させるためだけの嘘なのでしょうか?美しいものを美しいものだと感じる僕のこの心は妄想でしかないのでしょうか? それは僕が在る、と考えれば在る、のだと信じておりますが、僕はこの途方もないやるせない気持ちをどうにかしたいのです。 僕は恐らくこの(実存哲学?という)正論を信じると一生不幸だと思い、しかも僕はそれに対してどうしようとすることもできないのです。 僕は、仏様から授かった自分の寿命を全うするために死ぬまで生きようと思っておりましたが、その考えが不安定にならざるを得ないのです。 僕はこの儚い気持ちにどう向き合えば良いのでしょうか?お智慧をお貸しください。 長く稚拙な文章となってしまい申し訳ありません。また仏教思想を自分勝手な解釈で捉えております。それは違うというところ、誤解があれば、感謝と敬意をもってお説教を受け賜わります。 便宜的に、思想的に、僕はその人を友達だと書きましたが、本当はツイッター内において、フォローフォロワーの関係にすらなっていない、赤の他人です。 (´・ω・`)...
お願いします。 災害についてはどのように捉えたらよろしいのでしょうか。意外に同様の質問が見つからなかったので、お願いします。 記憶に刻まれた大震災の数々、この世でいうところの善人も悪人も区別なしに命を落としました。 もし、これが何かの意思によるものならば、無差別テロのようにも思えてしまいます。 明日を信じていた者もいるでしょう。受験、スポーツ、出産。未来を信じて生きていく思い、願いはこんなにも簡単に途切れてしまうのです。家族の未来を願っていた者もいるでしょう。残された者には更なる悲しみが続きます。亡くなった方がた以上に残酷にも思えます。 私たちは乗り越えられる試練しか与えられない。という考えも聞きますが、残された者にとって、これは命が続く限り決して乗り越えられない悲しみに思えてしまいます。 何か意味があるならばお考えを教えて下さい。 それとも、起こる事象には何ら意味がないのでしょうか。加えて、この世の未来を願うことは仏教においては何の意味も持たないのでしょうか。
お忙しいところ閲覧してくださり、ありがとうございます。 常日頃から不思議に思うことがあります。 現代でも崇められている、お釈迦さま、空海さま、キリストさま… のような存在は、現代では新規に現れることはないのでしょうか? 例えば空海さまは、1000年以上も21日に「お大師さまの日」として 民間でも催しが行われたりしますよね。 平成生まれの方だと馴染みが薄れてきているのかも知れませんが、 30代後半の私の祖父母や親の年代の方を見ていると、 まだまだ大衆的に馴染みがあるのかな、と思います。 そのように、一般的にも認知度が高く偉大な存在が、 明治、大正、昭和、平成の世に現れていない?ような気がします。 (無知なだけでしたら申し訳ありません。) ・現代では一般人の信仰心や目に見えないものを 信じる心?が失われてしまったため、現れなくなったのか? ・決め打ち(摂理や何某かの力により)なのでもう現れることはない? ・たまたまここ数百年現れていないだけ? などと考えを巡らせています。 長文失礼いたしました。 また、もし失礼にあたる質問でしたら申し訳ありません。。
近所のお寺の奥さんの言動に失望し、傷ついたのですが聞いて下さい。 私は特別支援学校の職員ですが、いつも生徒15名と他の職員3名と共に散歩をしているのですが、その散歩コースに近所のお寺が含まれており、境内で休憩し生徒達もはしゃいで走り回って楽しんでいます。 トイレも拝借しております。 ある日、帰校しようとお寺を出た所、お寺の奥様に呼び止められ「あなた方にはモラルがないのですか?」と、いきなり怒られました。 一方的に「あなたは、よそ様のお宅に勝手に上がり込んで勝手にトイレを使って庭を荒らしても何の挨拶もなく知らぬ顔で帰るのですか? 来る時は前もって、いつ、何時頃行ってもいいですか?と連絡するのが常識でしょ」と言われました。 納得できないのですが、お寺は地域の為に存在し、誰でも自由に出入りが出来てトイレも自由に使ってもいいのではないですか? 奥様が仰るには、「うちは観光寺院ではありませんし、トイレも公衆トイレではありません。」だそうです。 これでは生徒達が可哀想です。 お寺は皆そうなのですか?
阿弥陀様のお力でどんな悪人も浄土へ生まれ仏になれるという教えは、現在うつ病で死にたい人の背中を押してしまうものではないでしょうか? 私は救いのお力が決まっていることの安心感で今をより力強く生きていけると思うのですが、それは私が健康で、頑張れる心身の状態だからだと思います。 うつ病の人は今の状況がつらすぎて、ただでさえ消えたい、死にたいのに、死んだら悟りを開く仏にさせていただけるとわかったら、その言葉は非常に魅力的で、喜んで死んでしまうと思うのです。 私にはそういううつ病の人に、阿弥陀如来の誓願に包まれて強く生きてほしいのです。 どう考え、お話すればいいですか?