お世話になります。 夫が亡くなって、初めてのお盆。 まだ気持ちのきりかえも整理もできないまま… まだ未だ、仏壇の前に手を合わせれない自分…遺影に向かって話しかけれない自分がいます。 提灯など、飾る事になってる風習ですが… うまく準備ができません。 あまり、きちんと飾りたくない自分がいます。 でも、光を灯してあげないと、亡き人は来てくれませんよね? そもそも、夫がちゃんと成仏できてるのかもわかりません。日頃からも、線香の匂いが一瞬したり、花のちょっと妙な匂いがしたり、今までに嗅いだことがない匂いがしたり… どれもこれも一瞬です。 やはり、私がくよくよしたり、日頃からお線香をあげなかったり、南無阿弥陀ととなえなかったりしてるからでしょうか。 夫の死が普通と違うので、なんとも言えない気持ちのまま時が経ってます。 長くなりましたが… 初盆、日頃から亡き人は、家族を見守ってくれてたりするし、近くにきてくれてたりするのですよね? なのに初盆になったら、帰ってこられるから.とはどういう事なのでしょうか? もし成仏してなくて、後悔のあまり、常にウロウロしていたらどうなるのでしょうか? 初盆になって、あれこれと、準備をしないといけないのは何故ですか? また15日のお帰りの意味とは… 初盆にかかわらず、常に、ここにいてほしいし、15日のお帰りもないでほしいです。
こんにちは(=゚ω゚=) 長年漠然と解決しないものがあり、単刀直入に質問をさせて頂きますm(__)m 『お坊さんとは一体なんなのでしょうか?』 職業としてあるが、お医者さんとは違い体に触れて治療はしない。 話によると事業者の税金は非課税。国民でない? いろいろ人生の相談にのってくれるが、近所の年長者とも違う。 悪い行いをしては善くないと諭すが、もちろん警察ではない。 いろいろ知っているが、哲学者などとも異なる。 誰にでも分け隔てなく門戸を開いている。 毎日毎日、修行やお経を上げているが、相撲のように、儀式や観戦のようにお客を湧かすわけでもない。 法律にある、『個人の思想の自由』を良い形で具現化し続けているもの? となると要は『宗教』なんでしょうが、究極の自己満足の生き方?それとも、やはり修行を死ぬ(一般的な意味で100歳の肉体)までやりたいマゾヒスト? もし、ある一定の地域(日本として)の全員が仏教をしたならば、そこの人々は桃源郷になるのでしょうか?ロボットを創る人も、パイロットも、芸能人も、ウェイトレスもいなくなるので、生活が戦国時代ぐらいになるイメージですが。 でも、そうなると、助ける人がいなくなると、お坊さんはすることがなくなる? 思い付くままに箇条書きにしていますので、僕の偏見や間違いもあるかと思います。すみません。m(__)m 大変失礼と思いましたが、ずっともやもやしていたので知りたいです(。-人-。) よろしくお願い致します(^-^)
現在メンタルクリニックに通院しています。 普段から誤解されやすい性格で、クリニックの先生にも上手く今の心情を伝えることができません。 生きていく気力がもうありません。 お世話になった方にはもう手紙を残してあります。 自分が死んだ場合の身の回りの処理も記しました。 あとは両親より先に死ぬことだけが申し訳なく思うくらいでしょうか。 私は子供の頃から周りのことを考えない人間でした。 大人になった今も人の気持ちに心から寄り添うことができません。 その分たくさん迷惑や嫌な気持ちをさせてきました。 それだけでも私は極楽行きには程遠いと思いますが、自殺したら魂は地獄行きですか?
おはようございます。苦の生起と消滅の観察なのですが、お暇な時に、もしよかったら教えてください。老死から無明まで(十二支縁起説)を一気に理解するのはちょっと無理で、今回渇愛のところで立ち止まりました(五支縁起説)。間違えていたら直していきたいです。 老病死の苦があるのは生まれたから(生まれたらいつか死ぬ) 有があるから生がある(有は境遇のようなもので、そういう立場に生まれた、みたいな?) 取があるから有がある(自分の境遇を受け取る) 渇愛があるから取がある(渇愛とは求める心で、名前や形のあるもの、自己を追い求めて自分のものにする) この渇愛が消滅すると老病死の苦が消滅する。自分の立場とか手に入れたもの、自分を示すものを求める心がなくなると苦しみがなくなる、ということでしょうか。
昨日無事に、祖父の四十九日法要と納骨式を終えました。 初めての法事だったこともあり、 いくつも失敗してしまったことを気にしています。 (1)葬儀屋さんから、当日はお位牌と骨壷をお持ちくださいと案内され、遺影を持って行きませんでしたが、祭壇には遺影を飾る場所がありました。 (2)祖父の骨壷に名前などが入っていませんでした。納骨式でご先祖様の骨壷を見て、名前などを刻印できたことを知りました。知っていれば入れてあげたかったのに… (3)最後にお斎に向かい、親族揃って会食を済ませましたが、一番大切な祖父のお位牌をお墓に置いたままでした。帰り際に取りに行きましたが、とんでもない大失態です。 後悔しても後悔しきれず、祖父にも申し訳ない気持ちです。 何かできることはありますでしょうか。
去年11月に病気で大切な母親が永眠しました。84歳でした。一周忌に墓に納骨をしようと準備していますが、母親の先祖代々のお墓のある寺に問い合わせたら、墓の管理者の許可が必要といわれました。母親は四姉妹の末っ子で長女と母親が先祖代々の名前です。長女と母親は生前あまり仲良くなかったらしいのですが、母親は代々のお墓に入るのを望んでいました。長女には何の遠慮もせんでいいよと常々言ってました。長女親族とはずっと連絡などしてこなかったのですが、墓の管理者となるとやはり長女の子供たちでしょうか。長女も生存してるのか不明です。今名古屋に住んで30年経ち、代々の墓は石川県で遠方で、数年に一度母親共々墓参りしていました。自分は40代独身で父親と姉の3人です。まだまだ一周忌経ってないので日々淋しさと悲しさは溢れた日々です。 代々の墓に普通に入れると思っていたので、今不安と一番最善はどうしたらいいか、そして、自分もおそらくこのまま独身で生きてくと自分が亡くなった後の不安、母親と同じ場所に絶対に入りたいのでどうすればいいか、、是非ともアドバイスいただけけたらと思います。 もし、先祖代々の墓に母親が入れないと母親との約束が果たせない辛さ、悲しさとか強く抱いてるので、不安です。 片足が不自由だった高齢の母親といつも一緒にいれたことが凄く幸せでした。側にいて当たり前と思ってた大切な存在だったので悲しみと淋しさもとてつもないです、、 今はまだ母親の遺影と遺骨をミニ仏壇に添えて日々お参りしています。涙が止まりません。 今後の残った自分、高齢の父親、姉の3人も絶対に母親と一緒に永遠にいたいのでその点も含めてアドバイスよろしくお願いします。。
現在、高校一年です。 入学してすぐに、黄檗宗のお寺の息子さんとお付き合いするようになり、今で8カ月になります。 とても仲良くしてるのですが彼の性格上、ケンカをすると口いっぱいに文句を言われます。 お前と俺の住む世界は違う。とか、お前に俺の家の事のなにがわかるねん。とか、とにかく理不尽な理由でキレられ、毎回私が謝って仲直り。みたいな感じです。 とにかく、口いっぱいにまくし立てて言ってくる彼の性格をかえてあげたいのですが、彼は以前、周りの顔色ばかり見て心を病んだ過去があるらしく、思いっきり言い返すこともできません。 私が言ったことで、病んでしまったらどうしようという思いがあります。 別れる事も考えましたが、私が居ることで精神安定している。と彼が言っていた事を考えると、別れる事を考えるより、彼の性格を何とかしてあげたい。と、言う気持ちになりました。 どうしたらいいでしょうか? 彼の家は、男3人兄弟の長男でとてつもなく、期待をされてるみたいで、デートをしても朝早くから遊んで、4時には帰る。夜まで一緒にいた事もありません。お父さん、お母さんの言う事にとてつもなく忠実で、右向け右の状態で自分の意思は家では無いみたいです。 どうしたらいいですか?
死後の世界ってあるんでしょうか?
昔から自分で決めることがとても苦手です。 いつも誰かの決定に従って生きていきたい、と思うほど自分で決めることが出来ません。誰かに決められないと、何をすればいいのか分からず非常に不安になります。 高校のころまでは自分で決めなければならない場面が少なかったため、こんな性格でもなんとか過ごせてこれました。けれども最近は自分で決めなければならない場面に多く直面しています。そして周りの子が当たり前に自分で決めているのを見るたびに、自分もああならなくては、と焦っています。そんな風に焦ってはいるものの、結局自分で決めることが出来ず、友人にどうすればいいのだろうと決定を求めてしまっているのですが…。 自分で決められないのは、自分の決定に責任が伴うのを恐れているせいだろうと思います。また、何に対しても「そういう考え方もあるんだなあ」と疑問を持たずに受け止めてしまい、結局何が正しいのだろうかと悩んでしまう性格のせいだろうと思います。 責任を持てないふわふわとした自分に嫌悪感があふれ、このような性格のまま生きていけるのだろうか、と不安を抱える毎日です。どうすれば自分で決めることができる人間になれるのでしょうか。(こうして聞いている時点で人に決定をもとめていますね…笑) 長々と申し訳ありません。つまらない悩みかもしれませんが、何かお言葉を頂ければ嬉しいです。
私は小学生の頃、大阪のUSJ近くのホテルで恐らく心霊体験をしました。 それ以来、私は今でも霊の存在を信じているのですが私個人としては、どちらも科学で証明できると考えています。 よく霊や死後の世界は非科学的と世間でも科学の世界でも言われていますが、その多くはしっかりと調べもしないで根拠も無いものばかりです。 そもそも非科学という言葉が非科学的ではないのかと私は思ってしまいます。 死後の世界や転生に関しては近年、量子物理学の学者が科学的に存在する可能性を真剣に研究しています。 私は霊や死後の世界などが今まで立証できなかったのは科学が未熟だったからではないかと考えているのです。 ですので、将来、立証できる日が来るのではないかと私的には思います。 そこで質問です。 お坊さんは、霊や死後の世界をどの様な存在だとお考えなのでしょうか? また、もし、今後この分野に科学のメスが入る場合、お坊さんとしては、どの様に思われますか?
あるお寺に予約を取り、悩み事を聞いていただくことになりました。 お布施が必要だと思いますが、どれくらい包めばいいのでしょうか? 時間は 9:30〜11:30くらいまで。 何もわからないもので…、アドバイス頂けたらと思います。
十方諸国土に三世諸仏様、 数多の菩薩様や天部の神様がいらっしゃいますが、 特定のお寺に檀家に入っている意識も薄く、 仏像様も身近にない 在家の者は 自分が集中して拝む仏様というのは、 どうやって選ぶのですか。 別に選ばなくても良いのですか。
先生方、先日は親身になって相談に乗って下さり、本当にありがとうございました。 中でも特にお世話になった先生もいらして(噛んで含めるようにお話し下さって、本当にありがとうございます。心が楽になりました)、まずそちらに先にお礼を申し上げてからが礼儀だろうと思いましたが、一人の先生にあまりに頼りすぎてしまうのもご負担が掛かりすぎてしまいますし、別の質問事項ですので、あらためて投稿させていただけましたら幸いに存じます。 先日、他の方のご質問で「枕経」のお話がありました。 ここに、どうしても死ななければいけない人がいたとして、あるいは間もなく殺される運命にある人がいるとして、そしてとても救われたいと願っているとして、その人に何とお声を掛けて下さいますか? そのような人の、死に際しての心構えを教えていただけましたら本当に有難く思っております。 先生方にはお忙しいところ誠に恐れ入りますが、もしよろしかったら、「枕経のようなつもりで」お教えいただけましたら有難く存じます。 どうぞよろしくお願い申し上げます。
極楽浄土へ行くためには 戒律を守らなければならないと聞いたことがあります。 では戒律と私がしたことについて 殺生をしない まずこれはどんな生き物とて殺してはいけないのですよね? 蚊やゴキブリなど殺していますし 肉や魚も食べています。 盗みをしない 盗みは少年時代よくやりました。 しかもつい数年前万引きをして 警察に捕まりました。 このことについては 反省しています。 酒を飲まない ビールを飲んでます。 悪口を言わない 極力言わないようにしていますが 嫌なことされたり頭にくることされると 時に反論や悪口を言ってしまう時があります。 嘘を言わない 嘘はついたことはよくあります。 大人になってからは正直に生きたいと 思ってましたが会社などで働いていると 普通に本音を言うと怒られたり 敵対されいじめの標的にされた事がよくあります そういう経験をして以来 時に思ってもいない嘘を言って ごまかしその場を乗り切ることがあります。 ふしだらなことをしない これはあまりしませんがエロ動画や画像などは 鑑賞します。こういってことでも ふしだらなことになるのでしょうか? 心から懺悔をし善行を積み 南無阿弥陀仏など毎日唱え修行をすれば 罪罰から遠ざかるとありますが本当ですか? そもそも地獄は実在するのですか?
見つけて下さり、ありがとうございます。 私は発症前までは、神や仏、ご先祖様や霊魂など、色んなことを信じていました。 母の教えで、特にご先祖様を大切にし、常に手を合わせていたと思います。 ところが発症後、何もかもが信じられなくなりました。 もしもそういったものがあるなら、兄弟姉妹の中で、1番ご先祖様を大事に思い、遠くのお墓にも毎年お参りしていた私が、何故こんなに苦しい思いをしなくちゃいけないのか? 同じ血の通う兄弟姉妹を、どうしてこんな形にしたのか?(プロフィール参照) そんな思いばかりになりました。 母の教えに対する反抗心ではなく、あまりにも酷いと思われる人間からの仕打ちや、物語の様な自身の病気に、あらゆる『人間に関すること』を、心から信じることができなくなったのです。 そうしている内に、ここを拝見し、何度かご質問させていただき、写経や座禅をしてみたい…という気持ちが湧いてきました。 こんな私が、そういったことをさせていただくのは、良いことなのでしょうか? また、それでも良いと言って下さるのなら、何に良いのか?、また、どこでどんな風に行えば良いのか? 教えていただきたく思います。 宜しくお願い致します。
自分は浄土真宗徒で、信心を得るためにお聴聞や念仏をしています それとは別で、精神を患っていて、薬を減らすために瞑想をしています 個人的に瞑想は生命力がわいてくる気がして好きなのですが、瞑想をして疑いがなくなるということはないのでしょうか つまり瞑想をして作った「自力の信心」「ニセ信心」のようなものを「如来から賜る信心」と勘違いしてしまうことはないのでしょうか 今はぽつぽつと疑いがわいているような状態で、信心は得ていないと思います 瞑想のおかげで(せいで?)疑いがなくなり、それで信心決定できたと思っても、3年後に瞑想をやめたら疑いが湧いてきた、ということになると困ります 個人的には聴聞も念仏も瞑想もしたいのですが、どうしたらいいのでしょうか
私は高校2年です。 5で神童、15で才子、16過ぎれば只の人 と言った具合に、高校受験の失敗を皮切りに 落ちぶれていく人生を歩んでいます。(神童なんておこがましいですが、) 中学までの怠惰な生活をしていると、 当然、第一志望の高校には落ち、滑り止めの高校でも、成績は下がる一方、順位は下から数えた方が早くなるまでになりました。 なんとかしなければならないのは、分かってるけども、モチベーションは下がり、無気力。 さらに、成績が下がり…と悪循環の日々です。 そんな中、テレビ番組で僧侶の方々を拝見し、その道徳観、柔和な笑顔に惹かれました。 これまでの、偏差値や年収の見栄が第一の数字を求めてきた私にとって、とても異質で別世界で生きているように思えて仕方がなかったのです。 魅力的に感じ、僧侶に憧れ、志すようになりました。 しかし、仏教系の大学の偏差値というのは、お世辞にも高いとは言えず、家族や担任からは、受験から現実逃避しているのではないかと思われています。確かに、私は学校の課題から逃げ、担任からは、見放されています。しかし、表面上だけ良い子である私の内面がどうしても許せなく、また、現実との乖離に悩むのをどうにかしたいのです。 私自身、なりたい思いはあるものの、本当に僧侶でいいのか、受験から逃げたいがために、僧侶という芝が、青く見えているだけなのではないか。修行すらも投げ出してしまうのではないか。と不安に思ってしまいます。 私の僧侶に対する気持ちは本当なのか自分自身で確かめる方法、そして、周囲を説得する方法、そして何よりこの文章を読んで、逃げていると思うのならば率直に言っていただきたいです。 長文失礼しました。よろしくお願いします。
という、宮沢賢治の童話があります。 署長さんが赴任した町には、禁じられた漁法があります。その一つが毒もみで、自然由来の材料で作った有毒な薬を川に浸すなどして、浮いてきた魚を獲る方法です。署長さんは町の人たちを取り締まり、いかにも職務を全うしているかのように装いますが、ある日、こっそり毒の材料を取引しているところを町の子供に見られてしまいます。町の大人たちは真偽を確かめようと、署長さんに詰め寄ります。署長さんは憤慨し、名誉にかけて犯人を捕まえると約束。しかし、皆が当てはあるのかと問うと、ちゃんと証拠はあると言い、町長さんの前にずいと顔を突き出して、こう告げます。 「実は、毒もみは私ですがね」 かくして、署長さんはお縄頂戴となり、死刑が確定。そして、いよいよ死刑執行のその時、彼は笑ってこう言いました。 「ああ、面白かった!俺、毒もみだーい好き!今度は地獄でやろっかな」 皆はすっかり感服しましたとさ。おしまい。 という話なんですが、人は誰しも「分かっちゃいるけど、やめられねえ~アホレ~スイスイスイ~♪」ってことが、よくありますよね。その理由は自己を客観的に見れない切なさに起因していると思いますが、例え、見れても根源的な欲求が満たされない限りは苦しむ。 その根源的な欲求とは「生きる意味」ではないか。そこがそもそも欠落しているから変なことをし、そして、これをどう捉えるかで人生が変わる。後付けでその理由を作った人、にっちもさっちもいかずに道元禅師を尋ねた人、何かに夢中になることで考える暇をなくした人。色々、居ます。どれを選ぼうが本人の自由で、また、それ故に人を愛し、人を傷つけ、妬み憎んで七転八倒。それを糧にして物を作ったり、歌ったり、ままならぬ人生の詩を詠んで何とか生き抜き、それが今度は他者を慰める糧となる。 大事なのは、覚悟を持って挑めるかどうか。誰が何と言おうが、坊さんに叱られようが「ああ、面白かった!次は地獄で!」と腹くくって言えるなら、それでいいじゃないの。 「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」と言いますが、我々は圧倒的に愚者。経験に学ぶしかない。大事なことはスムーズには進まないし、簡単には伝わらない。だから、お坊さん怒らないで。皆、助言には感謝しているけれども、対等な姿勢を示さないと逆効果だと私は思うのです。 ※言葉足らずだったら後で補足します。
死にたい 死にたい 死にたい 死にたい 死にたい 死にたい 死にたい 死にたい 死にたい 死にたい 何度もhasunohaで 相談して お坊様達から お言葉をいただいても 死にたい気持ちは変わりません。本当に死にたい。
私は、約12年前からうつ病や不安障害などのために治療を受けております。 約1年8ヵ月前に父がガンのために他界いたしました。 私は元々寂しがりな性格であることもあり、また、私の発病後は友人との接点が全くなくなり、とても寂しい気持ちで毎日を過ごしておりましたので、父が他界してからは、物凄い悲しみや寂しさが続いております。 悲しみや寂しさの強さや、落涙する頻度は、時期によって多少の強弱があります。 主治医にこのようなことを相談したこと もあるのですが、「普通の人は、家族とか仕事などがあるから、そんなことばかり考えていられないんだ。」というようなことを言われてしまいました。 (私は無職で独身なので、このようなことを言われたのだと思います。) 前述のとおり、友人と呼べる人もいなく、誰とも話をしないことが日常ですので、悲しくて、寂しくて、困り果てております。 いい年をした中年男が涙を流す日が続いております。 こんな私に何かアドバイスをいただけませんでしょうか。 どうぞよろしくお願い申し上げます。