先月余命宣告受けました。まだ8歳のかわいい女の子です。しかし、日に日に弱っていくのが目に見えてわかります。今は放射線治療していますが、これをしても助からないと思うと泣けてきます。今、やれることをしてあげようというのはわかっていますが、とても辛く受け入れ難いです。周囲の目も気になり、いつ何時‥と思うと心休まらず夜もろくに眠れません。助けて下さい。
今すぐに死ななければならないのですが怖くて死ねません。死後の世界などないのは分かっていますが死ぬのが怖くなくなるような話はないでしょうか。
死後の世界については生まれ変わるとか、天国に行くとか地獄に落ちるとか、さまざまな考え方がありますが、私は死んだ後の世界は死ぬまで分からないので、その時に考えようと思っていました。 ですが、今年に入って長年共に過ごしてきた愛猫を亡くし、その子に天国から見守っていてほしい、自分が逝った時は天国で待っていて欲しい、迎えに来て欲しいと思うようになりました。とても自分勝手な理由ではありますが、天国(亡くなった生き物が行く世界)が存在していて欲しいと今は思っています。 数日前に縁あってこちらのサイトに辿り着き、死後についてのさまざまな質問・回答を興味深く読ませていただきました。 私なりの解釈ですが、仏教で言う天国とは極楽浄土のことだと認識しております。 極楽浄土へ行きたいと願い、念仏を唱える事で、阿弥陀様が極楽浄土へ往生させてくださる。そこで成仏するための修行を行う。 成仏するとは、「煩悩を手放して真理を悟り、仏になる事」という認識でよいでしょうか。 それでは、仏になった後は?という疑問が生まれました。 極楽浄土から、娑婆世界を生きる自分の家族や親しい者を見守るのでしょうか。それとも先に成仏した親しい者たちと、共に極楽浄土で穏やかに過ごすのでしょうか。自分より後に極楽浄土へ来た者たちが成仏するお手伝いをするのでしょうか。 極楽浄土で永遠に過ごすのではなく、娑婆世界を生きる者を救うため、気付きを与えるために、姿を変えてまた娑婆世界に生まれるのでしょうか。 私は極楽浄土で穏やかに愛猫と過ごしたいと願いますが、それも執着、煩悩になりますよね。この煩悩は生きている間は手放せそうにないのですが、極楽浄土で修業し成仏できたら、また愛猫との関係も変わってくるのかもしれません。 成仏したその後の事までは考えず、阿弥陀様におまかせすれば良いようにしてくださるのかもしれませんが、ふと疑問に思ったので質問させていただきました。 過去の質問から、「お釈迦様は死後の世界については、説かれなかった」という回答もありましたので、確かな答えはないと思いますが、どのような解釈をされているか、教えていただけると幸いです。
最近、読んだ仏教の本の中で悪徳政治家や悪徳業者、犯罪者(特に殺人犯)は地獄ヘ落ちると書いてありました。 本には書いてなかったのですが、よく自殺者も地獄へ落ちると聞きます。 そこで質問なのですが、自殺未遂をした事がある人は、どういう位置づけになっているのですか? 自殺未遂者の死後はどうなるのですか。未遂者はたまたま運良く死に至らなかっただけだと思いますが、自殺を決行した罪はたとえ自然死しても消えることはないのですか? やはり殺人未遂と同じくらい罪な事になって地獄行きや生まれ代わる時に何らかの支障が出るのでしょうか? 2度もやってしまいました ※あくまで天国や地獄が存在する前提での話です。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php;_ylt=A7dP5XLVuAtWHAoAiLOV_PN7?page=2&qid=1367098398&pos=1&ccode=ofv
浄土真宗の教えについて質問があります。 悟りの反対が迷いだとして、迷った時に阿弥陀様のお力を心底信頼し、私は大丈夫なんだ!と思う事ができたら迷いがなくなる。それは最早悟りで極楽である。という理解でよろしいでしょうか? 仮にその様に考えると、悪人正機説で親鸞様が仰りたかった事は、「迷いの多い人の方が南無阿弥陀はよく効きます。」という事で、善良な市民や、悟っているお坊さんを批判したかった訳ではなく、犯罪者を特別庇った訳でもない。という風に考えられます。 ところが、浄土真宗のお坊さんのお話によりますと、「現在、この世は末法の世界のため親鸞様は生きている間に悟られる事はなかった。」とお聞きしました。 そう考えますと、私が今、いくら南無阿弥陀と唱えようとも悟る事はなく、この世では楽にはなれない。苦しいまま。という事にならないでしょうか? 私は阿弥陀様の本願、お力を心底信頼し、南無阿弥陀と唱えた時の心のあり様が悟りで、極楽浄土ではないかと思うのです。 それとも、極楽浄土という別世界が西のどこかにあって、生きている間は苦しいままですが、死後苦しみのない極楽浄土へ行くのでしょうか? だとしたらそこには何が行くのでしょうか?魂でしょうか?肉体でしょうか?心なのでしょうか? お手数ですが、回答頂けましたら幸いです。
今のままで何もしなければ死後は地獄でしょうか? 何かすると地獄を免れることができるのでしょうか? 念仏を唱えるだけで免れるとは思えないのですが、それはなぜでしょうか?
最近中学時代の後輩が自殺したと聞きました。 その前には中学同じクラスだった友人が自殺しています。 そこでふと思ったのですが、死ぬ勇気があるのなら生きる勇気があるのではないのではと思います。 この二つの勇気は違うものなのでしょうか? また、別な話ですが彼らを救うことができなかった自分をとても悔やんでいます。私が悔やんでも意味がないのですが、二人との思い出を想うたびに涙が出てきます。 死後の世界でも二人は元気でやっているのでしょうか? 元気ならば涙ではなく笑顔を見せてあげたいなと思いました。 いっぺんに二つの質問、そして拙い文章で申し訳ありません。相談に乗ってくださると助かります。
私達夫婦には子供が居りません。 私達の死後、墓守をする人が居らず 永代供養を検討する事になるでしょう。 私達が生きた証を残すにはどうしたらよいでしょうか?
前回のお返事もしていないうちから、質問を立ててすみません。 実はずーっと疑問に思っていたことがあって、上手く説明出来るか自信が無いのですが、もしもご存知でしたら教えてください。 あと、バカバカしいって思われると思います。 私もバカバカしいなと思いつつも、楽しみにしているんです。 私は、死んだら光になって、光の速度で他の光の形を観察したり、宇宙に行って、何億光年も先に存在している星々を観察したいなぁと思っています。 宇宙飛行士や衛星では行けない、宇宙の果てがどうなっているのかとかを自分の目で確かめてみたいと思っているんです。(死んじゃってるんですけど・・・) 死後の楽しみってやつですね。 肉体が滅んで、死後の世界でどんな姿を持ち、どういうものかはもちろん分かりませんが、今生きてるこの瞬間よりかは可能な夢に近づくんじゃないかなーと思っているんです。 仏教の輪廻転生の中に光はあるんでしょうか。 誰かの愛猫にもなってみたいし、光にもなってみたい。 来世に楽しみを持ちすぎだなと苦笑してしまうんですが、どうなんだろうと疑問を持ちました。 よろしくお願いします。
現代人は地獄行きが確定ということを中学生の時知りました。小さい命を潰しても、大人がお酒を飲んでも、それがすべて引っかかるとのことでした。果てしなく、痛い罰に恐怖でいっぱいです。そのため死後に恐怖や不安が積もっています。私はどうすればいいのでしょうか…
私は最近突然、死後について考えるようになりました。その時八大地獄について知ってとても怖いものだと知りました。私はご飯を食べるために生き物も頂いているし、虫も殺してしまっています。また、学生の頃にものを借りたまま返さず、そのかたとも連絡がとれず。もう1人借りていたかたのものは喧嘩して私が不登校になったときに売ってしまいました。連絡は取ろうと思えばその人とはとれるのですが今更とるべきか悩んでいます。また、音楽やアニメを勝手に無料で聞いてしまっていました。試食も多めにとりました。謝罪することもできず、私は地獄いき決定でしょうか。謝罪したくてもできないです。後悔ばかりです。今からでも極楽にいけますか。 最近は、何をするにしても地獄の怖い絵が頭に浮かびます。熱い鉄板の上に寝転ばされ長い時間ノコギリでさかれる黒縄地獄の絵が頭から離れません。家族に相談すると、そんなこと、嘘だよと言っていますが、私は昔の偉い人がかいたものなら本当にあるのではないかと思っています。不勉強なのですが八大地獄とはどなたが言い出したものなのでしょうか。八大地獄があるとすればもう、そこにいくことは避けられないのでしょうか。 もちろん、これからも努力すべきであると思い、よいことをしようと心がけています。しかし、例えば誰かとお話しようとすると、私が覚えていないだけでこのことはもしかしたら嘘になるのではと思い話せなくなります。また、ご飯を食べるときもこれは殺生になるのではと思い食べるのが怖いです。何をするにしても地獄が頭を過り、なんの行動をとるのも怖いです。今まではゲーム実況を見たりすることを楽しんだりしてました。でも、ゲーム実況も著作権違法のグレーゾーンかと思い、地獄に落ちるのではと楽しむことも怖くなりました。違法で地獄が怖いです。 八大地獄が本当に怖いです。 地獄にいきたくないです。 死ぬのが怖いです。 家族に相談して、私達もしたことあるよと慰めてもらっても皆が地獄にいったらどうしようと怖くなります。 今も悪いことをしている人も私の頑張りで家族も極楽にいけますか。皆地獄いきですか。 私は生きて楽しんでもいいですか。 どうしたらいいかわからないです。 誰か八大地獄について詳しく教えて下さい。仏様は怖い方なのですか。 知識不足ですみません。乱文ですみません。 本当に怖いです。眠るのも怖いです。極楽にいきたいです。
いつもお世話になっております。最近になって考えている事 なんですが、宗教とは、仏教とは一体何なんでしょうか? 釈尊曰く、 「行や祈りで障害や疾病が治癒すること、また事態が好転すること はない。精進努力、また常に学び続ける姿勢が肝要」 だそうです。 ですが昨今、経文の曲解等により霊感商法や洗脳ともとれる 行動や言動に出る者が数多く存在することもわかりました。 信徒では憑き物信仰と思い込み、護摩の最中に暴れたり奇声を 上げたりしてお坊さんからお咎めを受ける人がいたり、 蹴落とす目的か他の信徒さんを誹謗中傷、または異性の信徒に 境内で付きまとい行為をしたりなど、無法な輩もしばしば 見かけることがあります。 私たちはどうあるべき?また、仏教とは何なんでしょうか? 私は、とにかく暇だと余計なことを考えてしまって気分が悪く なるので様々な資格の勉強に手を出しています。 また、刑法や仏教とも縁が深いであろう人権がらみの法律を 勉強しています。(法燈明の教えによる) 基本、自分の体質の事は医師や行政のサポーターにのみ話し、 相談する事にしました。余計なトラブルを避けるためです。 死後のことは仏様に一任し、現世の修行としては常に学びの 姿勢を忘れず過ごすようにしています。 ご意見お待ちしております。よろしくお願いいたします。
阿弥陀仏の本願は素晴らしい 。しかし、やっぱりあまり意味がないように思えてなりません。例え本願を信じられなくとも(一般的な意味)、阿弥陀仏側からの働きかけなので、救いに影響はありません。 しかし、そうなった場合、現世での利益はなんですか?自分の愚かさが分かることですか? 死後に浄土に往生できると信じられる人々(妙好人など)なら現世では安心して幸福に暮らせるでしょう。 しかし、僕のような疑い深い人間が幸福になれるとは思えません。 信心獲得すると、死後の解決や不思議な幸福感があるのだと思ったのですが、どうやらそれはないようです。 だとすれば、一体何の意味があるのかと思ってしまいます。 それとも、煩悩具足の人間が幸福を求めること自体間違っているのでしょうか? 念仏申す生活もしてみましたが、信仰できないので念仏を胡散臭く感じてしまいます。 僕はどうすればいいのでしょうか。
亡くなったあとはあの世での意識的なものはあるのでしょうか 例えば、「ああ、自分は亡くなってしまったんだ」と思うようになるのでしょうか? よく、亡くなった方は自分が亡くなったことに気づかないとおききしたものでご質問させていただきました。
父方の祖父母の事が気になります。 今日、霊鑑定の先生に視ていただいて『とても因縁を感じる』とのお話でした。 祖父は父が幼少の頃病死したそうです。 祖母は父の産みの母ではなかったのですが、病床の祖父を置いて黙って家を出たそうです。 私は祖母には会っていましたが、お正月の年一回かつ中学生位までしか会いに行きませんでした。そして、私が学生の頃独り家で亡くなったそうです。 私は知らされずお葬式にも出られませんでした。 ここ最近、なぜか急に二人のお墓参りがしたくなり、先生に視ていただきました。 私は『因縁』という言葉を伺って、二人の孤独や悲しみを想うと涙が止まりませんでした。 キリスト教を学んでいた私ですが、お寺での御供養はしても構いませんか? 数珠さえ持っておりません。 どのような準備をして御供養すれば宜しいでしょうか。 二人が可哀想で、どうにか二人に幸せになってもらいたいのです。 どうぞ宜しくお願い致します。
はじめまして。ずっと考えていて、解らなくて、考えることを放棄していた事について相談があります。 私の家は、某新興宗教団体の信者で、小さい頃から「南無妙法蓮華経」という題目を、私自身も大切にして生きてきました。 私の両親も、熱心な信者でしたが、 正直なところ、この私の人生35年を振り返っても、本当に家族全員つらいことばかりでした。 そしてついに、4年前、両親は立て続けに自死をしてしまいました。 元々わたしは、ハタチの頃から、この宗教から離れていたのですが、 この事があり、神も仏も信じられなくなりました。 神も仏も存在しない。存在していたら、あんなに熱心に祈っていた両親がこうなってしまうわけがない。 でも私は、解らないのです。 偽のご本尊に題目を唱えていたから 私たち一家は、こんなことになってしまったのか。 でも、私の両親が、死ぬまで信じて(?)祈ってきたご本尊だから、このご本尊に題目を唱えて、追善供養をすることが、両親が一番に望む事なんじゃないか。 もし、本当に死後の世界があったら、両親は自死してしまったから成仏できないんじゃないだろうか。 このご本尊に供養の題目を送り続けて大丈夫なんだろうか。 だから、わからないから 何も考えたくないんです。 結果的に、科学的に考えた方が、 気が楽だから 死んだら、無。終わり。 両親は、救われなかった。 つまり最初から、神も仏も、いない。 そう考えた方が、一番心が楽なんです。 でも、やっぱり矛盾してて 心のどこかで、両親とこれからも、 死ぬまで一緒に生きていきたい。 私を見守っていてほしい。 すごくさみしい。会いたい。 だから、家には仏壇があり、たまにお香を焚いたり、手を合わせたりしています。 お墓参りも行きます。 まとまりのない文章になってしまいましたが、 わたしは、もし死後の世界があるのなら、両親が安らかであってほしい。そのために、私は今のご本尊に祈り続けてもいいのでしょうか。
一昨年の秋に、大切な方を亡くしました。 親族ではないけれど、娘のように接してくださった元上司。 ある日会社帰りに駅の階段から落ちてクモ膜下脳挫傷となり、その日のうちに亡くなってしまわれました。 とにかくお会いしたくて、その時から今も考えていることは、亡くなった上司はどこに行かれたのか、私が死んだ時は会えるのか、来世なるものがあるなら、また会えるのかということです。 その答えがありそうな本を読んでみたのですが納得できる事はなく、著者も死後を知らないので仕方ないと諦めていました。 あと、テレビで見たのか忘れてしまいましたが、仏教の考え方では、人は約50年で生まれ変わると聞いたのですが、(間違っていたらすみません)だとしたら、私が死ぬよりも先に上司が生まれ変わってしまえば、あの世で上司にはもう会えないのでしょうか。 死後の魂はどこに行くのか、あの世の仕組みはどんなものなのかを、仏教の考え方、お坊さん個人の考え方を聞かせていただきたいです。
浄土の存在を心から信じておられる僧侶の方々も少なくないのではないかと思います。浄土という概念自体が浄土教(浄土宗、浄土真宗など)を中心としたものだと思いますが、浄土教の僧侶の方々はどのようにして浄土や阿弥陀仏の存在を信じられるようになったのでしょうか? 多くの仏典を熟読したり、神秘体験をきっかけとしてなど色々あるかと思いますが、是非僧侶の方々の実体験をお聞きできればと思います。私自身もなんとかして浄土や阿弥陀仏を信じるまでになって心の平安を得たいと思い学習していますが、まだまだです。仏典の学習だけでは無理なのかとも思っています。(ちなみに、読書を通して、禅宗においては死後の世界の存在を問わないことを知りました。) 宜しくご教示頂ければ幸いです。
4年前、引っ越した自宅の庭に、何匹か猫が出入りしていました。 2年前から現れていた猫が、この一週間体調を崩したようで、 我が家の勝手口付近にべったりとい続けるようになり、 私も普段は手出しをしないのですが、 緊急時のため食べられるものを与えるなど手を貸しました。 その猫は今朝、亡くなっておりました。 市役所の方がなきがらをひきとってくださいました。 この場合、猫の冥福を祈るためには、 どのようにすればいいのでしょうか? どのような仏様にお願いするのでしょうか? ヒントだけでもいただきたく、書き込みいたします。
前の質問に回答を貰った時、すごくほっとして死後のことを考えて辛くなる回数が減りました。でも、地獄のことをネットで調べたらまたすごく怖くなりました。 虫を殺したり、嘘をついても地獄と書いてありました。 蚊やゴキブリもダメ、窃盗の罪には友達の漫画やゲームを借りパクなどの笑い話になるようなものも地獄行き、肉や魚を食べておいしいって思うのも他殺?になるらしいじゃないですか。 人生で一回も虫を殺さないとか無理だし、食べないと生きていけないし、嘘をつくのはそりゃ良くないけどそれで10兆年くらい苦しまなきゃいけないなんて、どんなに優しい良い人でもみんな地獄行きじゃないですか? まだ少ししか生きてないけど既にたくさん罪を犯してることになるし、すごく怖くてずっと暗いことばっかり考えてしまいます。 これって本当なんですか?