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問答一覧
検索結果: 2956件

お寺とお坊さんについて教えて下さい

お寺での生活や、僧侶として従事する方の日頃の暮らし、なぜ仏門に入られたのかきっかけ等に興味があり、件名の通りの質問をさせていただきます。 不躾な質問でしたら申し訳ございません。 お寺や宗派によってもまた違うかと思いますが、できるだけいろんな方の回答を伺えたら幸いです。 質問数が多くなってしまい大変申し訳ありませんが、差し支えのない範囲でご教示いただけますと幸いです。 何卒よろしくお願い申し上げます。 ①一般的に、住宅街にあるような比較的小規模な寺院には、住職以外のお坊さんは大体何名ほどいらっしゃるのでしょうか? ②お坊さんが一通りの修行を終えたとされるのはどのような段階ででしょうか? ③修行を終えたのち、学校職員など他の職業と兼任しながら、お寺に住み込みで役僧や僧職員として住職のお手伝いをして暮らす言うことはあるのでしょうか? ④お寺に住み込みで働く場合、住職にご家族がいらっしゃる場合、同じ場所で暮らすのでしょうか?別棟などが用意されてるのでしょうか。 ⑤実家がお寺で家業を継ぐ以外で、お坊さんになられた方がいらっしゃいましたら、なぜ仏門を目指されたのかお話を伺えますと幸いです。 以上です。 もし失礼なことを伺っていたら申し訳ありません。

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お寺に嫁いだ嫁の家族。立場は1番下。

先日、住職である義父が亡くなりました。 通夜には当然私の家族も参列したのですが、翌日に坊守である義母から呼び出されました。内容は ・私の家族が座った位置 ・役員さんが帰る際、通りすがった母もお見送りをした事 を指摘されました。 お寺では1番は住職、その次に家族、親族、役員さん方が来て嫁の家族は1番下だとはっきり言われました。 なので座る位置も1番後ろ、表立ってお見送りするのはもってのほかとの事。 そしてそれは常識だと言われました。 役員さんに文句を言う人もいて経営に差し障ると困ると叱られました。 知らなかった私たちも悪かったと思いますが、これは常識なんでしょうか? 寺では常識かもしれませんが一般常識では無いと思います。 ちなみに、副住職である主人は知らなかったそうです。 そして見送りをしていた母に義母は 「しゃしゃり出て」 と言い放ちました。本当に常識がある方はこの様な言動するでしょうか? 席順も私の家族は誰かに席を譲られたそうで流れで座ったので悪意も全く無かったと話しても義母は聞く耳持たずです・・・ 住職様方にお聞きしたいのはこの扱いはどのお寺でも当然なのか否かです。 2日間夜遅くまで手伝いに来てくれた母が不憫になり質問をさせていただきました。 長々と失礼しました。回答をよろしくお願いします。

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肉食妻帯並びに出家と在家の違い

日本の仏教(浄土真宗を除く)は何故『肉食妻帯』が許されるのでしょうか? 浄土真宗を除く宗派は『肉食妻帯』の禁止が前提で作られていたのでは無いのですか。 肉食関して仏陀は肉食を禁止していないや三種の浄肉をおっしゃる方が多くいますが、その部分だけを引用するとそう解釈できるか分からないですけど、当時は「托鉢」や「午後の食事の禁止」が前提の話で、日本の僧は「托鉢」や「午後の食事の禁止」をしているわけではないのに、その部分だけを引用するのは如何なものでしょうか。 また中国経由の日本の仏教には関係のない話であり、仏陀は肉食を禁止されなかったという個々の考えがあるのであれば、上座部やチベット、真宗などに改宗するか新たに肉食を禁止されない宗派を開宗すべきで妻帯の禁止及び菜食主義であった既存の宗派を変える事は以ての外ではないでしょうか 私は肉食妻帯に対して反対しているのではなく、真宗以外の諸派は肉食妻帯な禁止が前提として作られているのだからそこは徹底的にして欲しいのです。 妻帯については後継者問題があるからとは言いますが、なぜそこまで出家にこだわるのに、妻帯の禁止にはこだわらないのでしょうか。出家せずとも知識ある在家としてお寺を見守る家系として生きていけばいいではありませんか。 出家しているのに妻帯だと在家とあまり違いが無いではありませんか。 これは勝手な私論ですが 末法無戒を、唱えた日蓮上人ですら肉食妻帯をしていませんよね?それは「僧が袈裟を着る事」や「人が人を殺す事はいけない事」と同じ様なもので、その当時は肉食妻帯はしないのが当然なので末法無戒には含まれないからでは無いのでしょうか。 もし政府が「僧の服の着用勝手たるべし」とでも法令出したとしても、日蓮上人は直接は言及していないが、服を着るのは当然でその上で末法無戒と言ってるなんて誰でも分かるじゃないですか。 まとめると肉食妻帯の容認を当初からしている真宗以外は、かつてと大きく肉食妻帯に対しての意識が変化しているのにも関わらず、別宗派を作らず元の宗派を名乗ったまま肉食妻帯を許しているのか。 また現在における出家と在家の違いはなんなのかです?

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死後の世界観

 初めまして。  私は、横浜で会社員をしている伊藤と申します。先日、テレビでこちらのサイトが紹介されていまして、仏教の教理に関して長年疑問に思っていたことがありましたので、質問させて頂こうと思い書き込みを致しました。  私は、大学生のころから仏教に興味を持っておりまして、仏教に関する本をいくつか読み、修行の真似事もさせて頂いたことがあります。仏教との出会いは、私の人生の中で非常に貴重なものでした。これからも、修行を重ねていきたいと思っています。  ただ、その中で未だに釈然としないことがあります。それは仏教の説く「死後の世界観」がなぜ宗派によってここまで大きく異なるのか、ということです。  仏教では、もともと「輪廻からの解脱」が一番の目的であったと聞いています。それが、現代の仏教では死後の世界観について「極楽浄土で仏弟子となる」といった立場や、「死後のことなど考えず、今を生きる」といった立場など、様々に分かれています。  私は、どうしても理屈っぽいので、このように死後の考え方が異なっていることに疑問を感じてしまいます。例えば、「極楽浄土に行けるなら、今は努力せず楽をしていた方が良いではないか。」と思うこともありますし、「死後の輪廻転生を否定するなら、そもそも修行する必要さえないのではないか」と思うこともあります。  先日、上座部仏教のお坊さんの著書を拝読して、私の考えに近いことが書いてあって共感を覚えました。そのお坊さんは、「死んですぐ極楽浄土に行けるのなら、どうして早く自殺しないのでしょうか。」といったことや、「輪廻転生が無いなら、どうして修行する必要があるのでしょう」といったことを述べておられました。  もし、輪廻転生があるのであれば、私もなるべく善行をしようと努力すると思います。逆に、輪廻転生がないと考えると、やる気を削がれ厭世的な気分になってしまいます。  人間がこのような気分になることを見越して、お釈迦様は死後の輪廻を説かれたのかもしれません。しかし、今の私にはそれ抜きで前向きに生きる心構えを持つこともまた難しいです。また、死後の輪廻を否定するならば、自殺を否定することもまた難しくなるのではないでしょうか。  こういった点を、お坊さんはどう考えているのか、どうしても気になったので質問させて頂きました。失礼なことを伺ってしまい申し訳ありません。

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一人っ子にすること

初めまして。 三歳の一人息子を持つ母です。 親の都合で一人っ子にしてしまう事への意見を頂きたく相談します。 経済的理由、 私の未熟さからこれ以上の子供を育てる自信がない事、 息子が大事すぎて二人目を妊娠・出産する事になった時に息子に寂しい思いをさせるのが嫌な事、 前回の妊娠中に私の体調面で周りに迷惑をかけた事、 などから一人っ子にしようと思っています。 主人も特に二人目を望んではいません。 でも周りは違うんです。 「2人目はまだ?」と何度も言われ、「一人っ子は可哀想」攻撃。 息子を同時期に出産したママ友はみんな二人目を出産済み。 四人家族の楽しい話を聞くと、息子に兄弟を作ってあげられない事に 罪悪感も感じます。 本当は私自身が二人目の子供を欲しいのかもしれません。 でもこれからの生活費の不安や、やっとらくになってきた子育て、 また一から新生児のお世話をする精神的余裕がないんです。 もう出産しなくていいんだと思うと心が楽になったりもします。 周りは子供が2人・3人が当たり前の環境で一人っ子を育てていく アドバイスを頂けませんか。 こんな親の都合で兄弟が持てない息子は、やはり可哀想な子なのでしょうか。

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葬式をあげてほしくない

死後の事についてご相談があります。 私は宗教という考え方やそれに基づいた慣習、イベント自体は好きですが、私自身が何かの宗教に属することは避けたいと思っています。 私の知る上では各々の宗教の考え方と私自身の観念が合うことが少ないからです。 ただし、宗教のパロディである空飛ぶスパゲッティ・モンスター教には共感いたしておりますので、自称するときはパスタファリアンを名乗っています。 そこで、私が死んだ後、葬式をあげてほしくないと思っています。 特に仏教式の葬式です。 なぜなら、戒名をいただいた時点で、仏教徒になってしまい、仏教という枠に囚われてしまうからです。 悟りも輪廻も御免被りたいです。 衛生的な観点からは火葬自体はしても構わないのですが、法律が許しませんが、できればその後はゴミ箱にでも捨ててもらって処分してもらいたいと思っています。 家族にそのことを話すと、死んだら終わりだから死後の事など心配するなと言われるのですが、そうではなく、私がそのくくりにとらわれてしまうことを決定づけられることが不服なのです。 死後の世界云々は信じておりませんが、生きているうちはそのことが囚われであり、心配であります。 ただ、信じずとも無いことの証明は極めて難しい以上、ある可能性は0ではないというのが論理であり、公理です。 (論理、公理とは数学上の意味です。) ですから、その0ではない可能性で、仏教の枠に入ることで、悟れなければ輪廻を繰り返してしまうという観念に囚われてしまっているのです。 ただし、重ねて申し上げますが、悟り自体は御免被ります。 渇愛は人間の人間たる、また、人間の動物たる所以と思います。 私は人間らしさを捨てたくはありません。 仏教に従事していらっしゃるお坊さま方には相容れない考え方かも知れませんが、これが私の中の公理です。 さて、これは私の考え方を変える努力をして見たほうが良いのでしょうか? それとも、家族を説得するようにしてみたほうが良いのでしょうか? 相談する相手を間違っているような気もしますが、意見を伺えるかもしれない機会を捨てることはないと思い、ご相談差し上げます。 よろしくお願いします。

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