いつも様々なお坊さんの回答を読み、勉強させて頂いています。 輪廻転生の考え方では、前世での行いが悪いと畜生や地獄に生まれ変わると聞きました。 仏教では、人間は畜生より格上(優秀な生き物)と考えるのでしょうか。 わたしは人として生きるのがとてもつらく、植物や虫、大自然のなかで生きる動物たちがとても幸せそうに思えます。 本能や生命システムのみに従ってただ「生」を邁進する生き物より、苦しみや醜さ狡さを背負ってでもなお人間の「生」には価値があるのでしょうか。 お互いを脅かし傷つけ合うのが人間の性でもあるのなら、人間より畜生のほうが全うな道であるように思えます。 人間がすばらしい生き物とは思えず、人間に生まれて良かったとも思えず、苦しい気持ちを持て余す毎日です。
浄土宗を信仰していますが、先日ショックな文献に出会ってしまいました。 二祖・聖光房弁長上人の念仏名義集に 「臨終行儀と申すは一期の大事是に過たる無きたり。世の中の人の往生したるぞ、悪道に堕たるぞと申す事は、此の臨終にて知るなり。臨終の吉き人は往生したると知る、臨終の悪しきをば悪道に落ちたりと知るなり。」 とあります。 これはどうしても納得できません。日頃念仏をしているのにろくでもない死に方をした人が一人でもいたら、「念仏すれば阿弥陀仏は救ってくださる」という教えが崩れてしまいますし、現実的にそういう人が今までに一人もいないとは思えません。 念仏していたって死ぬ時に正念を保てるとは限らないし、保てていたとしてもこの目に来迎を見ることができるかはさらに自信がありません。来迎を見れなければ浄土に往けないと思うと、物凄い恐怖の中、死んでいかなければならないのではないでしょうか。 弁長さんなんでこんな暴言吐いちゃったの!?って気持ちです。 そんな疑問を抱えたまま時宗を勉強していたら、時宗では臨終とは死ぬ時だけを指すのではなく一瞬一瞬を臨終と心得、今この時に唱える平生の念仏がすなわち臨終の念仏である。 来迎が見えなくても三界虚妄のこと、惑障が邪魔をして見えないことだってあるが気にしなくていい。必ず往生できる。という教えに出会い、これだ!と思いました。 じゃあ時宗に改宗したらいいじゃんと言われそうですが、この弁長さんの発言以外は浄土宗が好きで、敬愛する徳川家康公と同じ宗派ということに魅力を感じています。時宗総本山清浄光寺より知恩院の方がずっと近くて行きやすいですし、何より近くに時宗の寺院がありません。 そこで、浄土宗檀信徒のまま、都合のいい所だけ弁長上人の言うことを無視して一遍上人の思想を取り入れるということをしてもいいでしょうか? それでも浄土宗檀信徒を名乗る資格があるでしょうか?
お世話になります。 いつも励まされております。亡くなって4ヶ月、来月には16歳の誕生日を迎えます。 朝5時半、お手洗いで倒れていた姿は何度もフラッシュバックします。 4時には声を交わしていた娘、一週間前前は二女と買い物、プリクラの元気な姿、翌日は卒業式、誰が悪性腫瘍がらあったなんて思うでしょうか、今でも信じられません。 そのお手洗いの意識のないのがわかる、普通じゃないと感じたあのショックもあり、引っ越しを考えています。 ただ、やはり引っ越しもありじゃない?てかたもたくさんいますが 中にはお姉ちゃんとのここでの思い出がなくなるんだよ!て言われるかたもいて気持ちは引っ越しに向かっていますが、もしかして長女はここに居たいんじゃないかとか考えてしまいます。 前向きに考えたいのに、いつもいいのかなて悩んでしまいます。
40歳の女性です。保育園の子供が一人います。 出産後時短で働いておりますが(年収400万)、2年前から持病の緑内障が悪化してきて、目がかすんだり見えない部分が増えたりしてきました。 お医者様はパソコンを使うことも(6時間くらい使いっぱなし)、仕事をすることも緑内障の悪化にはつながらないとおっしゃるのですが、目の疲れは年のせいもあるのかひどく、また不快な中仕事をしているせいか、頭痛・めまい・腰痛などが常にあり、ついにうつ症状も出て、1か月休職しました。 休んだ間は食事や運動に心がけ、のんびり生活しましたので、気分もすっかりよくなり体調もうそのようによくなりました。 なのでもう一度仕事に復帰しようと思うのですが、復帰すればまた同じ苦しみがあるのかもしれないと思うと、勇気が出ません。 家族は体調を心配して仕事はやめたらといいます。私ももう十分がんばったし、この年にしては貯金もあると思うのですが、お金が心配でやめられません。 主人は十分な収入を得ていますが(年収1000万円)、43歳で、もし主人が病気になったら、とか超インフレで貯金が目減りしたら、とか思いますし、いったん止めれば今の何分の一の仕事しか見つからないと思うと、もったいないのです。特に専門技術もない体調が万全でない子持ちなので・・・。 眼科医は関係ないとはいうもののやめたほうが体にいいと思う(どうしてもそう思う)のにやめられない、を2年も続けてきたことがストレスだったとも思いますが、この期に及んでまだ・・・。目の調子がよいときは続けられる、と思い、悪いときは、絶対無理、と思い、心が揺れてしまいます。 アドバイスをお願いいたします。
こんにちは。 これだけこのサイトにお世話になりながら、悟りについて良く考えた事がありませんでした。私の考え含めて質問させていただきます。 仏教の入門書だとよく「修行の完成」→「悟りを開く」→「輪廻の苦海から解脱」と解説されています。 しかし自分はこの解脱と言うか、輪廻転生が今一つピンと来ません。 生前や死後については無記とするのがお釈迦様の真意に近いと思うし、 輪廻とは一種の比喩と考えるのが適切と思うからです。 実際、輪廻を考えると色々と矛盾が生じます。 例えば虫の輪廻転生。一生無心に鳴き続けるセミ等に「善行」「悪行」などあるのでしょうか?善行を積んだセミが高次の存在に転生し悪行を積んだセミがさらなる悪趣に落ちるのだとしたら、誰がそれを判定するのでしょうか? そのような超越的な存在(判定者の類)は仏教では否定されるのではないでしょうか? となると、悟りも輪廻転生を前提にしている限り、よくワカラナイものになってしまいます。 悟った覚者は転生せず、凡夫が転生する・・・のでしょうか? だとしたら悟ったかそうでないか判定者がいる事になります。 (ここでまた超越的な判定者の問題にぶつかります。) 悟りによって体質と言うか、魂(?)の質が変わるとでも言うのでしょうか。 じゃあ輪廻とか死後が無記なら、結局「悟り」て何なの?って話になって 頭の中ぐるぐるで何だかよくわかりません。 こんな考えって戯論でしょうかね? お考えを教えて頂ければ嬉しいです。
はじめまして、悟りについていくつか疑問があるので教えて下さい。 お釈迦さんはどうやって悟りを開いたのでしょうか? お釈迦さんは悟りを開く前は苦行をしたり様々な修行法を試しましたが、 最終的には瞑想によって悟りを得たのでしょうか? 悟りを開くと何か特殊な能力が手に入りますか? 悟りを開いたとはどうしたら分かるものなのでしょう? 悟りを開いたお坊さんは次にどうするのでしょうか? お坊さん以外に、この質問に正しく答えることができる人がいないと思う(教えてgooでは正確な回答が返って来るとは思えない)のでお願いします。
他の人の事をうらやんでその雑念を振り払えない。振り払おうとすると余計に苦しくなります。人は人、自分は自分であると気持ちの切り替えが出来ない。いつも将来の事が気になる。社会不安障害と言うべきでしょうか? 仕事はしていますが給料が低い為、毎月これで一ヶ月やっていけるのかどうか恐怖心にさいなまれます。
自殺は悪いことなど誰も言っていません。 言ったもん勝ち、やったもん勝ちの世の中で犯罪でもありません。 ただ自殺する気力もなくなっていました。
死ぬと苦しいでしょうか、楽になるでしょうか、その人の生き方次第でしょうか?
僕は「生きる意味」を自問自答し、それを見出せませんでした。僕は僕の意志に主体性が介在しないという結論に至り、もうすぐで寿命が尽きてしまいます。どうすればいいでしょうか。 「知」の欲求が、「生」の欲求を上回り、生活を営めないがために健康を害し、身体が悲鳴を上げている。 これを自覚してなお、僕は自らの意志に主体性を見出せず、仏様から授かった寿命が尽きてしまうことを悲しいと思うことしかできません。しかもこれに対して僕はどうすることもできません。 取り急ぎ回答をお願いしたいと存じます。
先日の疑問に答えてくれた方、ありがとうございました。m(_ _)m 仏教を学び、これからは五戒を守ろうと決めました。 仏教を実践しようと、身近な家の手伝いからはじめたのですが、 家が農家なので当然畑仕事が含まれます。畑仕事の内容のほとんどが 作物の収穫なので、植物の命を奪う殺生の罪にならないのでしょうか。 仏教を実践して、五戒を破るようでは本末転倒なのでわないか?と思い疑問を投稿させていただきました。 また、畑仕事は悪いことでは無かったとしても、その為に害虫や害獣の駆除はいいのかなどの、どこからが良くてどこからが悪いなどの事と、何故、虫や動物の殺生が悪くても、植物の殺生はいいのかと言う 事にも答えていただけるとありがたいです。 ご回答お待ちしています。
高校1年ですよね母が離婚しシングルマザーで、家が貧しいため我慢することや挑戦したいことが出来ません。勉強する環境も良いとは言えません。僕は進学したいのですが、高校に行くにも奨学金を利用しないと行けないぐらいの環境です。友達との格差を感じる時があります。 不満を親に伝えると「だったら出ていけ」「うちでは無理だね」などと答えられてしまい、親の考えが理解できません。原因は母が貧しいためなのになぜ母はこんなにも無責任なのでしょう? またそんな時決まって僕は生まれた意味がわからなくなります。こんなに辛い環境にいるくらいなら死んだ方が・・・と思うことも最近増えました。僕はなぜ生まれたのでしょう?教えてください。
お坊さんの皆様は安部総理が掲げる安保法案に ついてどう思いますか? 率直な意見が聴きたいです。
最近、身近な人の死に接する機会が増えました。 友人や親戚の訃報に接し、「やがて自分も死ぬのだ」と死について意識するようになりました。 しかし、理屈では「死から免れない」「生まれたものは必ず滅する」とわかるのですが、自分は「まだまだ死にたくない」という気持ちが沸々と湧いてきます。 事故にでもあわない限り、遅かれ早かれ必ず死の間際を迎えると思います。そのとき、自分はどうしているのか想像がつきません。 宗派によっても死生観がことなると思いますが、死をどのようにして受け入れていったらよいのかご教示賜りたいと存じます。 よろしくお願い申し上げます。 合掌
よろしくお願いします。 「世の中、お金がすべてじゃない」という言葉をよく耳にします。 「しかし、この世の中、いい大学を出て、大きな会社で働いて、お給料をたくさんもらって不自由のない生活をするのが幸せ」 というような雰囲気を感じています。 特に自分のように、まともに社会に出たこともない人間にはそのような雰囲気や考え方はとてもつらく、むなしくなります。 その考え方は間違っているとは100%言い返せません。
お坊さんは幽霊や霊魂が見えたりするのでしょうか?もし見えてしまったらどうしたらいいですか?
切羽詰まると全て放り投げて逃げてしまう癖があります。 ある程度追い詰められるとエンジンがかかるタイプなのか、窮屈な生活が好きなのか、苦しい状況に自分を持っていきがちです。 逃げずに立ち向かえば大概は自分の思った通りに進んだり、思ったより簡単に事が済むのですが、8割方「もういやだ!」と放り投げて逃げてしまいます。 いやだ!と思わずに前に進めばいいのですが、その気持ちになるまでに多大なる時間を無駄にしています。 自分で招いた状況から逃げずに、いやだなと思わずに立ち向かえるようになるには、どうしたら良いのでしょうか?
お彼岸などでお墓参りをするとき線香をたてますが、そういえばなぜ線香をたてるのか考えたこともなく、何気なく行っていました。なぜお線香をたてるのでしょうか? また我が家には仏壇はありませんが、親の実家には仏壇があります。 遺骨はお墓に眠っているのに、なぜ仏壇があるのでしょうか?
戦国時代の大河ドラマをみていました。 織田信長が比叡山を焼き討ちにした後、信長の奥さんがお坊さんをたくさん殺すなんてとんでもないと信長を激しく非難します。 しかし、信長は「比叡山の僧は酒をくらい女を抱き、夜盗のような暮らしをしている。あんなものは僧ではない」といいます。 だからと言って殺していいわけではないと思うのですが、確かにお坊さんなのに武器を持って武士を殺し、仏を敬わず酒色におぼれる。 お寺に住んでいるけれど、戒律を守らずに略奪ばかりしている。 とてもお坊さんと呼べるような人たちではありません。 もちろん時代劇ですので、面白いように脚色しているのはわかります。 しかし、現代でもお坊さんなのに悪いことをする人もいるし、権力闘争で世間を賑わす人たちもいます。 一度仏門に入ってしまえば、悪いことをした後でもお坊さんとしていられるのでしょうか。 お坊さんも僕らと同じ人間なので、誘惑に負けたり間違った判断をすることがあると思います。お坊さんが悪いことをするとどうなるのですか?悪いことをして死後地獄におちた場合、お坊さんだと仏様に近い生活をした分だけ罪が軽くなるのでしょうか?
救われる道を探して仏教を学んでみたもののやはり合点がいきません。 具体例 これまでお釈迦様しか成し遂げられていないらしい解脱を一般人が目指しても無理だろうに解脱を掲げるのは合点がいきません。方便でしょうか? 中道が大事と言っているのにこの世に楽はない一切皆苦と極端に偏ったことを言われます。 仏教に救いの道はあると思えず何を頼りにしたらよいか途方に暮れています。