自分は悩みや不安があるとき、 物事を複雑にかんがえてしまい、頭が混乱してしまうのが 最近の悩みです。 どのようにしたら単純明快に物事を考えることができるでしょうか。 悩みがあっても単純、シンプルに考えて シンプルに生きたいと願うのですが、どうしても悩み始めると いろいろ考えてしまいます。 よろしくお願いいたします。
先日、主人にわたしの職場での出来事について話をしていました。 毎回残業中の人がまばらになったタイミングで、同じ部署内で二人の同僚が悪口合戦を繰り広げます。体制がどうのこうのとか、上司が無能だとか、最後は他の同僚の人格を否定するような(馬鹿だとか仕事できないだとか、いい大学を出てないとか、生理的に嫌い、臭い)話になります。聞くに堪えない話なのでいつも無心になっているのですが、先日は本当に切羽詰まった残業だったので、仕事がしづらくて困った…他の同僚たちも同じ思いを抱えていて、なんだかなぁという話になったんだ…という話です。 そんなに深刻な感じではなく軽い雑談で話をしました。 主人は一言「つまんねぇ奴らだな」と苦笑して、その後一呼吸置いてこう言ったのです。 「…俺ってそういう場面に遭ったことがないんだよね。なんだろう、きっとそういうやつはいるんだろうけれど、俺の視界には入らない。俺の周りにそういう人はいない。不思議だよね。俺の周りだけいなくて、あなたの周りにはいるなんて、そんなことないのにね。」 その後おどけて「まぁ俺が高尚な人間ってことか!」と言っていましたが、なんだかもやもやっとしました。 確かに、主人から職場の人間関係で困っているという話は聞いたことがありません。ほとんど楽しい話です。 一方、わたしは、苦労することが多いです。 年上の女性同僚から理由もわからず無視をされることもあったり、前述のようなイヤな場面に出くわすこともあったり、職場をかき乱すようなトラブルを起こす人がいたり、何かしらあります。 同業種の男女問わず友人知人と、お互い職場の人間関係で悩んでいることを話す機会はあるので、同じように悩んでいる人は他にもいるんだなとは思います。 しかし、主人は、わたしの話を聞くたびに「俺はそんな場面に遭ったことはない」と言います。主人も同業者なので、同じような環境で働いているのですが、職場は桃源郷のようだと言います。 (ちなみにわたしは悩みこそありますが、職場自体に不満はありません。) こうなってくると、本当に主人が高尚な人間なんだろうなと思えてきます。 そうすると、いつもトラブルに巻き込まれたりトラブルを目の当たりにしたりするわたしは、どこか人間性が欠落しているからなのかしら…と落ち込んでしまいます。 主人とわたし、何か決定的な違いがあるのでしょうか?
お経とはお釈迦様の教えを広く弟子に残す為にあると聞きました。 だとしたら、この現代の日本で意味不明なままお経を聞く意味とはなんですか? そしてお坊様は経文を理解されてるものだと思うのですが、理解してるものを声に出して何度も読む意味とは? 又、お経は残された家族の心を沈める意味あいもあるとありましたが、知らない言語で何か言われても一向に癒される事はないのですが…
こんなことを質問させていただいて良いのかわからないのですが… すべてもう遅いとりかえしがつかない、人生立て直すにももう無理だと思い、前まで一生懸命に頑張っていたことも頑張る気力がなくなってしまっています。 自分の今までの行いがただ悪かったから自業自得なのですが、悪に悪を塗り重ねもう自分が嫌になってしまいます。 そうすることでしか自分を守ることができず悪の環境から結局抜け出せれず、変わることが出来なかった、自分が弱く誘惑に打ち勝つことができなかった。 自分が情けないしもう何もかも嫌になってしまいます。 中絶の経験もあり、うつ病になり、気がつけば人生に相当の遅れをとってしまい、悪を重ねてしか生きれない、うそをついて進もうとする自分に本当に悲しいです。もう戻れません。 「人の道」をしっかりと歩みたかった。本当に悲しい人生です。上辺で偽りではなく心から人生を大切に生きたかったです。 中絶のこともあり明るく過ごすものの、すぐに心に重くのしかかりため息ばかりでます。 生きていても、何があるのか、悪に悪を塗り重ねることしかできない未来に希望がない、こんな人間生きていて良いのでしょうか。 お忙しい中このような投稿をし申し訳わけございません。
誰か一人でもいいので、自分を必要としてくれる人と出会いたいと願うのは贅沢な願いでしょうか。 もちろん必要とされるに値する人間になれるような努力は怠っていないつもりでした。
本当にこのままでいいのか悩みます。社会貢献もあまりできていません。仕事に真面目に取り組めていて、仕事は楽しく、正しい事をやっている自信は大いにあり、周囲の人間からも「いい仕事だね!いい会社だね!」とよく言われますが、もっともっと、前進したいのにスキルがおいつきません。 たまに焦りも感じます。
過去の後悔が消えずにずっとその事を考えてしまうのですがどうしたら気持ち切り替えれるでしょうか? 24歳くらいの時からアプリで婚活をはじめたのですが 当時はすぐに見つかると思ってたのにそれから4年経っても相手が見つからない今 パートナーを見つけるのて大変なことなんだなと痛感し どうしてもっと早く始めなかったのかと 最近後悔しています。 大学生の時は片思いをしており結局実らなかったので、 無駄な片思いしてる時間あったらアプリで婚活しておけば良かったな20歳から24歳の貴重な4年間を無駄にしてしまったなとその事に対する後悔が消えないのですがどうしたら良いでしょうか? そう思っても時間は戻ってこないので仕方ないし、早く婚活始めたところで今頃本当に結婚出来てたのか分からないので考えても仕方ないと頭では理解してるのですが、気持ちの面では 貴重な4年間を無駄にしてしまったという後悔でずっとモヤモヤしてしまい苦しんでます。 どうしたら、この苦しみから解放されるでしょうか?
妻の言葉に悩んでいます。 妻は普段から愚痴や文句は多く、本人は癖になってしまっているのだと思います。 例えば、運転をしていて、駐車をするときに縁石に乗り上げてガタッとなった時に「下手くそ」とボソッと言われたりします。 長い付き合いなので、それについて何度か話した事はありますが治らないの一点張りで説得する事は諦めました。 仏教の教えで泥に染まらず、清い心でといったものを見て、自分もそういった言葉に染まって腹を立てるのではなく、聞き流して溜めないようにしようと心掛けています。 しかし、そういった悪い気の篭った言葉は聞くたび聞くたび心のモヤモヤが増してしまいます。心なしか家の雰囲気も悪い気がしてしまい、何か対策は無いかと質問させていただきました。 妻の事が嫌いということは無く、そういう部分も含め支えて行こうと思い、結婚、二人で子どもを育てています。 子どもも言葉がわかるようになってきており、そういった面でも心配はしています。 仏教の考え方はしっくりくるので、こういった時の教えなどあれば、そちらも教えていただけると幸いです。 乱文となってしまい申し訳ありませんが、ご回答のほどよろしくお願い致します。
死刑制度についての質問をさせていただきます。 僕は死刑制度に賛成です。理由は一つで、犯罪への抑止力となっていることと、今までそれで社会が成り立っていたのだから急に廃止することで世の中が混乱するからです。 でも、このままでいいとは思っていません。僕が思う死刑によるデメリットは、 1.刑務官(死刑執行人)への精神的ダメージ(たぶん) 2.死ねば更生するチャンスは二度とない 3.死刑制度は国民の国家に対する甘え 4.死刑囚の国(?)への恨みは他の誰かが相続すること、 つまり殺意は死なないということ →3国家に対する甘えについては、国民が国家に殺してもらうだけでは誰も成長しないのではないかと思ったからです。結局は現状維持で、また同じ苦しみが繰り返されるから、殺人者に共感する能力が育たないまま。 そこで、死刑制度を新しくすることを考えてみました。2と4は変えられないので1と3について解決策を考察しました。 それは、「刑務官(死刑執行人)の仕事が減り、遺族または志願した者が死刑執行代理人となり国の代わりに死刑執行のボタンを押す。代理人は遺族を最優先とすること。死刑執行の一週間前までに5人を死刑執行代理人と決定し、決定してから覆せない」というものです。 つまり、『明らかな人の殺意によって死刑を執行する』という案です。 こう考えた理由は、 A.国に殺人を止める力は無いから。死刑制度は抑止力としてもう限界まで来ていると思う。 B.死刑囚は遺族の悔しさ、怒り、憎しみ、恨み、殺意を真正面から受け取るべきだと思ったからです。(理由は、なにより殺して欲しいと望んでいるのは遺族だから、その殺意が伝わればいずれ更生するための種になるかもしれないから。そもそも国に殺意は無いから。) 前回の問答の後、他の国と比べてみて考え 、死刑が無くても穏やかな国になるが一番いいのではないかと考えました。それに、今ある社会正義は必ず崩れ去るものだと思っています。 でもそんなこと出来やしないので、死刑囚の殺され方なら変えられるのではないかと思いました。僕はターミネーターか人間に殺されるなら人間を選びたいです。(笑) もう何が正しいのか分かりません。 いろいろ間違っているところもありますが、ご回答頂けたら幸いです。
ツォンカパと龍樹の勝義諦 世俗諦についての解釈の違いは何でしょうか?
悩みがとても膨大なのですが、その中でも急速に解決したい問題のひとつである「復讐心」について相談させてください。 複雑かつ長くなるので、経緯は省かせて頂きますが、元彼(今も連絡は取り合うけれど向こうに気持ちはなさそう)への復讐心が止められなくなりそうなときがあります。彼は悪い人ではありません。 その復讐心はふとしたきっかけで起こります。 例えば、スーツ姿の人を見かけたり、街中でカップルを見かけたり、1人でご飯を食べていて寂しさを感じたとき、幸せだった頃にふたりで行った場所へ行ったときなど、日常に転がっている小さな小さなきっかけが、大きな炎を燃やすんです。 なんとかこの復讐心を抑えようと、臨床心理の本を読んだり、カウンセリングに通ったり、仕事以外のほぼすべての時間を費やして、努力しています。 復讐心は他者に責任がある考えからくるものだということも学びました。 これは紛れもなく自分自身の為の努力にも関わらず、怒りのスイッチが入ると、なぜわたしだけがこんなに苦しい思いをしているんだ!あいつは今頃のほほんと楽しんでいるのに…と湧き上がる怒りに心は汚染され、どうやって相手を苦しめようかばかり考えてしまいます。 ささいなことから、犯罪に至ることまで頭の中は相手を苦めるアイデア、でいっぱいになります。 この、「復讐心」が浮かばないようにすることは可能なのでしょうか?それとも、この復讐心とこの先ずっと付き合っていかなければならないのでしょうか? 復讐心をありのまま受け入れて、流す。なども考えたのですが、自分がとても嫌な人間に思えて仕方ありません。わたしはよりよい人間でありたいです。 どうか、『復讐心が一生芽生えぬ方法』を教えてください。 下記実践済み ・忙しくする ・とにかく寝まくる ・相手の幸せを考える ・自己責任自己責任…と唱える
お坊さんたちに4つ質問がございます。 どんなに難しい回答となってしまっても構いませんので(仏教を勉強して頑張って理解します)、何卒よろしくお願いします。 ① 人はなぜ、自分自身によって「よいもの・正しいもの」と判断したものを否定されると、自分という存在が否定されたのだと思ってしまうのでしょうか。 ② 人はなぜ、自分という存在が否定されたと思うと、反射的に絶望した感覚へと陥ってしまうのでしょうか。 ③ 人はなぜ、この「絶望した感覚」によって自ずと苦しんでしまうのでしょうか。 ④ 「諸法無我」という教えが仏教にはありますが、上記の一連の流れをリアルタイムで実際に感じている「その“感覚”」及び「主体」も「諸法無我」なのでしょうか。もしそうであるならば、どうすれば「その“感覚”及び主体は諸法無我である」と実感できるのでしょうか。
拝む意味を知りたいです。 お釈迦様や仏教の教えには興味がありますが拝むことに抵抗があります。 「拝む」ことが成仏したいからとか、仏様に縋る気持ちであるのなら凄い強欲に感じます。 以前、法話会で「仏様を拝んでいたら逆に仏様に拝まれていたことに気付いた」みたいなことを教えてもらいました。 拝むことで欠けている自分に気付いたり、振り返ったりできることが拝むことの一つなんでしょうか? 自分に欠けているものを見つけることでより良い自分を目指すも強欲に感じます。 それとも欲ではなく「感謝を知る」ということなのでしょうか? 仏教の知識が豊富というわけではありません。 拝む意味を簡単に教えてください。
もちろん、自分も含めての話なのですが、人間って愚かだと思われませんか? 自分たちの欲望を満たすために、地球の限りある資源を好きなように使い倒し、環境を破壊している現実。 地球の命が永遠のものとでも思っているのでしょうか? 地球こそ、人間を産み出した母、言うなれば神だと思います。 その地球(母)の苦悩など全く考えず、欲望の思うままに行動し、うまく行かないと、苦しみ、嘆き、悲しむ。 本当に、お釈迦様は、そんな愚かな人間を助けるために、仏教の教えを広めたのでしょうか? 授かった命を、自から捨てることは良くないことだと判っていますが、極端かもしれませんが、視点を変えると、死を選ぶことは、自分が使う予定であった、地球の資源を別の人に捧げることになり、これこそ、究極の人の為とは成らないのでしょうか? 火葬もおかしな習慣の様に思います。人間が死んだら土葬にし、地球に戻すべきではないのでしょうか? それこそが、本当の輪廻転生じゃないのでしょうか? 人の命は大切ですが、それ以上に、地球の命は大切なものだと思います。 宗教の違いや、国家の違いだけで、争っている場合では、無いと思います。 最近の自然災害の多さは、地球からの警告だとしか、思えないです。 皆様は、どの様に思われますでしょうか?
ドアノブごと取れたから今生きています。お恥ずかしい限りです。 そこに至るまで何があったのかは省略します。 ただ自殺の原因になった人は元気にご飯食べて生きてるんだなと思います。 人権があるらしいですから。 大切なものがたくさんあったはずなのに、二度と生まれたくないというのが今回の人生の感想です。 生まれたくなかった。生まれたくなかった。これまで生きてきた時間が無駄でした。
質問させていただきます。 回答しづらければ、スルーでお願いします。 母の四十九日法要の和尚さんの法話でのことです。 「亡くなった人はどこへ行くか?」と和尚さんは私の甥に尋ねました。 小学生の甥は、「心の中」と答えました。 それは、亡くなった母が教えたことです。 母は「自分が死んでも、いつも見守ってるから」という意味で、生前、そのように話したのだと思います。 が、その和尚さんは、それを完全否定しました。 人は死んだら「無」になる、と。 何もなくなる、心の中ということはない、と。 実際に仏教でどのように考えられているかは知りません。 和尚さんが仰ることが正しいのかもしれません。 ですが、そこはあえて否定する必要があるのでしょうか? マチガイハ タダスベキということですか? 甥だって大人になるにつれ、母の言葉の意味は理解するだろうし、何より母の法要で母を否定されたような気がして、何とも言えない気持ちになりました。(「黙れクソ坊主がっ!」と思ったことは内緒です) また、その話の流れで、ホームレスは人間のクズだから地獄に堕ちるという話をされました。 いや、ちょっと待て! 人は死んだら無になるんじゃなかったのか? 無になったら、地獄も何もないのではないか? それとも、ソレとコレとは違うとでも言うのだろうか? それより、ホームレスが人間のクズとはどういうことなのか!? それが仏教なのか? 和尚さんの偏見ではないのか? 和尚さんに対しての怒りの感情と、母に対して申し訳ない思いと… お前が地獄に堕ちろ!とマジ思いました… ホームレスの方達に炊き出しをするボランティアをしていたので、色々と思うところがありました。 もう数年前のことですし、そのことを引きずって悩んでいる訳ではありません。 過去のことに上書きすることはできませんし、それはソレで、そういう事実があった、でよいです。 ただ、その本当のところが知りたいです。 数年前のことを、なぜ今、このタイミングで?と思われるかもしれませんが、今まで聞く人がいなかったからです。 hasunohaのサイトを最近知りました。(遅っ!) よろしくお願いいたします。
最近、父が自ら首を吊ってなくなりました。 私は家族とは離れ1人暮らしなのですが、家族の話ですと前の晩も当日も普段と変わりなかったようです。 遺書とか何もなく、自殺の原因が分かりません(鬱病とかでもありません) 思い当たる事と言えば、父は若いころからずっと運転に係る仕事をしていまして(数年前には年で辞めています)運転には自信があったようなのですが、その父が亡くなる少し前に運転中に意識が無くなったらしく、事故を起こしてしまったのです。 幸い人も巻き込まず、本人もムチウチと少し少切り傷が出来た位で、 1週間弱で退院出来ました。 家族もよくあの事故でこの程度でで済んで良かったと安堵しており、ただし、また運転中意識が無くなったりしたら大変なので心配だから今後はもう運転はしない方がいいね、となっていました。 そうすると大好きな孫(弟の子供)の送り迎えも出来ず、楽しみがなくなったのかな? 運転に自身あったのに、事故を起こして本人は気にしていたようなので自信喪失したり、老いを感じたのかな?等、それ位しか自殺の原因が分かりません。 残された私たち家族は原因も分からず、とても辛い思いをしております。 ですが原因はもう父しか分からないので仕方ない、とは思いながら自殺してしまった人の魂はどうなるのかとても気にかかります。 人生を全うして亡くなった方と違って、成仏できるのでしょうか? 生きるのが辛くて自ら命をたったのに、成仏できないとか、天国と地獄があるのなら、地獄に行ってしまうとか、亡くなっても尚更、辛い思いをするんではないか?と胸を痛めております。 どうか教えて下さい、お願いします。
科学的に見れば生きる意味などなく、生物は子孫を残すために生きており子孫を残してきたことや進化も結果にすぎず目的などないそうです。 宇宙には究極的な意志や目的など何もないそうです。 ならば生きる理由は各々が勝手に決めることなのですが、今幸せじゃないしこれからも幸せになる見込みがないなら死ぬというのも勝手だと思うのですがなぜみんな批判するのでしょう? 最近本当に人生辛いし、今まで生きてきても良いことなんてほとんどなかったしこれからもある見込みもありません。これ以上辛い思いをするくらいなら死んだほうがマシと思っているのですが何がいけないのでしょう?
生の先に肉体の死があり、その先に輪廻転生があるならば、また生の前に戻り、その先に生がある。 ならば、肉体の死を自然に任せなくとも良いのではないでしょうか。 辛い生を送り続けるより、早く新しい先へ進んだ方が良い。 それが逃げであっても。
悟りとは何でしょうか?