畜生道に行ったとし、犬猫になったとしたら、お盆に帰るとされるのは空想上のは犬猫ですか?現実世界の犬猫は、なんなのですか。人と畜生は、現実世界に存在するので、二層空間の世界観なのですか?
お坊さんの回答をみてたら相談者が連続して、「今の苦しみは仏様が与える修行だ」という認識に、お坊さんの皆さんは全く否定されておられません。 「苦難は神が与えた試練だ」はキリスト教の考えではありませんか? 四聖諦を初めとする仏教の思想では現世の苦しみは修行とかいうのは否定されてませんか? 私は、相談者に修行だから我慢しろと言ってるように見えます。救いになってないのではないでしょうか? 苦しみはあるが、それを解決する方法があるとブッダは説いたのではないでしょうか? 生かじりの知識なので解釈を間違っているかもしれません。分かりやすく解説していただけないでしょうか?
16年精神疾患で苦しんでいる息子がいます。あまりの苦しみを癒すために、お経を詠み、墓参りも欠かさず、とにかく普通の暮らしができるようになればと祈り続けていますが、一向に良くならず外に出れば体調が優れなくなり、絶望的な日々を送っております。 こんなに祈っても、参拝しても良くならないのは見離されているからでしょうか。 神仏とは本当に存在しているのですか?親として答えるすべもなく、疲れ果ててしまいました。現在は私が扶養していますが定年も近くなり、あとは心中する覚悟でおります。寺も神社も信用できません。
お忙しい中、申し訳ありません。 お釈迦様本来の教えに最も近いと言われる最古のお経の中には、 お釈迦様は、何がしかの行為を行った場合にお布施を受け取ることを拒否された、 と書かれていると聞きます。 またお釈迦様は、死者に念仏のようなものを唱えることは意味がない、と説かれたとも。 お釈迦様が対機説法を用いられたと言われていることを少しは存じておりますが、 お釈迦様の教えを学び実践する目的は、たった一つしかないと思っています。 現代のお坊さまの方々は、葬儀などでお経を上げお布施を受け取ることを、どのように考えておられるのでしょうか?
お忙しいところ有難うございます 私自身(40代)の病気が少しずつ進み 終活をしなければ、と思います どこから手をつければよいのか 分からず、不安です 両親は離婚した事もあり、子どもの頃 お墓参りはほとんど記憶になく。 結婚して、婚家はきちんとお墓があり 初めてお墓参りや法事をさせて 頂けるようになりました その宗派は浄土真宗で、葬儀やお経を 聞いて、拒否的な感情はなく ごく自然な気持ちで受け入れられました 私が自分の終活をするのに、 残される夫の負担を少しでも 減らしておきたいと思います 長男ではないので、新たにお墓を 購入する必要があること、 葬儀の形、宗派、お仏壇などについて 少し決めておきたいと考えました 何となく、というだけで宗派は 選んでも良いのでしょうか? 結婚した嫁ぎ先の宗派になるのが 自然なのでしょうか? 婚家のお墓は私営大型霊園で、法事の たびにお坊さんをお呼びしています 特定のお寺さんなど相談できる場所が なくて悩みました 私が亡くなったら、子どもたちや夫が 時々お墓に会いに来てくれて お仏壇に話しかけてくれるといいな と思います 負担にならないように、でも話したい 時に話せるようにモノの形があれば 安心できるのかな、と感じています 分からないことばかりですみません 教えていただけると嬉しいです
昔の恋人が亡くなりました。彼は一年以上前から闘病生活を送っていたそうですが、その間、私は何も知らずに過ごして参りました。 恋人とは6年前に3ヶ月程しかお付き合いできませんでしたが、私の理想通りの素敵な方でした。 お別れしてからも何度か会いましたが、私の至らない態度が恋人を不快にさせてしまい、最後に送った3年前のメールは返事をもらえませんでした。 現在は新しい恋人と出会えて幸せですが、昔の恋人にもう一度だけ会いたいと毎日思っておりました。同時に、願っていればいつか会えるとも思っておりました。 ところが、昨日亡くなったという報せを聞き、もう会えないと思うと心が乱れてどうして良いのか分からなくなります。 泣いて心を落ち着かせようとしましたが、体の底から泣くことができません。 どうすれば昔の恋人の安らかな眠りをお祈りする心になれますか、お導き下さい。
はじめまして、こんにちは。 私は最近、六道とは今生きている私たちの心の状態だと思うようになりました。 今までの私は嘘つきで本当にずるい人間でした。 友人や家族にも償えきれないようなことばかりしてきたように思えます。 これは餓鬼や畜生、修羅などに心が落ちていたのではないのかと今では思います。 そして今までの自分の愚かさを悩み、反省しどうしようもない後悔ばかり押し寄せてくるこの状態が地獄なのだと考えています。 しかし輪廻転生を考えるとこのことは因果応報で来世に伝わるというのが説ですよね。 では私はこれからこの罪をもって転生するのでしょうか。 あまり仏教に詳しくないためよくわかりませんが、 私の考え方は間違っているのでしょうか。 よろしくお願いします。
何故、葬式でお坊さんがお経を誰もわからない言葉で長々と読むのでしょうか?なぜそこにいる人々にわかるような言葉で読まないのでしょうか?あれじゃただの雑音です。 せっかくですし自分はお経の内容を知りたいと思っているのに、あれじゃ時間の無駄です。 ただでさえ悲しいのにあんなに長々と意味のわからない音を聞かせられるとか、お坊さんが人々にさらに苦しみをあたえています。 ああいう喋り方じゃなきゃ死者があの世に行けないということはないでしょう。 木で木を叩いて音を出し、声帯から決まった音を出さないと死者があの世に行けない理由もないでしょう。 ありがたいことを読んで悲しんでいる人の心を楽にさせてあげているわけではないでしょう。誰も理解できていませんから。 ああいうやり方にしないと死者への敬意を表せないわけではないでしょう。葬式で大事なのは心から悲しむことで、心から悲しみさえすれば決まった一つのやり方でやる必要はないからです。 自分が推し量るに、ああいうやり方じゃないとありがたみがなくなり誰にでも葬式ができるようになって、お坊さんが金儲けの手段を失うからだと思っています。 悟りを目指し、人々を救うことを目指しているお坊さんが、そのような誤魔化しをして金儲けをしている理由を教えてください。 攻撃的に感じるかもしれませんが、これは子供の頃から気になっていたことなので。どうか誤魔化さずに本当のことを教えて下さい。
よろしくお願いいたします。 少しタイトルとは異なりますが。 お坊さんに聞いてみたい事があります。当たり前に心では理解していますが、理論的には解らないことがあります。 人は他の動物の命をいただいて生きています。動物でも植物でも人は他の命を自分に取り込んで生かされていただけている。と理解しています。 では、人が人を殺してしまう行為はなぜ悪だと言えるのでしょうか。憎悪のままに人の命をを手にかける事は当然いけない事だと解ります。では、それが人が生きていくこと。つまりは人が人を食すためだとしたらそれは魚や牛の命をいただくことと同等の正統的行為になるのでしょうか。 戦時中や遭難時など、緊急避難的な状況なら解りますが、それが今私たちの周りにある日常での出来事だとしたらどうお考えになられますか。 改めて申し上げますが、感覚的にそれは大罪であり、禁忌である事は解っております。 世の中には生まれながらに、なぜ人を傷つける事がいけないことであると理解できない脳を持って生れてしまう人間、学術的にいわゆる「サイコパス」という人間がおり、時に恐怖な事件を起こしますが、そのような方が上記のような質問をされた場合、どう説明されますか。 私も人の命の尊さを知る上で、言葉としても理解しておきたいと思います。 よろしくお願いいたします。
30歳を過ぎだ頃から体調不良が続いています。一つの病気がようやく治ったと思ったら、また別の病気が発覚します。 どれも日常生活に支障がある病気ですが見た目には健康なので周りの人達との関わりに悩む事もあるし、どうしても、そんなに悪い事をしてきた覚えはないのに何で次々に病気になってしまうのかなぁと落ち込みます。悪気のない励ましのつもりでしょうが、病は気から等の言葉をかけていただく事にも疲れました。 心が疲れた時に気持ちを切り替えられる良い方法はないかと相談しました。
お久しぶりに投稿させて頂きます。 今回も深刻な悩みはありませんので、悩みごとのご相談の皆様を 優先させて下さい。 仏教を修習している過程での、素朴な疑問です。 仏教の教えは、無常・無我・苦を説いて、死後の世界のことは 扱わず、今現在の事実のみを扱うものと思っていました。 とすれば、告別式に唱えられるお経は、故人に向かって説いても 意味がないように感じられます。 告別式に唱えられるお経は誰に向かって説いているのでしょうか。 会葬者へ向かってのお経? でしょうか? とすれば納得なのですが。 もう一つの疑問です。 般若心経の「色即是空」「空即是色」ですが、これを 文字通りに見ますと、「色即是空」は、 「色(物質)、即ち、これ、空なり」は理解できますが、 「空即是色」の「空(無常)、即ち、これ、色(物質)なり」 となってしまいます。 しかし、空は物質だけではなく、全てが空ではないでしょうか。
はじめまして。とうこといいます。 お寺で参拝するととても落ち着くので、よく行っています。 知識も得ようと本を読んだりしたのですが、そこには「様々な仏は架空の存在である」と書かれていました。 お釈迦様はおられましたが、阿弥陀さまとか薬師如来さまはフィクションだと初めて知りました。 私は深く考えたことがなく、てっきり実在されているのだと思っていたのでその時はショックを受けました。 お坊さんはこのことを知っておられるのだと思いますが、どう受け止められましたか? 仏はいないと思いながら学問としてされているのか、存在されて人々を助けて下さると信じているのか、お坊さんのとらえ方を教えて下さい。
仏教における幸せとはなんでしょうか? 修行を積んで悟りを得ること? 煩悩を滅し苦しみから解放されること? 私にはよく分かりません。