hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
hasunoha 問答検索結果 : 「 座禅 」
検索結果: 445件
2023/11/22

死にたい気持ちが強い

はじめまして。 すみません、同じような悩みのある方の質問や回答を読んだのですが、やはりどうしても自分の気持ちも聞いて欲しくて書き込んでしまいました。 社会人になってから1年後ぐらいから明日死なないかなと思うようになってしまいました。 その時は仕事内容が合わなくてその気持ちが生まれると分かっていたため、仕事を辞めました。 その後定職にもつかずかろうじて生きてるような生活をしており、今年から何故かよく生きるの辞めたいと強く思う日が増えてきました。 それでも思うだけで済んでいたのですが、昨夜どうしても死にたくて涙まで出てきました。 その時はきっと夜だから悪い気持ちになってしまうんだ。朝になったらこの気持ちも治ってると思ったのですが、朝になっても夜と同じぐらい死にたい気持ちが消えず、もうどうしたらいいのか分からなくなりました。 死にたいと思うのに、自殺する勇気もわかず誰か痛みなく殺してくれないかなと思ってしまいます。 そんなことまで他人に頼るほど弱いのもおかしな話だなと自分でも思います。 家族も友人との関係も良好です。 ですが良好だからこそ迷惑をかけたくない、こんな話をしたくないと思い相談が出来ません。 また、楽しみなことがないわけでもありません。 この日は友達と遊ぶ、この漫画が面白いから続きが楽しみだとか色々生きる理由もあるのですが、その楽しみよりも死にたい気持ちが強いです。 生きるのを休みたい、強く死にたい、何も思わないとの波があります。 文章力がなく、読みにくく申し訳ありません。 お坊さんから何かお話しが聞けたらいいなと思っております。

有り難し有り難し 3
回答数回答 1

人や自分の死の受け止め方

先日祖母を亡くしたことで相談させていただいた者です。 その節はありがたいお言葉をいただき、何度も何度も読み返しては涙を流しております。 本当にありがとうございました。 祖母の死をきっかけに、死について考えるようになりました。 死は決して避けられないものであるということ、そしてその期限はわからないということ。 誰にも確実な明日はありません。 明日どころか、1秒先もどうなるかわかりません。 もし両親が突然亡くなったら…もし自分の家族が突然亡くなったら…しばらく会っていない祖母でこれだけ悲しいのだから、もっともっと悲しいにちがいない。 でもそんな日は突然ではないかもしれないけど、いつか必ず来る。そのとき私は耐えられるだろうか。 今でも祖母に会いたくてたまらないのに、これ以上の悲しみに耐えられるだろうか…と、ふとした瞬間にこんなことばかり考えてしまいます。 突然の別れに後悔しないようにと、どれだけ回りに尽くしたとしても、必ず後悔や悲しみの感情はあると思います。 尽くせば尽くすほど、悲しみは倍増するのかな…とか。 それに、私自身にも必ず死の瞬間がきます。 そのとき私はどんな感じなのだろうか、少なくとも私の家族や友達は悲しむだろうな…少しでも回りの人の悲しみを和らげるために、遺書というものになるのかもしれないけど、手紙を残しておいたほうがいいのかな…とか、私はどんな死に方をするんだろうとか考えてしまいます。 まだ祖母が亡くなって日にちが浅いからかもしれませんが、毎日このようなことを考えてしまい、一人では何の解決もできず、もやもやしっぱなしです。 この前教えていただいた、後悔を感謝の思いに変えることや供養の行いについても私なりに考えさせていただいているのですが、その答えを見つけて、人や自分の死を受け入れて生きていくのはもう少し時間がかかりそうです。 先日も同じような質問で本当に申し訳ないのですが、こちらでしか相談させていただけず、またこちらにお邪魔してしまいました。 お忙しいところ、とりとめのない長文で本当に申し訳ありません。

有り難し有り難し 18
回答数回答 1

存在そのものを悪と断じずにはいられない

「生きているのではなく、生かされていることに感謝すべき」だとおっしゃるのでしょう。 けれど、どうしても「生きていること、生かされていること」を肯定的に捉えることができません。 「盲亀の浮木」というように、この比較的平和で当たり前のように安全な生活ができる存在として生まれたことそのものがとんでもない奇跡、という理屈も承知しております。 しかし、「だから生まれたことに感謝すべき」と言われても感情が追いつかない上に、「存在するということはとんでもなく危険なことなのに、誰もそこから逃れられない」と、存在そのものをどうしても否定したくなってしまいます。 限られた運の良い生き物しか安全に生きられない。 限られた運の良い人間しか生きることを許されない(そんなことはないとおっしゃるかもしれませんが、自己責任論と優生思想のほうが人間の本音だとどうしても思ってしまいます)。 これまでの人生で幾度となく自殺を考えましたが、死んだところで「存在」からは逃れられないと気付き、「じゃあ生きるって何なんだ! なんでこんな悪趣味なことを強いられるんだ!」と、閉じた恨みの感情ばかりが強くなります。 所詮、うまくいかない自分の有様と社会問題を歪みきった認知で安易に結びつけているだけなのでしょう。 ただ、そこから脱却するための、理論的にも感情的にも強い根拠が見つからず鬱屈としています。 「生き物だから生きるのだ」と言われても、「それは存在の『罪』から目を背けているだけだ」「生きることは悪であるという、自分にとって都合の悪い真実を見て見ぬふりしているだけだ」と思ってしまいます。それとも、私が「生きることは善である」という真実を見て見ぬふりしているのでしょうか。生きることを肯定されてしまっては、私の苦しみに満ちた人生をも肯定しなければならないから、「生きることは悪である」という幻想に逃げているだけだとおっしゃるのでしょうか。 痛みや苦しみを憂うあまり存在さえ否定したくなるのが煩悩だとしても、「存在することをやめたい」「ありとあらゆる感覚器官を捨て去りたい」「物質的制限にまみれたこの次元から脱出したい」と思わない時はありません。 まして、この世界から「生きるに値する根拠」は急速に失われつつあるのではないでしょうか。 死ねないなら生きる苦痛を受け入れなければならず、しかしその覚悟が決まらないのが課題です。

有り難し有り難し 15
回答数回答 1

寂しいです

私は友達も彼氏もいません。私の唯一の話相手が母でした。その母も難病を2つ抱えていて、心臓と目が悪く介護が必要な状態でした。それでも私の話をよく聞いてくれました。その母が先月から入院し、認知症の症状が出てきてしまいました。コロナの影響で面会は出来ないので、母の様子は電話でしかわからないのですが、作り話をしたりするようになってしまっています。 元々、母が入院して話相手がおらずにとても寂しいのですが、最近、母の様子がおかしいため、電話をしても寂しさが消えず、ただ不安だけが募ります。一層孤独感が増します。 お金もないので、母とのこの先の暮らしも不安です。 父は全くの無関心です。相談するとうるさい!と怒り出します。 最近は、父の妹が精神疾患であること、母が病気を持っていることで「お前は絶対結婚できない」と言ってきたりします。 その言葉で、私は永遠に一人なのかなと絶望してしまいます。 ちなみに兄弟はいません。親戚は20年ぐらい会っておらず、連絡先もわからない状況です。 彼氏は、母が入院した7月ごろに理由も言わずに去っていきました。 孤独感を消すにはどうしたら良いでしょうか。 最近はずっと死ぬしかないと追いつめられています。

有り難し有り難し 13
回答数回答 1

お寺に通うことは可能ですか

3度目の質問になり恐縮です。 新型コロナがおさまった後の話ということで、ご相談させていただけますか。 タイトルのとおり、お寺に通うことは可能かどうかについてです。 私は子供のころ、比較的お寺に親しんで育ちました。 法事以外でも、近所のお寺でご住職様のお話を伺ったこともありますし、仲の良かった友人の実家もお寺でした。 両親は、お寺の方を信頼し、お墓参りなども大切にしていたと思います。お寺の静けさと、さりげない人の気配に、子供時代の私は安心したことを覚えています。 その後、私の実家のお墓は兄が守ってくれることになり、私は地元を離れて結婚しました。 夫の実家は、事情があってどの宗教からも距離を置いており、夫の両親も夫も、今後お墓を持つ予定はないそうです。 そのため、私と家族は今、お寺や神社、教会といったすべての宗教と縁のない生活を送っています。 しかし、私は近年、年を重ねるごとに様々なことを考えるようになり、また子供のころのように、時々お寺に行ってお坊様のお話を伺ってみたくなりました。夫は「自分は宗教にはかかわらないが、君が一人で行くぶんには構わない」と言ってくれています。 少し地域のお寺を調べてみましたが、檀家でないのに一人でふらりとお寺を訪れるのは少し敷居が高い気がいたしました。法話の会も開催されているようですが、檀家の方や年上の方ばかりだと少し気おくれしてしまいそうと感じたり、一人で参加するのが不安であったり、いろいろなことを気にしてしまいます。 それならば一人で仏教を勉強しようかとも思いましたが、私は仏教を学びたいというよりは、どちらかというと、お寺やお坊様とつながりを得たいのだと思います。 私には今、ふと心が迷ったときに、自分の家以外に向かう場所がないからです。 お坊様に個人的に悩み事を相談するために伺いたいわけではなく、ただ、お堂でしばらくの時間座らせていただくだけでも十分気持ちが安らぐ気がいたします。 もちろん、自分の家は安らぐ場所ですが、ずっと引きこもってばかりです。 社会との接点として、お寺とつながりを持ちたいというのは、あまり一般的な考えとはいえないでしょうか。(ふさわしくない場合は、はっきりご教示くださってかまいません。申し訳ありません) 御多忙な折に、読んで頂きありがとうございました。

有り難し有り難し 10
回答数回答 1

人は人、自分は自分、が分かりません

いつも貴重なご意見、アドバイス感謝致します。 有難うございます。 精神障害者の集いに参加しました。このグループは初参加でした。結果は特に収穫なし。 自己紹介も兼ねて悩みや情報交換をする訳ですが自分の経験上、大概この手の集まりはパターンは決まってます。 薬自慢、うつ病を治そうとする、主治医の愚痴、だいたいこんな感じです。イライラします。 薬が治すものではないんだけど?治すんじゃなくて上手く付き合うんだけど?合わない主治医と感じるなら何故他を探さない? 違うだろ!って心で叫んでニコニコ笑って相づちしてる自分がいます。この世で1番嫌いなやつです。 人それぞれ個々の事情あり経済的事情や体調が優れないなどあるでしょう。しかし、 病人が集まって結論が出ない話をダラダラとして生産性なし。そんな事が許せません。 一見意味のないような事でも敢えて参加する意義もあったりするので参加しましたが やはり、ヘラヘラし相手の話に合わせて聞いたり、同調する振りをするのは疲れます。 普段、相手の見た目、どう自分が映ってるのか、など一日中意識し過ぎて勝手に疲弊してます。 だから外に出たくないです。けど外に出て人と触れ合いたいです。 もう楽になりたいです(死にたいではないです) 専門医療の治療は受けています。 一方、 お坊さんの立場から、このひねくれ者のわたしに喝、アドバイス頂きたいです。 想定外の意見を言う他人が許せなません。 宜しくお願い致しますm(__)m

有り難し有り難し 41
回答数回答 2
2023/01/29

生き方に自信を持ち、不安を手放すには?

普通に過ごしているつもりでも、後になって不安が浮かびます。 「あのときの自分の行いが原因で、こうなってしまうんじゃないか」と想像し、「誰かに迷惑をかけていたり、将来私にトラブルが降り掛かったらどうしよう」と嫌な汗が流れます。 数時間前のこともあれば十数年前のことでも不安になります。昔であればあるほど不安感が強烈です。一睡もできなかったり動悸がして生きた心地がしません。 昔は視野が狭く物事を深く考えていなかったところがあり、今の私からするとツメの甘いところや不安要素ばかりです。当時の私のせいで今の私に何か起きないか心配で仕方ないこと、どうすることもできないほど時間が経過していることで余計に不安感が増している気がします。 あまりにも後から不安になるので、「これまでの生き方すべてが間違っていたんじゃないか」「これからも不安を感じる生き方しかできないんじゃないか」と怖いです。 何をするにも億劫で、不安に勝る楽しみや喜びもなくなってしまいました。 後々不安になる生き方を無意識にしていること、強烈な不安感を拭えないことが苦痛です。 生き方に自信を持つにはどうしたら良いのでしょうか。 また、過ぎたことや起きていないことへの不安はどうしたら手放せますか。

有り難し有り難し 7
回答数回答 1

離婚した元夫の再婚

子どもが1歳10ヵ月の時に離婚して、 今年で12年になります。 元夫の浮気もありましたが、何よりも、私は家事をして、お金も稼いでくる便利な嫁であることを元夫や義実家から求められている。ちゃんとできなかったら無言の責めを感じていました。子どものためにやり直すことを考えた時、何をどう改善するのか文章に しろと言われ、人間扱いされていない 。死にたいと言ったら。本心やろ。そうやろな。と言われました。 買ったばかりの家にあるものほとんど 持って子どもと逃げました。元夫は、 追っても来なかった。 調停離婚しました。 そんな元夫が3年前に再婚し、子どももいることが今夏わかり、遣る瀬無い気持ちでいっぱいです。私は心のどこかで元夫を待っていたのかもしれません。多額のローンが残った家だけ 残して、逃げた私。何の期待にも応えられなかった私。 元夫からすれば、自分こそが被害者 だったと思っていると思います。 過ぎたことですし、過去は戻ってきま せん。そう思い、子どもとふたりで、 頑張ってきました。 けれども、死んでくれたらいいのに、 と恨んでしまいます。 いつまでも自分だけが引きずって、 元夫が幸せなことが許せないのだと 思います。そういう自分にもウンザリ しています。そして鬱鬱とし、死んで しまいたくなります。 御坊様、私は子どものためにも、 自分のためにも、元気に明るく暮らし たいです。引きずる気持ちを断ち切る 不動の良い心構えはないでしょうか。 仏様の道になら、あるのではないかと 思いお便りしました。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 32
回答数回答 2

浄土真宗と曹洞宗の二股はだめですか

こんにちは、宜しくおねがいします。  生き方について悩みが多く、暴れる心をなんとか鎮めたいと最近、 浄土真宗の聞法に通っています。  随分昔に死んだ明治生まれの祖母を思い出したからです。彼女は封建的な夫に黙々と仕え、息子に戦死されても、一人娘に急死されても、毎日の日課を黙って静かにこなし、仏壇になんまんだを唱え、老いては子に従い、右を向いていろといわれれば右を向き、左を向いていろといわれれば左を向いているような、大切にはされていたのでしょうが全く存在感のない祖母でした。無口で静かでしたから声も覚えていないのです。すっかり忘れていたのです。  ところが、自分も老境に入り、しかしいまだ心穏やかならず、怒りや貪りに振り回され苦しむ有様で、あの諦観したのか、または阿弥陀様にお任せしきったのかのような祖母の姿が私を聞法に向かわせました。  しかしこの身はしぶとく、聞法をいただいている間は少しは素直な気持ちになるのですが、それもなが続きしません。  第一、近代教育を受けた私には、「はからいを捨て、お任せする」のは難しいです。はからうことばかりを目指し、学び、訓練してきたのですから。もしかすると、もっと死が近づいたら少しはそんな気持ちが持てるのかもしれませんが・・・  ただ、三木清が言うように「自分は最後は親上人の言葉どうり、あの世で懐かしい人たちに会えることを信じている」のは私も同じです。  問題はあの世のことでなく、日々の生活で心配や怒りや嘆きに振り回されることです。  そんな私が禅宗の教えで行住坐臥を整えることや、禅の言葉に従うことで、少しは苦しみから離れられるように思うことがあります。 子供のころ永平寺を訪れて、「こんな風に生きている人もいるのだ」とショックを受けたことから大人になって、禅林句集や道元禅師を読むようになりました。指針になります。  阿弥陀様にお任せできない私が曹洞宗に頼るのはいけませんか? 浄土真宗では一筋でないといけないと聞きます。お任せしきらないといけないと聞きます。浄土真宗と曹洞宗の二股みたいで罪悪感があります。  迷える私にお言葉をいただきたいです。  宜しくおねがいします。  とんぼ

有り難し有り難し 112
回答数回答 4

世の中せっかちだと感じます

はじめまして。 タイトルの通りなのですが、世の中がすごくせっかちです。 みんな、暇を毛嫌いするかのごとく、常にどこか行ったり何かしたりしています。 そして混んでいることに腹をたてたり、マナーを守らない他人に腹をたてたりしています。 休み明けの仕事がしんどいほど、体力を消耗していて、週明けから文句ばかり。 人間関係でも少し間があると、沈黙は悪といわんばかりなムードがあります。 さらに、世の中ではテンポよく簡潔にオチをつけて話すことが要求されており、 じっくり考えて言葉を選んで話すことは、他人をイライラさせるのです。 仕事もそうです。 時間いっぱいにぎゅうぎゅうと予定をつめこんで、みんなが時間に追われてイライラしています。 表向きはキレイなことを言いますが、実際はお客様どころか自分のことさえも大切にせず、お金の利益を上げなければいけないことに神経をすり減らしているように見えます。 空気を読まないといけないせいで、みんな自分を大切にしなくなった気がします。 その空気だって、直接聞いたわけでもない、誰の人格でもない謎のものです。 自分の時間を誰かのために使って、それでみんなが幸せになるなら良いのですが、 自分の時間をすり減らして、心を病んで、今の世の中はどこに向かっているのですか? もっと、空を眺めたり、風を感じたり、自然を見つめたり、ボーッとしたり、 そういうゆったりした時間があって、初めて人に優しくしたり、じっくり人の話に耳を傾けたり出来るのではないでしょうか。 けれど、そういう時間が作り出せない社会になっています。

有り難し有り難し 211
回答数回答 8