過去に似た質問があったらすみません。 こんにちは、私は27歳の一児の母です。 私は高校生くらいのときから、 寝る前に、自分が死んだ後の世界について 考えて、怖くて眠れなくなることが よくあります。寝室で、恐怖で叫んでしまうこともあります。私達は、 当たり前に回っている地球の、ほんの 一瞬を生きているだけで、私が死んでも 世界は回って、過ぎていきます。 何が言いたいかというと、つまり 死ぬのが怖いのです。人が死んだら、 どうなるのですか? 魂と肉体が、とか言いますが、 脳の働きで精神と自我があるだけですよね。 死んだら無に還るのですか? お坊さんだからこそ、 お聞きしたいです。 よろしくお願い致します。
今年の始めに乳ガンが見つかり、手術と放射線治療を終えました。 今はホルモン治療中でまずは5年続ける予定です。 昨年は彼が癌で他界し、今年は自分が癌になるとは…。会いたがっているのかしらと思うこともあります。 こんなに色々盛りだくさんな私の人生はどこへ向かうのでしょうか…。 もっと、平々凡々な人生が送りたいです…。 お坊さんの有難い言葉が聞きたいです。
私は今、不倫をしています。自分が苦しむ事は覚悟していました。何度も別れようと思いました。でも彼の事が何より大事で彼と離れる事が出来ません。自分は、どんなに非難されても彼から離れられません!今の私にとって彼は生きる源です。どんなに愛しても結ばれる事は無いです。分かっていても彼を忘れる事は出来ません。彼を思うだけで苦しみがあり、でも、それ以上に幸せなのです。こんなに全てをかけて愛せるのは彼だけです。このまま進めば生き地獄、死んでも地獄にしか行けないでしょう。お坊さん達から見たら救いのない人間ですよね!
父が自殺してしまいました。 なんで、助けてあげれなかったのか、悔やむばかりです。周りには病死と伝えてるので、まだ若いのに残念だね。と声をかけられる度に苦しいです。 生きることにつかれて、自ら死を選んだ人は天国には行けませんか? 突然の別れ、死後の父のこと。頭から離れなくて泣いてる日々が続いています。
はじめまして。 わたしはタイトル通り死や病気に対しての恐怖心がとても強いです。 そのことについてお坊さん方のお考えをお聞かせいただきたく投稿いたしました。 わたしは様々な体調に関する不調があるとすぐにネットで調べて不安になり、病院にかけこみます。 医師から様子を見ていいと言われても『もっときちんと調べてもらった方が良かったのかもしれない』とまた別の病院を受診することもたびたびあります。 家族は『本当に心配性』『そんなに気にしてどうするの』『なったらなったで受け入れるしかない』と言いますし、私も頭ではその通りだと理解はしています。 しかし、病気になって、しかも余命宣告を受けるようなものだったらどうなってしまうのだろう。 自分がそうなったらその状況に耐えられるはずがない。 死んだらまだ幼い子ども達はどうなるのだろう。 そう思うと、病気が怖くて仕方がありません。 実際に婦人科系の疾患で経過を診ていたり、別のことで手術も経験しました。 さらには悪性を疑っての生検をしたこともあります。 子供がいるのに、そのたびにネットで調べ、この病気だったらどうしようと最悪の事態を考え、まだ病気と言われてもいないのに暗い表情で最低限の家事しかせずに落ち込んでしまいます。 主人にも、そういう性格だから仕方がないと思っているけど、子どもに対しては無理をしてでも明るく接して欲しい言われています。 病院受診が続いても主人は何も言わずにいてくれますが、私自身この考え方を変えたいと思い今まで本を読んだりいろいろな方法を試しました。 いまを生きる。 先のことを思い悩まず、目の前の一瞬にかける。 現にいまこの時も私なんかよりもっと若くもっと幼くして病と闘っている人もいるのだろうと思うと自分の心の弱さが情けなくなります。 頭ではわかっているんです。 でもすぐに不安感情がその上に覆い被さるように乗っかってきてしまいます。 この先も自分だけでなく、子ども達も体調を崩したりするたびに毎回こうなるかと思うとこの考えを断ち切りたいのです。 何に対しても、私は理屈っぽいと思います。どうしてそう思うの?その根拠は?とつなげてしまうところも災いしていると思うのですが。 そんな私が、少しでもどん!と腰を据えて何があろうと例え重病になろうが運命だったと受け止められるようになるアドバイスがありましたらよろしくお願いいたします。
何度かここにお世話になっております。 中学生の頃から自分の存在意義が分からないのと将来への不安からずっと死にたいと思っています。 しかし日に日に一分一秒でも早く死にたいという思いが強まるばかりです。 鬱なわけではないんです。 よく食べ、よく寝て、よく笑っているとは思います。 ただ早く死にたいのです。 早く解放されたいんです。 ポジティブな死です。 病気や事故で亡くなられた方には大変失礼ではありますが、自殺以外でどうにか早く死にたいです。 愛を注いで育ててくれた両親にも申し訳ないです。 生きたいと願うのがよくて、死にたいと願うことはいけないことでしょうか。 なぜ私は生きているのでしょうか。 最近職場の人が事故で亡くなりました。 なぜ私ではないのか。 なぜ善良で人望もあるあの人が亡くなって私が生きているのでしょうか。 私はブスで優しくもないし、なにか社会に役立てることもありません。 生きる価値などこれっぽっちもありません。 有事に命をかけて人を守ることができたならば初めて自分に価値が生まれるのではと思いこの職に就いたのに現実はスマホをいじりながらただ1日が過ぎるのを待つばかりです。 なんのために生きているのでしょうか。 仕事を辞めたいのにお金もなく勇気もなく、この田舎では転職活動すらままならない環境です。 なにも楽しくない。 こんなに楽しくない生活を続けることになんの意味があるのか。 価値のない私が生きていることになんの意味があるのか。 もう早く死んで全てから解放されたい。 将来への不安、存在意義の追求、全てのことから解放されたい。 日本でも安楽死をさせてくれればいいのに。 あー早く死にたーい。 生きることから解放されたーい。 文章がめちゃくちゃでなにが言いたいのかもよくわからないですね。 すみません。
数か月前、姉がリサイクルショップで購入した数珠を使っていると相談し、気にする事はないとお言葉を頂きました。有難うございました。 一週間前に姪の次女が9か月の命を閉じました。原因不明で、朝すでに硬直が始まった状態だったそうです。姪から連絡をもらい火葬に立ち会ったのですが眠っているかのような安らかで可愛い表情をしていました。姪は4歳の長女とお腹に6か月の子供がいます。あまりにも深い悲しみから少しでも早い立ち直りを祈るしかありません。子供たちのためにも。 父の時と同じく、葬儀もお経もない火葬だけの送りでした。初七日やその他の儀式も一切する気はないようです。 父が亡くなった時、姉夫婦に「葬儀屋やお坊さんにぼったくられるだけのものだからいらないよ」と猛反対されて反論できませんでした。 でも、納骨の際はお坊さんに来てもらいましたし、月命日前後には母と二人で墓参りには行っていました。ところが、一周忌が過ぎても父の気配がすると(父が使っていたベッドをひっかく音など)母が気持ち悪がるので、姉に内緒で知り合いのお坊さんにお経をあげてもらいました。一か月程読経を続けてくださったそうです。それから、空気が軽くなったと言っていました。(一周忌にはお経はありませんでした) 幼児は穢れがないので、成仏が早いと聞きますが、このような見送りで父のように迷うことはないのでしょうか? 今私が姪のために陰ながらできることは有りますか? 小林正観さんの「ありがとうの神様」という本に{幼くして亡くなった子どもは、「神様」に近い存在。だから、悲しまなくていい}という文章を見つけ、姪に本をあげました。
前回、祖父が亡くなったことで質問したんですが、もう1つ聞きたいことがあります。 亡くなった人は亡くなってから四十九日経つまでこの世にいるといいますが、その間どういったことをしながら過ごしているんでしょうか。 色々ネットで調べたりしてみたんですが、ぜひお坊さんに聞いてみたいです!
こんにちは。 タイトルにもある通り完璧主義で辛いです。もう限界です。 何度もお坊さんに相談にさせていただきました。カウンセリングにも行きました。 聖人君子な人間はいないし誰だって罪を犯してる、いくら過去のことを考えても何かが変わるわけではない、自分や誰かを愛すること、ダメなところがあってもいいんだよ…などなどたくさんアドバイスいただきました。 それでも過ちを犯した、人を傷つけてしまった自分はクズだと思います。いいことをしたってそれは覆りません。 何をしたって変わらなかった自分が嫌いでお坊さんやカウンセラーの方に申し訳ないです。 最近は「死にたい」というより「死んだ方が有益なのではないか」と考えるようになりました。どうやったら死ねるのか考えてばかりなのに死ぬ勇気がない、誰かが私を死なせてくれないかなと思う日々です。どうやって生きていけばいいのか分からなくなってしまいました。
近年、量子力学等の学問での研究に目覚しい進歩が見られます。 量子力学や精神系分野で輪廻転生の研究の話題が盛り上がっています。 量子力学では遂に死後の世界について【量子もつれ】と呼ばれる現象で論文を発表したり輪廻転生の研究をしていらっしゃる学者さんもいますし少し前ですが精神系分野では著名なアメリカのジム・タッカー博士は輪廻転生をしたと思われる2500人の子供達に関して発表しました。 この子供達の実例を見る限り明らかに例えばAという死んだ人物とは関係ないBの少年又は少女がAの生前の記憶を持って生まれてきている事があるようです。 それでも脳の錯覚だとして懐疑的な学者さんが多い中、現在進行形でこの分野の研究は着実に前へと前進しています。 ちなみに、私は死後の世界も輪廻転生も存在すると考えています。 そこで、今回は輪廻転生についてお聞きしたいです。 お坊さんは輪廻転生とはどのようなものだとお考えなのでしょうか? 輪廻転生の仏教的解釈やお坊さん個人のお考えをお聞かせください。
こんにちは。たくさんの質問があるなか、お忙しいとは思いますが、ひとつお尋ねさせていただきます。 先日、祖父が亡くなりました。 優しくてユーモアがあって大好きな祖父でした。 私にとって身近な人が亡くなるのは初めてで、自分が想像してたよりも遥かに人の死というのは悲しくて寂しく、また、綺麗な死に顔を見たことや骨だけになってしまったこと、死という全てが衝撃的でした。 1ヶ月ほど前、元気な姿で会った祖父は一体どこへ行ってしまったのでしょう。 骨になったら全てが終わりなのでしょうか。 祖父がいまどうしているのか気になり、ネットで自分なりに仏教について調べてみました。 そこで、49日間かけて故人は裁判のようにひとつひとつ過去の行いを審査されそれをもとにその後の行き先を判断されるというお話を知りました。 祖父はまだ初七日も迎えていない状態です。 もしかすると祖父はいま、行ったこともない道を一人で寂しく歩き、不安な気持ちで審査を受けてるのではないかとおもうと、心配でたまりません。 祖父は1人で寂しくないでしょうか? 祖父が無事に天国へ、もしくは安心できる地へ、祖父の先に亡くなった家族が待っている元へいくために、私にできることはありますか? 手を合わせて、想いを込めるだけでも力になれますか? 祖父のことが心配です。 もし今の私にできることがあれば、教えてください。よろしくお願い致します。
はじめて質問させてもらいます。 3年前に同居だった祖母を亡くしました。 それは突然のことで「ちょっと体調が悪い」と言う祖母を病院に連れて行くと末期の癌だと告げられました。もって1ヶ月だろう、と。 それまで足腰が悪いだけで家事も買い物も出来た祖母。入院した当初も食欲はありませんでしたが、とても元気に見えました。 そんな祖母に病名が告知出来なかったんです。 元々ちょっと撃たれ弱いところがあったので親族で話し合った結果『伝えない方がいいだろう』との結論に至りました。 祖母は入院してからずっと病名を気にしており、何度も聞かれましたがその度にはぐらかしてました。しかし身体も弱ってきたある日「何言われても覚悟してるから正直に言ってな」と言われました。その時は病室に私1人で。親族みんなで決めたことだから、とそれでも嘘をついて「治る病気だ」と言ってしまいました。 その後祖母は話すことも出来なくなり間もなくこの世を去ってしまいました。 私はずっと嘘をついていたことを後悔しています。本当のことを早くに伝えていれば、やりたいこともあったんじゃないかと。 お坊さん方、なにかお言葉を頂けたらと思います。
ドキンちゃん、私はあなた様の 「生まれた日から死に向かっているのですよ。楽しまなきゃ損です。たまには休憩をしながらかんばって、楽しい人生をゲットします。涙の日があったら、輝かしい未来への足がかりだと思って乗り切ります。」 という言葉に励まされて、ノートに書き取って、いつでも読めるようにしています。落ち込んだ時にドキンちゃんの言葉を読んで、頑張ろう!と思うのです。 とっても心配しています。 お辛いかもしれませんが、死なないで欲しいです。生きて欲しいです。 お坊様へ 直接ドキンちゃんに書くことは、ルール違反だと思います。ですからお坊様のどなたか、上記の様に励まされている者が居ることを、心配している者が居ることを、お伝えいただけませんでしょうか。 出過ぎた事をしまして申し訳ありません。 どうぞよろしくお願いいたします。
現在、大学4回生です 中学生の時、突然に「死んだらどうなるんだ?」ということに気が付いて恐怖のあまり嗚咽が止まらなくなったのを覚えています。親に相談しようにも、タブーに触れるようで出来ませんでした。 その時は考えに考えて結局わからないということで放置していたのですが、ここ最近になってまたその考えがまたやってきました。 地元の信仰が浄土真宗本願寺派だったのでその考えに基づき、死生観を考えていたのですが、納得できませんでした。 納得というか、信じきれてないというのが現状なのかもしれません。 真に信仰が出来ていたらそもそもこの質問が出ないことになりますから。 どうしても考え方に疑いを持ってしまうのです。「ホンマかいな」と。この「ホンマかいな」自体が信仰に対する冒涜、罪なんでしょうか。 化学に詳しいわけではないのですが、どうもその前提に結び付けてしまします。(無知なのは重々承知しています)生きている状態なのになぜ人の死後が説けるのか?とか。脳がないのに意識は死後存在し続けるのか?、お浄土は本当にあるの?などです 臨死体験も結局は死に切れてないですし、死後の見解が地域、信仰、人によってそれぞれ違うのも疑問です かといって「死後は無なんだよ」「意識はただの脳内の電気信号なんだよ」と言われればとんでもないくらいの恐怖にのたうち回ります。死後、体も感覚も思考も、自分自身も消えてなくなり、二度と目覚めることはない。そんな状態が永遠に続くと思うと... 様々な文献、記事を読み漁っても「そういう考え方もあるのか」程度にしかとれず合点がいきません。 今を生きることこそが大切、もっと他にすることがあるんじゃないの?と言われそうですが、そうではないんです。死後が知りたいのです。 利己的な見解ばかりで申し訳ありません 自分自身でも、どう質問してよいか漠然としててわからないのです 僕以上に、もっとつらい思いをしている人がいる中で... ここまでの人生、たった21年の短い人生ですが、何不自由なく生かされてきました。両親、祖父母そして周りの人々には感謝しきれません。これから、家族やお世話になる人達にいっぱい自分の受けたモノをお返ししていきたいです。 故に死の恐怖にここから先の人生を邪魔されたくありません。 どうか僕に納得できるようなお考えを教えてください。
初めまして。 私は、横浜で会社員をしている伊藤と申します。先日、テレビでこちらのサイトが紹介されていまして、仏教の教理に関して長年疑問に思っていたことがありましたので、質問させて頂こうと思い書き込みを致しました。 私は、大学生のころから仏教に興味を持っておりまして、仏教に関する本をいくつか読み、修行の真似事もさせて頂いたことがあります。仏教との出会いは、私の人生の中で非常に貴重なものでした。これからも、修行を重ねていきたいと思っています。 ただ、その中で未だに釈然としないことがあります。それは仏教の説く「死後の世界観」がなぜ宗派によってここまで大きく異なるのか、ということです。 仏教では、もともと「輪廻からの解脱」が一番の目的であったと聞いています。それが、現代の仏教では死後の世界観について「極楽浄土で仏弟子となる」といった立場や、「死後のことなど考えず、今を生きる」といった立場など、様々に分かれています。 私は、どうしても理屈っぽいので、このように死後の考え方が異なっていることに疑問を感じてしまいます。例えば、「極楽浄土に行けるなら、今は努力せず楽をしていた方が良いではないか。」と思うこともありますし、「死後の輪廻転生を否定するなら、そもそも修行する必要さえないのではないか」と思うこともあります。 先日、上座部仏教のお坊さんの著書を拝読して、私の考えに近いことが書いてあって共感を覚えました。そのお坊さんは、「死んですぐ極楽浄土に行けるのなら、どうして早く自殺しないのでしょうか。」といったことや、「輪廻転生が無いなら、どうして修行する必要があるのでしょう」といったことを述べておられました。 もし、輪廻転生があるのであれば、私もなるべく善行をしようと努力すると思います。逆に、輪廻転生がないと考えると、やる気を削がれ厭世的な気分になってしまいます。 人間がこのような気分になることを見越して、お釈迦様は死後の輪廻を説かれたのかもしれません。しかし、今の私にはそれ抜きで前向きに生きる心構えを持つこともまた難しいです。また、死後の輪廻を否定するならば、自殺を否定することもまた難しくなるのではないでしょうか。 こういった点を、お坊さんはどう考えているのか、どうしても気になったので質問させて頂きました。失礼なことを伺ってしまい申し訳ありません。
必死に生きてきたつもりです 痛くて辛くて他人が怖くて、誰にも心の内を吐かないで でも、だめみたいです なにもよくなりません 気持ちも楽になりません 日々を乗り越えるのに精一杯ですが、きっと努力が足りないのだと思います でももう頑張れないです どれだけ足掻いても、収支が合いません、金銭的にも、精神的にも、赤字、赤字、赤字 死ぬしかないんだと思います、でも、でも 幸せになりたかった ふつうな まともな人間になりたかった ちゃんとした大人になりたかった もう終わりにして欲しい、ただ死ぬのを待っています なにもできません これ以上はもう 自分の人生に申し訳なくて仕方がない 私という精神は毒です 支えてくれた両親 愛してくれた恋人 拾い上げてくれた会社 そしてなにより私自身を すべて、すべて台無しにしました 願わくば、生まれてこなかったことにして欲しい 自分を救う方法はもう自死しか思いつきません すべてを裏切ることになってしまいますが 自死は許されるでしょうか それすら許されないならもうどうしたらいいんですか
お坊さんの回答をみてたら相談者が連続して、「今の苦しみは仏様が与える修行だ」という認識に、お坊さんの皆さんは全く否定されておられません。 「苦難は神が与えた試練だ」はキリスト教の考えではありませんか? 四聖諦を初めとする仏教の思想では現世の苦しみは修行とかいうのは否定されてませんか? 私は、相談者に修行だから我慢しろと言ってるように見えます。救いになってないのではないでしょうか? 苦しみはあるが、それを解決する方法があるとブッダは説いたのではないでしょうか? 生かじりの知識なので解釈を間違っているかもしれません。分かりやすく解説していただけないでしょうか?
私は、自分自身は死んだ方が良い人間だと思っています。 私は犯罪者ではありませんが、たくさんの人に迷惑をかけてきました。 税金をもらって仕事をしているのに、何も成果を出せていません。 恵まれた環境を提供してくれた両親、祖父母には、何も恩返しをしていないばかりか、結婚式でひどい思いを味合わせてしまいました。 奥さんには、要求されたことを提供できないばかりか、マイナス思考をぶつけて泣かせる始末。 私とさえ結婚しなければ、幸せになれたろうにと本気で思います。 皆さんにできるだけ早く人生を改善してもらうために、事故に見せかけた自殺により死亡保険を獲得し、分配することを考えています。 自殺について話した職場の同僚の中に、五万でいいからくれと言っていた人がいるので、お金を渡すよう遺言を残せば喜んでくれると思います。 私の死により、税金、食べ物、エネルギー等の無駄が減るのです。 マイナス思考に晒される人もいなくなります。 悲しむ知人はいるかもしれませんが、転校してから一度も合わない友人と同じ状況になるだけですので、一週間も経たずに元どおりになります。何も問題ありません。 いいことしかありません。 死んだ方が良いのに、国家や仏教が生きろと言うのは、 納税者、信者という名の奴隷を減らさないためではないでしょうか? ささやかな幸せという名の幻想で人々を騙しながら、せっせと労働させ、お金を納めさせる。これが国家の真実だと私は思います。 税金を無駄にし、価値を生み出さない自分はゴミでしかない。 それでも、生きなければいけない理由はあるのでしょうか? 親族を悲しませてはいけないのならば、親族を皆殺しにしてから、自殺すれば良いのでしょうか? そもそも、このように人に皮肉や挑発ばかりする性格だから嫌われるんです。 現在、死亡保険や死後に必要な手続き、お葬式の準備など、少しずつ進めています。 お坊さんからも死ねと言ってもらえたら、初めて自分を肯定できそうな気がします。
来月40歳になる男子です。自らの残りの人生について相談させていただきたく思います。 来月40歳になるのですが、とうとう結婚することができずに40歳を迎えることになりました。国立社会保障人口問題研究所の出生動向基本調査によれば、40歳時点で結婚できる人は全40歳代男性の0.3パーセントであるという結果も出ています。従い、40歳までに結婚できなければ、もう事実上私の人生に結婚はないだろうと思います。 結婚相談所に登録するなど、今まで人並みに活動はしてきました。また、運動や食生活に気をつけ清潔感や身だしなみにも気をつけてきたつもりです。 しかし、自分がいいなと思う人に気持ちが伝わることはありませんでした。正直、40年生きてきて女性ときちんとおつきあいをしないまま30歳代が終わってしまいました。生まれてこの方何をしてきたんだろうと思います。 精神医学や心理学をたくさん勉強しましたが、どうやら私は精神的な成長に失敗したようです。子供時代に両親の愛も希薄な状態で育てられたのも今は認識しています。 この文章を読んでいただければおわかりの通り、女性の気持ちをどう考えているかもおそらく伝わらない、稚拙な文章だと思います。女性を愛する能力は子供の時から鍛えられなければならないと言うことを、恥ずかしながら今知ってしまい、もう間に合わないと落胆しています。 周りの幸せな家族やカップルをみて非常にうらやましく思うとともに、正直なんで自分だけがこんなに孤独なのだとねたましく恨めしく思います。 人間最後は皆平等に死ぬと思うのですが、私は今から自分自身の死だけを目標に生きていくことに落胆しております。結婚だけが人生ではない、ほかにもつらい人たちはたくさんいるといわれても全く耳に入らないのです。 残りの人生、前向きなイベントは終わってしまい、残りの人生は両親の死と自分の死だけが待っています。 私には何が足りなかったのでしょうか?残りの人生何をしていったらいいかわかりません。アドバイスをよろしくお願いいたします。
70台の母が迷信深く困っています。母の実家は曹洞宗で、結婚後は浄土真宗です。父はすでに他界しました。母の両親も他界しており、実家のお墓や仏壇の世話もしています。母にとっての信仰とは仏事をとにかくつつがなくこなすことのようで、仏壇に線香を上げたり、墓参りをしたり、法事をこなしたりは熱心ですが、お経をあげたり仏教書を読んだりしているところはみたことがありません。毎月のお坊さんへの謝礼や、法事の出費に加えて、本山に分骨したり、収入にみあわない出費をしています。そのような生活スタイルはもう変わらないと諦めていますが、自分の死語に私に法事を引き継いでもらいたいと思っているようです。しかし私は無信心なので儀式を引き継ぐつもりはありません。母に信仰の自由を認めさせるにはどうしたらよいでしょうか?