hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
問答一覧
検索結果: 425件

座禅の悩み 昔のように安定した結跏趺坐で座禅をしたい

仕事が落ち着き、十年ぶりに座禅会に行きました。 しかし座り方の基本が破綻してしまったのでご教授ください。 昔は結跏趺坐で通せたのですが、今回は始まって数分でかなりの痛みに襲われました。 こんな事なら事前に予習しておくべきだったと後悔しつつも足の痛みで座禅どころでなく周囲の迷惑にならないように合掌して半跏趺坐に直しました。 しかし半跏だと落ち着きが悪く、息を整えても片足が浮いて重心が傾いている感覚になります。薄目を開けて見ると両膝は畳に付いているので意識の問題だろうか? 休憩後、再び結跏趺坐に戻すとかつての落ち着いた姿勢で息を整えられました。 しかし足が痛み出すと再び座禅どころじゃなくなりました。 交差した足首の重なった所がとても痛みます。 昔は交差した部分がそれほど痛いという事はなかったはずで、年数を経て体が硬くなっているのか、足腰の劣化なのか。恐らく両方が原因でしょう。 住職は結跏に捉われずに無理せず半跏でどうぞ、とアドバイスしてくれたが、半跏では落ち着きが悪く重心が傾いている感覚で深く集中できないのです。 どうしても結跏趺坐を組み、昔のように重心が落ち着いた環境で座りたいのです。 足を組みやすくする効果的なストレッチや鍛錬法をご存じなら教えてください。

有り難し有り難し 3
回答数回答 1

修行と信仰と座禅や念仏

先日私の具体性に欠ける、奥歯にものが詰まったような愚痴のような質問に応えて下さり、ずっと回答を考察してました。 その時々の私の見たてがどうであれ、自分目線で世界を見ていては、環境にフラつきいつまでたっても頼りにならない自分の世界で苦しむ ことになりますよと、言われたように思います。 自分を苦しめているのはあらゆる煩悩で「自我」(自己中)だとココhasunohaでも僧侶の方が口酸っぱく何度も言っておられ、私も何度も自我を手放す手立てを見聞きしてます。 しかし無我や手放すと言うと、主体性を放棄しているように思えてならなかったのですが、自分と言うのは条件次第で左右され頼りにならないから例えば「縁起」や「空」、この世界は常に変化し、お互いに影響を与え合う相互関係にある。 みんな繋がってるから、自分もみんなも尊い存在、軽んじちゃダメ!ピラミッドの頂点に人が(自分が)立ってるんじゃなくて網の目の一つで、人知を超えた自然の働きも誰かに想われてることも誰かに想われてることに気づけなくても繋がってる。 と言ったことついて言葉の上では理解しても、自分が騒がしいのは、禅の方(ザックリですみません)が座禅をして余計(自我)なものを手放すと言う事と、歎異抄の中で親鸞聖人が「何が善で何が悪なのかそのどちらも私はまったく知らない…」と言っておられるのは自分から見たら許せない又は自分が裁きたいと言う想いを手放して、「…この世はむなしくいつわりで真実と言えるものは何一つない、ただ念仏だけが真実(確かなもの)である」とおっしゃり、自己のはからいを捨て念仏し阿弥陀様にお任せすると言う事と同じで、だから座禅する、だから念仏すると言うことでしょうか? だから思考が暴れても身体(振舞い)を整えることができる修行(座禅や念仏)や信仰が必要と言うことでしょうか? いつも長くてすみません。

有り難し有り難し 41
回答数回答 3

お祈り(供養)と座禅(瞑想)の作法について

先週も質問させて頂いたPalmです。その節はありがとうございました。 早速、近所のお寺さん(無宗派・単立)で、お祈りと瞑想をさせて頂きました。 そこで、疑問がいくつか湧き上がって参りました。 正しい作法かどうか、教えて頂けませんでしょうか? (1)友人の供養 若くして亡くなった友人はさぞ悔しい思いをしているだろう、 残されたご家族も悲しく不安だろう、と勝手に想像して、 「友人の魂が成仏しますように」、 「ご家族を見守ってくれますように」と祈るとともに、 お寺に設けられている護摩木にも書かせて頂いているのですが、 そういう祈り方で大丈夫でしょうか? また、そのお寺では、護摩供養を来週行うようなのですが、 参列しても問題ないでしょうか? (間違ったことをして、かえって変な事態を招かないだろうかと 不安になりました。) (2)座禅・瞑想について そのお寺さんでは、週末にお堂を開放されていて 自由に瞑想してもよいとのことで、使わせて頂いたのですが、 特に作法の指導はなかったので、 自由にお祈りをしたり、深呼吸をしたりして過ごしました。 そういう作法で問題ないでしょうか? あるいは、きちんと座禅の指導も受けてみた方がよいでしょうか? お忙しい中、読んで頂きありがとうございます。 よろしくご指導をお願いします。

有り難し有り難し 5
回答数回答 1

禅と念仏

こんにちは。僕はこれまで様々な道(生き方)を求めて、真宗の教えを求道中だったのですが、はっきり言ってこれまでやってきたことは偽りに過ぎなかったと思い始めました。僕は真宗(本願寺派)において信心をいただきましたが、結局疑いは消えないようです。疑いあるままの救いのようですが、どうも僕にはそれが耐えられないようです。とにかく苦しくて仕方ない。 一方、真宗大谷派の方はもとより疑うべき考え方がないので、とても気が楽になり、最終的には「事実のみが救い」だと最近学びました。 真宗大谷派が最善だと思っていたのですが、僕は精神統一をしなければとても精神が不安定になることもあり、どうせなら座禅の方が良いのではないかと考えています。 これは僕の勉強不足かもしれませんが、座禅と念仏の教えは確実に繋がっているところがあるように思うのです。座禅の教えは自力だと言われていますが、僕はそうは思わず、考え方の問題だと思います。念仏だって自分の意思で間違いなく念仏申しますが、考え方としては「阿弥陀仏の力によって念仏させられる」と考え、禅宗でも「座禅が座禅をするのだ」と言っている人もいます。それに、「座禅は悟りを開くことが目的ではなく、座禅そのものが目的」だと聞きました。 他にも禅で言う大悟も、念仏の信心と似てるというか、もう一緒ですよね。「妙好人」の著書で知られる、鈴木大拙先生も念仏の教えと座禅の教えを比べながら大悟を解説していますし、大悟したと言われる一休禅師も煩悩が消えているわけではない。実際にはどういう境地なのかは分かりませんが、おそらく「仏の眼」によって煩悩あるがままでも力強く生きることができたのではないかと理解しています。 これらの事から、僕は禅の道を歩もうと考えています。 念仏の教えと座禅の教えは、ほぼ同じようなものだと考えている僕ですが、実際はどうなのかが知りたいです。よく吟味しながら求道しようと思っていますので、遠慮なく厳しいお言葉でも構いませんので、念仏と座禅の関係性、大悟や信心の類時点や相違点を教えていただけると有難いです。

有り難し有り難し 25
回答数回答 2

相談カテゴリ
-四苦八苦 SickHack!▼ 全カテゴリを見る

お坊さん33秒法話ピックアップ