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検索結果: 1749件
2022/01/27

俗名で供養するのは間違いでしょうか

2週間前に母を亡くしました。 いざ葬儀の際、父は菩提寺もなく檀家でもない、お墓も持っていないこと(父は次男で実家から距離もあるので)、私が生前の母とテレビを見ながら「戒名は何十万もして高いし、私はこのままでいい。お墓も高いから…」と話してたこともあり、俗名のまま、宗派も決められないので葬儀屋さんからそれでも読経して頂けるお坊さんを呼んで頂き葬儀を行いました。 2月末には四十九日ということになりますが、その前に悩んでいるのが、 このまま俗名で供養できるのか?ということです。 母の言葉通りであるなら、戒名は不要なのかもしれません。 私自身も、母と同じ考えで自分に戒名は不要だと考えているので、母の気持ちは理解できます。 ですが実際に母が亡くなって、しっかりと供養してあげたいと考えるようになったことで、白木位牌から本位牌に代わる際、俗名のままでいいのだろうかと不安になりました。 家族は、母がいらないと言ったならつけない方がいいのではないかとも言います。 心配なのは、 俗名のまま、本位牌を作成して開眼供養して下さるお坊さんはいらっしゃるのかどうか 葬儀は読経して頂けたけれど、宗派もわからぬまま四十九日はどうしたらいいのか。 お恥ずかしい話です。 全く仏教に関する関心や信仰心等無かったのに都合がいいかもしれません。 自分にとっていい部分だけ切り取ってすがろうというのもばち当たりであるとも思います。申し訳ありません。

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ねむれないです。。

こんな夜中に投稿してる自分はなんだかなぁと思います。 ずっと婚活していて、今日は婚活支援をしてくれてるお寺に行ってきました。 小さなお寺で親身になってくれるのが良いなぁと思い、誘われるままにご住職やお寺の若いお坊さんと法話会の後にお食事してました。 最初は和やかな感じだったのですが、お酒も入って、、。 お坊さんの言ってること、仏教的なこととかって割と世間的にはただの綺麗事だよねって、弾かれちゃうのが多数派なんだよねみたいな話しになりました。 私はえーっ?って思って、たとえ少数派の綺麗事でも、多数派に揺さぶりかけた方がいいですって酔っぱらいながらも援護したらつもりでした。 なのに、ご住職さんに「主張が強すぎて彼氏できなそう」とか私が好きで良く坐禅を組んでいるお寺の宗派に対して「あの宗派偉そうなんだよね」など、あん?と思える発言ちらはら。 すみませんただの愚痴ですm(_ _)m 別にお坊さんだからどうとか、美化してないけど、なんで上から目線?とげっそり。 挙句にひとまわり以上歳下の婚約者とラブ雰囲気を醸すご住職。 4人の少数飲みでマジきつい、なんで自分呼ばれたのかな。。 婚活してると、たまに、超上から目線で色々言われます。 「今までさんざん好きなことをしてきたくせに」「子供を欲しい人は35以上の女性を選びませんよ」とか。 お寺じゃなくて普通に公共の機関でも言われました。 それらの説教質問の後に、どんな人がいいの?とか年収いくらがいい、とか聞かれても答える気になりません。。 わー、すみません、愚痴がスパークしてますm(_ _)m。。。 デリカシーないひと撲滅。。 おやすみなさい。。 お寺も仏教も坐禅も大好きなのに。

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お坊さまの言葉

先日は母の四十九日法要でした。 私は檀家等のつながりが無く某密林サイトにてお坊さまを依頼させていただきました。 来られたお坊さまはきちんと経をよんでくださり法要としてはとても満足のいくものでした。 ただ、経が終わり帰り支度をしながら「次は100日の法要を必ず実施してください。でないと故人はお釈迦さまの元へはいけなくて追い返される」みたいなことを言われました。 今後の法要の予定として言われたのだろうとは思いますがその話だけをしてサッと帰られました。 私はこのお坊さまのおっしゃられた事に間違いはないとは思いますが、もし私がお坊さまの立場なら、お金の余裕が無く簡素なお供えではあるけども、故人を思い一生懸命な遺族に対して今日の四十九日法要を無事に実施できたことに対しての労いと、これで故人も安心して旅立てます、だから残されたあなた達は安心してしっかりと生きていきなさいよくらいのことは言ってあげると思います。 死んだ人だけでなく残った遺族に対しての救いになるような言葉かけて道を照らしてあげるのもお坊さまの使命ではないでしょうか。 単に法要の管理だけならCDで流すお経とあまり変わりはないのかな?なんて思いました。

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2022/05/05

魔性すぎる毒親の飼育が酷すぎる…

お久しぶりに投稿します。 ちょっと重い話ですが、私の毒親は酷すぎです…どのように酷いのかというと、私は至って健康体だったのですが姑たちに「飯食わせてんのか!?」と文句を自分が言われたくないばかりに当時少食だった自分に「食べろ!食べなさい!!」とまるでガチョウの強制給餌の如く無理矢理食べ物を流し込み続けて豚のようにブクブクに太らされて私は学校では高○ブーとあだ名をつけられ姑たちにはデブ呼ばわりをされるようになったのに関わらず「勝手に太ったお前が悪い!」とやった張本人の母はまさかの責任転嫁の丸投げ…しまいには母は私を金○恩とバカにするようになりました。 父も父でDVで母を殺しかけてましたが母もまた負けないぐらいの凶悪っぷりで、離婚後は家事はやらない、仕事はしない、子育てはもちろんやらず毎日ゴロゴロ家でテレビを見るか男遊びに熱中してました。 ちなみに彼女は人のものを奪い取ることが大好きで当時遠巻きを何十人も作ってましたがその中の特にお気に入りの男性は3人で3人とも妻子持ちでした。当時まだ9歳だった私ですが母はいつもクリスマスや正月になると私を何日も放置して男と遊び惚けてました。 おまけに手癖も悪く、私の財布から2万も盗み出して遊びに使い込んだり、私が大人になったあとも母は私の家の鍵を取って逃げて(その後一番お気に入りの男と結婚したらしいですが、母は実の子供なのに私に家の鍵は持たさなかった…義理の子供は大事だから持たせてるのに…)私の家に忍び込んで私が自分で働いて稼いだお金で買った備品を盗み出して何食わぬ顔で堂々と使っています。 毒母はお金にも汚く、私からお小遣いをよくねだってきて(連れの男も)金をよこせ!でないと縁を切ってやる!お前なんかいらない!死んでやるぞ!!と酷い時はナイフで首を切ろうとしたりして脅します。 上げれば上げるほど悪行はキリがありません…お坊さんたちだったら「お小遣い何十万でも好きなだけあげるし欲しいものもなんでも買ってあげるから親でいて下さい!」と言いますか?こんな親が自分の親だったらどう対処しますか?私は死んで逃げるしかないのかなと思ってますが… そして身近な人やテレビで当たり前のように子供が大切にされてるところを見るとすごく悲しくなってきます「私も大切にしてもらいたかった…」と…この埋まらない悲しみはどう対処すればいいのでしょうか?長文すみません。

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実母と絶縁したい

結婚して一年以上たちました。東京から栃木に来ていろいろありましたが、それなりに幸せに暮らしています。 事の発端は去年私が出産し手伝いに来た時から始まりました。手伝いに来た事を知った義母か団地に来たのですが、実母と話をしていて、突然何を思ったのか「娘を結婚させなければよかった、バツイチと結婚して親戚中の笑いものだ!」とか「今、旦那(私の)が死んだら、ここでは生活できないでしょうね」など言い出しました。 旦那も義母も凍りつく発見でそれ依頼関係が崩れてしまいました。何度か私と旦那と実母と話しましたが、発見に対して詫びる事はなく、こちらも縁を切りたいと話しましたが理由をつけて被害者ぶった手紙を送ってきました。 旦那ももう連絡はいらない。関わりたくない。といってます。決定的だったのは今年2月に亡くなった私の祖母のお葬式等の連絡がなかったのでお線香のひとつもあげられなかったことです。 旦那はお坊さんです。こんな屈辱はありません。 今回孫の誕生日と言う事でお祝いを送ってきましたが、今まで何もしてくれなかったのに今更ですし、受けとりたくありません。旦那も送り返せ!といってます。 実母からの手紙も被害者ぶった内容で頭がお花畑状態でした。 ましてやこのお盆の最中に、赤のしを送ってきた事事態非常識だと思います。 まぁ、私を産んで育ててくれたことは感謝してますが、娘を離婚に追いやろう!わたしのてもとにもどしたい!そんな感じはかえって迷惑です。今後も悩むくらいなら縁を切りたいです。 孫の事は一切考えてないし、電話でも爺、ばあの権利は放棄するといってました。 娘は羽子板もお雛様も買ってもらえてません。 最近は義実家に年賀状もお中元もお歳暮もありません。

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「苦」によって仏道を志すのでしょうか

いつもお世話になっています。 日々のご回答に感謝いたします。 質問者の方々が励まされ心情に変化をもたらし心が好転していることが伺えます。仏道を志す者としても嬉しい限りです。 在家ですが、日々坐禅を行って心の清浄に努めています。 多くの質問者は、他人の質問を読むことでも勉強になっていると思います。 「苦」を観察しました。  我々は見るものであると同時に見られるものです。我々は現象を観察するものであると同時に観察される現象そのものです。  いつも主体と客体という目線でしか観察できていませんでしたが、己を客体として観察すると、己は他人(=現象を見ている主体)から見れば「客体」であって、見られる現象そのものです。  現象は諸行無常であり縁によって起こっています。この世は、全てが縁によって起こっているので恒常不変の「我」など無いので無我であり管理や制御のできない世界に生きています。  現象は常に未知であり無常であり無我であるゆえに実体のない蜃気楼か幻想のような実体のない「空・無」です。この身体や五感も現象であって、無常です。この世は、一時的な現れの現象が連続で展開されているだけでしかありません。  己に視点を移すと、我々は未知なる一瞬一瞬の刹那を体験してるだけです。この幻想の「世界」では掴むことのできない「空・無」を一生懸命につかもうとしています。しかし、己の頭の中では「現実」として展開されていて掴めるものと思い込んでいます。できもしないのになんとか掴み取ろうともがき苦しんでいます。しかし、叶わないので「苦」となっていると思います。  存在していない仮想の「わたし=無我」を使って、掴むことのできない世界で掴もうとする「渇愛」がありつづけます。「渇愛」を消すこともできずに「苦」のままに生かされています。  我々は、楽で「苦」をカバーしきれなくなり、「苦」に耐えきれなくなるようです。やり場のない怒りや憤りが募り、仏道に拠り所を求めるようになっているのでしょうか。「苦」を認識することによって仏道に入っていくなら、「苦」は避けるものではなく直視しなければなりません。「苦」は消滅できると証明されたのがお釈迦さまでありその道が仏道であると日々感じています。  お坊さんのますますの活躍をお願いいたします。

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金剛経「第五章 如現実見分」のヒントをお聞かせください。

いつもお世話になっています。「金剛経5章」の勝手な考察です。お坊さんからのヒントをお願いいたします。  我々凡夫は、如来であるとの確証を得た(=如来は凡夫にとって価値があるということを知った)後に、如来を探し出せるような特徴を必死に見つけ出します。如来(=価値がある存在)と確証する前は如来でも何でも無いので特徴など詮索しません。探す目で見ていないので特徴はあっても特徴は認識できないので特徴はありません。特徴があるとは、気づいた後に作り出すものであり前には特徴はありません。  誰かが発見する前から重力や浮力は存在していて誰もが目にしています。特徴などないので気づきません。発見した人が「万有引力」やら「浮力」などの名前をつけて特徴としています。  そもそも、あらゆるものに特徴などなかったのです。人間だけに利用価値や意味があるので特徴を見つけ出します。人間以外の動物に「偽札」の特徴など知る必要はなく、特徴などありません。  動物には「言葉」がないので、臭いとかまずいとかの概念はなく本能的な反応だと思われます。我々人間も味を「言葉」にして分けていますが、親に教えられて「にがい」という味覚と経験を記憶しているだけです。  特徴があると断じても、諸法は無我であるので縁によって以前の特徴がいつまでもあるわけではありません。宇宙空間での「音」の特徴は、空気という縁がないので音は振動として伝わらないので音の特徴などありません。人相の特徴ですら、三十年も経てば全く変わってしまい以前の特徴はなくなっているでしょう。  特徴がないと断じたとしても、人間が価値を認めれば特徴を必死に見つけて特徴を定義します。  「ぶどう」は房に実が鈴なりについていて、甘酸っぱくて黒や緑色をしているという特徴によって「ぶどう」と名付けられます。この共通認識によって、市場で果物として流通しています。「ぶどう」は「ぶどう」と名付けられる前から存在していました。「ぶどう」は「ぶどう」と呼ばれなくても「ぶどう」ですから、明日から「ぶどろ」と呼ばれてもいいのではないでしょうか。  特徴によって存在しているのではなく、存在に特徴をつけて勝手に思いつくままに適当な「名前」をつけているだけではないでしょうか。  結局、あらゆるものは概念と名前によって個別の存在として有るだけで本来は区別差別のない一体であると認識しました。

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梵字を習うことについて

梵字を習うことに関して質問いたします。 先日ご縁があって児玉義隆師の著書「梵字入門」を手にする機会に恵まれました。それをきっかけに悉曇文字、サンスクリット語を学びたいと思っています。 しかしこのまま自ら書いて習ってよいものかと思い始めました。 私は在家で、在家である自分が梵字を書き、習うことは越法に当たるのではないかという疑問が湧いたのです。 実家の菩提寺などご縁があるお寺やお坊さんに聞いてみましたが、別宗門なので詳しくはわからないとのことでした。 また現在海外住まいのため、直接真言宗や真言律宗のお寺に伺うこともできず、こちらで質問いたしました。 大雑把に、梵字を書くことの在家への制限は越三昧耶罪にあり、その根拠は大日経疏にあると薄い知識ながら理解しているのですが、根拠となる原典を知る機会はありません。 しかし一方で、日本全国で僧侶の方による梵字教室が一般向けに開かれている現状もあり、僧籍を持たれる高野山大学の名誉教授が在家者に梵字の教本と自習を推奨されてもいます。 児玉師の教本には、お袈裟・衣をつけずに梵字を書いてはならないとの心構えの解説がありました。 これを僧侶の方への訓戒と受け取るべきなのか「在家には梵字を書くこと自体許されない」ととるべきなのか判断がつきません。ましてその解説が一般向けの教本に書かれているのですからますますわかりません。 そういったことで、在家でありながら悉曇文字あるいはサンスクリット語を学びまた書くことは功徳になるのか、密教の戒律に詳しい僧侶のかたにご意見を伺いたく思っております。 教条主義的になるのも良くないのでしょうが、独りよがりになることを避けたく、ご意見を賜りたくご連絡いたしました。 もし知識のあるかたから見て問題がなければ、日本に伝わっている素晴らしい文化ですし、悉曇文字を勉強したいと思っています。 僧侶の皆様、お忙しい中見ず知らずの者から長々と恐れ入ります。ご教授いただければ大変幸いです。

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死に対する矛盾と疑問

私は家計的に仏教とは縁があり。 お坊さんの思想をとても信頼していまして、以前からこのサイトを自分自身の励みとしています。 まず私の人生を話しさせていただきます、以前縁あって地下アイドルをしていました、某AKBなんてメジャーな運営ではないので、日の目を見ることはほとんどありませんでした、それでも僅かなファンを大事にしてまいりました。 その活動の傍ら私は男になりたいう性同一性障害に苦しむようになりました、自分の求める容姿になれない、輪郭も骨格も、男になり切るには無理があると周りから言われても諦めず叶わぬ夢を追い、そのストレスの反動でたくさん親やメンバーに悪態を吐きました。 性別を変えるためには膨大な費用がかかり我が家の財産では到底無理でした、毎日苦い思いに泣く日々、鏡を割ったり死のうとするのは日常茶飯事でした。 学校もろくに行かずに3年程アイドルを続けて、そろそろ将来やべぇ、って思いました。 アイドルを辞めて、高校受験をしました、今では無事入学し、文学と生物学の勉強をしてそれなりに充実しております、見た目も男と女の中間だって、半端だってそれが自分なのだから受け入れよう、妥協したっていいじゃないかと思うようになりました。 そんなある日、何気なく死後について考えました。 死んだ後はどうなるんだろう。 思い出の服、大切な友達や家族との記憶、大好きな歌、憧れの人のことを全て忘れてしまうのかな。 やってきたこと全て無駄になるの?。 死にたくない、生きたい、ずっと生きたい。 あれだけ死ぬことばかり考えていたけれど、今度は生き続けるために画策しなければならないなんて、あぁ、なんて皮肉。 記憶は脳が作ってるから死んで脳が焼かれたらおしまい、あの世って考え方は死への恐怖をなくすための御伽話なのかな。 あの世があっても転生して魚や牛になって食われるのは勘弁だよ。 そのために今は自分なりの徳を積んでいます、散々私がいじめた親に恩返しをしています。 死への恐怖、なくなりますかね? あと人は死んだらどうなるのですか? 人格が変わってしまいました、興味と欲望と生きる気力がなくなりました、かと言って死にたくもないのでただ存在しています、死を気にしない溌剌とした自分に戻りたいです。 死という概念に囚われずに輝く同年代が少し羨ましく思えます。 今私が見えているものは灰色の世界です。

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浄土真宗で唱えるお経 般若心経はダメ?

父方は浄土真宗、母方は浄土宗、当人はキリスト教カトリックという宗派宗教ごちゃ混ぜのからすたろうと申します。また、ご縁があり法相宗薬師寺に何度かお世話になっています。(ややこしくてごめんなさい。) 昨年、母方の祖父と父方の近い親戚が亡くなったことから仏教に興味を持ちはじめ 法相宗薬師寺にて少しながらご奉仕をさせていただいたりしています。 法相宗では般若心経を1日に何回も読経するので自分にとって般若心経は暗唱できるほど一番身近なお経です。奉讃文に 「神前にては寶の御經、佛前にては花の御經。 況して人間の爲には祈念祈禱の御經」(引用) とあるように祖父(浄土宗)の仏前では読経させていただいています。 さて、父方の仏前でも親戚一同からお前の読経は声が良い。染みる。なんて囃し立てられまして何度か般若心経読経させていただきました。 しかし、先日 浄土宗のお坊さんとお話ししていましたところ どうやら浄土真宗は般若心経と教えが違い般若心経は上げないと教えていただきました。父方の親戚の仏前にてお唱えしてしまったことを申し訳なく思っています。 ・やはり、浄土真宗の仏前にて般若心経をお唱えする事は避けたほうが良いのでしょうか? ・浄土真宗の仏前にてお唱えするときは何というお経が良いのでしょうか? ・浄土宗では南無阿弥陀仏を十念4+4+南無阿弥陀仏+南無阿弥陀ぶー とお唱えしますが、浄土真宗では「なんまんだぶ」と聞こえます。どのようにお唱えすれば良いのでしょうか。 長くなってしまいましたが3点、よろしくお願いいたします。

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