おはようございます(⁎⁍̴̆Ɛ⁍̴̆⁎) 私くしも 病気がちだし 毎日仕事が苦しいし 考えたら お金はいるけれど 限られた命の中で そこまで 仕事仕事で生きていくのが 正直辛い 特に この世に執着が無かったんです。子供は って言うと 私に特に求めるものはなくて 私の姉や 私の母 父に求めているみたいなので いつ 命が尽きても 悔いはないそう思ってましたら ある日 脇あたりに シコリがあるのを見つけて 一人 癌だと思って 泣くわ ショックだわ 一気に 生きたいと思う心が 湧きました 普段 命の先がみえないから 死にたいと思うけど いざ もしかしたら って事があったら 人って やっぱり生きたくなるものです。 慌てて病院へ いったら リンパ節が腫れてるだけだと 言われ ホッとしました。ただ 寿命がきたら 受け入れるうつわを 持ってなきゃなとも 思いました。 それをふまえて 病に苦しむ方の心も 学べた気がします。とてもではないけど 生きた心地がしなかったし 記憶も ボーっと ひたすら 亡くなったらどうしよう 子供は とか考えました。 なので 私自身も 少しでも ご病気に方の苦しみに 寄り添えます様 いま剃髪をし 生きてます。 私も 皆様に寄り添いますので 皆様のご病気が一日も早く治りますよう。 病気や 老い 孤独 、、、、 生きてる限り 悩みは 尽きません お坊様方は 仏様と向き合い どう この世の闇を 照らされましょうか
お世話になっております。 柴田秋です。 私は10年ほど前に自殺に失敗しました。 複数回の失敗の上、死ぬのは少なくとも生きることと同じくらいには面倒で疲れることだと感じたため、久しく実行には移していません。 それから、どう生きるのかと同じように、死について考えるようになりました。 死後の世界とかではなく、死ぬことで私の周囲に与える影響についてという意味です。 迷惑云々や、コストや、私の心とは関係なく死後に振り分けが行われるのであろうなということなどです。 こちらの質問の回答に対して、疑問が浮かび上がりました。 https://hasunoha.jp/questions/38774 余談ですが、今は少なくとも怒りは自覚していません。 「仏教は死んだらどうなるの教えではなく、生きているからどうするの教えです」 とあります。 多分、きっと心構えのことをおっしゃっているのだと思いますが、疑問が沸き起こってきます。 背景は語りましたが、それはあくまで単なる動機です。 私のことは私で考えるとして、他者のことは私には分かりません。 よろしければ、質問に応えていただきたいです。 仏教の最終的な目標は、悟り、無限に続く輪廻から脱し、六道のひとつである天道に行くことではないのですか? 仏は天道に在すもののことですよね? つまり、死後のことこそが目標なのではないですか? あくまで、そこに至るための過程として、どう生きるかが重要なのだと思っているのだと思いました。 つまり、生き方は手段で目的は死後の行き先であると。 なんとなく、キリスト教やイスラム教、パスタファリアニズムの天国を目指すのとは異なるのだとは思ってはおりましたが、疑問が起こりました。 仏教は天道を目指し、輪廻から脱すること、つまり解脱が目標ではないのですか? 絶対の正解を求めているわけではありませんので、ご自身の考えで構いません。 ※私の拠り所とする科学(科学的方法)にも絶対の正解はありません。 あれらは、今のところ否定されていないというだけです。 当然、ご回答なされた方以外の方には、天道へ行くことを目標とされている方もいるかも知れません。 それぞれのご回答を伺いたいです。 よろしくおねがいします。
正社員になるために求人に応募したんですが不安です。 雇ってもらえるか人間関係が上手く行くか上手く仕事がこなせるかといった未だこれからどうなるか分からないことで頭がいっぱいです。 不安で食欲もなく精神的におかしくなってしまいそうです。 誰しもこういった不安は抱くものなんでしょうか。 この場をかりで相談させてもらいました。
いつもご相談に回答をいただきありがとうございます。 人は変われるのでしょうか。 現在仕事を辞め転職活動中の28歳になります、時間があるため今は趣味で作曲やイラストの創作活動をしております。 美味しい食べ物もあるし時間もあって恐らく幸せなはずなんです。 ただ、私は昔から人と比べてしまう。不幸というのは他人と比べることにより出てくるものだと考えております。 現在働いていない自分、彼女がいない自分、年末に遊びに行く相手もいない自分、スキルや能力もレベルが低い自分、お金もない自分 無いものばかりに目を向けてしまう。 あるものに目を向けると、作曲した曲をyoutubeに上げて少しは再生されるようになった、イラストにコメントが貰えた。 嬉しいはずなのに喜ぶことができない、もっと、もっと、もっと頑張らないとと考えてしまう。 知識ばっかり偏っているから、手先だけは器用にできるけど、本当に心からしたいことが分からなくなる。 とりあえず仕事を探している。なんでこんなにみんなは人と仲良くできるんだろう、なんで私はこんなにいつも孤独なんだろう。でもだからといって人付き合いを頑張る元気もない。 一度くらい愛情が貰いたかった、愛情を貰えるようになるにはまた努力、頑張るしかない。 自分から声を掛けてもうまくいかないんだから能力を上げて声を掛けてもらえるくらいにならないととも思う。 本気でしたいことがない、死ぬことも怖くない、でもなんだったんだろう自分の人生とも思う。 また変わらず必死に生きるしかないのでしょうか。
私自身では知識も知恵も足りないので この場をお借りして質問させて頂きたく思います。 私は現在23歳の男で 精神障害者でASDと双極性障害Ⅱ型という 病気を抱えています。 精神疾患なので見た目では判断できませんが 障害者年金というものを受給しており 皆様の税金により生かされている立場の人間です。 私には今、生きる目標がありません。 躁鬱は気分の並を繰り返す病気で 人生の半分が鬱と言われる為 真面に仕事に就けず、障害者の支援施設の方で 下請けの作業をしています。 時給なんてものは無いくらいに低く 誰にでも出来る業務の単純作業で やり甲斐なんてものはありません。 何の意義も感じず 最近では通所することすら辛いです。 かといって、プライベートで 熱中出来るものも無ければ SNSなどで活躍するような人たち アーティストのような才能や 創造力のない人間のため 生きている価値がなく、縋るものもありません なのに福祉に頼って生かしてもらってる存在です。 自立すら出来ない人間は 一体なんのために生きればいいのか? 私は女手1つで育ててくれた母と 弟、祖母と大切な家族がいます。 しかし、家族の為に生きるという誠意もなく 開き直って自身の生を謳歌するほど根性もなく 誰かの為に生きるという利他的で慈愛に満ちた人間ではありません。 定期的にくる気分の波が私の思考を苦しめるなら いっそのこと死んでしまえばいいのではないのか?と思ってしまいます。 お坊さんに失礼な言い方になりますが 私は仏教に縋り、善行を行い徳を積めば 生きていいと救われるのかとも思います。 しかし、仏教は一朝一夕で得られる 知識でも知恵ではないと思います。 見様見真似でお今日を唱えたり 仏様を拝むこともまた違うと思います。 私のような一般人で悩める人間は どのようにして生きれば良いでしょうか? 正解などないと思いますが どうかお坊さんの知識、知恵で 私を啓発していただけないでしょうか? そして私のような窮地に追いやられた時に 仏教に頼ろうとする人間をお坊さんは どのようにみえるのでしょうか? やはり罪深いものですか? 稚拙な乱文で読みにくいかと思いますが どうかお力添えの程よろしくお願いします。
何度も申し訳ございません。 主人と再三話し合って、自由に暮らしたい気持ちは変わらないと言われ、私の努力ではもうどうにもならないのだと受け止め離婚する事を受け入れました。養育費も払いたくないし認知もしたくないから子どもは堕ろして欲しいと言われましたが、5ヶ月に入り産ましてほしいと話をし、生活保護で生活したくないので、1年この状態で生活させて欲しいとお願いしました。 我慢ができるまでとは言われましたが、離婚に納得したので以前より会話は増えましたが、気に入らなければキレたり無視します。好き勝手して仕事と言いながら何処かに行ってるのか夜中にならなければ帰って来ません。私がお願いしたのだから、もう何もいう気はありませんがこんな人の子どもを産んで幸せになるのか考えてしまいます。今まで2度流産してやっと授かった子どもを自分の自由が無くなるから離婚、堕ろせといいます。離婚に至るのは私が悪い。俺は全く悪くない。人として言ってはならない事もあると思いますが、一番自分が大切な人なので悪くないといいきります。一人で育てていけるのか自分の年齢にも不安はあります。離婚して産むと決めた私の決断に間違いはないのか、こんな人でも授けてくれた事に感謝できる日はくるのでしょうか? 周囲は早く家を出ていく事を望んでいますが、こんな人でも父親なので、一度だけでも我が子を抱いて欲しいと思っています。子どもも見たくない興味もないと言われたので、出て行ってしまうと抱かせる事ができないと思いしがみついているのかもしれません。 私の行動は間違ってるのでしょうか?
あらゆる物は縁によって生起させられる故に「無自性」・「空」であり、 その縁起すらも恒久的に存在するのではなく「不生」「無自性」であると喝破し、 最終的には「空」の否定により戯論が寂静した境地こそが、涅槃・勝義諦であると云う事でしょうか? ところで龍樹は「釈尊は不生不滅にして戯論寂静なる縁起をお説きになった。」と仰られておりますが、 「戯論寂静なる勝義こそが縁起」と云う事はあまり耳にしません。 これらの事について解説して頂いても宜しいでしょうか?
お釈迦様の話しを聞きたいです
痛ましい事件が起こってしまいました。 近所の人の話を聞くと、「優しい子だった」ということでした。最近よく聞く、容疑者の人物像です。 容疑者の人物像から、もしかしたら親や学校、同級生から精神的な抑圧がかかっていたのかなと推察しました。仮にそうだとしたら、早い段階で誰かが気づいて、専門的手だてを講じることはできなかったのだろうかと思います。 私は、「人間はもともと善い性質を持っている」と考えています。家庭や学校での学びや経験などを通して、間違った学習をすることによって社会規範から反れていくのだと考えています。色眼鏡をかけていくことにより、間違った見方をしてしまう可能性があります。 人間を含む哺乳類を観察すると、幼児期の母子関係が大事だと感じます。何らかの理由で離れてしまい、その後、周りの人たちからの裏切られる経験が重なると、より良い成長にならないと感じています。 事件が起こったときに、犯罪者本人に反省を促すことが大切だと思います。と同時に、犯罪者に対する治療が必要だと感じます。刑務所の中でも、矯正プログラムはあると思いますが、社会復帰して犯罪者自身が困ったときに相談できる窓口が必要かもしれません。 一方で、社会の方も、これまでの問題点を洗い出す契機になるかと思います。生活習慣の乱れが人間の体の弱いところに現れるように、社会の乱れも弱いところに現れるのだと思います。 環境ストレスや社会ストレス、内的ストレスへの対処法を教え、これらストレスによっておかしくなってしまった人を救うシステムを構築することが、日本国憲法が目指す社会の実現に必要なことだと考えています。 社会で生活していくだけでも精神的な歪みが生じるのに、社会に出る前の教育ですでに歪みを生じさせるが、その歪みを自己矯正する様々な手段を教えない。多くの知見の蓄積があるのに、生かせていないように感じます。 最近のニュースを見ていると、たまにこのような残虐な事件は起きますが、芸能人に関するスキャンダルや一地方の事故が全国ニュースで流れているのを見ると、憲法が求める理想社会に近づいているのかなと思います。 私自身も、「~すべき」という色眼鏡やネガティブに捉える色眼鏡をかけているので、気をつけたいと思います。
何度も質問させていただいております。 毎回丁寧な回答をいただいて感謝しております。 さて、私は今までキリスト教の学校を卒業し、イスラム教の国に住み、特に宗教は持たずに全ての宗教は知識として学んできた程度でした。 元々追求すること、考えること、科学的にものを見る質なので現実的にに世の中を見てきました。 そして最近行き着いた答えは、科学と神秘、宇宙と人間は皆同じなのだということです。 バレエに人生のほとんどを費やしていますが、これはほぼ稽古、修行、メディテーションです。これを通していろいろなことを学んでいます。 そこでたまたま仏教について読んだところ、正に宗教という概念もなく実践してきたことそのものだったのです。 どんな贈り物よりも嬉しい発見でした。 それから毎日、宗派や教えを調べましたが、困ったことに『そう言われればそうかもしれない』という教えの違いばかりなのです。結局のところ、一つの目的をもって正しく生きることを遂行すれば宗派など問題ないのでは?と思うのですが、現実問題いかがなものでしょうか。 今後真剣に仏教を学びたいと思ったときに、どのようにして適切な宗派を選ぶべきなのでしょうか。
幸せの価値観は人それぞれですが、 よく言われるのが、 満足度を高めるや、豊かになる、誰かの役に立つなどだと思います。 私も満たされた生活こそ幸せだと感じますが、 満たされる=必要とされる、没頭できる、会話をしてくれる人がいる、等々だと思っています。 しかし、それが『幸せ』なのですか? 『幸せ』って何ですか? そのために『どんな生き方』をすればよいですか?
人間は何のために生きるのでしょうか? 私の大好きな漫画の『ジョジョの奇妙な冒険』の第3部で、DIO(ディオ)は、『人間は誰でも不安や恐怖を克服して安心を得るために生きる』と答えています。 なるほど確かに。人間の営みにおいて、この言葉はすべてに当てはまるのではないかと思いましたが、なんだかこの言葉に当てはめてしまうと生きる希望をもてないというか、元気に前向きに生きようという気持ちにはなりません。 この質問に対して、前向きに元気になるような、また人生の応援歌となるような、そんな回答や言葉が欲しいです。
現在、京都の佛教大学に通ってます。浄土宗の教義を勉強しております。家の仏壇や大学の礼拝堂で、半年間ほど開経偈から真身観文までの助行と本願念仏を唱えてきました。 しかしながら、阿弥陀仏の浄土の存在と死後浄土へ往生できそうだという手応えを一度も感じることができず、今は念仏をやめてしまいました。 例えば、自転車に乗る練習を何回かすれば乗れる手応え感じるはずです。 しかし、念仏に関してはそれが無いのです。 善導大師や遊蓮坊園照は証覚を得たと言います。私も手応えを得れば、今後の人生を明るく有意義に暮らせるとおもいます。 念仏をされてるお坊さんで、浄土の存在と死後往生できそうだという手応えを得てる方はおられますか?それともやはり、極楽浄土は絵空事のフィクョンなのでしょうか? よろしくお願いします。
もし仕事をしないで生きても、バチは当たりませんか? これまで頑張って沢山働いてきました。 もし仕事しなくても(しばらく)生きていけるなら、その方が幸せだと思っております。 家事とか出来ることはやるし、沢山趣味や生きがいを見つけて楽しく真っ直ぐ生きます。 それで、いいですか? 有名な社長が、働かなくていいなら無理しなくていいとも言っていて、勇気を貰えたんです。 絶対に働かなきゃいけないって事はないですよね?(事情があれば)
現世がうまくいくよう願うのは執着になるのでしょうか。 病気のときに苦痛が和らぐよう願ってしまうのも執着 になるのでしょうか。 執着を去りたいと願うのも執着なんでしょうか。
こんにちは。前々から考えていた事です。変なヤツと思われるかも知れませんが、お付き合い頂ければ幸いです。 私は私として存在しています。当たり前ですが、これってすごい不思議ですよね。なぜ「私」は私以外の誰でもなく「私」なのでしょうか?そしてこれを読んで頂いている「あなた」も何故あなた以外の誰でもなく「あなた」なのでしょう? またこの宇宙も「この宇宙」として存在してます。これも不思議です。別の物質や法則、公理体型で成立してる宇宙だって理論上存在するけど、なぜ私が見てるのは「この宇宙」なのか。そもそも、時間も空間も無い完全な「無」であったっておかしくないのに。 一見、宇宙は私の意思に関係なく存続しているし、私も宇宙の意思(そんなのがあるとして)に無関係に振る舞ってます。そう考えると私と宇宙は互いに疎外されてます。パスカル流に言えば「宇宙の沈黙に私は恐怖する」です。私はカトリック系の大学で物理学を学んでいましたが、数式ばかりを弄ぶ大学物理に困惑しました。キリスト教や西洋哲学に救いを求めましたが、答えは結局得られませんでした。(足踏みはしたけど無事卒業はできました。今思えば、物理学やキリスト教に問題があるのでなく、私の心持ちにも責任の一端はあるのですが) 最近思うのですが、実在ではなく「はたらき」としての「仏」が私と宇宙を結び付けてるのではないのでしょうか。大気や水のように。丁度、水が魚個体の生存を可能にして魚と生態系を分かちがたく結び付けてるように。 私が真言を唱えるのも、唱える主体として私があり、響く場所として宇宙があり、響く媒体(大気のような働きとしての仏)があるから例えば「ぎゃていぎゃてい」の真言が響くのではないでしょうか。 大日如来・久遠実成・阿弥陀仏・清浄法身等様々な呼び方はありますが。 その意味で真言・念仏・題目・あるいは座禅は同じ境地かと。何故なら私の場合は真言ですが、もし私の家が浄土教なら「なぜ念仏なの?」と疑問に思っただろうし、日蓮宗の生まれなら「なぜ題目?」禅宗なら「なぜ座禅?」と考え、結局同じ結論に至っただろうと思うからです。 人と宇宙が結ばれてる「そのこと」に対する驚き・畏敬・感謝をこめて真言は唱えるものだと最近考えてますが如何でしょうか。(究極的には念仏・題目・座禅も) お付き合いありがとうございます。 ご意見頂ければ幸いです。
人を好きになるって、本当にうれしい。 でも、誘われたくて待ってる自分がじれったい。 好きな人に対しては、ワクワク半分、「誘われたいな」とか「でもこんなワクワクしてて、良いんだろうか。こんなに妄想してて、上手くいかなったら、悲しむのかなぁ私」 などと思います。 なんやかんや言って、誘われ待ち。 でも待ってても何にもならない?! 答えにくいかもですが、何かアドバイスがあればよろしくお願いしますm(._.)m
私は霊媒体質で、何回か、質問させて頂いております。小さなころから般若心経を祖母ととなえて、お寺さまの禅宗のつどいの先生役もいたしました。 それで、いつしか、般若心経から離れてはいたのですが、介護施設で働いていて、肩こりが治らなかったおばあちゃんがなんか肩にのっているのがわかり祓ったげました。そのあと、私の体に来たのですが、治り、施設入居者の方に500円でうってる般若心経お守りをさしあげました。般若心経は空にする力が強く、悪魔、天魔も祓うまた、供養と、災厄祓う、自分自身を空にするお経と思っています。そのあと、神社に、お祓いはいったのですが、般若心経がなぜか唱えれない自分に気づきました。般若心経が怖くて仕方ないのです。また、般若心経を調べると浮遊霊をよぶだのそんな情報ばかりくるのです、数日たってから訪問介護先で、セクハラにあいました、そのときに、お守りとして、観音経25と、咄嗟に不動明王さまの真言でした。お不動さまたすけて、神様、仏さま助けて! と念じた瞬間相手の力が弱まりすぐ、車に避難。大事にはならなかったです そのあとお友達が、私の通いつけの神社に、つれてってくれて感謝しました。そのあと、急に父が般若心経の経本がほしいといいプレゼントすることにしたのですが、神道でも唱える般若心経を慣れ親しんだ私は何故唱えなくなったのだろう?と内観しました。江原さんの本に憑依されるのは自分自身が、原因とかいてあったし。おかしいな、、と。そして私は天魔に騙されてる自分に気づきました。危ない危ない、、仏恩感謝、神恩感謝。般若心経をまた、唱えたいと思いました。合掌
人の絵に嫉妬してみたいです 他人が書いた絵を見て嫉妬したことがありません 日常生活で嫉妬してるかといえば、さほどそうではありません。 人生渡されたもので勝負するしかないです。 学生の時から、努力をした人間はそれが失敗しても成功して泣いたり、悔しがったりしてました。 自分はそういうのあんまりなく、よくわからないところでだっだっこのように感情コントロールができてなかったです。 話がそれましたが、人の絵を見て嫉妬したことがありません。 それがどれほど、うまい人でも、それがどれほど若い人でもです。 歴史上の人物の例えばアルフォンス・ミュシャさんなどうまいな。すごいなとも思いますし、ケルト文様を勉強して絵にいかすなど努力もされています 名前を忘れてしまったのですが、天井にガラスを張ってモデルの人を見ながら天女図を描いたという方も知っています。 でも、すごいなで思って終わってしまうのです。 御朱印めぐりをして、お寺を見たり、博物館見てもすごいな。で、終わってしまいます。 絵を見て、すごい人を見ると嫉妬している人は本当に怨念のように思われている方もおられます。私は同じ絵を見てもすごいな、うまいな、努力してるんだな、っとか思って終わってしまいます。 これは私の感性が何か間違っているのか知れません。 今の私が当時の人と比べれば恵まれています。資料も探せばあります。昔に比べれば印刷技術など、すぐれているところなど数え切れずにあります。努力が足りないというか、努力しても手の届かない世界があるのを理解しています。 私の努力が足りなかったり、感性が足りないから嫉妬ができないのでしょうか。
仏教を学んでいくなかで、これだけ素晴らしい教えを2600年も前にお釈迦様が伝えてくれているのに、どうして今の人類はその教え通りに生きることを選ばず、そして多くの人が苦しい方向に行っているのに国家がこのお釈迦様の教えを元にそういう生き方は良くないですよと止めないのか、むしろお釈迦様の教えを無視することを推奨するようなことをするのか不思議でなりません。 そして因果の道理でいうならば上記のようなこの世界で生きている僕は過去世にこのような結果が現れるような原因の種まきをしていたのだろうと言うことを感じていて行き場のない自己嫌悪を持っています。 ここで自殺してしまったらまた同じことの繰り返しになるのかもしれませんが、この業を清算することができる気もしません。 生きている以上他の生命をいただき続けるのは確定ですし、大したこともできませんから世直しは不可能です。無財の七施すらいつでもできるほど人間ができていませんし、結局は絶対の幸福に至れないで苦しむ気がします。 お坊さん方はどのように感じて今のこの世の中を生きておられるのですか? そして僕の問題はどうすれば解決出来ますか?