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hasunoha 問答検索結果 : 「私 死 悲しい」
検索結果: 1493件

自分のせいでインコを死なせてしまった

自分のせいでインコを死なせてしまいました。 1週間ほど前、インコのケージの掃除中にインコを放鳥しつつ同じ部屋で飼育してるラットも遊ばせていました。 ラットがインコに近づいたりしたら止めていたのですが、「まあ危なくなってもインコなら飛んで回避するだろう」と思っていたのですが目を離した一瞬のすきにラットにインコが襲われてしまい、噛み跡が胸2箇所、目の下、背中に1箇所と大怪我を負ってしまいました。 襲われたのは夜だったので次の日の朝に病院に行き診てもらったのですが、ここ数日で様子が悪くなりそのまま亡くなってしまいました。 亡くなったその日にも病院に診てもらったりしたのですが、どうしてもあの一瞬の後悔がずっと胸の中にあり息が詰まって苦しくなります。 私のせいでまだ数年あった寿命を消してしまったこと、ケガをしてから羽ばたくこともなく亡くなったことや体重がとても減ってしまって胸骨がわかるくらいに痩せてしまったことなど考えだすとキリがありません。 ケータイの中の元気な姿をみると本当に申し訳なさでいっぱいになります。 どうすればこの気持ちを飲み込むことができますでしょうか?

有り難し有り難し 14
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祖母が亡くなったのに泣けない

初めまして。 タイトルの通り、先月祖母が亡くなったのに、未だに泣けないでおります。 祖母には私が幼い頃から本当に可愛がってもらいました。 朗らかで穏やかで優しい人で、一度も怒ったところを見た事がありません。そんな性格だったので周囲の人にとても好かれ、葬儀の時は皆涙に暮れる、といった様子でした。 祖父が十年前に亡くなってからは病気がちになり、実家に戻り出来る限り祖母を介護しました。 介護を一度も苦痛とは思いませんでしたが、祖母はいつも「申し訳ない」と謝っていました。 この一年ほどは病院と施設を行ったり来たりでした。私は医師なので数えきれないほどの死を見ており、祖母もいつどうなってもおかしくない状態という事は理解しておりましたし、覚悟もしているつもりでした。 ただ、祖母が亡くなったら自分は生きていけないのではないか、と不安に思っていました。 ところが、先月祖母が亡くなった時から今まで少しも涙が出ず、それどころか悲しいという感情すらありません。 時折「寂しいな」と思う事はあります。しかし持続しないというか、考えないようにしてしまうのです。 葬儀の際、周囲の方から口々に「おばあちゃんはいつもあなたの事を話していた、本当に感謝していた」と言われました。 涙も出ない冷酷な私が、祖母に感謝してもらう権利はあるのかと思います。 泣けない、悲しいと思わない事は異常だと分かっていますが、自分でも自分の心理が全く分かりません。 こんな薄情な孫を祖母は悲しんでいないか、とても気がかりです。

有り難し有り難し 45
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"自殺すること"は"悪"なのでしょうか

ただ生きていくだけのことが難しいです。今まで何度も何度も生きるか死ぬかの地獄みたいな場面に遭遇してきました。 そのたびに「死にたい」と人に言って人から見た"死にそうな自分"をイメージすることで、なんとか生き延びてきました。 人に死にたいと言うとたいてい2パターンの答えが返ってきます。 「死ねよ」系か「死んだら悲しい」系です。どちらにも心はこもっていませんでした。面倒くさそうでした。 死ねよ系の中に私が社会で生きていると「社会やすべての人にとって迷惑だから自殺してね。約束だからね」といったものがありました。これは真だと思います。(私は生活保護を受給していますし、精神障碍者です。誰かの力を借りてもただ生きていくだけのこともできません。)一方死んだら悲しい系の中に「他の動物の命を奪って生きているのにその自分が自殺することは悪だから地獄に行き、未来永劫苦しむ」といったものがありました。これも真かと思います。 この二つは矛盾すると思うのですが、私がこのまま社会に迷惑をかけ続けながら生きていくのと、自殺すること。どちらが悪なのでしょうか。仏教的な答えをご教示いただけたら幸いです。

有り難し有り難し 29
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月命日に来られるお坊様。

4年前 大学卒業間近の息子を事故で亡くしました。あまりにも突然の死を受け入れ事は出来ず、未だに涙する日々ですが、毎朝、お仏壇にお花、ご飯、コーヒーをお供えしお線香を上げて、「我が家に生まれてきてくれてありがとう。亅と語りかけています。友達も多かったので 帰省の折には、必ず我が家にお参りに来て下さり、お線香を上げ息子を偲び、私の体調を心配してくれます。 優しいお友達に恵まれて、本当に幸せな21年間だったのだなあと思います。   お坊様にお聞きしたい事は、月命日に 来て下さるお坊様が、お供えしてある お土産や本、手紙などを、当たり前のように、手に取って、中をみたり読んだりされるのが嫌で、辞めて頂きたいという相談です。 お茶を出すために、席を外し戻ってきたら、遺品の財布を開けられている事もありました。お坊様だから勝手に触る権利はないですよね。その方個人のモラルだと思うのですが、お坊様が来られる日は、お仏壇の周りには、何も置かないようにしています。   ところが、先日お茶を持って部屋に戻ってきたら、息子のパスポートを見ながら 「あちこちの国に行かれたのですね。」 とー 床の間の端に置いてあったパスポートや 本を離れている場所から持ってきたようで、パラパラめくっている所でした。 悪意はなく、ただ興味本位でされている様ですが、不快でたまりません。 実はお経を上げている時も、珍しいものがないかと、首がぐるぐる回ってあちこち見ているのが、後ろに座っていてもわかります。世間話でも、自分の息子の話をされているので、配慮のない方だなと悲しくなります。 主人の家が長くお世話になっているお寺ですが、月命日の日が本当に憂鬱です。 主人は、私以上に悲しみの底にいて 未だに、お墓にも行けず、お仏壇にもお線香を上げる事はできない状態ですので、相談もできません。 私が、神経質なのでしょうか? 出来れば、月命日に来られる方も、他のお坊様に変えて頂きたく思っています。 どうか、良いアドバイスをお願いします。 長文読んで頂き、ありがとうございました。

有り難し有り難し 57
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他界した祖父を思うと涙が止まりません

先日母方の祖父が突然亡くなりました。病死ではなく、一般的に事故死と呼ばれる亡くなり方でした。 母方の祖父なので一緒に過ごした日々は少ないし、ここ近年は正月盆に顔を合わせても会話もないような関係でした。 でも訃報を聞いた今、悲しくて悲しくて涙が止まりません。泣いて泣いて気付けば朝です。 最近流行しているコロナとは無関係のためお葬式はできるそうですが、感染拡大防止のため、離れて暮らしている私は葬儀には出席できません。お別れが出来ないことが悲しいです。 そして、訃報を伝えるために電話してきた母の涙を押し殺したような声が忘れられません。母にとっては父親ですし、いずれ死の瞬間を傍で看取ることを考えていたのでしょうから、1人で逝ってしまった祖父の最期を嘆くのは当然だとおもいます。そんな苦しい心境であろう母の傍にいてあげられないことも辛いです。 突然すぎで私自身祖父の死をどう受け入れたらいいのかわかりません。漠然と悲しい気持ちだけがあって涙が止まらないです。遠方の祖父の死を受け入れるためにはどうしたらいいのでしょう。 また、私が離れた地で祖父や母にしてあげられることは何かあるのでしょうか。 混乱していてお見苦しい文章になっていると思われますが、ご回答頂けますと幸いです。

有り難し有り難し 15
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2023/09/22

今を生きる=悩む暇がないこと?

以前より、死の恐怖についてご相談させていただいております。いつもありがとうございます。 今年から仕事をはじめ、毎日必死に慣れない仕事をこなしています。以前と違って少なくなった休日は、友人との交友や趣味を詰め込んでいます。 そのような生活をしばらく続けていましたら、以前悩んでいた「死の恐怖」について悩む物理的な時間が殆どなくなっている事に気が付きました。 しかし、死の恐怖がなくなった訳ではなく、今でも偶に恐怖で叫び出してしまう事はありますし、将来のこと(今後のキャリアやライフプラン)について考える時にも、「死ぬ時、恐怖に震えながら死ぬのだろう」ととても悲しく、またとても恐ろしくなります。 これは、「今を生きている」のでしょうか?確かに、目の前のことに必死で、死について考える時間がないので精神は健全です。以前より充実していると思います。 ですが、人生の本質のようなものを蔑ろにしている気もします。今の生活はなんとなく、さまざまな問題から逃げている現実逃避のように感じます。人生は死からの逃避、という言葉をどこかでみました。私の人生は今、逃避なのでしょうか。 そこで、「今を生きること」と「現実逃避」の違い、「今を生きること」と「何かに夢中になり、悩む余裕がない」ことの違いが知りたいです。 また私の今の様な生活は、仏教やお坊さんのお考えからはどのように思われますか? 死に怯えるだけだった過去から、今の生活になったことは進歩でしょうか?これは、私の望む「死は悪くない、怖くないと安心して死ぬこと」に近付いていますでしょうか? お忙しいところ恐れ入りますが、知恵をお貸しいただけますと幸いです。よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 3
回答数回答 1

何もかもが面倒で、何がしたいのか分からない

こんばんは。質問というかアドバイスなんかをいただければと思い投稿しました。 私はとある大学の3年生ですが、ここまで生きてきて、生かされてきて、自分が何がしたいのかよく分からなくなってきました。 将来的なこともそうですが、近々何がしたいか、直近で何がしたいかも分かりません。 普段からあまり人付き合いの多い方ではないですが、そこそこに人とは関わってきました。けれど、そもそもそこから疲れてしまって今は人とひたすら会いたくがないために大学を休みがちになってしまっています。 高校の頃や大学に入学したての頃は今よりかは活動的だったように思います。 絵が趣味だったので絵を描いたり、友達と遊びに行ったり、大学祭の実行委員なども経験したりしました。 しかし、体感で3年生のはじめの頃から、自分が何がしたいのかわからず、何をすべきと指摘されても出来ず、学校やバイトにも支障が出てきたように思います。 また、躁鬱の切り替わりが激しくなったようにも思います。楽しい雰囲気の場では自分も他と同じように楽しむ事が出来るように思うですが、その後自室に戻ると猛烈に自分が嫌になってしばらく誰とも会いたくなくなります。数分前まで暗い気持ちであったのに今は楽しくて、またその数分後には別の事で暗い気持ちになることもあります。 鬱の要因は現在や過去の自分の所作についてがほとんどです。 過去のことは忘れた方が楽になるとは聞きますが、過去を忘れられるほど詰め込めることもありません。 何をどうしたら改善するのでしょうか? また原因はなんだと思いますか? 半年ほど前に母と祖母が続けざまに亡くなったのですがそれが原因でしょうか?(しかし母と祖母とは中学2年の頃から離別するようになり、里親の元で暮らしていたので、葬式などでも特に悲しいとは思いませんでした。) 生かされているのが苦痛でなりませんが死ぬにも手間がかかり面倒だと思っています。 カウンセリングにもいくつか行きましたがあまり効果はありませんでした。 とにかく何もかもが面倒です。何もかもしたくないけれど、そんなことを口に出したら四方八方からやんややんや言われるのではないかと今まで誰にも言えずにきました。 どうしたらいいですか?

有り難し有り難し 40
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2022/12/10

死ぬ勇気も生きる力もない。

前回ご質問させて頂いた続きというか重なる部分があります。 22歳の誕生日前日母の自死。 母は直前あの夫婦(姉と姉の旦那)に言われた事が忘れられません死にます。と残していました。 母の死から1ヶ月経たず、母を死に追い詰めた姉が亡くなりました。 詳しいことは分かりませんが病死だとの事でした。 周りからは母が連れていったんだ、長女で初めて出来た子供だから大切で大好きだから連れていったんだと言われました。 そんな事を言われて悲しかった。 私もお母さんの娘。私を連れて行ってよ。私をママのそばにいさせてよと思いました。 本当に母が連れていったんでしょうか。 死んでしまいたい、消えてしまいたい。お母さんに会いたい。 毎日毎日死にたい消えたいママに会いたいそう思っていても、朝が来て夜が来る。 私には死ぬ勇気すらない。それなのに生きる力もない。 お母さんにあの時声をかけられなかった手を取ってあげられなかった温かい言葉で温かい存在で包み込むことが出来なかった。未だ後悔でいっぱいです。毎日母の分まで生きようと過ごしていますが、でもそれすらも疲れてしまった。 薄情で人としていけないけれど、正直姉が亡くなったと知った時悲しいという感情はうまれませんでした。もうこれから先姉に苦しめられる事はないんだとホッとしました。 でもそれと同時に、1度は目の前で母に手を合わさせたい、母にごめんねありがとうと伝えて欲しかった。 止められなかった自分も憎いけれど、それ以上に姉が憎い。償ってほしい。一生許せない。母が亡くなってそれだけの感情で過ごしていました。 そんな姉まで居なくなり気持ちのやり場がなくなった気がします。 毎日苦しくて辛くて死んでしまいたくなります。 姉ではなく私を連れていってくれたら良かったのにな。 どうしてよりによってあの人を…と思ってしまいます。 死ぬ勇気もない、生きる力も湧かない私はどうしたらいいんでしょうか。 簡単に死ねるのならいいのに、いざとなると怖くて出来ない。 母の死との向き合い方、大嫌いな憎い姉の死との向き合い方が分かりません。 父と話していた時ふと、父私妹3人でもう死んでしまおうかと思った事もあったと。 それを聞くと、母を守れなかった事で父の笑顔、生きる気力までも奪ってしまったとまた後悔に押しつぶされそうになります。 下手くそな文ですがどうかお願いします。

有り難し有り難し 26
回答数回答 1
2024/07/15

考えない方が楽だけどこれで良いのか

いつもお世話になっております。 以前から死の恐怖について相談させていただいておりました。 最近は仕事もプライベートもそれなりに忙しく充実しております。体力的にも時間的にも死の恐怖に囚われている時間は少なくなり、心安らかに過ごしていました。 ですがふと、 やっぱりこの世は諸行無常で、今の幸せや充実もいつか無になり、私は私を自覚できなくなり、死んだあとは未知でしかなく、「死」という未来が待っている以上この先の人生のエンディングは絶対的な絶望なのだ、と 以前と同じ恐怖が強くよみがえりました。 日々の幸せに夢中で死を考えなくなり、「まあでも、これが今の私なりの死への向き合い方なのだろう」と甘く捉えていましたが、 結局、恐怖は忘れていただけで、死ぬ事実も絶望感も変わらずに私の中に存在します。 たくさんのお坊さんにご回答をいただき積極的に「心安らかに死んでいける心持ち」を探し求めても、知識だけが増え頭でっかちなまま、結局は恐怖も絶望感も拭えぬまま、不安な心のままです。 お坊さん方の視点から、私は今後、どのように死と向き合ってゆくのが良いと思われますか。 積極的に怖さに向き合い死を学ぶショック療法のような形か(ただ、もう死の恐怖に面と向かって辛い思いはしたくないという甘えも自分の中に今はあります)、 それとも自然の流れに身を任せて死を忘れたような日々を過ごすのか(そのうち死を自然と受け入れられると信じて)、 はたまた仏様に全てを任せ不安な心持ちのまま生きてゆくならば、まだ心の底から仏様を信じられない愚かな私の、実在する「不安な気持ち」をその都度「大丈夫」と躱していけばそのうち信心が得られるのか、など。 もちろん最終的に何を選択するのかは私が決めるべき問題と思っておりますが、 なんだかもう、自分でもどうしたら良いのか分からなくなってしまったため、アドバイスをいただけたらと思います。 お忙しいところ大変恐縮ですが、よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 9
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親戚の葬式後のメンタル

今日、祖父の姉の葬式がありました。 離れたところに住んでおり最後に会ってから10年近く経っていますが、小さい頃遊んでもらってお世話になった人なので、最後の機会だと思い向かいました。 棺に花を入れる時や火葬では涙が出そうになりましたが、悲しいよりも、もらい泣き、雰囲気につられているだけだと思いました。 ところが葬式が終わり、帰ってきてから夜。 もし自分の子供が死んでしまったら… もし夫が死んでしまったら… と考えると涙が止まりません。 事故、事件など最悪の可能性を想像してしまいます。 少しですが、自分も死んだらどうなる?と子供みたいな事を考えてしまいます。 1度考え出すと止まらず心がぐちゃぐちゃです。 葬式に行かなければよかったとすら思います。 こんなに心がボロボロになるなら、もっと近い人の死で自分がどうなってしまうか怖いのです。 その人がいなくなって悲しいのに加え、お見送りをした後も、こんなにも怯えなくてはならないのでしょうか。 こう考えてしまうのは普通ですか? 亡くなった人だけの事を考えないのは薄情ですか? 検索しても、近しい人の死後のメンタルを労る記述があっても、私とは違い相談できるのがここしかありませんでした。 今後あるであろう死の度、これではとても心が持たないと思い どう思えば前向きに見送ることができるのか、 大きすぎる不安を感じなくていいのか 教えていただきたいです。

有り難し有り難し 7
回答数回答 1

自殺に救いはないのですか

私自身精神疾患により、希死念慮に悩まされています。 ただ、幼少期に母親を病気で亡くしているので自傷、または自分から死へ向かうことは母に申し訳なくてできません。 (錯乱状態になったりした場合はわかりませんが。まずそうはならない疾患です) 長患いの中で、とても澄んだ心を持つ友達ができました。 彼女は自分だけを責めて、病気のせいなのに「こんなこともできない自分はダメだ」との思いを抱えて自ら旅立ちました。 私個人の考えでは彼女は自殺というより「病死」だと考えています。 身体的疾患での死は仕方ないととらえられますがやはり自死というのは公にするには憚れることもあるようで私が彼女の死を知ったのは旅立ってから3か月ほど後のことで、もちろんお葬式にもいっておりませんし、ご両親が特殊な宗教をなさっている関係からお墓参りもさせてもらえません。 「霊能者」というような人は「自殺した霊魂は救いがない」とか「ずっと真っ暗闇をさまようだけ」などと言う人が多いようです。 そんなのひどすぎる。あんなに苦しんだ挙句、誰も責めず自分だけを責めて、精神疾患による考え方の歪み・・あまりこの言葉使いたくありませんが・・もあっていってしまいました、あんなに苦しんだのにまだ苦しまねばならないなんて・・・ 自らいのちを絶つということをよしとしているわけではないのです。 ただ、精神疾患(心の病気≠精神疾患)によりこのような結果になった方々にも救いはないのでしょうか。 もう一度申し上げますが、彼女が生きていた頃を知っている私は 彼女のことは今でも「病死」ととらえています。

有り難し有り難し 41
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勝手な思い込みかもしれませんが。

いつも、お返事ありがとうございます。 毎回、お坊さま方々の優しいお言葉に励まされ、何とか生きています。 我が家には、お仏壇があります。 朝晩にお茶、お水、ご飯をお供えし、出掛けてる時には行って来ます!帰った時にはただいま!と声をかけています。 最近なんですが…。朝の挨拶で「いつもありがとうございます。今日も一日頑張りますので宜しくお願いします」と呟やきながら、義父母の遺影を見ていると、「○○、今日も頑張って!大丈夫!大丈夫だからね!」と言う言葉が、胸の中にスーッと入って来たのです。 きっと、自分の勝手な思い込みなのかも知れませんが。 挫けて涙が溢れて。生きていく事に疲れて。もうダメだ。もうダメだ。って思う事も沢山ありますが。 お仏壇?義父母?からの大丈夫!大丈夫!と言う言葉に救われてもいます。 娘の遺影も優しく笑いかけてきます。 私は、弱くて頼りなくてダメな人間で、死にたいと言う想いもいつも頭の片隅にありますが。 何だか、まだ大丈夫!死ぬにはまだ早い!大丈夫!きっと幸せになれるって励まされている様な気持ちになります。 ホントに勝手な思い込みでしょうが、お仏壇に手を合わせることで、何となく私は救われていると思います。 纏まりのない話しで申し訳ありません。 亡くなった人達と心と心で繋がっているって思ってもいいのでしょうか。

有り難し有り難し 24
回答数回答 2