hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
hasunoha 問答検索結果 : 「私 煩悩 」
検索結果: 3447件

彼氏が盗撮した動画を見つけました

付き合って1年程の彼氏がいますが、彼氏の不在時に彼氏の家でたまたま見付けたUSBが気になり中のデータを見ると、盗撮動画が入っていました。 (好奇心から勝手に見てしまった私が悪いのも分かってます、私の煩悩でした…) </br> エスカレーターからミニスカートを履いた女性の太ももなどが写った数十秒程度の動画が3〜4つ程と、部屋にデリヘルを呼んで楽しんでる様子が写った動画が4〜5つほどでした。 </br> 彼の帰宅後、まず勝手に見てしまったことを謝罪した上で動画について問うと、正直に何故やり始めたか、いつ頃からやっていたか、等話してくれました。 </br> 元々話し合いで解決出来る人だと分かっていたので話しましたが、私を傷付けたこと、犯罪をしてしまったこと、酷く後悔して泣きながら謝ってくれたし、一緒に警察に証拠を持って行こうと話したらそれを拒むこともしませんでした。 </br> 逆ギレ、言い訳、保身、想定してた悪いパターンにはならず真意は分からずとも正直に話して反省してくれている様子でした。 盗撮も趣味や性癖などではなく、興味と好奇心からやってみたかったと。 どハマりしているほど常習化しているようにもなんとなく見えなくて… 近々同棲も考えていたし、お互い結婚も考える仲だったことと、彼はずっと私を大好きでいてくれてとても大事にしてくれていたので、私が真剣に向き合ったことで本気でもうしないでくれると信じたいです。(自惚れかもしれませんが…) </br> しかし、またやるかもしれないという不安もあるので、また同じことで傷付くくらいなら別れるべきかとも思います… 信じたい気持ちと不安とがあり、信じていいか別れた方がいいかも分からなくなってしまいました。 どんなに反省してる様子でもやはり人は繰り返してしまうのでしょうか… </br> 盗撮の件は被害届けもなく、現行犯でもないのでそもそも警察に行ってどうなるのかも分かりません… そんな中で、本当に警察に行くべきかどうかも悩んでいます。 </br> ・このまま彼を信じてみてもいいか ・信じたいと思った時、彼とどんな話をしたらいいか ・どういう結果でも警察には行くべきか これらの点について回答頂けたら嬉しいです。

有り難し有り難し 34
回答数回答 2

娘にすまない気持ちでいっぱいです

夫がうつ病を長く患い、その愛を十分に受けられなかった娘です。中学では友人からのいじめにより登校渋り。ストレス性の難聴にもなりました。高校に進学してからは、なぜこの高校を選んだのか、その意味を自分に問い続け、登校渋り。友人の自殺をきっかけに高校の対応に失望し通信制の高校に転学しました。家族にも心を閉ざし、自殺まで考えるほど不安定な状態でした。 それでも何とか踏ん張って成績も良く頑張った娘です。なりたい職業を見つけ、学校推薦をいただき大学受験に臨みましたが二校不合格になりました。受験の時に娘が決めた第一志望の短大を、私の欲や見栄から、地元の公立短大を勧めて変更させたことが全てでした。 とても失望し、ひどく落ち込んだ娘でしたが、周りの薦めでようやく通信制の短大に進学しました。 アルバイトをしながら勉強していたのですが、それに行き詰まり、しばらく教科書から離れてみると言って数ヵ月が過ぎました。 最近になり、短大を辞めて地元で働く道を選びたいと言うようになりました。よく考えてのことですし、地元で暮らせることはとてもいいのですが、娘の夢を諦めさせてしまったような気持ちに襲われとても苦しくなりました。私があの時娘の希望に寄り添っていたら…欲や見栄にとらわれなければ…と今重くのし掛かっています。取り返しのつかない罪を犯してしまいました。 正直に娘にもその事を伝えたところ、私への恨み言一つなく、「たらればは考えても仕方ないよ、その時その時自分で決めたことだから大丈夫。まだ若いし、じっくり決めるから。私は今とても幸せだよ。」と言ってくれました。ご飯を食べながら、一緒にドライブなどしながら、いろんな話ができるようになり、その時間が何物にも替えがたく私も幸せなのです。思い悩んでいた頃からは信じられないことなのです。 それなのに、それだからこそ、こんなことを娘に言わせてしまい本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。 私が後ろ向きでは娘も辛いでしょうし、私の自己満足だと言うことも十分にわかっているのですが、どうしたらこの煩悩から自分を解放できるのでしょうか。

有り難し有り難し 10
回答数回答 1

「喜怒哀楽」から抜け落ちた「怒」

私は、今でこそ生き抜く為の知恵の1つとして、「怒」も必要ではないかと思っています。がしかし、昔の私は「あなたには喜怒哀楽の怒が抜け落ちているのではないか?」と言われ続けてきました。一番分かり易い例を上げますと、中学生の頃、私は酷い「イジメ」を受けていました。体も心も、いつも傷だらけ。精神的な苦痛だけでなく、肉体的な苦痛も味わう毎日。具体的に申しますと、グロテスクな内容になりますので、控えさせていただきます。でも、私はいつもいつも笑っていました。親にも先生にも相談することが出来ないまま…。卒業式が近付いてくると、先生方から、いろいろな言葉が書かれたカードのようなものをいただくようになりました。書き出しは、どの先生方も同じ言葉がおどります。「笑顔の素敵なトラスさんへ」「smile & intelligentなトラスさんへ」。まだまだ情報化社会でもない、スマホ等の媒体もない、SNS等の伝達手段もない時代。その時代に、1人、ひたすら「自殺」を考える日々を送っていた私には、その「笑顔」の「裏」にある苦悩を全く気づかれなかった、また、私自身、伝える、助けを求めることが出来なかった、結果、先生方はイジメに気付けなかったのだなと痛感した記憶があります。しかし、何とか卒業式の日を迎え、帰り道、ある友達が、別れ際に、こう言いました、「みんなでゲームしてたんだよ!誰がトラスさんを怒らせれるかゲーム!」と。唖然としましたね、「え?ゲーム?何それ?」と。子どもにとって、「イジメ」は「ゲーム」の1つなのです。 最近、よく児童・生徒等の子どもの自殺問題が注目を浴びています。多くの尊い命が失われています。「怒」の無かった私は、中学時代、辛い毎日を過ごしていた当初から、「イジメ=殺人」だと思っていました。大人になった今、私は問いたい!!!『イジメ=ゲーム→殺人』、この流れ、お坊さまの皆様はどのようにお感じになられますでしょうか? 今でこそ「怒」の必要性を痛感した経験から、時には「怒る」ことも大切だと思えるようになった私ですが、今思うのは、『イジメ=ゲーム→殺人』、そういう事象は、子どもの社会でも大人の社会でも残念ながら存在し、消えることなく存在し続けるのではないかということです。ちゃんと「喜怒哀楽」の感情表現あってこそ人間であり、どの感情も大切にしていかなければならないと、私は思っています。

有り難し有り難し 17
回答数回答 3

ある武道家の発言に憤りを感じています

私はある武道を習っており、先生方の指導を仰いで稽古に励んでおります。 そんな中、界隈では有名な武道家のTwitterにおける発言に、表現し難い苛立ちと憤りを感じています。 内容は以下のとおりです(部分を伏字にしていますが私個人が特定されるリスクを覚悟の上で書き込みます。そこまでの心中であることをお察しください) 「○○連盟、△△連盟、□□連盟✖️✖️部、各々のトップは私を講師に招き、真の(武道の名前)を知れ。 今の(武道の名前)は( )にも劣る。ハッキリと明言しよう。[ ]にも劣ると。」 この武道家はテレビなどのメディアにも多く出演されており、ご存知の方も多いと思います。 確かに、すばらしい記録と技術を持っておられます。 しかし当該武道の各連盟に対し挑発的な態度と、自分の流派・自分の技こそが真であると主張する発言に憤りを感じずにはいられません。 各連盟の先生方だけでなく、そこに所属する我々までも「劣る」と言われているようで、稽古に励み鍛錬を重ねているであろう人たちを見下したような物言いに穏やかならぬ気持ちとなっています。 本件以外においても、ご自身が当該武道の代表であり全てであるかのような発言が目立ち不快感を覚えずにはいられません。 “怒り”の感情は毒であり、制御すべきものであると承知しております。 武道におきましても「巌の身」という、物事に動じず平常心を保ち、揺るがない心を持つことを示す言葉があります。 しかしながら本件につきましては、どうにも気持ちに収まりがつきません。 この方の考えを支持・傾倒する人も多く尚更です。 本来、自分で受け流し方を考えるべきだとは思いますが、ほんの僅かでもそのヒントを与えて頂けますと幸いです。

有り難し有り難し 43
回答数回答 3

善き心を保つには?

こんばんは。私の悩みを聞いて頂ければと思います。 日々の生活の中で、自分の欲望や煩悩に知らず知らずのうちに支配されていて、善き行いをすることができません。 例を出すと、路上を歩いている時に、目の前でコーヒーをこぼし手などが汚れている方がいるのに人目が気になって、そのまま通り過ぎてしまう。 人に感謝や想いを伝えたい時に、自分をさらけ出すのが恥ずかしくなって、正直な気持ちを伝えることができない。 また、過ぎ去った出来事に対しても「ああ、あの時こうすればあの人はもっと幸せだったのでは」などとその時点では気付かずに去ったことをクヨクヨ考えてしまいます。 私は「自分の想い」から生まれる行動が「目の前の人」を幸せにして、「世界を前に進める」。そして、それが違った形でも自分に返ってくることがあれば幸せだと考えてます。 小さな行動からなのでしょうが、普段の自分にその意識が浸透してきません。これは、腹の底ではそのように考えてないのではないかとも思ってしまいます。 「羞恥心を抑える術」、「気持ちを察するアンテナの感度を高める術」の心構えや考え方等、そしてそれを保つ方法が有れば御教示お願いします。

有り難し有り難し 5
回答数回答 1

肉食について

お釈迦様の時代は托鉢やお布施により頂いたものをなんでも食べていましたが、 現代日本において、托鉢でもお布施でもないのにお坊さんが肉食をするのは何故でしょうか。 仏教とは慈悲の心が根底にあり、生命に対し、苦しみを与えないようにするのは当然のことです。 お釈迦様の時代、今のような方法にて動物が囲われ、無理な出産を繰り返し強要され、体の一部を切除され、まだ寿命に程遠い若齢の家畜を殺していたとは思えませんし、 お釈迦様が肉を食べていたのを理由に、肉を食べてもいいんだよ〜というのは間違っています。 残り物を頂くのと、スーパーにて肉を買い調理するのは違います。 漁師のように職業にしている人もいるし仕方ないという話も見ましたが屠殺業に嫌気がさして仕事を変えた人もいます。 出された肉をありがたく食べれば生き物も報われるというなら、人間が死んでも葬式などせず、ありがたく調理して食卓にのせて頂くべきだということになります。 植物も生き物ですが、植物に意識はないですし、もし痛みや意識があるならば、家畜の餌にされている大量の植物を減らすべきです。 穀物や水、家畜を育てるのには大変膨大な資源が使われる一方、穀物さえ食べられずに飢餓で苦しむ人々が沢山います。 日本仏教が妻帯肉食をはじめたのは、その時代において必要な選択だったのかもしれませんが、現代日本にてまだ呑気にそれに甘えているのはどうでしょう。 肉食が許されるのは、病気で肉が必要であったり、高山地帯や極寒地帯において作物が育たない地域の人々であり、 豊かな国では肉を食べたいという煩悩をできるだけなくして、もっと全体の生命に対して心を配る必要があるのではないですか。 仏教は拘りをなくし、解脱をえるのが最大の目的ですが、戒律を手放してよいのは聖人に達したもののみて(仏は存在が慈悲ですから) 煩悩だらけの人間がなんでも手放したら、欲に溺れてしまうだけで、仏教の意味がありません。 また念仏を唱えたなら救われるというのは、一時的な救済で、本当にその人を救うことにはなりません。念仏を唱えようが、殺生をしたならば、やはり因果の報いは受けます。 肉食の許容は、屠殺業を放任し結果的にその人たちをも破滅させます。 私は直接屠殺していないし、肉を食らっても極楽浄土に行けるから、それでオッケーというのは仏教では無いと思います。

有り難し有り難し 45
回答数回答 3

子供をほしいと思ったことがない

「子供をほしいと思ったことが一度もない」 と言うと 「悲惨な人生だったんだね」「親がひどかったんだね」 とか言われます。 それだけならまだしも人間として終わっている、とかなんだとか。 生き物としての使命を放棄していて社会に対して無責任だという指摘ならば、それはその通りだと思うので何も言いませんが、 親が毒親だとか言われるのがなんとなくしっくり来ません。 子供が子供が欲しくない人間に育つのは親が育て方を間違えたからなのでしょうか? 私の親は専業主婦とサラリーマンという家庭で、割と普通の親だったと思います。父親が家庭参加せず、母親が子育て家事をすべてやる、昭和にありがちな家庭です。 母親が若干厳しめなことをのぞけばいい親だと思いますし、親のおかげでいい大学出してもらえましたし、おかげで就職先もしっかりしたところに入れました。 子供時代も小学校から中学校くらいに軽いいじめにあった程度で(いわゆるみそっカス扱い)自殺を考えるほどではありませんでした。むしろ、虐めてるこいつらを見返すために勉強頑張らねばと、塾通いに熱心になりおかげで学歴を手に入れられました。 が、生まれてから一度も子供がほしいと思ったことがありません。 友人に子供が生まれたら欲しくなるよとか年をとったらほしくなるよ、とか言われますが、そもそも友人も皆独身か小梨人生ばかりですし、 三十路半ばが近づいてきても全く気持ちは変わりません。 本当に好きな相手ならその相手の子供が欲しくなる、とも言われますが、 そもそも子供をほしいと思って結婚してないので、結婚相手は「一緒に遊んでいて楽しい人」「一緒に暮らすのが楽な人」を選んでいます。 ここに子供が割り込まれたら、遊べなくなるので結婚した目的がパァになります。 子供の頃から勉強して仕事を手に入れてようやく自分の時間やお金を自分に使えるようになったというのに、子供という他人のためにまた時間やお金を使わねばならないなど苦痛でしかありません。 子供は欲しいと思う人が産むことが幸せで、欲しいと思わない人は産まないことが幸せだと思うのですが、 欲しいと思わないと悲惨な人生だった、親が悪かったと言われてしまうのでしょうか? 欲しくない人は欲しくない、で良いと思うのですが。 なぜ人格否定までされるのか不思議でなりません。

有り難し有り難し 44
回答数回答 2