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hasunoha 問答検索結果 : 「私 煩悩 」
検索結果: 3414件

善き心を保つには?

こんばんは。私の悩みを聞いて頂ければと思います。 日々の生活の中で、自分の欲望や煩悩に知らず知らずのうちに支配されていて、善き行いをすることができません。 例を出すと、路上を歩いている時に、目の前でコーヒーをこぼし手などが汚れている方がいるのに人目が気になって、そのまま通り過ぎてしまう。 人に感謝や想いを伝えたい時に、自分をさらけ出すのが恥ずかしくなって、正直な気持ちを伝えることができない。 また、過ぎ去った出来事に対しても「ああ、あの時こうすればあの人はもっと幸せだったのでは」などとその時点では気付かずに去ったことをクヨクヨ考えてしまいます。 私は「自分の想い」から生まれる行動が「目の前の人」を幸せにして、「世界を前に進める」。そして、それが違った形でも自分に返ってくることがあれば幸せだと考えてます。 小さな行動からなのでしょうが、普段の自分にその意識が浸透してきません。これは、腹の底ではそのように考えてないのではないかとも思ってしまいます。 「羞恥心を抑える術」、「気持ちを察するアンテナの感度を高める術」の心構えや考え方等、そしてそれを保つ方法が有れば御教示お願いします。

有り難し有り難し 5
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名付けた名前に悩んでいます

生後4ヶ月の娘の名前で悩んでいます。 名前はプロフィールに記載しており、お坊さんのみに公開としています。 見ていただくと分かると思いますが、ぶった切りの名前で読めない名前になってしまいました。 名付けを考えていた時は誰でも読める名前にしたいと思っていたにも関わらず、漢字の字面や意味にとらわれ、今の名前になりました。 もともと私は誰でも読める平仮名で名付けたいなと思っていたのですが、父親としての自覚を持ってもらいたいと夫に最後は決めてもらいました。 しかし、生後1ヶ月ぐらいから漢字に違和感を感じ始め、受け入れられなくなり娘の漢字が名前に見えなくなってしまいました。漢字がキラキラネームにも見えます。 親のエゴで漢字が可愛らしいからと読めない名前を付けてしまったのではないかと、なぜ自分の意見で平仮名にしたいと主張しなかったのかと後悔しています。 響きは気に入っているため、平仮名への改名をした方がいいんではないかとも思っています。夫はそこまで悩むなら、改名してもいいと言ってくれています。どうすることが娘のためになるのか、この悩みから抜け出せるのかアドバイスを頂きたいです。

有り難し有り難し 24
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「喜怒哀楽」から抜け落ちた「怒」

私は、今でこそ生き抜く為の知恵の1つとして、「怒」も必要ではないかと思っています。がしかし、昔の私は「あなたには喜怒哀楽の怒が抜け落ちているのではないか?」と言われ続けてきました。一番分かり易い例を上げますと、中学生の頃、私は酷い「イジメ」を受けていました。体も心も、いつも傷だらけ。精神的な苦痛だけでなく、肉体的な苦痛も味わう毎日。具体的に申しますと、グロテスクな内容になりますので、控えさせていただきます。でも、私はいつもいつも笑っていました。親にも先生にも相談することが出来ないまま…。卒業式が近付いてくると、先生方から、いろいろな言葉が書かれたカードのようなものをいただくようになりました。書き出しは、どの先生方も同じ言葉がおどります。「笑顔の素敵なトラスさんへ」「smile & intelligentなトラスさんへ」。まだまだ情報化社会でもない、スマホ等の媒体もない、SNS等の伝達手段もない時代。その時代に、1人、ひたすら「自殺」を考える日々を送っていた私には、その「笑顔」の「裏」にある苦悩を全く気づかれなかった、また、私自身、伝える、助けを求めることが出来なかった、結果、先生方はイジメに気付けなかったのだなと痛感した記憶があります。しかし、何とか卒業式の日を迎え、帰り道、ある友達が、別れ際に、こう言いました、「みんなでゲームしてたんだよ!誰がトラスさんを怒らせれるかゲーム!」と。唖然としましたね、「え?ゲーム?何それ?」と。子どもにとって、「イジメ」は「ゲーム」の1つなのです。 最近、よく児童・生徒等の子どもの自殺問題が注目を浴びています。多くの尊い命が失われています。「怒」の無かった私は、中学時代、辛い毎日を過ごしていた当初から、「イジメ=殺人」だと思っていました。大人になった今、私は問いたい!!!『イジメ=ゲーム→殺人』、この流れ、お坊さまの皆様はどのようにお感じになられますでしょうか? 今でこそ「怒」の必要性を痛感した経験から、時には「怒る」ことも大切だと思えるようになった私ですが、今思うのは、『イジメ=ゲーム→殺人』、そういう事象は、子どもの社会でも大人の社会でも残念ながら存在し、消えることなく存在し続けるのではないかということです。ちゃんと「喜怒哀楽」の感情表現あってこそ人間であり、どの感情も大切にしていかなければならないと、私は思っています。

有り難し有り難し 17
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ある武道家の発言に憤りを感じています

私はある武道を習っており、先生方の指導を仰いで稽古に励んでおります。 そんな中、界隈では有名な武道家のTwitterにおける発言に、表現し難い苛立ちと憤りを感じています。 内容は以下のとおりです(部分を伏字にしていますが私個人が特定されるリスクを覚悟の上で書き込みます。そこまでの心中であることをお察しください) 「○○連盟、△△連盟、□□連盟✖️✖️部、各々のトップは私を講師に招き、真の(武道の名前)を知れ。 今の(武道の名前)は( )にも劣る。ハッキリと明言しよう。[ ]にも劣ると。」 この武道家はテレビなどのメディアにも多く出演されており、ご存知の方も多いと思います。 確かに、すばらしい記録と技術を持っておられます。 しかし当該武道の各連盟に対し挑発的な態度と、自分の流派・自分の技こそが真であると主張する発言に憤りを感じずにはいられません。 各連盟の先生方だけでなく、そこに所属する我々までも「劣る」と言われているようで、稽古に励み鍛錬を重ねているであろう人たちを見下したような物言いに穏やかならぬ気持ちとなっています。 本件以外においても、ご自身が当該武道の代表であり全てであるかのような発言が目立ち不快感を覚えずにはいられません。 “怒り”の感情は毒であり、制御すべきものであると承知しております。 武道におきましても「巌の身」という、物事に動じず平常心を保ち、揺るがない心を持つことを示す言葉があります。 しかしながら本件につきましては、どうにも気持ちに収まりがつきません。 この方の考えを支持・傾倒する人も多く尚更です。 本来、自分で受け流し方を考えるべきだとは思いますが、ほんの僅かでもそのヒントを与えて頂けますと幸いです。

有り難し有り難し 43
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肉食について

お釈迦様の時代は托鉢やお布施により頂いたものをなんでも食べていましたが、 現代日本において、托鉢でもお布施でもないのにお坊さんが肉食をするのは何故でしょうか。 仏教とは慈悲の心が根底にあり、生命に対し、苦しみを与えないようにするのは当然のことです。 お釈迦様の時代、今のような方法にて動物が囲われ、無理な出産を繰り返し強要され、体の一部を切除され、まだ寿命に程遠い若齢の家畜を殺していたとは思えませんし、 お釈迦様が肉を食べていたのを理由に、肉を食べてもいいんだよ〜というのは間違っています。 残り物を頂くのと、スーパーにて肉を買い調理するのは違います。 漁師のように職業にしている人もいるし仕方ないという話も見ましたが屠殺業に嫌気がさして仕事を変えた人もいます。 出された肉をありがたく食べれば生き物も報われるというなら、人間が死んでも葬式などせず、ありがたく調理して食卓にのせて頂くべきだということになります。 植物も生き物ですが、植物に意識はないですし、もし痛みや意識があるならば、家畜の餌にされている大量の植物を減らすべきです。 穀物や水、家畜を育てるのには大変膨大な資源が使われる一方、穀物さえ食べられずに飢餓で苦しむ人々が沢山います。 日本仏教が妻帯肉食をはじめたのは、その時代において必要な選択だったのかもしれませんが、現代日本にてまだ呑気にそれに甘えているのはどうでしょう。 肉食が許されるのは、病気で肉が必要であったり、高山地帯や極寒地帯において作物が育たない地域の人々であり、 豊かな国では肉を食べたいという煩悩をできるだけなくして、もっと全体の生命に対して心を配る必要があるのではないですか。 仏教は拘りをなくし、解脱をえるのが最大の目的ですが、戒律を手放してよいのは聖人に達したもののみて(仏は存在が慈悲ですから) 煩悩だらけの人間がなんでも手放したら、欲に溺れてしまうだけで、仏教の意味がありません。 また念仏を唱えたなら救われるというのは、一時的な救済で、本当にその人を救うことにはなりません。念仏を唱えようが、殺生をしたならば、やはり因果の報いは受けます。 肉食の許容は、屠殺業を放任し結果的にその人たちをも破滅させます。 私は直接屠殺していないし、肉を食らっても極楽浄土に行けるから、それでオッケーというのは仏教では無いと思います。

有り難し有り難し 45
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仏教で気持ちが楽にならないです。

全体: 仏教はこの世が苦しくてたまらない人が解脱or楽になる為に信仰している。 今回のタイトル: 全く楽にならない。 なぜ 1楽にならない助けて!というと本人の思考、もしくは生まれる前の前世が最悪だったからというどうしようもない提案をされる。 さてその本人の考え自身も、彼自身が会得したものではないという事すら苦しみなのです。 人を殺めていいという環境に生まれた人が、別環境に押し込められて考え方を根性で変えよ!というような暴論。 また前世は証明されたわけではないのにどうしようもない変えようがない物をあげて耐えろ!という暴論。 2信じないのなら離れろ!という暴論 信じないのなら離れて、消えて。みたいな事を言われます。だとしたら楽にならないけど仏教を続けて一部の人は楽になるのに一部の人は楽にならないわけでそれ自身が苦しみになるのでは? ブッダの考え方はとても好きだけど、その後の仏教の考え方が嫌いな場合でも信仰をやめて離れろよ?的な暴論が苦しい。 論理を求めたから仏教にたどり着くのに論理がしたいなら仏教の論文でも書け!みたいな無理な事を求めるのは根拠はない!根拠は俺!みたいな考えではないですか?それこそ私が嫌いなものです苦しみの根源です。 3圧倒的な不幸な人より煩悩にまみれた仏教徒の方が幸せ スマホに、結婚や性行為に、家に、車に、欲しい物に、他の生物を食べて生きる事、を普通にやってて、それ以下の苦しみしか得てない人は一切幸福が得れない。 結局煩悩を満たす為に欲を満たすしか方法がないという事なのではないか?という結論に至りそう。 4論理的に反論できない時は、修行が足りないorその人に聞いてみろ。その人の不幸は実際に本人の気持ちにならないとわからないという逃げ。そしてその中に内包するお前はそんな事情も知らないで嘆いてるんだろ?という攻撃。 修行なんていつまで続けるか?という区切りがありません。だとしたら楽にならないのでは?という事。また早く死ぬ可能性もあるわけで惨憺たる人生のまま亡くなってしまう事もあるわけでその人自身は苦しむ為に生まれたの?を否定できなくなる。 5織田信長は天下を取れたという事。 彼は焼き討ちしたのに幸福な人生を生きた。 ↓ 楽になりたいのです。さて上の説明を含めてどうすれば良いでしょうか?

有り難し有り難し 103
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やる、とやらない、ということ。 個性と自我について

こんにちは。 いつもHasunoha問答を読ませていただき、勉強になります。 やる、とやらない ことと、個性は邪魔になるのか、の問題にはまっています...。上手く説明できないかもしれませんが、よろしくお願いいたします。 私は自我が強いです。 そして悟りの境地までは至れずとも、煩悩や自分の、物事を苦しくしてしまう思いを改善したいと切に願っています。 これまで、自分の性格特質や内的向上として、心理的アプローチからの療法を受けていますが、やはり前にはだかるのは“手放す”ことの難しさです。 これは、やらない ことなんだとわかります。何とかしようとしない。私にとっても、ここはとても肝心な部分だと思います。(この質問書いていること自体、もうおかしいでしょうか...。)でも、やらないと、前進もない気もします。 相手も自分もない、真ん中の部分。これは、瞑想などで一体感が得られるので、何となくわかるんです。ですが、ずっとこれでいるということは、自分を捨てて(なくして)生きるということでしょうか。 自分の個性や特徴を見出し、広げ、自己肯定できるようになり、自分の人生を生きていく、ということそのものは、むしろ真ん中でいようとすることには邪魔なものなのでしょうか。相反しますか? できれば私は、どちらでもありたいのですが、これでは欲が強すぎますか? よろしくお願いします。

有り難し有り難し 14
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