自分の欲望がわかりません。 自分は幸せだと思います。現代日本に生まれ、健康、大学にも通えていて、恵まれた環境に感謝しています。日々の生活も自分で自分を褒めたりして、頑張っています。毎日に満足していますし、精神的に不安定ということもなく、至って健全に、前向きに生きていると思います。 十分幸せなのに、ふと乾いたような、何かに飢えているような気持ちになる時があるのです。 でも自分でも何が欲しいのかわかりません。 生活には満足しているし、欲しいものもなく、足りていないものはないはずなのです。 お坊さんは、物足りないなと感じることはありますか? 得体の知れない渇望にモヤモヤする日々です。 どうしてこんな気持ちになるのでしょうか。心構えにお坊さんの助言をいただけますでしょうか、、
約3年程前父が突然亡くなりました。 金銭的な理由で家族葬でお坊さんを呼ばず見送りました。 うちらしくて終わった時は良かったと思いました。 うちは、三姉妹で、私は三女になります。 父の死後位から、次女の様子がどんどん 変わり、次女が父がいつも言うような言動になっていきました。 色々あり、今次女とは疎遠になっているのですが、近況を聞けば父そのものの言動です。 父をちゃんと成仏させる事が出来なかったため、父の魂が次女にのりうってるようにも見えてきました。 今の次女に何を話しても聞き耳をもってくれるとも思えません。 元々の次女は本当に優しく面倒みのいい人です。 父の死とは関係ないのか気になります。 どうしたらいいのでしょうか。
死への恐怖について。 こんにちわ現在中学3年生の男子です。 まだまだ人生経験が浅いのに対してこんな事を言うのもあれなんですが、、、 いずれ自分にも必ず訪れる「死」がとても怖いのです。 この恐怖については色々なタイプな恐怖があるそうですが、自分の場合は「自我の喪失」など「永遠の無」への恐怖です。 まだまだ何も分からないのですが本来仏教では浄土も輪廻も釈迦は無記と称していると耳にしたことがあります。 とは言ってもまだ何の証明もされていないので死後がある可能性も0%ではないと思います。 まだこのように思い今後の人生を生きていけたら良いのですが、 「何時か科学で死後は永遠の無だと証明されてしまったらどうしよう。もしそうなってしまったのなら僕はもう生きていけない。」 と思うことがあります。 この原因は自分自身にあります。 死が怖いと言って、心の中だけで留めておいたら良かったもののネットで色々(科学や哲学など)調べてしまったりしたので、余計こういった恐怖が煽られてしまったのかもしれません。 つまり簡潔にまとめると ・永遠の無、自我の消失への恐怖 ・いつか科学などで死後が永遠の無だと証明されてしまうかもしれない恐怖 ・生きる意味がみつからない です。 長い文章になってしまって大変申し訳ございません。 そして質問はどうしたらこの恐怖を取り除くことができますか?です。 ご回答よろしくお願い致します。
母が難病になりそれを苦に自殺をしました。 本当に苦しんだ結果の事でした。 亡くなった母の顔は苦しんだ様子もなく本当に安らかな顔でした。その顔を見た時に母は苦しみから解放されたのだ。と思うのですが、よく聞く話では自殺すると地獄に行くと聞くのです。 そんな事はない。とは思うのですが考えてしまいます。母の事を思い、日々過ごしていく事が供養になると私は思うのですが、どうしても気にしてしまいます。
僕には子供の頃から17年飼っているペットの猫がいます。 僕にとってはペットではなく、親友でありかつ手のかかる子供のような存在です。 ですがいい年なので色々な病気の兆候が出てきています。 食欲があるのに歯周病の歯が痛くてゴハンが食べれない、でも高齢なので麻酔して抜歯することも腎臓の数値が高いのでできない。 辛そうにしているのを見ると僕もとんでもなく辛い気持ちになって、もっとしっかり歯みがきしてあげてたらとか一日中そのことを考え他のことが手に付きません。 そこで僕は仏教に救いを求めたいと思いました。 と同時に修行したお坊さんなら同じ時ほんとに平常心でいられるのかな?って疑問に思ってここに書き込みました。 仏教は事実のみに親しむと聞きました。つまり苦しんでる大切な存在を見て、できることがなかったとき、できることがないのだからそのことに対して不安になることもなく、一日中考え続けることもなく、そのことは置いといて平常心でいつもと変わらぬ日常を送れるのでしょうか? そうなりたい反面、それってちょっと人間味に欠けて悪く言えばサイコパスなようにも見えてしまいます。
初めまして。 父親が亡くなってから、3ヶ月経ちました。 仕事中に亡くなりました。原因は、会社側にあるとのことです。 家族みんな、突然の出来事すぎて、悲しいしさみしいけれど、まだ生きているようにも思います。 父親は"これから"がある年齢で亡くなりました。 孫がたくさんいます。私は、父親に孫との思い出を沢山作らせてあげたいと考えていました。 それなのに、失礼にはあたると思いますが、病死ではなく、仕事中のしかも原因は会社側にある死に方。 受け入れたくても、受け入れきれません。 相談したくて書き込んでいるのか、ただ聞いてほしくて書きこんでいるのかもよく分かりません。 気になることはあります。 ・こういう突然の死は、父親の運命?だったのか。 ・父は、あの世という世界へいけているのか。 この2点が気になります。 お坊さんの経験談?でもいいので答えていただきたいです。 あと、夢に父親が出てきます。亡くなったばかりの頃は、父親から大丈夫と聞かれました。 最近は、夢の中で私は生き返ったと思っているのですが、身内ではなく他人、医療系?の人に死んでるんだからかわいそうだよと言われました。 何か意味はあるのでしょうか。私が考えすぎなのでしょうか。 乱文になってしまいましたが、なにか一言でもいいので、いただけたらと思います。よろしくお願いいたします。
自殺に失敗したばかりの体なのに、もう次の事を考えてます。私、変ですか? お坊さんより、死ぬ事をやめてくれと言う母のことを「母にとって私は宝物」だと教えていただきましたが、バトルばかり。 自分の障害と、母の老い。二重苦です! 死を望む私、いけませんか?
二回目の相談になります。宜しくお願いします。 前回は、将来の衰えや死について想像してネガティブ思考が突然大爆発を起こしてパニック状態になって思い切り体調を崩していました。 今はこのサイトのお坊さんや色んな方からのアドバイスを受けて気持ちが改善に向かっています。ありがとうございました。 今回は「魂」についての話です。 死や魂についての相談は様々な掲示板で見る事が出来て、その回答に「身内やペット達とも魂は繋がっているので死後また会える」「今は魂が肉体に入っている状態で、肉体が亡くなったら魂は別の世界に行く」というものがあり印象的でした。 「今生きてるのは魂の修行中で、その様子を別世界のもう一人の自分が眺めている」という方も居ました。 「どうせみんなまた会えるんだし、怖がっていないで今を精一杯楽しく生きよう!」という話もあり、自分はこの話が心に響いて気持ちの切り替えが以前よりも大分スムーズに出来るようになりました。 様々な創作物や海外の番組等でも、魂やあの世という考えが見えて(海外作品の場合は日本語訳)、そういうものなんだなぁと考えると少し気が楽になります。 そこでふと思うのですが、私は巷で言われている心霊現象というものを体感した事が無いです。(守護霊が強いので守ってもらっているので感じずに済む、というお話を色んな方から頂きました) 周りの人が「今何かの霊が通った気がした」「存在を感じた」と言っても私は体感した事が無いのでいまいちピンときません。 神社が近くにあるので気軽に挨拶をしたり家の神棚掃除やお供えをしたりというのが昔からの習慣で、だらだらではなく信仰というか真面目に見返りを求めず感謝の念を今でも伝えています。神社などはそういう現象を感じる機会の多そうな場と思いますが、明確な感触というのは特にないです。手水を取って挨拶をしてスッキリ爽やかな気持ちにはなります。 実は私が感じていないだけで周りに存在しているのかなと考えたりもします。周りの人たちからそう教わったりもします。 いわゆる「霊感のある人」は、魂やあの世の存在を感じていたりするのでしょうか? そんなの根拠が無いし存在しない、という考え方も理解できます。 普段、色んな方の霊、魂、あの世に関する考えを聞く機会が無いので、お話を聞きたくて投稿させて頂きました。 宜しくお願いします。
御覧頂きありがとうございます。 カテゴリー違いでしたらすみません。よろしくお願いいたします 映画、ドラマ、アニメ漫画、小説から芸術作品まで、何にしても、見る人の感性や価値観によって大きく感想や印象、好き嫌いが変わると思います。 そこで世間、いわゆる俗世間から離れ、「一般的」とは価値観の変わった御坊さんはどんな作品のどんなところが好きなのかな?と気になりました。 絵画や写真ならまだしも、映画などストーリーのあるものとなると、やっぱり仏教観が影響してくるのではないかなと思うのです。 多くの人がたいして注目していない部分にも「すばらしい、いいね!」と感じたり、またその逆などが起こるのでは?と。 それとも、そこは特に影響しないでしょうか。 普通の作品でも、宗教ものの作品でもありがたいです。好きな作品やその作品のどんなところが好きかお教え下さい。よろしくお願いいたします (ちなみに、セイントお兄さんという仏陀とイエスの友人漫画のクチコミが、キリスト教徒からの高評価ばかりで仏教徒からのレビューはみあたりませんでした(笑)。教徒のそれぞれの宗教観の違いか、教徒の母数の問題かわかりませんが。)
タイトル通り、死や病気がとても恐くてたまりません。 その原因として、3年前に愛犬が病気で亡くなった頃からではないかと思います。 ネットで病気を検索してしまったり、 人の死をテレビで見たときにもとても悲しくなります。 いずれは誰だって死が来るのは当然ですし、どうやってもあらがえませんが、 そのさだめに涙してしまうことがあります。 早くお迎えに来てほしいわ〜と笑顔で言っていたり、私はもう満足したからいつでも死んでもいい。と言っている人が 凄いと思う半分不思議です。 もっと前向きに生きていきたいのですがどうすれば良いでしょうか? ご回答よろしくお願いします。
以前とある聖職者(?)が言っていました。「宗教家は失業すればいい。失業するために頑張っている」 つまり必要とされなくなるために、存在しているのだと。 仏教離れが進みつつ、仏教以外にも悩みを解決する智慧が豊富にある今の時代、お坊さんはどんな気持ちで活動しているのでしょうか? 仏教を大切にすることと、僧侶として生計を立てるのは別であり、どうしても資本主義とは相容れない部分もあるかと思います。そのあたりは、どうお考えなのでしょうか?そこがわかると「宗教とカネ」という悩ましいテーマの理解が進む気がしております。 個人的には、未来の職業僧侶は、少数精鋭になるかと考えています。作家やユーチューバーのように、一部の人が活躍し、その他は趣味のような活動になり、狭き門になるのかと。 率直な意見をお聞かせ下さい。よろしくお願い致します。
お坊さんは霊の存在 あの世の存在について 「真実はどこにあるのか」意見交換のようなことはしないのでしょうか? 普通 専門分野には 「学会」などがありますよね 例を挙げると 医者の世界なら 学会で 様々な治験結果を発表して 病気に対してどんな治療法が有効なのか 意見交換をしたりします。 そして その結果は一般人も知ることができ普段の生活習慣や食生活などにも気を遣うようになる人もいます 仏教でも宗派によって「霊魂は存在するか否か」についても見解が違うようですね。 真実がどこにあるのか情報収集をしたり学会のような意見交換はないのでしょうか? (どのように敬称を使うのかわからないので 以下敬称略で書きます。申し訳ありません) 歴史のタラレバの話になりますが もしも 最澄や空海が乗船していた遣唐使船が暴風雨に見舞われた時に海没していれば後の天台宗や真言宗はありませんでした。 法然が父親の敵討ちのために武士になる道を選んでいれば後の浄土宗はありませんでしたし、弟子の親鸞も存在せず浄土真宗もなかったかも知れません。 土御門道親が長命で朝廷の権力争いに勝ち位人臣を極めていれば道元も公家としての生き方をして曹洞宗はなかったと思います。 北条時宗が平頼綱を止めなければ日蓮は殺害されて日蓮宗はなかったと思います。 ちょっと歴史が変わっていれば、現在仏教の宗派も存在しなかったり、新しい宗派ができていた可能性もありますが それによって霊魂やあの世の存在について真実が変わることもないはずです。 多くの人に嫌われたり 尊属にも虐待されて生きてきた人 周囲と仲良くやってきて尊属の愛情を感じて生きてきた人 人それぞれです、 友人やペットなどに対する思いも人それぞれです 霊感商法に騙されて 宗教=悪と思っている人もいると思います あの世や霊魂があるのか 真実を知ることで生き方も変わってくると思います お坊さん=霊能者 ではないことはわかっていますが いろいろな人の体験談を聞いたりして 何か真実なのか調べようとすることはないのでしょうか?
以前も質問させて頂いてのですが、 すみません。 カウンセラーとかにも行ったのですが、 死の恐怖が消えません。永遠に生きるのも怖いし、無とか、生まれ変わるとかも、怖いんです。 仏教やキリスト教の教えを信じれるようになりたいです。 心療内科は、薬をもらって一時的な気を紛らわすだけで、やはり性格を変えないと行けないと思いました。こんな性格で親になれるのか悩んでもいます。 お坊さんはどのように死と向き合い、穏やかに過ごされているのでしょうか?
どうして人は生きなければいけないのでしょうか? どうして人は簡単に自殺してはいけないのでしょうか? お坊さんの知見が知りたいです。
不毛な考えに頭が支配され、何をしていても鬱々とした気分になってしまいます。 「マインドアップロード等の技術開発が進んでおり、近い将来、人間が不老不死になるかもしれないこと」を数ヶ月前に知りました。素晴らしい技術と思いました。 一方で、平等であった死すら、経済格差等によって、死ぬ人と死なない人に分かれてしまうことに恐怖を感じました。この技術が確立した際に、家族、特に私の子どもが、私自身が正社員として働かなかったために、お金が足らず周りが不老不死になる中で、死んでいかなくてはいけない状況が頭にこびりつき、毎日苦しいです。 仕事が原因で精神疾患になってしまったこともあり、いまは退職してしまいましたが、上記のことが毎日頭をよぎり、激しく退職を後悔しています。退職の際には、家族からフルタイムで働くことはもうやめた方が良いと言われ、自分自身もフルタイムで働くと子どもに寂しい思いをさせてしまい、さらには私の心に余裕がなくなってギスギスした家庭になるのではと思い、パートや派遣として働いていきたいと思っての決断でした。 前置きが長くなりましたが質問内容としては、 どうしたらこの考え(不老不死の技術が確立した際に自分たちだけ死んでしまうのではないか)を取り去り、過去の決断を受け入れることができるのか、アドバイスをいただけるとありがたいです。 起こるかもわからない未来を恐れて、今を生きることができていない状況です。 長文駄文で申し訳ありません。もしよろしければ、ご回答お願いします。
高校3年生です。 僕は、多分周りの誰よりも死ぬのに臆病です。 人は必ず死ぬ。その事実をなんとかして受け止めようと、色々模索していたところ、お釈迦さんの教えである「無常」に辿り着きました。 「世の中にある万物は変化し続け、ずっと変わらないものなどない」という様に自分は解釈し、自分の生き方に当てはめてみました。 しかし、ある疑問が出てしまったんです。 僕はあの世とか魂などというものを、あったらいいなとは思いますが、なかなか信じられないでいます。 それ故に、人は死ねば終わりだ、「無」だ、と考えているんです。 お釈迦さんも、死後のことについてはあまり説かれなかったと聞いています。 ならば、死んで「無」であったとしたら、 「無常」という考え方は果たして通用するのか自分には分かりません。 お坊さんなりの解釈やヒントを教えていただければ幸いです。
今年の1月に闘病中の祖母を亡くしました。年末年始に一時帰宅した時はまだ元気でしたが、以降一気に悪くなり、私を含め家族も心の準備ができていないままでした。祖母とは、私が社会人になってからの約6年間、ほぼ同居というかたちで一緒に過ごしてきたこともあり、しばらくの間は気持ちがふわっとしていて、受け入れられずにおりました。祖母の死から約4ヶ月も経ちましたが、いまだに気持ちがうまく整理できていません。母親からは『親よりもずっと一緒にいた訳だから当然よ』と慰めてくれますが、自分だけ祖母が亡くなった1月から時が止まっているような気がしてます。『あのときもっとおばあちゃんとお話をしておけばよかったかな』や『おばあちゃんとの時間をもっと大切にしておけばよかった』という後悔と、一時帰宅から病院へ戻るときに『元気になってまたお家に一緒に戻ろうね』と手を握りながら交わした言葉を思い出します。また、入院中の祖母や元気な時の祖母と過ごす夢を見て、泣きながら目覚めるということも何度もありました。 どのようにして気持ちを切り替えて前に進めることができるのでしょうか。 お忙しいところ恐れ入りますがよろしくお願い致します。
こんにちは。表題の件について質問させて下さい。 忌中には、天部の神様を祀ってあるお寺に参ってはいけないという話を聞きました。 理由は「死は穢れで、特に聖天さんなんかは穢れを嫌うから」「天部の神様は人間に近いから、死を思い出させることで荒れ狂ってしまうから」「本当は神様はそんなこと気にしないんだけど、あなたが悲しいときに無理してお参りしなくていいよ、という意味だ」など、お坊さんによって様々なようです。 私も最近祖母を亡くしました。 祖母とは生前不仲でしたが、遺体を見ていると「生まれて生きて死ぬとは本当に大仕事で、この人はそれをやってのけたんだな。お疲れ様」と素直に見送る気持ちになれました。 死ぬのは怖いけど、それは死に際しての苦痛への恐怖が主であって、死自体はどんな生き物にも訪れるものですし、決して穢れではないと思うのです。 肉体が腐ることだって、微生物に分解され、本来なら動物や植物の糧になり、土に還るという尊い過程です。 何なら生きることより尊いと思うし、衛生管理のため仕方ないとはいえ、死んでまで化石燃料バンバン使って骨にして何の役にも立たない壺に収めて保管して、アホらし、とすら思いました。 そう考えると、「死は穢れだから」とか「天部の神様が死を恐れるから」という理由は、個人的にはあまりしっくり来ません。 人によって死への解釈や意見は違うものでしょうが、実際のところ、天部の神様にとって人間の死とはどういう扱いなのでしょうか? どうして忌中に参ってはいけないのでしょう? 現役のお坊さんの意見をお聞きしたいです。 よろしくお願いいたします。
先日、妹家族が交通事故に合いました。 相手は重傷、義弟と妹は重体、長男11才死亡、次男5才軽傷。 両親不在のまま、長男の葬儀を終え、次男は退院し元気に見えます。 両親も回復に向かってますが、まだ人工呼吸で話せず。 しかし妹の方は筆談で会話可能に。 まだ長男の死を知りません。高齢の両親もつかれはててますが、近々告知するようです。 私たちは、妹にどうやって支えになれるでしょうか。
先日娘の死に質問させていただいたものです。 御返答に涙が止まりません。 まだ気になる事があります。娘も訳もわからないまま逝ってしまったのだと思います。未練もあったりするのだと思うと苦しくなります。 どう思ってあげたらいいのですか? それから娘もたくさん友達はおり、たくさん泣いてくれました。4月から高校生の皆は楽しそうで新たな友達もでき、楽しそうです。 周りは当たり前ですが普通に過ぎていき、皆から娘が薄らいでいかないかきになって辛いんです。 ずっと一緒、そばにいるといってくれたり、来てくれたりしていてもちろんありがたいです。 親とはもちろん感情は違うと思います。 娘を忘れないでと思いすぎるというか。 いろんな気持ちが葛藤します。 頑張ろうとか嬉しいとか感謝もたくさんします。でもどうしようもなく寂しくて会いたくて苦しくなったり。 その繰り返しが当たり前なのでしょうが、会いたいと思いすぎるのも娘には良くないことなのかな。とか。