般若心経が浮遊霊をよせるとは 本当ですか? もし、もらいやすいのであるなら なにを唱えたらいいですか?
初めて質問をさせて頂きます。 心を落ち着かせるために、 自宅で般若心経を声に出して読む事を始めました。(スマホアプリで練習できる物を利用) 家には、神棚はありますが、ご仏壇はないので、ゆっくり椅子に座って、朝に1回読んでおります。 般若心経等のお経は、1日のうち、読む時間や回数 等、決まっているのでしょうか。 1日何回でも、読みたい時に読んで大丈夫でしょうか。 ネットで検索致しましたら、霊が寄ってくるので夜はやってはいけない等が書かれておりました。 本当でしょうか。 よろしくお願い致します。
父方は浄土真宗、母方は浄土宗、当人はキリスト教カトリックという宗派宗教ごちゃ混ぜのからすたろうと申します。また、ご縁があり法相宗薬師寺に何度かお世話になっています。(ややこしくてごめんなさい。) 昨年、母方の祖父と父方の近い親戚が亡くなったことから仏教に興味を持ちはじめ 法相宗薬師寺にて少しながらご奉仕をさせていただいたりしています。 法相宗では般若心経を1日に何回も読経するので自分にとって般若心経は暗唱できるほど一番身近なお経です。奉讃文に 「神前にては寶の御經、佛前にては花の御經。 況して人間の爲には祈念祈禱の御經」(引用) とあるように祖父(浄土宗)の仏前では読経させていただいています。 さて、父方の仏前でも親戚一同からお前の読経は声が良い。染みる。なんて囃し立てられまして何度か般若心経読経させていただきました。 しかし、先日 浄土宗のお坊さんとお話ししていましたところ どうやら浄土真宗は般若心経と教えが違い般若心経は上げないと教えていただきました。父方の親戚の仏前にてお唱えしてしまったことを申し訳なく思っています。 ・やはり、浄土真宗の仏前にて般若心経をお唱えする事は避けたほうが良いのでしょうか? ・浄土真宗の仏前にてお唱えするときは何というお経が良いのでしょうか? ・浄土宗では南無阿弥陀仏を十念4+4+南無阿弥陀仏+南無阿弥陀ぶー とお唱えしますが、浄土真宗では「なんまんだぶ」と聞こえます。どのようにお唱えすれば良いのでしょうか。 長くなってしまいましたが3点、よろしくお願いいたします。
とあるお寺の檀家です。結論から申し上げますとタイトルの通り、初めて集会に参加する時の心得やマナーなどお答えいただければと思い相談します。 散歩をしている時に偶然見かけ、気になって調べてみたところ毎月一回開催されていることが分かりました。いつも閉じているお堂をその日だけ開放し、皆でお経を読んだ後ご住職のお説法を聞くという内容です。 少し聞いたお話がとても面白く、もっと聞きたいと思い参加しようとしましが、勇気が出ません。お金はどれほどいるか、数珠や経本は必要か、見た感じご年配の方が多く浮くのではないかと心配になりました。 ご住職に直接伺ったところ、お金や道具は特に必要ありません、いつでもお越しくださいとの暖かいご回答をいただくことが出来ました。ではそれで解決したではないかと思われるかもしれませんが不安で仕方ありません。 それは建前でやはり払わなければ失礼ではないか、自分のような仏教をあまり知ず信心深くもない人間が来てもいいのかという思考に囚われ、わざわざ休みを取っていったにもかかわらず引き返すことを3年くらい繰り返しています。 案ずるより産むが易し、とはよく聞きますがとても敷居が高いです。一緒に行ってくれるような友達や家族はいません。ですが一回くらいは死ぬまでに行きたいと考えています。 このようなくだらない質問で申し訳ないのですが、ずっと悩んでいます。お坊さん方は行事の際どのようにされてるか率直に聞きたいと思い書き込みました。
半年前に二十歳の娘が亡くなりました。 娘が元気で笑っていたときに時間を戻したい、生き返ってほしい、声が聞きたい、そんなことばかり思いながら毎日を過ごしています。 死んでしまったと言うことはわかっていますが、それを認めたくない気持ちがあります。 お腹が空いたらいけないと思い、毎日ご飯やお菓子・飲み物はあげています。 退屈しないようにと娘が好きだったゲームやぬいぐるみなどを、遺骨お位牌のまわりにおいています。(納骨はしていません) けれども、お線香をつけたりお教を唱えることにどうしても抵抗があります。 死んでしまったと現実を思いしらされるようで… そのような態度は娘を苦しめているでしょうか?
こんにちは。 前回質問から、般若心経の「無無明・亦無無明尽・無老死・亦無老死尽」 の部分が、やはり気になってしまってるので質問させて頂きます。 この部分は十二縁起についての言及との事ですが、 十二縁起を乱暴ながら私なりに要約すると 根源的な無知(無明)→生存本能と外界知覚(行・識・名色・六処)→本能と分かち難く生じる煩悩(触・受・愛・取)→本能と煩悩で成り立つ生存(有)→生存する主体として「私」という想念が生じる(生)→「私」はいずれ死ぬ(老死) と、言う事でしょうか。 私の考えでは、この部分について般若心経は 「どんなに達観しても十二縁起の因果関係は断ち切り難い」 (「無」無明尽・「無」老死尽→否定としての「無」) けれども 「物事をありのままに見れば(空相にて照見すれば) 全てが、かけがえのない真実と分かる」 (「無」無明・「無」老死→空相、全体性としての「無」) と「無」と言う言葉が違った使われ方をしているように 思うのですが如何でしょうか? 字面通りに読めば「Aは無いけど、Aは尽き無い」と言う二律背反になり、 これでは意味の全く通らないナンセンス文章です。 この部分、般若心経を読む誰もが最初に「あれ?」と思う所ですが、 腑に落ちる説明をしている本がありません。(偉そうに言える程、 本は読んでないですが) 中には「十二縁起なんて形式にこだわるのは小乗仏教だ。 般若心経は大乗仏教だからそんなものに拘らない」 とバッサリ斬っている書籍もあります。 そんな単純なものでもないと思うのですが・・・ 解釈は色々あるかもしれませんが、お考えをお教え頂ければ幸いです。 何だかマニアックな質問になってしまいすいません。
私の家系は先祖代々浄土真宗です。 父は本家から独立して遠く離れた地域で家庭を持ち、近隣の浄土真宗のお寺の檀家になり、私たち子供と暮らしていました。 その父が数年前に他界したので新たにお墓を建てたのですが、近隣の浄土真宗のお寺(檀家となったお寺を含む)や無宗派の墓地に良いところ(空き区画や立地)が無く、色々考えた末に生前父が好きでよく登っていた山の中腹にある真言宗のお寺にお墓を建てました(浄土真宗のお墓を受け入れてくださる真言宗のお寺でした)。 ですので葬儀場で行ったお葬式や自宅での法事は浄土真宗のお坊さまに来ていただいてますが、お墓への納骨の際にはお墓のあるお寺の真言宗のお坊さまに真言宗のお経を読んでいただくことになりました。 私はこの縁で真言宗のお経に少し興味を持ち、今では般若心経を覚えて唱えることもできるようになりました。 ただ、家系的に浄土真宗ですので実際にお墓等で般若心経を唱えたことはありません(浄土真宗では般若心経を唱える必要がないとの教えを少し理解しています)。 今後も自宅の仏壇や法事では唱えるつもりは無いのですが、真言宗のお寺に建っている父の墓前で般若心経を唱えて良いのかを迷ってます。 実際に納骨の際には真言宗のお坊さまに真言宗のお経を唱えていただいた事実もあるのですが、浄土真宗家系の私は、それでも父の墓前で般若心経を唱えるべきでは無いのでしょうか? ご縁で真言宗のお寺にお墓を建てたことですし、父のためにもなるのであれば唱えたい気もしています。 どうかご教示頂けますようお願い致します。
時間があるときに般若心経を唱えると(何回も繰り返し)唱えるたびに身体が前 後に揺れてしまいます。もちろんわざと揺らしているのではありません ほんと 勝手に揺れだして恐くなって途中で唱えることをやめてしまうこともあります。 一体何なのでしょうか?変なのが憑いたりしてるのでしょうか?
毎朝仏壇に向かいお経をあげています。 ところが、ある生き神様(仏教系の霊能者)から「般若心経くらいにしときなさい」と言われましたので、いかがなものなのかお尋ねいたします。 我が家は浄土真宗ですが、真言宗に魅かれて四国八十八か所巡礼の際唱える、 「開経偈・懺悔文・三帰・三竟・十善戒・発菩提心真言・三摩耶戒真言・般若心経・光明真言・御宝号・回向」。 加えて「十三仏真言・観音経」を読誦しています。 ところが、生き神様が「それらは何のお経?」と言われましたので、 「遍路の際各お寺で上げるお経」と言いましたところ、あまりご存じなかったようです。 さらに「巡礼の経験もなくして、それらを上げるのは間違っている。まったくムダです」と言われました。 家族や親族への日々の御守護に感謝し、これらのお経をあげているのですが、いかがなものでしょうか。
事情があり地元のお坊さんにお願い出来ません、葬儀は他県で行う予定です、 枕念仏を自分でしたいのですがよろしいでしょうか? 般若心経しか出来ません 修行してないとダメでしょうか?
はじめまして、ヒカルと申します。 大学を卒業したのですが、定職に就くことができずに4年ほどの月日が経ちました。就職に対する当時の自分の意識も低かったこともありますが、大学4年生の時に社会や人間を信じられなくなってしまう出来事が起こったのも原因です。 今では定職ではないにしろ働いていたので人間不信は解消され、一人暮らしで自分の生計も立てられているのですが、将来的なことも考えると今のままでは良くないと思い、今さらながら仕事探しを再開しようと思っているのですが諸事情により半年は今のままで過ごさなくてはなりません。 本当に今さらなのですが気持ちだけが焦ってしまい不安に包まれる夜が続いています。そんな私に気持ちが少しでも楽になれる言葉や考え方があれば教えてください。般若心経はかなり心が楽になりました。
自分は これだけ頑張った から 凄いでしょう? って心でいたら どれだけ素晴らしい事をしてたとしても 見返りを求めたその時点で 無功徳に なりますか?何十回般若心経をお唱えしても 全然 叶えて頂けません。一体何をしたら 念願て叶えていただけますか? 努力というのは どれだけしたらいいのでしょう? 目に見えないもの 魂や仏様 それはあの世のものですよね。努力もいくらしても 目に見えるものではございません。 難しいです。
大忍貫道 様 釈尊の言行(その1)で追記 を見逃して大変失礼致しました。 回答の締め切り通知を変更通知と間違えて調べて、追記があったのを知りました。申し訳ありません。 重要な問題なので、再度質問を立てます。 我々の出来ない体験を、釈尊が代わりになさって伝えて下さったのが仏教です。 「輪廻転生について」のお礼欄で、私は 「如来(釈尊)は真実を語るものであり、如来は真理を説くもの、ありのままに語るもの、誤りなく説くものだからである。如来は虚偽りを語るものではない。」 との金剛般若経の引用をしています。 輪廻は信じる信じないのレベルではなく、真実か虚偽かの問題なのです。 そこが仏教が宗教か否かの判断になると思います。 金剛般若経の続きで「前世、現世」が出てきます。 釈尊の語りですから、これは真実なのです。 これが輪廻転生に他ならないのではないでしょうか? 因みに仏教が信でなく真実であることは、仏教の基盤である「般若心経」が科学的真実を語っているので明白です。 詳細は省略しますが、ヒントは「諸法」の「空」が「不増不減」であるのは、諸法が自然界の中で唯一「閉じられた系」であるからです。
私は、お経が好きなのですがなぜかお経を聞くと不思議と胸が苦しくなります。般若心経が特に好きで、たまーに唱えてみたりするのですが、それでも途中で少し苦しくなります。 何か解決策はありますか?
見つけてくださいまして、ありがとうございます。 私は昔から第六感が少しだけ強いらしいです。それゆえなのか、普通の人には見えない人や動物を見たり、声を聴いたりします。 今、うちに普通の人には見えない方々がかなりいます。 幼い子供も、大人も、ずっと昔の人もいます。なかには、話しかけちゃいけないような人もいます。彼らはただいるだけで、悪さはしません。(かわいいイタズラをする人もいます。)私自身、彼らがいることについてはなんとも思いません。いたいならいればいい、いたくないならでればいい。そんな感じです。 彼らは、心の中になにかしらの問題があり、苦しんでいます。彼らは本当は優しくて楽しい人のようにおもうのですが、今、彼らは心の中の何かがチクチクして、怖い人になっています。 お坊さんでもお寺関係者でもない素人がお経をあげてもよいのでしょうか。お経をあげたお坊さん独特のお経を読むときの声であげたほうがよいのでしょうか。 今、新生活で疲れがたまってしまい、なかなか彼らとお話できる体力がありません。前までは、ちょいちょいお話ししたりお茶を飲んだりしていました。 私ができることならば、無理がない範囲でやらせていただきたいです。
毎日やるべき事を真面目にこなすだけで、心から安らげる時がありません。 いったい何のために生きているのかとさえ思うときもあります。 人を苦しめている人が幸せに暮らしていたり、 真面目に生きていても辛いことに遭遇したり… よく分からなくなりました。 人はいったい何のために生きているのでしょうか?
生涯ひとりと考えるようになり、葬式や埋めてもらう時の宗教を決めておきたくなっています。そもそも誰か私の葬式を出すのかが不明ですが、子供の頃から自分はたぶん宗教というものを好きな人間だと思っています。 しかしどうも宗教‘’団体‘’、‘’組織‘’が好きでないとか合わないと感じていてどこにも属していません。 仏教への気持ちとしては、高校生くらいで般若心経を読み、「かっこいい!」と感動してたものです。 しかし自分がいいと思った面を、日本にある宗派の短い説明を読む間に、全部の宗派が持ち合わせていない気がしてきます。 他には強いて言えば慧能の言葉も「おおおかっこいい!」と感動したのですが、では禅宗かというと般若心経に私が感じた内容と違う気がしてきます。 そのうちだんだん、感動して感じたところと宗派の説明に感じる差の離れ度で考えれば、シントーの方が身近な価値観に思えてきています。 いっそ日本の仏教なしにしてシントーかなと考えはじめています。 墓考えなくていいんじゃない、でも何でも構いませんので、ご回答頂けると嬉しいです。 (大勢いると苦手なのと、たまたま話した事があるお坊さんのふたりが、ふたりとも長く関わりたくないと思ったので、どこにも行きたくなくなりました。 ひとりは不倫を勧めていて、もうひとりは座禅会だったんですが、同僚を悪く言って(私には根拠がない話に聞こえました)「あっちの座禅会より自分の方が良いですからね」と話していました。 特に不倫の人からは話を切り上げて一刻も早くここを離れなきゃと怖くもあったし、もうこれ以上お坊さん知り合いたくないわ、と思っていました。でもそういえば幼稚園が仏教だったと思い出しました。家族が冷たかった私には、その時栗をくれたお坊さんが、子供時代に会った最も情がある人だった気がします)
4人姉妹で育ちました。 よくは分かりませんが母は親族と喧嘩し離婚し私達を連れて新しい父親とある日突然駆け落ちしたそうです。私の知る限りでは母は死ぬまで親族に会ってませんし先祖の供養もしていません。代々のご先祖様の供養の事でもなんか色々あるそうです。 私達姉弟は母方のお墓の場所は分かりますが、遠すぎて1度お参りにいきましたが、3番目と4番目の弟は記憶もないことから供養などの関心はないみたいです。 姉も私も一番下の弟もそれぞれ結婚し生活をしています。真ん中の弟だけ結婚はしていません。 私は嫁ぎ先が信仰心が高くお墓参りは週1行きますし、神社には毎日行きます。私達家族も月2回くらいお墓参りに一緒に行きます。 私は子供を一度流産してますがその後は3人の子を授かり問題もなく平穏にくらしてますが、姉は何度も流産し死産も経験しやっと2人授かりました。 一番下の弟の奥さんは子宮の病気になったり、出産した子は産まれた時に死ぬかもしれない事態になり(今は元気に育っています)今現在妊娠している子は多分助からず産まれてくる可能性があります。 そんな子孫繁栄をことごとく辛い思いをするのは母方のご先祖様か死んだ母の悪い部分の怨念で先祖の呪縛じゃないか?と姉は言います。 姉は私は嫁ぎ先でお墓参りをいっぱいしてるから守られているんだと言います。 弟が結婚しないのもある意味先祖の呪縛だと。 なんだか釈然としません。 たしかにご先祖様を大切にしていないのは事実です。幼かったせいで関係せいもなにも知りませんし供養の仕方もわかりません。 私はたまに母の事を思い般若心経をとなえてますが。 しかし、供養してないからとご先祖がそんな邪魔をするもんでしょうか? テレビなどではそういう怨念の話は聞くので絶対にないとは思いませんが、先祖あっての私で生かされている私達を先祖が邪魔などするでしょいか? 母の呪縛がそんな事をするでしょうか? 私が嫁ぎ先のご先祖様に守られてるきがするのは確かに感じますが、他の姉弟が先祖をないがしろにしてるからと言う理由で不幸な事があるものでしょうか? ご先祖様はそんな事をするんでしょうか?
以前見て頂いた時に 悩んだり 気持ちが沈んだり お経を唱えるといいと言われました どの宗教がいいのか分からず過ごしています 最近叔父が亡くなり真言宗とわかりましたが 母方のため 父方の方だと言われましたが父に聞いても分からないと言われました このような場所 お経は唱えない方がいいのでしょうか? 教えて頂きたいです よろしくお願いいたします
本日知人に誘われて写経に行ってきました。 般若心経なのですが、我が家の宗派とは違い なぞって写すのでいっぱいいっぱいでした。 写経は初めてでしたが、自分の宗派のお経は 目をつぶってでも読経できるのに 般若心経には触れた事がなく 読経さえもできませんでした。 自分の宗派の写経はどれを指すのでしょうか? 観音経?? 般若心経とは違うようですね・・。 しかし、書き終えた後住職のお説教をボーっとした感じで聞き入り なぜか、涙が流れました。 申し訳ありません、無知な私にご教示お願いします。