僕は般若心経を最近覚えました。 ここで般若心経について質問です。 ネットなどでよく「般若心経を唱えると霊が寄ってくる」などいろんな事を聞きますが、本当に霊は寄ってくるのでしょうか? また、その場にいる霊をはらったり、人についている霊をはらったりはできますか?
いつもお世話になります。 般若心経について質問させていただきます。 先日、いつもお世話になってるお寺で般若心経の経典をいただき般若心経を唱えているのですが、一つ引っかかる点が出てきました。霊能者やその類の人が言うには、般若心経には、悪霊や無縁仏の霊を寄せ付ける力があるので、僧侶でないものが唱えるのは危ないと言ってる人がいます。正直こんなことを言う人がいるとやりづらいです。どうしたらいいでしょうか?
般若心経の意味と般若心経を仏壇等に対して唱える意味を教えて下さい。
般若心経について質問があります。 般若心経の「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」は、「行ける者よ 行ける者よ 彼岸に行ける者よ 悟りよ 幸あれ」の様な意味だと、何かで聞いた事があるのですが、本当でしょうか?
たまたま仏教の起こりについて簡単に知る機会があり、葬式でよく読まれている身近なお経でもある、般若心経について興味が沸きました。 そこで、このお経が何を伝えようとしているのかインターネットで調べていたのですが、サイトによって解釈が微妙に異なる様で、本来の意味を理解出来たのか自信がありません。 以下が現時点での私の解釈となりますが、間違いがあればご指摘いただけませんでしょうか? •自分自身も、他人も、世界そのものも空(実体の無いもの)である •よって、苦しみや生、死も実在しないものであり、状態が移り変わる過程でしかない •そう考えれば、思い悩む必要など無い ※現時点でディティールまでの正確な理解は求めておらず、まず、ざっくりとした意味を理解したいと考えています もし上記の解釈が概ね合っていると仮定すると、葬式で読まれる般若心経は、故人に対してではなく、遺族に対して読まれているものなのでしょうか? オリジナルの仏教では死後の世界には言及していないと認識しており、故人に対して読まれるというのは違和感があり、上記の発想に至りました。 専門書等を読んでみようかと思いましたが、その道のプロであるお坊さんに聞くのが一番正確かと思い、質問させていただきました。 勉強不足な点は多々あるかと存じますが、可能であればご教示いただけると幸いです。
こんにちは、 般若心経について詳しく知りたいです。 オススメのわかりやすい書籍などを教えてください。 いろいろと自分で読んで見たのですが、 基礎知識?がないとわからないことばかりで 正しくきちんと理解したいです。 一体どこから踏み入れれば、般若心経を 正しく理解を深められるのでしょうか。 私のいまの知識は 般若心経とは、 御釈迦様?の優秀な弟子が作ったもので その弟子の後輩に対して渡した、 「悟りっていうのはこんなことだよ。」的な要約レポートだと思っていて、 (これすら間違ってたらすみません。) ほんと、へんな知識しかないです。 中身が難しい。 この優秀なお弟子さん?もなんだか正体つかめないし、 般若心経は仏教上級者向けですか? ご回答よろしくお願いします
はじめまして、お世話になります。 私は看護師の主任をしています。 3月から毎日コロナ対応に追われています。 自分が感染するのではないかと言う不安にかられながら、スタッフの体調、メンタルに気を配ってきました。 ですが長引くコロナの蔓延にスタッフの体調が悪くなり仕事ができなくなったり、怒り不満不安をぶつけてくるスタッフがいたりと、色々なことが起こり自分自身が疲弊してしまいました。 そんな中、般若心経に出会いました。 もともと信仰に関心がなく、宗教といえば勧誘、お布施、入信しないと悪いことが起こる的なイメージが強かったのでなんとなく避けていました。 ですが般若心経に触れ、「全ては空である」 体、感情、もの、全ては空と言う考え方に何か 安心?安らぎのような物を感じました。 難しくて、わかったような?分からないような?全然理解できていないのですが、般若心経を読むと少し心が落ち着くのです。 早く般若心経を読みたい、学びたいと焦燥にかられ近くの高野山真言宗のお寺さんで般若心経の経本をさっと買ってきました。 もっと般若心経に触れたいのですが、私は独身で家に仏壇もなく檀家にはなれません。 調べたら入信の制度はないようで、もっと般若心経や仏教の教えについて深く学び、私の中に落とし込んでいきたいのですが術がわかりません。 お寺さんのホームページに月二回の読経会があるようなのですが、このコロナ渦の中医療従事者の私がお寺で他の皆様と一緒にお経をあげる、お話を拝聴するのは難しいです。 本当はお香の香りに包まれたお寺さんで、自分と向き合いながらお経を唱えてみたいのですが。 まだまだ続くであろうコロナと向き合うために どのように般若心経やお釈迦様の教えに触れ、 お経を唱えて行ったら良いか迷っています。 読み方も分からないのでyoutubeの読経に合わせ読んでみたり、文献やyoutubeで学ぶのが精一杯です。 何か良い方法はないでしょうか?
般若心経に「不生不滅、不垢不浄、不増不減」とありますが、 生じることもなく、滅することもなく、汚くもきれいなものでもない、減りも増えもしないものとは、具体的に何のことを言っているのですか? 教えて下さい。宜しくお願いいたします。
私は霊媒体質で、何回か、質問させて頂いております。小さなころから般若心経を祖母ととなえて、お寺さまの禅宗のつどいの先生役もいたしました。 それで、いつしか、般若心経から離れてはいたのですが、介護施設で働いていて、肩こりが治らなかったおばあちゃんがなんか肩にのっているのがわかり祓ったげました。そのあと、私の体に来たのですが、治り、施設入居者の方に500円でうってる般若心経お守りをさしあげました。般若心経は空にする力が強く、悪魔、天魔も祓うまた、供養と、災厄祓う、自分自身を空にするお経と思っています。そのあと、神社に、お祓いはいったのですが、般若心経がなぜか唱えれない自分に気づきました。般若心経が怖くて仕方ないのです。また、般若心経を調べると浮遊霊をよぶだのそんな情報ばかりくるのです、数日たってから訪問介護先で、セクハラにあいました、そのときに、お守りとして、観音経25と、咄嗟に不動明王さまの真言でした。お不動さまたすけて、神様、仏さま助けて! と念じた瞬間相手の力が弱まりすぐ、車に避難。大事にはならなかったです そのあとお友達が、私の通いつけの神社に、つれてってくれて感謝しました。そのあと、急に父が般若心経の経本がほしいといいプレゼントすることにしたのですが、神道でも唱える般若心経を慣れ親しんだ私は何故唱えなくなったのだろう?と内観しました。江原さんの本に憑依されるのは自分自身が、原因とかいてあったし。おかしいな、、と。そして私は天魔に騙されてる自分に気づきました。危ない危ない、、仏恩感謝、神恩感謝。般若心経をまた、唱えたいと思いました。合掌
平成22年6月20日 長野市ビッグハットにて行われたダライ・ラマ法王14世の来日特別記念講演に行ったときのことです。 開講に先立って、参加者全員で般若心経のお祈り(適当な言葉が分かりません)されたのです。当日あの会場に何人の方がいたのか分かりませんが、間違いなく私の人生で聴いた最多人数による般若心経でした。 すっかり感動して、私も般若心経が読めるようになりたいと思い、その後CD「みんなで般若心経」を買いました。しばらくは毎日CDを聴きながら、経文を読んでいたのですが、いつの間にかその存在さえ忘れていました。 こちらのサイトを知って、仏教の奥深さと日常を生きる知恵を再認識しました。改めて般若心経にトライしてみようと思います。 さてそこでご相談です。折角思い立ったので、できるだけ継続して習慣にしたいのです。練習するのに相応しい時間帯とか、心構えがありましたらご教示をお願いいたします。
以前、友人とお参りしたお寺で「般若心経を写経すると病気が治る」等のお話を聞かせてもらいました。 大学時代から仏教が好きで個人的に学んでいたのですが、「般若心経を写経するとご利益がある」等の考えにどうも違和感を覚えます。 般若心経を写経すると願いが叶うのでしょうか?
般若心経手帳というのが本屋に売ってて内容が面白そうだったのですが、著書が僧侶の方では無く買おうか悩んでます。 僧侶の方で読んだ方のご意見聞きたく質問させて頂きました。 感想の方よろしくお願いします。
こんばんは、般若心経について質問させて頂きます。 幾つかの本や、ネットで般若心経の意味を調べました。この世の全ては「実体がない」という事は分かりました。しかしその「実体がない」という事が何なのかが、どうしても分かり切る事ができないのです。私達が見ているもの感じているもの、そして私達自身、世の中のあらゆるもの、実体がないとはいえここに私の身体はあります。 「実体がない」とはどういう事なのでしょうか?このような疑問も実体がないのでしょうが、どうか教えて頂きたいと思います。よろしくお願い申し上げます。
今更ですが、仏教の体系が「真理」として「般若経」、「真実」として「般若心経」、論理として「阿含経」でまとまっていると考えていますので、今度は「般若心経」の解釈を試みたいと思います。 「観自在菩薩」とは釈尊が如来になる前の尊称であると思います。 次の「行深般若波羅蜜多時」が菩薩が如来になった瞬間と考えられます。 「照見五蘊皆空 度一切苦厄」 がこの般若心経の結論です。即ち「空(正確には空性)」を発見して、悟りを開いたのです。 「舎利子 色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」が第一のキーフレーズです。 「般若経」は「色即是空」だけですが、それは「真理」であって「色即是空、空即是色」が真実です。 色即是空の「空」が真実であれば、空即是色の「色」も真実です。しかし「空」と「色」は別物ですからこの「即是」は定性的な即是で、「物体」は総て「空」の集合体であるという意味です。 定量的にはそこに「縁起」が加わって「色」=「縁起」X「空」、「空」=「縁起」X「色」となります。 「色」は五蘊の中の身体です。身体はこの世限りの命ですから、科学の真実と一致するはずです。アインシュタインはe=mc^2の公式を発表し、広島、長崎の実験でこの公式が真実と確定されたのです。 e(空)=m(色)Xc^2(縁起)と対応します。 「受想行識亦復如是」 「受想行識」は通常総括して「心」と訳されてます。心も「空」で出来ているのです。
こんにちは。 般若心経の 「無色無受想行識・無眼耳鼻舌意・無色声香味触法」 の部分について疑問があるので質問します。 般若心経で「空」と言うと、単に「無い」とか 「虚しい」とか言うものではなく、 「縁起として存在し、固有の実体を持たず、執着の対象ではない」 と言う程度に私は認識しています。(間違っていたらご指摘ください) しかし「無」となると、どのように読めば良いのでしょうか? 「無」も「空」と同じようなものとして考えれば良いのでしょうか? 上記の部分について、字面通りに受け取ると 「すべての感覚器官と意識作用をシャットアウトせよ」 て言ってるようにも受け取れてしまいます。 もちろん、そんな単純な事ではないと思うのですが・・・ 「現実をそのままに見よ」と言うのが 仏教の基本的な考え方だと思うのですが、 「無」と言う字で表わされては「見るな、聞くな、・・・」と 言っているように思えてしまい、ひいては現実世界そのものを 否定しているようにも思えるのですが、 如何なものでしょうか? それとも、このように字面を捉えて理屈で考える事自体が 仏教の本質から遠ざかっているのでしょうか? 最近、毎日お唱えしている般若心経ですが、 上記の部分が妙に気になってしまうので質問しました。 ご教授頂ければ幸いです。
私が仏教に関心を持つようになったのは最近の事です。 あまりにも辛い出来事があり、うつ病になりかけた時に、偶然テレビで般若心経を解説するプログラムを見て、心がすっと軽くなった、というのがきっかけでした。 ところで、わが家は浄土真宗なのですが、浄土真宗では般若心経を唱えるべきではない、と聞き拍子抜けしてしまいました。般若心経の教えに救われた私としては、何だかスッキリしません…。 実際に浄土真宗のお坊さまたちは、般若心経についてどのようにお考えなのか、お聞きしたいです。
「三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰」、 「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経」 この辺は私には全く理解できていませんが、最も注目すべきは、当然、呪文の「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 般若心経」でしょう。 花山先生の訳によれば、「往きて彼岸に往き、完全に彼岸に到達したものこそ、悟りそのものである」という意味だそうです。 これは多分、前回お話しした梵天勧請事件の経緯のように、喜びと共に生涯を終える実践をした時のことを表現したのだと思います。 「彼岸」が実在していることを示し、それは梵天勧請事件で生き返ることを三度も拒否したほど素晴らしい眺めのようです。 (完)
先日質問をさせてもらい、丁寧なアドバイスありがとうございます。 さて、質問なんですが、私は以前から知人から、般若心経を唱えると私はもちろん、私の周りの方、家族などにもよい影響を与えると言われたので、毎日寝る前などに唱えてます。 宗派は関係なく、唱えてOKと言われました。 般若心経を唱える効果をお聞きしたく質問させてもらいました。
いつもお世話になっております。 ここのところ、仕事の関係で4時半起きが続いています。 窓を開け放ち、心地よい朝の風を感じ、薄暗い朝が明けてゆく風景。 お日様が上ったら手を合わすととても気持ちがいいです。 毎朝、雀にパンや米粒をあげていたら、網戸を開ける音で分かるのか、どこからか数羽やってきて、チュンチュンと催促をするのが何とも可愛らしくて。 仕事に行く前に最低限のニュースだけ観てゴシップ系が始まったらTVを消す。 あーだのこーだの余計な情報は要らないのです・・・。 毎日拝読しているhasuhohaお坊さま方のご回答と、 繰り返し読んでいる一冊の禅宗老師の本が私の仏道の全てです。 こんな私も苦労はしています。いろいろあって給料は右から左。 でももう物欲もありません。すっきりとした感覚です。 一日一日、丁寧に過ごせて、ご飯食べれて、 みんなが安寧で過ごしていてくれたらそれで幸せです。 hasunohaの常連様方にも一喜一憂したり。 あー、帰ってきれくれた!(涙)とか。 でも、それはそれ。 このサイトに出逢わなかったら「人のしたことしなかったことを見ないで、自分がしたことしなかったことを見なさい」というお言葉を知らなかったかもしれません。 私にとっては、人生において非常に大きなお教え(教訓?)なのです。 さて本題ですが、この間キーマカレーを作っていたらトントントンという音に合わせて般若心経が何度も頭の中で流れてきました。 しんむーけーげーむーけーげーこー・・・この部分からばかりなのですが。 (何年か前までは普通にJ-POPが流れてましたが(笑)) 時々キッサコさんを聴いていた影響もあるのでしょうかね。 こんな時は流れに乗せて料理を作りながら唱えていたら良いのでしょうか?たぶん延々ですが・・・。 お盆前のお忙しい時節に、お気楽極まりない質問で大変恐縮です。 お手隙の時にお教えいただけると幸いです。 あ・・・仕事・体調不全・恋などに悩んでいる我が娘に、 「こだわりが過ぎると苦しみが大きくなるよ~」とメールしたら、「悪に対しては復讐しかない」と返事がきました。 囚われずに生きていければ少しは楽になるのになと思いながら娘の中にはまだまだマーラが住んでいるようです。 困ったものですが、流れにそってボチボチやっていきます。 (余談になっちゃいました。すみません。)
こんにちは。 何か心の拠り所が欲しいと思い、仏教の勉強を始めました。般若心経を読む宗派・読まない宗派あると思いますが、皆様の解釈を教えてください。 私が読んだ本に依ると、 ブッダは五蘊や十八界、十二因縁は存在するが、その「持ち主としての私」という確固とした存在は錯覚だ、「空」だ、と説いた。大乗仏教ではそれすら錯覚で、「空」という法則のようなものがあると説いている。 ブッダは「世の中はこのように構成されていて、だから生きることは苦しいのだ。ひたすら瞑想をして煩悩と戦いなさい」、 大乗仏教は「今見ている世界は全てが錯覚だから、思い悩むことはない。ひたすらお経を唱えれば、必ず救われる」という教えだ、と解説されていました。大乗仏教が「宗教」であるのに対し、ブッダの教えは「思想」であるとも書いてありました。 科学が進歩しておらず世界が何も解明されていなくて、生まれた環境を受け入れるしかなかったような時代、貧しい庶民の心を救ってきたのは大乗仏教に他ならないと思います。今でもそうです。私はお経にある呪術的な力も信じています。 でも、大乗仏教の僧侶の皆さんには大変失礼なことを申し上げるようで、申し訳ないのですが、般若心経を読むと全てが幻だと言われているようで、納得できません。現代社会においては、ブッダの考え方の方が合理的で理にかなっているような気がするのです。 それに般若心経は、ブッダが瞑想している間に、そのすぐ隣で観音様が舎利子に対してブッダの説を全否定して新しい呪文を教えて、それにブッダ自身にその通りだと言わせる、という舞台設定ですよね。それは、大乗仏教が原始仏教を越えようとしてできたものだからだと学びました。「日本人として般若心経を心の支えにしたい」という気持ちと、「ブッダの説の方が自分は納得できる」という気持ちが自分の中で葛藤してしまっています。 先日も、近所のお寺の座禅会に参加し、全員で般若心経を唱和しました。ブッダが推奨していた座禅の前に彼の教えを否定する内容のお経を読んで、裏切っているような罪悪感にかられてしまいました。 (私が読ませていただいた本は、仏教系の大学で教えていらっしゃる権威ある先生の本です。以上の解釈は私独自のものではなく、その方の受け売りです。) 私のこのような理解はものすごく偏っているのでしょうか? 皆様は般若心経をどのようにお考えですか?