『苦しい時の神頼み』という言葉がありますが、自分の願望や望みを神仏にお願いするのは 我欲でしょうか? 『お金が欲しい』とか『結婚したい』という願いは 欲望丸出し…という事は 分かります。 そこに ちゃんとした理由が あるならば 我欲には ならないとは 思いますが、 突き詰めていけば 全ての頼み事やお願いは『神仏に何とかしてもらおう』っていう 甘えや我欲が あるように思えてなりません。 神仏は 人の願いの根底にある【我欲】や【甘え】を どのように 御覧になっているのでしょうか? そう考えると おすがりする事さえ ためらってしまいます。 神仏の教えに従って 無欲で生きる…という事は 神仏に頼らず 自力で 頑張っていく、って事でしょうか? お坊さまの お考えを お聞かせ下さい。
以前から同じような相談をさせて頂いており、その度に温かいご回答を頂き感謝しております。 ご回答のおかげもあり、少しずつ死の恐怖を克服していたつもりでした。 しかし、それでも何度も何度もどうしようもなく死の恐怖に襲われます。死ぬことに怯え、泣き、気が狂うような恐怖で、これを感じないためには死ぬしかないのかと、本当につらいです。 自分で沢山考えた結果、私の一番の恐怖はやはり死後が分からないことでした。無になることが一番怖いです。でも、輪廻転生できたとして、宇宙が無くなったら転生は止まるのか?解脱したら、魂は消えてしまう(無になってしまう)のか?など、怖さで考えが段々大きくなり、恐れることがどんどん増えていってしまいます。 死後を考えても仕方がないと、頭では分かっている筈でした。死は逃げられるものではない。だからこそ、死そのものを、たとえ死後が無だったとしても、ありのままに受け入れる姿勢、考え方が大事だと理解しているつもりでした。でも、どうしても、湧き上がる恐怖が勝ってしまいます。 いつか死ぬと理解してから、人生が虚無です。最後死ぬのに、消えるのに、生まれて自我を持つなんて、なんて残酷な世界なんでしょう。なんでこんな世界に私達はいるのでしょう。 どうしたら、死の恐怖を消すことができますか?死を受け入れることができますか? 私はこれから、最後は無になる(かもしれない)ような分からない未知の世界に否応なく行くしかないのに生きて、耐え難い死の恐怖に襲われながら死んでいくしか無いのでしょうか。 乱文かつ感情的で本当に申し訳ありません。どうしようもなく苦しいです。どうか、助けて下さい。
大忍貫道 様 釈尊の言行(その1)で追記 を見逃して大変失礼致しました。 回答の締め切り通知を変更通知と間違えて調べて、追記があったのを知りました。申し訳ありません。 重要な問題なので、再度質問を立てます。 我々の出来ない体験を、釈尊が代わりになさって伝えて下さったのが仏教です。 「輪廻転生について」のお礼欄で、私は 「如来(釈尊)は真実を語るものであり、如来は真理を説くもの、ありのままに語るもの、誤りなく説くものだからである。如来は虚偽りを語るものではない。」 との金剛般若経の引用をしています。 輪廻は信じる信じないのレベルではなく、真実か虚偽かの問題なのです。 そこが仏教が宗教か否かの判断になると思います。 金剛般若経の続きで「前世、現世」が出てきます。 釈尊の語りですから、これは真実なのです。 これが輪廻転生に他ならないのではないでしょうか? 因みに仏教が信でなく真実であることは、仏教の基盤である「般若心経」が科学的真実を語っているので明白です。 詳細は省略しますが、ヒントは「諸法」の「空」が「不増不減」であるのは、諸法が自然界の中で唯一「閉じられた系」であるからです。
こんにちは 私は長く躁鬱病を患い、頭の中のリアリティも害もある想像の会話が止まらず苦しんで来ました。 昨今のマインドフルネスの普及から仏陀が仰ったことに興味を持っているのですが、 確かにマインドフルネスで今ここのあるがままを観察していると、心はただ離散集合しているだけの実体の無いものだし、執着するのではなくこのようにただ現象を観察することで過去や未来からも切り離されて楽になれるな、ということが実感としてわかります。 ただ現実で仕事をしていると、ある意味自己実現という幻想で駆動して物事にとことん執着し、過去と未来に執着し、ただでさえ認知的幻影である世界にさらに消費という幻影を作ってゆく作業だと思うので、いくらでもストレスが湧いて出てきます。 心は実体のないものだから執着したりすることはないんだ、と思えることで精神疾患的にはとても良いと思うのですが、仕事をして生きていくことを考えるとマッチポンプ状態で、この二つは折り合いがつくのかな? と思うのですが、仏陀はどう考えていたのでしょうか? それとも、元々が、出家してない人間には向いてない考え方なのでしょうか。 どうやって「現実世界で生きること」と元々の仏陀の教えたことと折り合いをつけるのか(そしてそれで苦から放たれるのか)知りたいです。 なるべくおおもとのエッセンスが知りたいです。 浅い知識で質問しているため誤解に基づいて書いてるところも多々あると思いますがよろしくお願いします。
よく臨死体験された方が この世と あの世の境目に川がながれているといわれますが お釈迦様は中道を行きなさいと いわれてますが あの世とこの世の真ん中 川に身を委ね 成り行きに任せなさいと言われてるんでしょうか 子供の頃 寝たら死ぬんじゃないかと思って 寝ている時って 魂はどういう状況なのでしょう 肉体を手放したら 仏様に会える 肉体があるうちは 仏様は見えないんですね 。という事は性を持つ事が汚れを持つと 言う事なのですか?汚れを持つと 見えないと言う事? ですか?
先日父が亡くなり戒名を頂きました 臨済宗ですが、戒名の中に「寒」という文字が入っていましたがこれはどういう意味なのでしょう? 単純に寒いだけの意味でしょうか?教えてください
友達から瞑想を少し教えてもらいました。 実際瞑想って難しいですか? いろいろ調べたら師匠や正しく教えてくれる人に習った方が良いと書いてありました。 単独で瞑想を追及した方が何かに気づき今ある感情で説明できる感覚ではないので説明が困難なのですが、 概念や映像ではなく、心の奥底にある何かが外部(世界)と繋がったのです。どの位の時間その感覚を手に入れていたかは定かではありませんが、 暫くするとその感覚は失われました。と仰っています。ちなみにその方はこの時の瞑想の後遺症で 今も心療内科に通っています。
どちらも相依相関を示す縁起の筈ですが、私には両者を区別する根拠が理解出来ません。 空間的な因果関係を示すのが空間的縁起であり、論理的な相依相関の関係を示すのが論理的縁起ということでしょうか? また、龍樹の論理的縁起と華厳の法界縁起の最たる違いは何なのでしょうか?
こんにちは。私は現在、浄土真宗の教義を勉強中の者です。 精神的に不安定な日が続いていましたが、お寺や仏教とのご縁ができたことで、少しずつ落ち着いてきました。家に仏壇はありませんが、基本的に1日2回、YouTubeのお坊さんの動画に合わせて、お正信偈と和讃をあげております。また、YouTubeでお説法に触れるなど、仏教のお勉強をしています。 ただ、最近は、「唱えなければならない」「お説法を聴かなければならない」というプレッシャーを感じ始めているような気がしています。それが少し自分を苦しくさせているような気もしています。 根底にあるのは、自分の完璧主義な性格ではないかと思っています。もう少し自分を許して、「唱える回数が減ることがあっても良い」「勉強できない日があっても良い」と思えたらいいなとは思ってはいますが、お勤めや勉強も自分の性格や実態に合わせたペースで大丈夫なのでしょうか。 何かお知恵をご教示頂けたらと思います。お願いします。
妹を自死で亡くしました。 四十九日法要も終わりましたがまだ混乱の中にいて毎日泣いてしまっています。たらればが止まらず後悔の日々です。 代々浄土真宗の家系で妹の供養もそのしきたりで行われましたが、わからないことがあるのでよろしければいくつか教えて頂きたいです。 ①浄土真宗では亡くなったらすぐ成仏の考えですが、それは生前仏様を信じた人でないといけないと聞きました。 妹も私もそこまで信心深い方ではなかったです。信心深くない人は亡くなったらどうなるのでしょう。魂があるのかどうかもわかりませんが、どこか彷徨って迷子になっていないかとすごく心配です。 ②他の宗派だと節目の法要に追善供養の意味がありますが、すぐに成仏する浄土真宗の節目の法要の意味合いを捉えかねています。故人を偲ぶのにも仏様に手を合わせる??の感覚がよく分からず…モヤモヤした質問でわかりづらくすみません。死を受け入れられず妹にはなかなか手を合わせられずにいます。 ③②と被りますが、浄土真宗に追善供養の考えがないため、もう妹に何もしてあげられないと絶望しています。成仏して苦しみも何もないなら大いに結構なはずなのですが、後悔の感情のやり場を失っています。エゴなのはわかっていますが気持ちが追いつきません。本当にもう何もできないのでしょうか。死別とはそういうことなのでしょうか。 混乱と絶望と後悔が繰り返しきてただただ苦しく虚しい日々です。何を信じて頼ればいいかもわかりません。 色々と的はずれな質問かもしれませんが、教えて頂けますと幸いです。
ご閲覧ありがとうございます。 数年前くらいから、寝る前に毎回死ぬことを考えてしまい、自分の存在が消えて無くなるのに怖くなります。日中考えることもあるのですが、夜ほど怖くなりません。 家族に相談したらそんなもんだよ、と言われて、その時はそんなものかと捉えるのですが、夜寝る前に死ぬことをまじまじと想像すると、怖くなります。 死ぬことを考えるのは生きる意味や人生を考える上で大切だという考え方には賛同しますが、死ぬのは怖いです。まあ、そのおかげで今は一生しかない人生を自分のやりたいように、生きていけているのですが…。 どうしたら死を受け入れられますか?ちなみに、私は職業や性格柄、今まで自分の世界に没頭し続けて来たせいか、宗教に無頓着です。最近は宗教に興味が出てき、宗教の教えを知ることで死ぬことを克服できるのかな…とも思いますが、どうでしょうか…。 ご回答よろしくお願いいたします。
私は死に対して恐怖を感じてます。 自分が死んだ後どうなるのか魂はとか 色々考えてしまいます。 死後の世界はあるなんて、みなさん言いますが、私にはそれが分かりません。 死に対しての恐怖を取り除く事は 出来るのでしょうか? よろしくお願いします。
おはようございます‼︎ 何回か質問や相談をさせて頂いている者です。 仏教が好きで御経に興味がありまして、法華経や般若心経や真言の意味を知りたいと思っていてSNSとかで調べてみたりはしてますが、hasunohaというコミュニティ-で御住職様達と交流する機会を作って頂きましたので、御経の意味を知りたいと思って書き込みさせて頂きました。 普段からお付き合いがある菩提寺の御住職様に前々からお経の意味を知りたいから質問してみたいとは思ってましたが、法事でしかお会いする機会がなくてタイミングが合わないので、hasunohaの存在を知ったのでここに参加されている御住職様達に御経の意味を教えて頂きたく質問させて頂きましたので、お忙しいとは思いますが、よろしくお願いします。
私には幼なじみがいます。 家も裏同士で、よく遊んでいました。 中学に上がると少し距離ができ、高校は別々になり、そして成人式を機にまたよく遊ぶようになりました。 大勢で遊ぶこともあれば、2人だけで遊ぶこともよくあります。 お互いに家族の話や仕事の話、恋の話、趣味の話などをしている間に、私は彼を好きになっていました。 ただ、一緒にいる時間が長すぎて、お互いの事をよく知っていて話が合い、楽だから好きと錯覚しているのかと思った事もありました。 でも、周りの子に相談したら、それは恋だと言われ、異性として好きなんだと思っています。 彼に好きと言えば楽になるとは思うのですが、どうしてもこの関係を壊したく無い。 彼の好きな女性のタイプが、私と真逆のタイプなのを知っているから言えない。 いろいろと理由を付けては2年以上このままです。 誰よりも側にいるけれど、1人の女性としては見られていない。 幼なじみとしか思われていないのだと、彼の言動で伝わってきます。 昔からの知り合いと恋愛なんてできないと言われたこともあります。 だから、彼から毎回恋愛相談を受けては、アドバイスをし続けているのです。 いつまでも彼に固執して、次に踏み出せないのは時間がもったいないとも思うのですが、彼と遊ぶ時間を無くすこともしたくない。 でも、遊べば遊ぶほど、これでカップルだったらどんなに楽かとも思ってしまう。 私に好意を寄せてくれる男性が現れ、そちらを好きになろうと思い行動をしても、どうしても幼なじみの彼と比べてしまい、好きになれませんでした。 私はこの先、ずっとこんな思いで過ごし続けるのかと思うと、いい加減にしなくてはいけないと思うのですが、何もできないのです。 一体、どうしたらいいのでしょうか。 どうしたら勇気が湧いて、行動を起こす事ができるのでしょうか。 少女漫画だったら、ハッピーエンドになれるのにと思ってしまうのです。
今までうまくいかない物事に怒り狂っておりましたが、最近になって全てがめんどくさくなり、また怒っても主張してもその場にそぐわなければ思う結果が得られないとわかりました。 なので他人と深く関わらず口論討論言い争いを一切したくないと考えております。 ただそうすると「無駄に損をして金を無くすぞ、世の中はズルしたもん勝ちなんだからもっと要領良く生きろ。仕事なんて頑張らなくて良い、上司へのゴマスリが一番だよ、そんな考えで生きてどうすんだ、せっかく大企業で正社員なんだぞ」など言われてしまいます。私はもうどれもやりたくありません。 あーあなたとは合いそうにないわあ、じゃあバイバイね。で済ませたいです。ただ世の中が・この年齢での生き方的に許されない気がしております。 馬鹿正直クソ真面目なんて何の得にもならないし、プラス怒りや他人に対してやってやろうみたいな気持ちが消えてしまい自分はどうしたら良いんだろうと不安になっています。 漠然とした内容で申し訳ありませんが、気が向きましたらお答えいただけますと幸いです。
仏壇を求める際、お仏像を散々悩んだ末にいちばん安いタイプのものにしました。仏壇には大きさもぴったりで、調和がとれているのですが、衣や螺髪の彫りがなんとも雑な感じでイマイチ好きになれません。もっと立派なものにすれば良かったとお仏壇に向かうたびに後悔します。 安物を選んだ私はお金が惜しかったんです。そして今の私は見た目と物欲と名誉欲にとらわれています。 結局、貪欲の心ばかりで仏様なんか信じてなかったんだとがっかりしてます。 このままではご本尊様もかわいそうで、申し訳なくって。わたしはどのように考えれば良いのでしょう。
私は今高校生なのですが全てがどうでもいいと思ってしまいます。 勉強や部活などやらなければならない事が沢山あるのですがやる気になれないし、どうでも良く思えてしまいます。別に勉強や部活が嫌いという訳ではないし、寧ろ好きです。でも、興味が湧きません。 後、生きる事もどうでもいいと思ってしまいます。誰かに死ねと言われたら死ねるし生きろと言われたら生きれるという状態です。生きる理由は無いし死ぬ理由もありません。死にたい訳でも無いし生きたい訳でもありません。 物凄く自分が空っぽ過ぎてどうすれば分かりません。別に病んでる訳でも無いし辛いことがあった訳でもないです。多分傍から見たら幸せな人生を送ってる方だと思います。どうすればこの気持ちが消えますか?難しい相談事で申し訳ありません。
アマゾンの森林火災が深刻な領域に達していると聞きました。遠い地の出来事ではありますが、彼の地を愛する方々の心中を想うと痛ましい限りです。 現在も、狩猟や採集によって生計を立てている人達が数多くアマゾンで暮らしているそうですが、皆さん私がぬくぬくと育ってきた環境よりも遥かに苛酷な生活を送っているようです。動物や他民族による襲撃などの脅威は私には想像もつきません。 仏教には不殺生戒という決まりがあるそうですね。文字のまま読むと、私の目にはなんとなく「誰も殺しちゃ駄目!」という意味のように見えました。 不殺生戒とはどのような決まりなのでしょうか。 もし、本当に「殺生、ダメ、絶対」という決まりなのであれば世界中の狩猟民族が困り果てると思います。(まあ仏教には異なる考えを攻撃的に批判する印象も躍起となって布教する印象もありませんが…不殺生戒がどのようなものかとは関係なく的外れな考えかもしれないとは内心思っています。)
コンバンハ!自分がまだまだ弱くて臆病で負け犬なところがある。紫陽花あーちゃんです。 メンタルの耐えれないところや愚痴を人に言いそうになりました。 自分を帰るというのは、ダイエットや仕事、学校、家でもやらなきやならないのだな…。と思っていました。書きなぐるより、メンタルや捉え方を学びにきました。 私のときは、次のようになります。 〇〇は、こうだから、こうなんだよねとか。 人に怒られたときや馬鹿にされたとき、ひどいことを言われたときの処理は、気にしない。言ってもらえるだけいいんだから、ありがとうと言いなさいと教わりましたが、ここの“ハスノハ”では、どんな回答してますか? どのお坊さんでもいいし、こないだの同じお坊さんでも大丈夫です。 どうぞ、渇!を入れてくださいm(_ _)m
僕は仏様のような優しくて広い心になりたいです。それにはどのようなことをすれば良いでしょうか?それをしていれば天国へ行けますか?