現在高校3年生です 受験を一通り終え人生の節目に立ったことと、時間がとても余っていて暇なこともあってか、ここ数日死について考えてしまいます。受験とコロナという状況も相まって自室という閉塞的な場所に長期間いて家族以外とあまり会えず精神状態が不安定なのかもしれません。 僕は今までとても幸せな生活を送ってきてこれまでの人生に後悔はありません。 だからこそ、いつか来る終わりが怖くて仕方ありません。 死については科学や宗教など色んな立場の人が色んな意見を出し合っていると思います。 今この世に生きている以上結局死後のことは何も分からないことも分かっています。 けれどあれこれ考えてしまいます。 もう大学生ですし結婚願望もあるので親と一緒に過ごせる時間やそして必ず来る親の死、自分の寿命が尽きた時の自我の消滅などを考えると怖くて仕方ありません。 僕としては自分が死んだら、親や兄弟、ペットとまた幸せに暮らしながら、自分の子孫などを見守り、時が来たらその子とも暮らしたりという、あの世での永遠を望んでいます。 これはとても都合のいい考えだと分かっていますが、こうでも考えないとおかしくなってしまいそうです。 もちろん死ぬまでは精一杯生きるつもりですが皆さんの考えを是非お聞かせ頂きたいです。
いつもありがとうございます。 考えても仕方のない事だとわかりながりも、 動悸や気持ち悪さが収まらないため、失礼します。 私は幼少期から死に対する恐怖がありました。 それはいつの間にか、よそへと追いやられていた恐怖だったのですが、 昨晩突然のように発作のように起こりました。 先日若くして突然死で亡くなられた親戚のことを考えていると、 私自身や、両親の死を考えてしまいます。 (昨晩まではだからこそ、毎日を精一杯過ごそう。 彼女の分もしっかり生きようと思っていた筈なのですが) 更にそこから波紋のように思考が広がって、 天災、事故、戦争。 更には数億年後に地球や太陽がなくなるですとか 宇宙でどうの。といった情報を見ると、 輪廻転生を繰り返し、いつか私の魂はその瞬間に 居合わせねばならないのかと思ってしまい、 このような恐怖は味わいたくない。 と、考えてしまいます。 全ては私の中の想像。 誰にもわからない世界の話だとわかっているのですが、 この思考が突如発作のように起こり 抜け出せず、自分自身の頭で刷り込んでいる イメージから抜け出せません。 特に最後に書いた終末の恐怖が強く 苦しくて仕方がありません。 頭に心が付いてきてくれません。
私の妹は今から15年前、自死でなくなりました。 今でもふとその時の悲しさがよみがえり、苦しくなります。 精神的な病でしたが、もっともっと力になってあげれたらこんなことにはとまだ後悔で耐えられなくなる時もあります。自死でなくなると、成仏できないとか聞きいたりしますが、いまでも苦しいのでしょうか? 息子が先日結婚したのですが、お嫁さんのお母さんも自死で亡くなられたようで、 何か因縁のようなものがあるのでしょうか?
こんにちは、現在高校生の者です。 突然ですが、最近ふと親の死を考えてしまい怖くなっています。 私の父は難病を抱えており、もう長くはないと自分でも話しています。そんな日に日に痩せていく父や、白髪の増えてきた母を見ていると、ふと死に対する不安と恐怖に包まれます。 自立しないといけないと分かっていながらも、未だ親離れ出来ていません。こんなに仲良く楽しく話しているのに、もし明日死んじゃったら、と思うと怖くてたまりません。 いのちには限りがあると分かっています。でも、それにどう向き合ったらいいのかが分かりません。 どのような心構えをしているのが良いのでしょうか。ご回答お願い申し上げます。
ここ一月、死に対して敏感に反応してしまうのが悩みです。 半年ほど前に心身のバランスを崩して退職しました。その後いろいろあって進学することになり、試験にも合格しました。 ただ大急ぎで詰め込みすぎたせいか、「あ、この勉強しんどい。これで身を立てていく自信がなくなった」と思うようになり、ボーッとする時間が増えました。 その際、本を読む時間が増えたのですが、その際死について寿命について書かれている文章を読むことが増えたせいなのか、自分の死に対して恐怖を感じてしまったり両親や家族がいつか死ぬと思うと無性にかなしくなったり、有名人の方が亡くなると「ああ、どんな人でもやっぱり死んでしまうんだなぁ」と虚しくなってしまったりすることが増えました。 今まで不幸ではありませんでしたが(学生の頃は当時の家庭環境を憎んだり、いじめにもあったりしていてツラい思いをしたこともありましたが)、幸福でもなかった人生だったので、幸福を掴みたいと努力してきたのですが、「どうせ死ぬ。自分の意識がなくなれば終わり」と思ってしまうと、もうしんどい思いをしてまで努力する必要はないんじゃないかなぁと考えてしまったりします。 こんな状態を見かねた友人が遊びに誘ってくれたりもしたんですが、全然楽しくなくてその友人には申し訳ないことをしたなぁと思ってしまったり、自分でも死に対して考えないようにしてはいるんですが、どうしても考えてしまって食欲が落ちたり胸が痛かったりしてコントロールできずに悩んでいます。 死を受け入れればいい話かもしれませんが、どうしても「死=自意識の消滅」と思ってしまうと受け入れられません。 毎日あの世はあるのかないのか、幽霊はいるのかいないのか、そんなことを考えて一日が過ぎていってしまい、どうせ死ぬのにもったいないなぁ、でも外に出て働いていたときのようなツラい目にもあいたくないから動きたくないなぁと思ってしまいグルグルグルしています。 一体どうしたらこの気持ちに決着をつけられるのか、よろしければご回答お願い致します。
初めまして宜しくお願いします。 私は先日 母を末期癌で無くしました。 母とは自転車で5分程の距離に住んで居ましたが自ら進んで会いに行こうと思っていませんでした。 父が2016年に亡くなるまで4年間の間 私は自分の家庭よりも父に尽くしました。今でも思い出し泣いてしまいます。延命治療を選択しなかった後悔。母はどちらかと言うと非協力的で許せない気持ちが強くあり 母から電話が来ても無視をしたりしてました。 今年になって母から頭が痛いねん しんどいねんと電話が来ても それなら病院に行けばと冷たくしてました。 そんな中3月26日に母の様子を見に行った私の子供が直ぐに病院に連れて行かなアカンと言う事で救急に行き 聞かされたのは癌が転移して頭蓋骨が溶けているとの事でした。 治療は出来ず4月28日に亡くなりました。苦しみながらでは無かったです。 私は父の時の様に母には献身的な看病も出来てなく今でも母が居ない事の事実も受け入れる事が出来ず母の遺影を見る事も出来ません。 ごめんなさいと心で謝るだけです。 私には姉も妹もいます。 しかしどちらも遠方で お母さんの事は頼むよって言われていたので申し訳ないと思っています。 今回は誰にも言えない気持ちを打ち明けたかったので書かせて頂きました。
母が難病になりそれを苦に自殺をしました。 本当に苦しんだ結果の事でした。 亡くなった母の顔は苦しんだ様子もなく本当に安らかな顔でした。その顔を見た時に母は苦しみから解放されたのだ。と思うのですが、よく聞く話では自殺すると地獄に行くと聞くのです。 そんな事はない。とは思うのですが考えてしまいます。母の事を思い、日々過ごしていく事が供養になると私は思うのですが、どうしても気にしてしまいます。
何度も失礼します。 最近生活していてやはり、死が怖くなりました。 感染症の影響で多くの人が亡くなり そのことが、あたかも自然なように 連日報道され、人の死が生活の中で より身近(不謹慎ですみません。) に当たり前のようになってきていて いつ死ぬかわからない、まだ自分はやるべきことができてない という負の感情がブクブクと浮かび上がってきてしまいます。 また、これは先ほどのものと違うのですが、 9月3日の夜に見た夢で、夕方に 一人で習い事(文化系)の練習をしていると、 習い事の先生(故人)が先生の住む母屋から出てきて、 自分の隣に座って話すという夢を見ました。 先生にいくらかの自分の悩み事を聞いてもらった後、 「向こうでは、どうしているのですか」 と聞いたところで先生が答える前に 目が覚めてしまって、そこから 「先生が何を言おうとしていたのだろう」と モヤモヤが続いています。 以前の質問で死と向き合って、 そこから生きていく意味を見つける というお知恵をいただいてとても参考になったですが、 自分自身が死と向き合うことができなくて 生きていく意味の追求も止まってしまっている気がします。 お坊さんの思う死の恐怖と向き合う、よける、折り合う方法や お坊さんが普段それと付き合う方法を教えていただきたいです。 先生がどのようなことを言おうとしていたと思われるのか、 ということもできれば教えていただけると嬉しいです。 お忙しい中申し訳ありませんが、よろしくお願いします。 乱文失礼しました。
家族ぐるみでとてもお世話になった人が、今春亡くなったようで、その事実をつい数日前に知りました。 その方とは、年に一度会う程度だったのですが、会った時にはいつも親切にして下さる素敵な方でした。 訃報を聞いてからは、涙が止まらず、こんなにも大きな存在だったのだと実感しました。 「去年会った時は、あんなに元気そうだったのに」「あの姿が最後だったなんて信じられない」「亡くなったのは嘘ではないか」などと思ってしまい、死を受け入れなければならないということはわかっているのですが、受け入れられない自分がいます。 また、何をしていても、頭の片隅にその方との思い出が浮かんでは、悲しくなってしまうことの繰り返しです。 数年前に祖父母を亡くしておりますので、死と直面するのは初めてではないのですが、今はその受け入れ方がわからずにいます。 どうやってこの死と向き合えばいいのでしょうか。
同じような質問になってしまって申し訳ありません。 世界で大事な人をなくして、20日ほど経ちました。 未だに死を受け入れていないような気がします。 過去に、私の味方を常にしてくれる(そして厳しく指摘もしてくれた)大事な祖母を亡くしたときとは全く違う感覚です。 あの方に、毎日のように話しかけ、匂いを感じ、日に日に心の中で一緒に生きているような感覚になってしまっています。特に強く話しかけると心に答えが返ってきて、あれ? とおかしな状態です。 そばにいてくれているんじゃないか、そう思っています。 受け入れていないからこその感覚なのでしょうか? おかしな感覚なのでしょうか? (と言いつつも、自分ではおかしいと思っていないので、なんだか不思議な質問なのです) また、死を受け入れるまで、どのくらいかかるものなのでしょうか?
こんにちは。 初めて質問させていただきます。京都在住の大学2年の者です。 先日、私の祖父が亡くなりました。 昨日お葬式の後、人生で初めて火葬場に行き、祖父が遺骨になったのを見届けました。 身近な人が骨になってしまったのを初めて間近で見てとても衝撃を受けました。そのときはさみしさや悲しさよりも衝撃が勝っていました。 つい最近まで生身の肉体があり、感情があったのに火葬されることで物質になってしまうことが衝撃でした。 今まであった感情や肉体はどこにいったのか?と混乱しました。 もちろん、人が燃えれば最終的に骨になることは、理論上理解できます。ですが、それを頭ではなく心で受け入れようとしたら難しいです。 そして、いかに人間がはかなくてもろいのかと思うと自然に涙が出てきます。その中にはおじいちゃんがいない寂しさもあり、この先いずれ直面するであろう身近な人の死を乗り越えられるかどうかの不安も混じっています。 そんなわけで今日は死の不思議さと、寂しさと不安を考えてもやもやしています。 お坊さんが人間の死をどのようにお考えか、聞かせていただけると幸いです。 よろしくお願いいたします。
去る3月22日夫が自死いたしました。 あれから80日近くたち、涙は枯れてまいりましたが、日々彼に対する罪悪感、己への嫌悪感は増すばかりのような気がいたします。 私が、彼のいう事にもっと耳を傾けていたら、なぜ彼は一人で出てゆかなかったのだろう? 生きてくれさえすれば・・・ どう泣きわめこうが、謝ろうが反省しようが、もう彼はこの世には居ない。解っているのです。 49日が過ぎるころから、自死念慮は収まったように思います。 が、人生の希望が見えないのです。 何もやる気がおきないのです。 これではいけないと、こちらで拝見した、井上貫道老師の坐禅会にも参加致しました。カウンセリングも受けています。自死遺族の会(築地本願寺は気分がすぐれず、伺えませんでした)も参加してみようとは思っております。 はやく普通の生活を営めるようにしなくてはと思っているのですが、なかなか思うようにゆかず、まだ、彼の亡くなった家へも立ち入ることが出来ません。 また、長時間の外出は気分が悪くなってしまい、ついつい引きこもってしまいます。 どうしてよいのか解りません。 また納骨のことでも気がかりがあります。 それは、また次回お尋ねいたします。 脈絡のない文章で済みません。
SNSにて 『死んで償える罪などない 死んで癒える苦しみも悲しみもない 自死は罪と苦しみと悲しみを増やす最悪の選択 だから、生きて償い、生きて癒される事だけが、人の唯一無二の道』 という投稿がありました。 その方はヒーラーさんです。 やはり自死にはそれだけの重い罪が着せられるものなのでしょうか? 49日もやっと過ぎ、死を受け入れられてきた矢先で目に止まってしまったのでまた色々と考えてしまい始めました。 ※信仰先は真言宗です
初めて質問をする者です。 よろしくお願いします。 当方、大学4年生で就活活動中です。 タイトル通りなのですが、 いわゆる自分はタナトフォビアなのだと思います。 きっかけは恐らく 幼稚園の頃に経験した祖母の死 小学生の頃に経験した祖父の死 高校生の頃に経験した母親の死 だと感じています。 身の回りにこれだけの身内の死を経験した人がいなく、あまり共感はされません。 仕方のないことだと分かっています。 避けられないことだとも分かっているのです。 しかし、怖いのです。最近時間があるせいか、毎日のように死んだらどうなるのか、これからの別れに耐えられるのか、生きる意味とは何なのか、そういうことばかり考えています。 何も手につかなくなってしまいます。 周りの人たちは、こういうことを考えず前向きに将来のことを語っているのに、今の私にはそれが出来ません。私も前向きに将来を語りたいです。 心配性なところもあり、果たして自分はいつまで生きることが出来るのか、考えても仕方がない未来のことを心配してばかりいます。 周りからは明るい人間だと言われるのですが、今はとてもそんな状態ではありません。 きっと母親の死が大きすぎたのですが、高校生活が忙しく、適切に処理出来ていなかったのだと思います(泣いたら駄目だと思っていました) 同じように悩んでいらっしゃる方をここのサイトで知ることが出来、私だけではないのだと感じることが出来たのですが、やはり心配性、恐怖は改善されませんでした。様々なQ&Aを見てきた中で、なぜ仏教を学ばないのかと不思議に思うことがあるという回答をしていらっしゃったお坊さんがいたのが印象的でしたので、初心者にもおすすめな本などがあれば教えて頂ければ幸いです。 避けられない運命を、せめて受け入れられる考え方、心得を教えてほしい、助けてほしい。 以上、長文にお付き合いいただきありがとうございます。
人は人に認識されて初めて人になるのですか? 誰の記憶にも残らず孤独死した人間は生きていたと言えるのでしょうか
六日前に祖父が亡くなりました。 葬儀は昨日全て終わったのですが、未だに亡くなったことが信じられません。 またひょっこりと祖父が出てくるんじゃないかと期待してしまう自分がいます。 突然亡くなり、私たち家族と別れの言葉もないまま祖父はどんな気持ちだったんだろう、、と色々考えると涙が止まりません。 最後は寝たきりだったので、三途の川をちゃんと渡れるのかなど、心配でたまりません。 夢でもいいからまた祖父に会いたいし、祖父の声とか思い出がどんどん薄れていくのが怖いです。 祖父の死とどう向き合っていけばよいのか教えて頂きたいです。
先日、長年可愛がっていた愛猫が突然亡くなりました。突然の死をなかなか受け入れられず、仕事中は忘れていても家に帰ると涙が止まりません。体調の異変を感じてから30分ほどで静かに息を引き取りました。 物凄く苦しんでいたので体をさすってあげたりして、落ち着いたら病院に連れて行こうと思っていた矢先に急変して死んでしまいました。 もっと早く連れて行けば~と悔やんでいます。 この子は幸せだったかな~と考えてしまう毎日です。
はじめまして、よろしくお願いします。 私は普段はただの会社員で霊的なものは苦手な方です。 ですが、たまにふっと頭の中に浮かんだ事が、当たります。虫の知らせ? ・人の死 ・人の人間関係(はじめて会う人が自分の知り合いと知り合いだった。) 身近な人の死は3回当たりました。霊的な能力をあまり伸ばそうとは思っていません。伸ばす様な事もしてません。よくない事が多そうなので 本題ですが、3回目は友人の自殺です。 ある日頭に浮かんで来たのは、友人が桜が綺麗だから今日にしよう、と高い所高い所呟いていました。 不安になって電話を掛けようとしましたが、肩を引かれて止められました。 (多分、止めたのは自分と似た何か) 自分のただのインスピレーションだし、 仕事の昼休み中の為、私もいいか、と思って結局電話せずに至り。そうしたら本当にその日にマンションから飛び降りていて帰らぬ人に。 勿論危うい状態なのは知ってた為、話をきいたりは元々していたのですが、原因が原因(自殺原因は金銭面と配偶者との関係)なのと友人が年上なので話が理屈っぽくなってしまい。あまり気持ちに寄り添えていなかった気がします… ①自殺者の魂はその後どうなるんでしょうか?苦しみ続けている?自然死のその後とどう違うんですか? ②止めるのが筋なのに虫の知らせでは連絡するな、楽にしてあげて。と、 自殺者は止めないほうがいいんですか?私は連絡しなかった事後悔してます。最後に説得したかったです。 ③現世の苦しみを解消する方法 =善を積むとかカルマ解消すれば、良い事が起こったりするのですか?? ④マイナス思考だと悪い霊が乗り移ったり悪さしますか? ①〜④を仏教的な視点からでも構わないので教えて頂きたいです
はじめまして アメリカ人の夫と子供のいるアメリカ在住の日本人女性です。 義理の両親が車で30分の所に住んでいまして、週末は一緒に食事やお誕生日のお祝いをしたり関係は良好で、特に義母とは本当の娘の様に可愛がって頂き、私もアメリカの母と慕っておりました。 その最愛の義母が3年に及ぶ闘病の末、昨日午後に自宅で家族が見守る中、眠るように息を引き取りました。 私にとって身内の死は初めての事で、(日本の両親は高齢ですが、とても元気で私との関係は大変良いです) 今朝起きて義母の事を考えてしまい、寂しくて涙が止まりません。 敬虔なカソリックである、義理の家族、親戚、夫、子供達は「神の元に行かれ、苦しみから解放されたので良かった」と理解しているようですが、カソリック信者でない私には到底理解できません。 日本の家族や周りに日本人のお友達もいるのですが、「いつもエネルギッシュで明るい人」というイメージがあるので、メソメソして心配させたく無く、この寂しさをどうしたら良いのか、心の整理がつきません。 義母の死を受け入れることが出来なくて大変苦しいです。 アドバイスをどうぞよろしくお願いします。
健康診断で不安な結果が出てしまい、その後精密検査の結果は大丈夫だったものの死への恐怖だけが残りました。 もとから死への恐怖が出ることが良くありましたが、今までは一晩寝たり何度か深呼吸すれば収まっていました。 しかし、上記の事があり「自分もいつか死ぬ」と言う事実がより具体的に見えてしまったのをきっかけに、病気への不安からは解放されるやいなや死への恐怖がついて回るようになりました。涙を流すほどつらいです。 こんな精神状態になる前はいろんなことが楽しかった→死ぬと全て無になるのが悲しい・怖い&いつか死ぬから全て無意味なのではないか→この恐怖と悲しみの中で生きたくはない→楽しいことをしたい→最初に戻る と言う思考のループに一日中陥ってしまっています。 今までの自分を演じている空っぽな自分がいて普段はそいつが前に出てるが、常に上記の事を考え泣いている自分がもう一人いて時々そっちが表に出てくる、血の気が引き現実感が無くなっていく、どちらが自分なのかわからない、そんな状態です。 今までを思い返せば親がいて友達がいて、普通に仕事をしてお金も貰っていて、好き嫌いはほとんどなくてご飯は全部美味く感じて、ストレスはあるけど後から思えば大体「何だこんな事で悩んでたのか」で過ぎてく人生だったと考えます。 そして、なんて幸せだったんだろうか、何でこれが永遠には続かないのか、永遠も辛いとは言うがこれなら永遠に続いて欲しい、何で幸せだったことに気づいてしまったのかと考えてしまいます。 そして、最近一年の体感がものすごく早く感じ、時間なんてあっと言う間に過ぎてしまうと考えまた悲しくなります。 宗教を学ぼうともしましたが、ここに質問しておいてなんですがやはり死後の世界や魂は無く感情は脳の現象であり死後は無である、と言う変に唯物的な考えがついてまわります。 祖父が亡くなったとき「爺さんいまどこ行ってんだろうなぁ、畑とか家の様子とか見てんのかなぁ」とかのんきに謎の宗教観を持っていたくせに今ではそんな考えしか持てません。 そして怖いという事すら感じなくなるのが怖く悲しく、無になるならすべて無意味に感じます。 精神科に行くことにもしましたがそれとは別視点で、何か考え方を変えるヒントをもらえたらと思い、文字数いっぱいのとりとめのない文章になってしまいましたが書き込ませていただきました。