私は本来なら回答者側にいるはずの坊さん見習い。世襲によって住職になってしまった、檀家さんに顔向けできない三流のダメ坊主です。 仏教大学を卒業してこの世界に入って思ったんだけど ・飲み会多すぎない? ・不必要な会議多すぎない? ・下品なやつ多すぎない? ・どうでもいい修行多すぎない? って思っています。(最後のはうちの宗派だけかもしれない) 元々体育会系のノリでの人付き合いがあんまり好きじゃないコミュ障なので、マジで会議後の飲み会とかいうダブルコンボが辛いです。 なぜ抜苦与楽のために仏教やってるのに私自身が苦しんでるの???ってなってきてます。 下品な坊主多すぎない?って思っています。「どこどこの修行を何回やった」みたいな謎のマウント取りがそのまま地域内での寺ヒエラルキーに影響するような世界に辟易としてます。 実家が寺なので寺そのものを捨てると家族が路頭に迷う関係上、俗世間を離れるのはできないんですけど正直したいくらいに今仏教に疲れています。 ここにご回答して下さるお坊さんの方は、そういうことを思ったりとか、しませんか? したなら、どうやって折り合いってつけてますか?
仏教は日本人の死生観に深く根を下ろして文化として素晴らしいものがあると思います。 しかし、こんな歳になるまで不勉強で恥ずかしいのですが、大乗非仏説を初めて知りました。 そして原始仏教と日本の仏教はかなり異なる事、律蔵があまり重視されなかったので、日本の僧侶は在家と変わらない事を知りました。 よく、キリスト教徒が進化論や地動説を信じないのを不思議に思ってきましたが、日本の仏教は実は(全てではないでしょうが)偽経だったと分かってどのように折り合いをつけているんでしょうか? 釈尊は口伝でしか伝えなかったから、全ての経蔵は直説でないとか、全て仏の御心から方便として出た物だとか、あまりに苦しい言い訳に見えます。また鰯の頭も信心からと言いますが、信心とは受け容れる事から始まるから信心はそこを問題にしないと言うのもそこに身を捧げる者としては辛い選択ではないでしょうか。 大乗非仏説は新しい概念ではないですが、時代を経るに従って消えることもないでしょう。今後、このまま伝統を重んじて変わらない事を良しとしていくのか、それとも時代と共に新しい研究成果を反映して変化していくのか、どのように考えられてますか?
結婚も出来ず子供もいません。 好きな人には好きになってもらえない運命だったんです。 死にたいくらいの嘘つかれました。私には存在価値はないとわかりました。 死んだ後も苦しみが続くとか聞きますが生きてても苦しみは続きますから自殺する事に決めました。自殺した罪を死んでから償えば極楽浄土にいけますか?