私の両親は50代で病気もなく健康体です。ですが、私自身「もし両親が急に死んでしまったらどうしよう」というどうしようもない不安を常に抱えて生きています。 先日家族旅行に行き、帰りの空港でもこの旅行が家族での最後の旅行になったらどうしようと考え、1人でこっそり泣きました。また、この空港でのエピソードを友人に面白おかしく話そうとしたところ、その時の感情を思い出して再び泣いてしまいました。 私自身、予想もできない未来に不安を抱いて生きるより、今一緒に過ごせている時間を楽しく過ごした方がいいことは十分理解しています。むしろ私自身もそうやって過ごしたいのですが、楽しい時間を過ごしている時ほど、終わりを考えてしまいます。 私自身、身近な人を失った経験が現時点でない為、人一倍死への恐怖が大きいように感じます。家族との別れを想像しても、乗り越えられる気が全くしていません。小学生の時から20になる今までずっとこの考えで生きてきたので、根本から変えるということは難しいのかもしれませんが、少しでも楽に家族といまこの時間を過ごせるような考え方はないでしょうか、、 お坊さん自身が、ご家族との別れについてどのように考えているかだけでも教えていただけたら幸いです。
過去にお付き合いした人と何人も破局しましたが、同じ原因で破局しています。 自分が相手と上手くいっているとなんだか心配になり、幸せをぶち壊してしまいます。 例えば浮気を疑って束縛したり相手を崖から突き落とす感じの精神状況までプッシュしてしまい、相手はもう限界だとなります。 何度か我慢してチャンスをくれますが、また同じ様な疑いをかけ同じ喧嘩をし、とうとう別れるまでになります。 普通にしたいのですが、相手の行動に一つ一つ反応し疑いをかけます。 何もないのに疑いをかけ問いつめ結局妄想だけだった時もあります。 そんな自分に毎日精神がつかれます。 相手を束縛する事で愛情を表してしまっていて本当は相手を愛していなくて実は自分を愛しているだけだと最近は思っています。 妄想を辞めるにはどうしたら良いのでしょうか。 不安や心配事を考えないようにするには? お坊さんはどの様に精神を冷静に保っているのですか。教えてください。
主人か一度の相手かわからない子供を妊娠しました。 病院に2ヶ所行きましたが、行為の日が近いので妊娠時期を割り出すのは難しいと言われました。 生理周期的には主人の可能性が高いと思いますが、確実ではありません。 命を区別したらいけませんが、主人の子供なら産みたいです。 しかし一度の相手の可能性が0ではないので中絶を考えています。 とんでもないことをしてしまったと本当に本当に後悔しています。 それなのに今回も流産ならば…このまま育たなければ…と最低な事を考えてしまい、自分が嫌になります。 もし中絶した場合、子供にどんな事をしてあげられるでしょうか?
こんばんは!毘沙門天さんは神様なのか仏様なのかいまいち分かりません。どちらなのでしょうか?と、言うのも神社では生理の時は参拝を控えています。神社の神様は血は死を連想させて死にかんすることは苦手らしいのです。 でも仏様はそう言うのは関係ないので生理のときでもお参りして居ます。でも毘沙門天さんは神様なのか仏様なのか分からずずっとモヤモヤしてました。どうぞ教えて頂けないでしょうか?
春に次女を出産後、コロナの影響もあり手伝いに来てくれていた母と共に新生児と4歳の娘にを連れて田舎に帰省しました 祖母とは特に仲が悪い訳では無く、子どもたちを可愛がってくれるので帰省したのですが 今思えばその頃から体調が悪かったのか、当たりが強くなっていました 私自身も祖母から距離を取るようになり、娘も遠ざけていました 散歩に出かけた私達を追いかけて来ていたようですが『ばーちゃんも散歩している』と勝手に解釈し、置いてきてしまったり 心配して何時間も待ってたと、後から叔母から聞きました 物凄い罪悪感が残ったまま 祖母は耳が遠い事もあり娘が『ばぁば』と言っている言葉も『クソババア』と聞こえてしまうようで、『クソババアが嫌いか?』と自分は嫌われていると思い込んでいました 早く帰りたい、早く帰りたい、と帰宅を早めてしまいました また今度誤解を解けばいい、仲直りすればいい、また会いに来ればいい とそそくさときちんとお別れをしないまま帰って来てしまいました その後1ヶ月程で亡くなってしまいました 娘と仲直りさせたかった、誤解を解きたかった、嫌いじゃないんだと伝えたかった 今更遅いですが、その事がずっと私の心の重荷になっています 亡くなった連絡を受け、その日に娘たちも連れて帰省 最後に顔を見に行き何度も謝りました できなかった罪滅ぼしではないですが、裏方の手伝いをしてきました それでも、罪悪感といいますか、心のしこりが取れず。。ずっと苦しいです ごめんねと謝っても、返事は当然無く 娘にはまだ『死』の概念が無く、「病院に行ったら元気になる」「まだ起きないね」と無邪気な言葉が今の私にはグザグサと刺さります 娘にも、ちゃんと仲直りさせてやれなくて申し訳無い気持ち ばーちゃんにきちんと謝りきれてない心残り ばーちゃんは私含め娘も許してくれているのでしょうか まだ寂しい気持ちを抱えてしまっているのでしょうか。。 墓参りは勿論ですが、何をすれば供養といいますか私達を許してもらえるのでしょうか
80代後半になる実母、義母共に療養型の病院に入院しております。 実父は2年程前に他界いたしました。 まだまだ、親の介護などに頑張らなくてはならない年齢なのですが、意思の疎通もままならず、1人では立ち上がることもできない両母の様子や、介護をめぐる親族とのいざこざに気持ちが萎えて、行きます。 60代の私達の世代では、老後を楽しく、自分の力で対処するのが良い(又は当然)という考えが盛んに言われますが、経済健康に恵まれた場合にしか可能ではないように思います。 因果という考えを、hasunohaの問答を読んで知りました。 過去に自分の行った事、行わなかった事のみならず、縁に繋がる人達やご先祖様の様々な事情や考えも因果に含まれるのだと私なりに納得、受け入れなくてはと思うのですが、、、、 親の老後、自分達の老後と、見通しのたたないことばかりに思え、因果を受け入れようと考えても不安や焦燥感がわき上がって来ます。 私の因果の捉え方に、至らぬ部分や間違いがあるのでしょうか? 又、不安や孤独感焦燥感などと折り合いをつける方法がありましたら、お教えいただけたら幸いです。 よろしくお願いいたします。
曹洞宗のお坊さんしか出来ないって聞いたけど本当ですか?その家の宗派が違っても枕経だけは曹洞宗のお坊さんがするって聞いたけど本当ですか?どうしてか不思議です。 静かに死んでいきたいです。
既婚子なし女性です。 子宮がんになり子宮摘出をし、子供を授かれなくなりました。 がんになって死を身近に感じ、再発への恐怖、子供のいない人生の絶望感、体調不良、病気療養中のため仕事もできず家に引きこもり、日中は夫も仕事の為一人で孤独感を感じます。精神安定剤を飲まないと過ごせなくなってしまいました。 懸命に支えてくれてる夫に依存してしまい、夫にも疲労が見られ「少しでも良いので1人の時間が欲しい」と言われ、夫の前でも明るく振る舞わなくてはと感じてしまい余計に辛いです。 趣味も好きな事も楽しめなくなり、何のために生きてるのかと自問自答の毎日で、治療して一生懸命生きようとしてるのにふと死にたいと毎日頭によぎります。(本当は健康で生きていたいのに) 何を生きがいにすれば今後頑張って生きていけるのでしょうか。 生きるしかないのなら人以外の心の拠り所が欲しいです。 仏教を学べば楽しく生きていけるのでしょうか。 教えて下さい。
亡くなった人が49日まで家にいるとかって良いますが本当ですか? その後、どうなるのですか? 息子が亡くなって、本当の話を知りたくて。
私はポジティブな性格でいつ死んでも悔いのない生き方をしてきたつもりでした。母が亡くなった後も、とてつもない大きな悲しみを感じながらも、母はきっと今頃は亡くなった祖父母たちと天国で幸せに暮らしているに違いない、私も死んだらそこに行くわけだから、これからは死ぬ事も怖くないと思っていました。 しかし、最近、仏教に興味を持ったので、少し勉強してみると、死んだ後にみんなが極楽浄土に行けるわけではなく、ほとんどの人はまた生まれ変わってしまうこと。それも、人間に生まれることは滅多にないということではないですか。そう考えると、もう母に会えないのかもと、また落ち込んでしまいました。 悩み相談の答えを読むと、亡くなった方たちは、他の亡くなった家族と幸せに暮らしているから心配ないなどと書かれていますが、それらは単なる気休めなのでしょうか?
はじめまして管理職40代。会社の人間関係で悩んでます。パートさん部下になりますが。私がサブチーフになってから私への当たりが酷くなりました。何かあれば怒鳴られます。パートさんは私に成長してほしいのはわかるんですが。怒鳴られ口調だと私入ってこないんです。メンタルもやられます。元々、人から言われるの苦手なんで。辛いんですどう対処をしたらいいかとても悩んでます。よろしかったら返事ください。
以前愛猫が立て続けに亡くなって思いの丈をhasunohaにぶつけさせていただきました。 心救われるような回答もいただきましたが、心を抉るような回答もいただきました。 私が悼むという意味を知らないから、あの子達は化け猫の類になってしまうとか、 猫は畜生で知能が低いから事故に会いやすいのだとか。 私のせいで、あの子達は化け猫にまで堕ちてしまうのでしょうか。 あの子達の命は畜生だと軽んじられてしまうのでしょうか。 私のせいで、私のせいで、私のせいで。 私のせいであの子達は化け猫になってしまう。 猫に産まれたばかりに畜生だと軽んじられてしまう。 とても悲しいです。悔しいです。虚しいです。 釈尊は全ての生き物は幸せであれと説かれたのに。 仏様、優しかったあの子達を化け猫などにしないでください。どうかお救いください。私の全ての幸福と引き換えでも構いません。 全ては私が悪いのです。私が愚かなばかりに、あの子達を物の怪の類になどしないでください。 どうかお救いください。どうか。どうか。 仏様、どうかあの子達が畜生だからとお見捨てにならないでください。どうかあの子達を極楽にお導きください。それだけが私の願いです。どうかお導きください。お見捨てにならないでください。 しかしどれだけ祈っても私の耳には仏様のお声は聞こえません。 こんな事を考える時は涙が止まりません。
自殺を止める常套句。 生きてれば良いことがある! 良いことはなく毎日地獄のような毎日を送り苦しむ、そこから逃れたいだけ。 ・毎日の苦しみ ・悩みからの逃れ ・人生や四苦八苦からの逃れ ・人間関係からの逃れ ・過去やトラウマからの逃れ 嫌なことは全部手放せる。 少なくとも自殺をするか、しないか毎日悩む時に私は死に対して希望を持ってしまう。 死への恐怖と残される親だけが抑止力である。 いつか良いことがあるという言い方はとても説得力に欠けます。 じゃあ良いことが無いならば死んだ方がいいのでは、ないかと思う。 生きてれば希望がある→大嘘。運が良く、とてつもなく恵まれた人は希望があるかもしれません。 昨日、感電して顔がグチャグチャになったアフリカ人がラジオに出ている画像を見ました、彼は自殺願望があるようです。顔がグチャグチャになったら良いことなんてあるわけないです。 苦しい事ばかりが待っています、そして本人はそれの予期ができる、これから人生が悪い方向に進むと。 私も同じ状況です、顔じゃないですが人生がグチャグチャですし、顔がグチャグチャになる事で毎日肉体的に疼痛が続くでしょう。 それが私の毎日の嫌なことに近いかもしれません。 つまり顔がグチャグチャになったアフリカ人やら、ナメクジを食べて全身麻痺になったオーストラリア人も、私も同じ状況です。 みんな嫌でしょう?顔がグチャグチャですよ? グチャグチャになったら良い事なんか想像できないから嫌な気持ちになるんです。 少なくとも誰も顔がグチャグチャになりたくない。 誰でも予測出来ますよ、今から顔がグチャグチャになると想像してみてください。 差別はされますし、友達は減りますよ、働けないし働いたとしても嫌な仕事、結婚はできないし、趣味もできない、毎日肉体的に痛い苦痛。 死にたくもなるでしょう。 それでも生きてれば良い事があると言えますか? 自分の顔が今グチャグチャになっても生きてれば良い事があると言えますか? 顔がグチャグチャになるというのは比喩ですが、私も同じような状況です。これから嫌な事が毎日毎日毎日あるとわかっているのにどう生きたいと思えるようになるのだろうか。 私も自殺をしたくはない。でも生きてるのが苦痛すぎる。
四十九日の極楽浄土への旅立ちの時間は何時なのでしょうか。 影膳はいつまで必要なのでしょうか。
家族を亡くして3ヶ月、心を落ち着かせるために、何冊もの仏教書や動画の法話など聞いておりました。いろいろと疑問も出てくるので、大学通信教育で専門に学ぼうとさえ思うようになりました。 しかし、最近は仏教がおとぎ話のように感じるようになり、易行と言われる浄土真宗についても、本当に信じることができる方がいるのだろうか、苦行とさえ思ってしまいます。せっかくの心の拠り所が無くなってしまうのはとても辛いことです。僧侶になられた方はどのように信心を深めていったのでしょうか。
十三仏が密教系であるとお坊さんからちらっと聞いたことがあるのですが、調べても関係性がよくわかりませんでした…。 どの宗派も御本尊様がいらっしゃるのに、どうして十三仏は密教系なのでしょうか? 初歩的な質問で申し訳ないのですが、初心者の私にもわかるように教えて頂けると幸いです。
いつもお世話になっております。 きょうは病院の帰り時間があったので、 祈願寺に行く中途にお寺を発見し、 ご挨拶しました。 そこのお堂に、大きな「閻魔大王」様が お祀りされていて、私は思わず目が合うと 小さく悲鳴を上げ後退りしてしまいました。 実は高校のフィットネスの授業で 立ち寄ったお寺の別の閻魔様に中指を 立ててしまったことがあるので、 それを丁重にお詫びし、それだけでなく なぜか心の中で謝罪を連呼。 それと同時に、ものすごく泣きたく なり、さらに今まで自分が抱いていた 「あの人が、この人が」という思いが 吹き飛ばされる様な気がしたのです。 まるで頭をぶん殴られたかのようです。 しっかりしろ、もっと何か信念をもて、 お前はまだ勉強すべきだと。 死んだ祖父が再三言っていたことです。 そこで質問です、閻魔様とは一体、 どのような仏様なのでしょうか? ご意見お待ちしております。
以前より、死の恐怖について相談をさせていただいており、大変お世話になっております。 たくさんの方から頂いたご回答はどれも暖かく、そして勉強になっております。ありがとうございます。 問答の中で、自分の弱い点や、認知や考え方の歪みがわかり、この方法で恐怖を緩和していこうという方向性は見えつつあるのですが、恐怖緩和に対するどの方法を行うにしろ、習得や納得(体でわかるまでやる、なども含め)には多くの時間を要します。死は人生の命題ですので、一年やそこらで恐怖が激減し、納得することはできないと考えます。 私は方向性としては、禅などの「体で納得」を目指したいと考えていますが、これこそ一朝一夕で身につくものではないですし、仕事等による時間の制約もあり、納得に至るには長年の修行が必要だと感じています。 そんな風に時間をかけてゆっくりと学びを深めてはおりますが、もちろんその間にも死への強い恐怖感は消えません。特に、楽しいことがあった日の帰り道や夜には、必ず「この思い出も自分の存在もいつか消える」という思いで気が狂いそうになり、パニック症状が出ます。 それを、娯楽へ走ったり、禅と宗派は異なりますがお念仏に頼ったり、お墓やお寺に行ったりと、一時凌ぎでやり過ごしているのが現状です。このように、最近は「いつか死ぬ」ということがいつも恐怖で気掛かりで、楽しい・嬉しいなどのポジティブな場面が心から楽しめないような感覚になっています。 前置きが長くなりましたが、 お坊さん方の中に、今に至るまでに修行をなされている間に私のように気持ちが揺れたり、恐怖でパニックになったりしたご経験をなされている方がいらっしゃいましたら、「ご自分が一旦、その問題(私で言うところの死の恐怖)への納得感を得られるまで」に、どのような心持ちや行動で過ごされていたのかをお聞きしたいです。 また、現在も私は死の恐怖緩和についての対処を学んでいる最中ですので、もし同じ問題に悩み、納得した方法や考え方があれば、併せて教えて頂けると嬉しいです。 お時間ある時で構いません。様々なご回答を聞きたいです。お手数をおかけ致しますが、ご回答頂けますと幸いです。何卒よろしくお願い申し上げます。
お世話になります。 先日、職場で健康診断があり その結果を受け取りました。 驚くほど健康でした(笑) 昨年の健康診断では、悪い所が多く私は、 この分だと以外と早く娘の元へいけそうだと、ちょっと安心していました。 なので、まだまだ長生きしてしまいそうな、自分の身体に驚いています。 暴食も相変わらずなんですけどね…。 この世で生きるのは辛い。 だからといって、自死を推奨するなど、絶対にできない。 お坊様は、極楽浄土を信じておられますよね。 うちの娘も穏やかに過ごせていると。 お坊様は、早く極楽浄土に行きたいですか? それとも、どれだけ生きにくい世の中であっても、この世で長く生きたいと思われますか? 長く生きたい理由、ありますか? 私もどうやら長生きしそうです。 せっかくなので、生きてるうちに 何かしておくことがないか 長生き希望の理由をお聞きしたいです。
シングルマザーです。一人娘が4歳から24歳になる現在までずっと仕事一筋に頑張ってきたつもりですが、この一年間ほとんど家にいながら会わない状態です 一年前に私の母を亡くした時期からその様になりました 病気で亡くなったのですが、余りにも姿が変わり果てていて娘がショックを受けると思い、遠い場所でもあったため、お葬式には呼ばなかった事がいけなかったのかなと悩んでおります 4年前に父も亡くなっており、その時は死に目に会えませんでした。 母は突然でしたのでバタバタとお葬式までに至りましたが、最後に会えた事が私の中では後悔せずにすみました。 ただ、娘に合わせなかった事がやはりいけなかったのでしょうか ミイラの様に変わり果てた姿を見せる事が繊細な娘にとって残酷な気がしてしまったのです 私も仕事が忙しくて一年に一度会えるか会えないかでした。最後まで親不孝ではあったなと思います。 娘には声かけしても何の反応もなく、部屋に閉じこもってしまいます 仕事は真面目に行っているのでそれはありがたいのですが しかし、一年間この状態で、またこれがずっと続くのかと思うとなんだか気が滅入ります。最近は私の方も顔を合わせないようにしてしまいます。なんだか疲れてしまうのです。 相変わらず仕事、仕事の毎日でその疲れも蓄積して精神的に無理はしたくなくなりました。 一年前までは楽しい親子だったのに、今では想像もしなかった冷たい親子になってしまいました。 私の育て方が間違っていたのでしょうか? 親の背中を見て子は育つというのであれば、やはり私自身の生き方に問題があったのでしょうか? 最近は何が何だかわからないまま、だけど仕事は休むわけにいきません 時々、現実逃避してしまいたくなります。 情けないです。