いつもお世話になっております。 施餓鬼会シーズンに諸宗派でお唱えする「変食陀羅尼」は 普段思い立った時にもお唱えして問題ありませんでしょうか? と言うのは、ある日私の主治医が言っていた言葉を思い出した からです。曰く、 「今時の若い方々の食の細さは問題になっている。 生理が止まるほどと言うのも本当。特に彼ら彼女らの年齢は骨が 成長のピークを迎える時期でそれなりの栄養も必要。 にもかかわらず生理を起こすエネルギーも尽きる程では、 かわいそうだけどこのままでは寝たきり確定…」 私は、彼らが餓鬼道の住人のようだと感じたのです。お付き合い したい!きれいになりたい!そう願うばかりに、食べるものも 食べられず、強い顔料や化粧品で髪の毛も目もやられていく… 化粧品に関しては、私は経験者です。ある日アイラインをしたら 目に激痛、涙も止まらなくなり眼科に飛びこんだらDS。 確かに彼らの見た目は本当にタレントさんのようだと思います。 そこまで無理しなくてもいいんじゃない…?と思う時もあるほど。 ある日綺麗なメークをされた女性がろうそくのような肌で 電車の前の席に座っていたのは本当に衝撃でした。 私直接の力では助けられないので、せめて…そう思い立ち、 きょうの晩御飯の前にいつも通り仏壇に料理を上げて 「のうまくさらばたた〜ぎゃた…」の下りをお唱えしました。 長くなりましたが、問題ありませんでしょうか? お知恵をお貸しいただきたく存じます。
私は昔、悪いことをしました。 私は神様に支配されていると思って、神様に対して暴言を吐いたり、お守りを捨てたりしました。 なのに、 お守りを捨てた神社に行って願い事を叶えてもらおうとしたり、お守りを買ったりおみくじを買ったり、お祭りに行ったり 他の神社でお守りを買ってもらおうかと思ったり、初詣?(自分が行きたくて)に行ったり しかもお守りを捨てた神社では「もし叶えてくれなかったら詐欺師?(あまり覚えてないです)だ」 なんて思ったり(言ったり?)しました 神社に行くときに心のどこかで 「昔あんなことしたのに行ってもいいの?失礼では?」と思ったのに「うるさい!」とその考えを弾きました そしてずかずかとお守りを捨てたりした神社に行って願い事を叶えてもらおうとするなどをしました しかもその神社と他の神社を比べてその神社を馬鹿にしたりなどしました 他にも悪いことかもしれないことをしました。 あまりおぼえてないんですが、もしかしたら他の宗教や宗派?の神様も馬鹿にしたかもしれません 過去の行いを反省しています。本当に申し訳ありません。私はどうすればいいですか? こんな私は一生苦しむべきですか?幸せになってはいけませんか? 昔から色々考えすぎてしまう癖があります 何をすればいいのか何をしてはいけないのかが分かりません 嫌な予感を外したことがあまりありません 嫌な予感は信じるべきですか?どうしていいか分かりません
こんにちは。以前も二度ほど質問させていただいたものです。 まずは自分の状況についてお話いたします。 自分は重度の身体障害者でトランス男性(肉体:女性/心:男性)です。4ヶ月近く前に母が一緒に住んでた家で自死しました。 母が亡くなった当初より、絶望感は薄れましたが、それでも自分が母を追い詰めたんじゃなかろうかとか、唯一と言っても過言ではないほど心の支えだった母を失ったことに対する喪失感。自分の心と体の性の不一致に関する葛藤。健常者よりも人の手を借りなければ生きていけない現実。 いろんなものに押しつぶされそうで、なかなか気持ちが厳しいです。そこで、すがるものが欲しいです。 新興宗教は玉石混交な感じがするし、俗に言う"アブラハムの宗教"はLGBTQ+に厳しいと聞きましたし、神道もどちらかといえば日本の伝統的で保守的な価値観を大切にしていると聞きました。 ならば、身近な仏教かと思いましたが、体が不自由ゆえ、望むところに行くのにも一苦労でお坊さんの説法を聞きにいくなどのことはなかなかできません。 信徒や門徒になろうにも財施もする余裕がありません。 こんなんでは信仰心があるとはやはり認められませんか? また、なるべくお金をかけずに仏教の宗派や考え方を学ぶ方法はありませんか? 長い文章で申し訳ありません。 よろしくお願いいたします。
檀家です。正確には実家のお墓を守っています。 この10年で4人見送りました。 最近、ご住職とのお付き合いの仕方が分らなくなりました。 昨年お寺に伺う際に時間に遅れ、ご住職にご迷惑をお掛けしてしまったことから、態度が厳しく変わられました。4人見送り漸く自分の時間が取れるようになったとは云え、私は更年期という年齢のせいか体力のせいか、何事もまだ休み休みといった態です。傍からみれば只の怠け癖に見えたのだと思います。時が経てばとも考えていましたが、法要の際も、お彼岸の際も、その後はご住職にまともに取り合って頂いたことがありません。私はお寺さんの望むような檀家ではないでしょうが、お彼岸のお墓参りの際には必ずお布施を納めています。 昨日、新年のご挨拶とお年賀、お布施と年会費の納付に行った際も、本堂に入られたままでした。お正月と云うことで主人と参りましたので、主人の家の親しみやすいお寺さんとの差に彼は驚いていました。 私の親戚は少ないですが、これから先も未だ何回も法要も続けて執り行わなければなりません。こんな様子では正直お墓参りですら気が重く困っています。春先に法要を控えているのですが、考えただけで気が滅入ります。お寺は気軽に行くような場所ではないのでしょうが、足が重くなっては元も子もないと思います。どうしたら良いのでしょうか。このまま機械的に必要な際にはお寺に向かい、お布施をし、と云うことで割り切った方が良いのでしょうか。 宗派は日蓮宗です。相談窓口のようなところがあれば教えて頂けると助かります。
昨年得度した曹洞宗上座でございます。 私は、安居までの娑婆暮らしの間、自己研鑽の為に月に二度程托鉢に出ております。托鉢の次第や作法等はよくお世話になっている和尚に教えて頂いているのですが、なんとなしに前日托鉢をしていて気になったことがございます。 何処の宗派ともない袈裟を身に付け托鉢に似せた者が金銭を乞い(この中に万が一にも"私度僧"の意志で修されている方がいれば大変失礼な表現なのですが)、世間での托鉢僧の印象を下げている中、例えば宗門の袈裟を被著している血脈ある僧侶の托鉢というものは素人目には前者と同じものに見えます。これは時に「軽犯罪法の乞食」として警察の方に所謂職務上質問等を受けることはあるのでしょうか?私は托鉢の最中、何度か警察の方とお会いしてことはございますし、警察署の前を通ることもございますが、そういった経験はありません。ですが警察の方も個人それぞれの仕事の仕方をされてるでしょうから、或いはそういったことも有るものかな、とふと気にかかった次第でございます。 もし、一人や二人での托鉢で警察の方に声を掛けられたことがあるという師がいらっしゃいましたら、そのお話を聞かせて頂けたら嬉しいです。宜しくお願い致します。 合掌
いつもお世話になっております。先日お説教会にお参りした のですが、お導師様の「他の仏様は父性を持つが、阿弥陀様は 母性を持つ」と言う発言が気にかかりました。 他の仏様が父性を持つと言われているのは、厳しいからだ そうです。まるで、他の仏様は私たちを捨てる、というような 言い方だな、と感じました。 私が阿弥陀様のほかにお不動様も信仰していることを告げると 「でも、あなたが死に際に体が動かなくなる瞬間までそばにいて 導いてくださるのは阿弥陀様だけ」と言われました。 もちろん阿弥陀様の王本願は絶対だと信じております。 ですが、お不動様の功徳や利益についてまだ理解できていない のもあるため、「結局は仏界も父親なんてその程度なのかな」 と考えてしまっております。 一方では、「不動明王の体が黒いのは、私たちの住む穢土に 自らも身を沈め、救済任務にあたっているため」と説かれ、 聖無動尊秘密陀羅尼経の偈頌には、 「…念念歩歩所起罪 真言威力皆消滅 命終決定生極楽」とあり、 そんな冷たい仏様には見えません。 さすがにお不動様は来迎しないと思いますが… 他にも布教師さんの中に、他の宗派のことを 「きっと遊女が近づいてきたら『汚らわしい!』と追い返す」 とまで言い張る方もいます。でも愛染明王は遊女からの信仰が 厚かったとも聞きますし… どうなんでしょうか?ご意見お待ちしております。 よろしくお願いいたします。 余談ですが、本日仕事納めを迎えることができました! 三宝の御加護に感謝いたします!!
こんにちは。初めて書き込みさせていただきます。 私は現在仏教徒としての道を歩んでいきたいと考えております。 きっかけとして仕事などが原因でどのような生き方をすべきか悩んだり、死への恐怖について不安になったりした時、いつも自分を助けてくれたのは仏教の教えでした。 先日母からうちが新興宗教の元信者だったことを知らされました。 母は所謂二世だったのですが、今は脱会しており仏教(真言宗)へと改宗しています。 私は母親の告白から真言宗について興味を持ち、調べていくうちに大日如来様や弘法大師様の御心に惹かれ、真言宗の信徒として歩んでいきたいと考えました。 しかしどのように学んでいけばいいのかいまいち分かりません。 仏教はキリスト教やイスラム教のように洗礼を受ける必要がないと聞きました。母が真言宗なので私も真言宗という考えでいいのでしょうか。(父は多分別の宗派だと思いますが) また、仏壇を購入するなどして形から入るべきなのだろうかとも考えましたが、何が正しいのか分からないので、とにかく今は仏教に関する本や記事をたくさん読んでいるところです。 何から始めればいいのか、どうすればいいのか教えていただければと存じます。ご回答のほどよろしくお願いいたします。
お坊様方、お盆のお勤めお疲れ様です。 それにしてもお坊さんの僧衣、ただでさえ暑い中、何枚も重ね着してらっしゃるのは、見ているこちらが辛くなります。色だって(宗派にもよりますが)黒とか紫とか濃い色ばかりだし。どんなに暑くても袖まくりすらできずに法務を行うお坊様には心から尊敬いたします。 余計なお世話ですかね?修行を積んだお坊さんなら大丈夫? クールビズの僧衣バージョンみたいな、略式の冷感服って無いんでしょうかね。もちろん僧衣の色や形式にはそれぞれ大切な意味がある事は知っているのですが、さすがに近年の暑さは酷すぎます。 色々意見はあるでしょうが、個人的には、服装は形式よりも快適なものを着て欲しいと思います。率直な話、ジンベイや作務衣に近い服装でも良いんじゃないかと思ってます。何も僕等は服に拝んでもらってる訳じゃないんだし。 総本山にメールででも申し入れしようかなと思うのですが、余計なお世話でしょうかね。あるいは無駄な事でしょうか。伝統もあるものだし、急には変えられないとは解るのですが・・・ それとも、近年の僧衣には涼しくなるような工夫が色々されてるんでしょうか? ともあれ、お坊様方大変お疲れさまでした。 しばらくは涼しい所でお過ごしください。 (伝統を軽視するような言い方で、かえって不快にさせてしまったらすみません。またこのサイトに相応しくない質問であれば、放置して下さい。2、3日回答が無ければ削除します。)
51歳女性です。 私の両親は熱心な仏教徒で、経典を学び、教えを支えに生きていました。 ですが、慈悲や和合の教えは、相手を軽蔑する心には勝てないようで、両親の不和は続き、お互いに軽蔑しあったまま50年の結婚生活は過ぎ、父が他界したことで終わりました。 生涯、許せなくても、愛せなくても、良いのでしょうか?ふたりそれぞれに確認しましたが、愛はなかったそうです。 そのために孤独な晩年であっても、嫌いなものは嫌いでよい。あるがままの心で生きるのも自由だという教えは、仏教にはあるのでしょうか? ふたりとも一番身近な伴侶との和合は適いませんでしたが、孤独ながら我が道を行き、やりたいことはやり切った人生だったと思います。仏教の教えが孤独なふたりの心を支え、それぞれに邁進できたのだと思います。 ですが、かつての大きな声で喧嘩をしている老夫婦の姿は、朝晩、お経をあげれば救われるはずの宗派の教えが、それだけでは不十分な証拠のようにも思え…。 両親は、何時間もお経をあげるような熱心な信者でした。なぜ、50年かけても慈悲の心にたどり着けなかったのでしょうか? また、このような場合、亡くなった父は成仏できずに、輪廻を繰り返すのでしょうか? それとも、父が仏になれた可能性はあるでしょうか?ボランティアで地域の皆様に尽くし、多くの方々に感謝されていた父でした。
10代の頃から悩みの多い人生で、未熟なまま大人になりました。 家庭を持ち30代になっても周囲に対して愚かな言動をしてしまい、人を気付けたり迷惑を掛けたりしてトラブルになってしまった事が複数ありました。 反省と後悔で苦しみながらこちらにもお世話になっています。 様々な問題を抱えており、これから先の人生に希望をなかなか持てずにいます。 ハスノハでもいろいろな回答を読み、特定の宗派と言うよりは、お坊さんのお話で自分にしっくりきたものを取り入れさせてもらっています。 ある宗教評論家の方が出されている本で、とても気になる事が書いてありました。 それは、「この世の中には善人も悪人も必要」 そして「人間は皆それぞれに役割が決まっていて、それぞれ精一杯にその役を演じれば良い」 更には、「お浄土へ行った時、仏様に労われるのは悪人・罪人の方」との事。 極端な物言いを売りにしているので、この抜粋だけでは著者の本意が伝わらないかも知れないのは恐縮ですが、お坊さん方はこの考えについて、どのようにお感じになりますか。 (ちなみに、誤解を恐れずに言うと、私は少し救われた気持ちになりました。 だからと言って、罪を犯していいとか人を傷付けていいとは決して思いませんし、著者もそういう意味では言っておられないと思います。) お坊さん方の見解をお聞かせ頂ければ幸いです。
こんばんは。 気になるのですが、 悟ってるお坊さんの割合って どのくらいですか? 悟った人が お坊さんやってるんですか? 失礼なこときいてごめんなさい。
自分自身の考えに限界を感じています。 人生的な考えであって、哲学書などを読みふけっています。 ただ、仏陀の教えに関して詳しく書いている書物を読もうとしても どうしてもその介錯が何か仏陀の教えと言えるものは違うことのように解釈をしている翻訳家が多いように感じます。 仏門を修めている方にその辺りを詳しく書いている本や、自分は仏教や仏陀の教えをこうして学びました、というものがあれば教えていただけるでしょうか。 よろしくお願いします。
初めて投稿させていただきます。 先日、家族が亡くなり葬儀や四十九日などでお世話になったお坊さんに恋愛感情のような感覚を覚えました。なぜか分からないけれど惹かれる…そんな感覚です。 その方は住職をなさっていて独身で私と年齢が随分離れているみたいです。(おそらく20歳ほど) 私自身結婚したいなと考え始めたので、数年ぶりに惹かれた男性が独身と聞き、恥ずかしながら勝手に舞い上がってしまっている所があります。 四十九日を終え次の法要は1年後なので、それまでお寺に伺わない限りお会いする事は無いです。 家族が亡くなり、20代にして初めて自分の宗派を知り仏教に興味が湧きました。 少しでもお近づきになりたくて、お寺に伺ってお説法を聞いたり、座禅の体験をさせて頂けるのならば是非やってみたいのですがコロナ禍ですし。 お忙しいだろうし、それに工事中で本堂には入れないみたいなのでお寺に連絡する勇気もこれと言った用事がなく終わっています。(お墓は墓地にあるのでお寺にはありません) 気持ちをお伝えしてご迷惑にならないでしょうか? 急に好きです!なんて言えないので、何度かお会いしてお話ができる関係になってからお伝えしたいです。 まずはお寺に伺う事からしたいのですが、恥ずかしながらどのような連絡をすればよいのか分かりません。 悩み事などあるので聞いてほしいです。などと気軽に連絡して良いのでしょうか? 拙い文章で申し訳ありませんが、勇気を出せれる回答等いただけると嬉しいです。 よろしくお願いいたします。
初めまして、未熟者ですが質問させていただきます。 当方10代の女で、家族は神道系の新興宗教(他宗教への信仰は許可していないはずのものです)を信仰しつつも、臨済宗と曹洞宗の仏壇が家にあるという状況です。しかもその仏壇には神道系宗教の教祖の写真が飾られていたり、人形がありましたりと謎が多いです。そんな中その神道系宗教への信仰に疑問が生じ、様々な宗教について調べ始めましたところ、仏教と出会いました。まだまだ知らぬことの方が多いですが、仏教の考えにとても惹かれました。 そこで、私も自分の生活に仏教の考えを取り入れ、お祈りしたいと思い始めました。そこで勉強不足で申し訳ないのですが、仏教徒になるにはどのように入信(?)したり、生活していけばよいのでしょうか?お経を唱えたりなどがあると思いますがどのように実践すれば良いのか分かりません。自分としては宗派にこだわりはなく、強いて言うのであればご縁がある禅宗を信仰したいと考えています。 また、家族は現在の仏壇に対して私が仏教の拝み方をするのを許さないと思うので自分で仏壇を用意して祈りたいと思っているのですが、それは問題ないのでしょうか?自分で用意するとなると先祖のお位牌もないですし、変になってしまいますか? 長文になってしまいましたが、これから仏教について学んでいきたいです。どうかよろしくお願いします。
こんにちは 下世話なお金の話で恐縮ですが、ご助言いただければ幸いです。 私は山登りが趣味でよく山歩きをしていますが、山頂などにはお寺があることが多く、門が開いていれば参拝させていただくようにしています。 恥ずかしながら私には仏教や宗派などの知識はほとんどないのですが、それでもお寺に一歩踏み入れた時の、あの独特の落ち着く雰囲気が何とも心地よく、 また、お堂を参拝して掲げられている由緒などを読むと、なぜこんな山奥にお寺があるのかがわかったり、あるいは意外な歴史上の有名人が登場したりして、そんな発見が楽しくてお寺を訪ねています。 (そもそもそのような動機でお寺を訪ねることが良いのかどうかも自信がありませんが…) そのようなときにお坊さんが声をかけてくださることがあり、いろいろと興味深いお話をお聞かせいただいたり、お茶を出して下さったり、秘蔵の文化財を見せて下さったところもあります。 ある山頂のお寺では「精進料理で良ければ食事していかれませんか?」と庫裡にお誘いいただき、当然有料だと思ったので遠慮なく頂いて代金を申し出ると受け取っていただけないということもありました。 どのような場合もありがたくお礼を申し上げ、お布施についてお尋ねするのですが、たいてい「そのようなお気遣いなく」と仰られますので、せめてもの気持ちで、帰りがけにも賽銭箱にいくらかのお金を入れて辞去するようにしています。 しかしお坊さんが時間をかけて興味深いお話や案内をしてくださることに対して、賽銭箱にコインを投げ込むというのではなく、やはりきちんとお礼をしたいと思いますし、 請求されなかったからといって何もしないと作法知らずと思われているのでは?、とも思ってしまいます。 このような場合に、お坊さんを煩わせることなくスマートにお礼をお渡しするには、どのようにするのが宜しいでしょうか?。 そもそもこのような場合の「相場」もわかりませんので、何卒お導きを賜ればありがたく存じます。 よろしくお願い申し上げます。
私は実家が真言宗で、宗派について色々調べたところ、 どうも真言宗は密教と言うものであるらしいと知りました。 さらに密教について図書館などで色々な文献を あたっているうちに聖天様(歓喜天様)を知り、それ以来 不思議に聖天様に心が惹かれるのです。 まず男神と女神のペアである所。こんなにも幸せそうな神様、見たことありません。 怖い神様だと言う割に、お酒とあんこ菓子と大根が好きだなんて、可愛い過ぎます。 また夫婦神として生と死、人と仏、男と女、陰と陽、など相対する要素の融合の象徴であるような気さえして、とても深遠な真理を内含してると思うのです。 とにかく出会って以来、気になって気になって仕方がありません。 拝みたい気持ちでいっぱいなのです。 怖いとか近寄りがたいとか言われているのが信じられません。 お叱りを覚悟の上で言うと、私は酒が好きなのですが晩酌の折には 聖天様とお酌を交えたいとさえ思ってます。 特に切実な願い事は現在無く、(あるとすれば2人目の子供が 無事生まれるようにと言う事です。)聖天様を無病息災、家内安全、 子孫繁栄の守り神として拝みたいのですが、このような形での 聖天信仰はあり得るのでしょうか? もちろん、聖天様は厳格な神様であり、信仰は一生続くと言う事も 解っております。 文献などを読む限り、聖天様は切羽詰まった人の最後の 願掛け対象と言うイメージがあるのですが、 無病息災や安全祈願としてもお力を発揮されるのでしょうか?
半年前に、高校生の息子がバイク事故で亡くなりました。 お墓は2ヶ月前に購入しているのですが、私と主人の心の整理がつかず、当分の間は納骨する気はありません。 最近、義理母が霊媒師の方に相談した所、成仏していない。納骨を早くしないと、先祖が怒って 〇〇家の男に災いが起こる。と言われたらしく、何故納骨を早くしないのか!と怒られました。 私は、先祖が災いをもたらす事は無い。息子は、皆の事を守っている綺麗な魂だ。先祖の事、孫の事を悪く言う霊媒師にお金を払うのはどうかと思う。と、初めて怒り返しました。霊媒師を信用している義理母から、一方的に電話を切られました。 嫁いで20年近く…何かある事に義理母は、霊媒師を頼って全て先祖の知らせ。先祖が怒っている。との事で大金を使っています。切りがありません。信仰する霊媒師の事が全て正しいと、押し付けられるのも嫌な気分です。でも、息子の事を思ってやってくれるのかと思うと怒りの他に、感謝している気持ちもあります。 霊媒師の言うように、納骨しないと成仏出来なく先祖の祟りがあるのでしょうか?
先日は葬儀(天台宗)と納骨(曹洞宗)で宗派が異なった際の質問に、お知恵を授けていただき、ありがとうございました。 父が希望していた曹洞宗のお寺様にご相談しましたところ、快く四十九日法要・納骨をお引き受けいただき、また戒名も付け直していただくことができました。 今回のご相談なのですが、現在ご住職様がご加療中とのことで、すぐに直接お会いすることができず、四十九日法要、納骨の際にお戒名の分もあわせてお布施をお納めする形となりそうなのです。 その際のお布施の包み方なのですが お戒名分、四十九日法要分、納骨(保管料)とそれぞれ別の袋にしたほうがよろしいのでしょうか。(お塔婆代、供花料、御膳料は別にお包みします) それとも、お布施の袋はひとつとして、中袋に内訳(?)と金額を書いたほうがよいのでしょうか。 なお、納骨の年間保管料は金額が決まっておりますが、お戒名、法要は所謂「お気持ち」とのことです。 今まで仏事との関わりが薄く、不勉強で申し訳ございませんが、何卒ご教授のほどよろしくお願いいたします。
こんにちは。 私は昔から内向的な性格で、人の社会の中でやっていくことが非常に苦手だと感じています。そのため、人との交流を避ける傾向があります。 最近では、その傾向が強くなってきたように思います。世の中との関わりを絶とうとしている自分に気が付き、しかし本当にこれで良いのか迷っているのです。 最近の私は、世の中に溢れている沢山のものから故意に自分を孤立させようとしている気がします。例えば… 私は、流行のものを知ろうとしないどころか、知ることを嫌います。私は、ビデオゲームを一切しません。私は、本や漫画も読みません。私は、好きだったテレビ番組もだんだん観なくなりました。私は、好きだった音楽も全く聴かなくなりました。私は、SNSを見ません。私は、友達が何かを勧めてきても、自分の世界を壊されたくないので、その新しいものを知りたくなく、拒絶します。… 何故なのか、自分なりに考えてみました。そうしたら、こんなことが浮かんできました。 1,世の中に溢れているものは、私には刺激が強すぎる。私は多分感受性の高い人間なので、楽しい事を知ってしまったら激しく舞い上がる。しかし、その後には反動で落ち込んでしまう。→だから、何も無い状態「無」の方が心が安定する。(と思っている。)だから、自分なりに保っている心の平穏を刺激物らによって壊されたくない。よって、拒絶する。… 実は私、近年仏教に興味を持ち始め、色々調べていました。私が心の平穏・無の境地に憧れているのも、世間から離れた所にいたいのも、そういう聞きかじりの知識から来ているのかもしれません。 しかし、私の今のやり方は間違っているようにも思います。 私のように過剰に世間との関わりを絶とうとするのは、病的でしょうか? 「関わりを絶つ」という目標に執着しているのでしょうか? 仏教的には、俗世間からの刺激あれこれを過剰に避けるよりも、俗世間の中にいながら受け流せるようになる方が良いのでしょうか? また、私はまだ「人々は何か世間で楽しいことをやっているぞ、いいな。」と他人が世間に溢れる刺激の中で暮らしていることを羨む気持ちも捨てきれていないのです。 この機会に、本物のお坊さんとして生活していらっしゃる方にぜひご意見を頂きたいと思い、質問させて頂きました。拙い文章でお見苦しいところもあるかと思いますが、ご回答を頂けたら嬉しいです。
父方は浄土真宗、母方は浄土宗、当人はキリスト教カトリックという宗派宗教ごちゃ混ぜのからすたろうと申します。また、ご縁があり法相宗薬師寺に何度かお世話になっています。(ややこしくてごめんなさい。) 昨年、母方の祖父と父方の近い親戚が亡くなったことから仏教に興味を持ちはじめ 法相宗薬師寺にて少しながらご奉仕をさせていただいたりしています。 法相宗では般若心経を1日に何回も読経するので自分にとって般若心経は暗唱できるほど一番身近なお経です。奉讃文に 「神前にては寶の御經、佛前にては花の御經。 況して人間の爲には祈念祈禱の御經」(引用) とあるように祖父(浄土宗)の仏前では読経させていただいています。 さて、父方の仏前でも親戚一同からお前の読経は声が良い。染みる。なんて囃し立てられまして何度か般若心経読経させていただきました。 しかし、先日 浄土宗のお坊さんとお話ししていましたところ どうやら浄土真宗は般若心経と教えが違い般若心経は上げないと教えていただきました。父方の親戚の仏前にてお唱えしてしまったことを申し訳なく思っています。 ・やはり、浄土真宗の仏前にて般若心経をお唱えする事は避けたほうが良いのでしょうか? ・浄土真宗の仏前にてお唱えするときは何というお経が良いのでしょうか? ・浄土宗では南無阿弥陀仏を十念4+4+南無阿弥陀仏+南無阿弥陀ぶー とお唱えしますが、浄土真宗では「なんまんだぶ」と聞こえます。どのようにお唱えすれば良いのでしょうか。 長くなってしまいましたが3点、よろしくお願いいたします。