今、コロナの感染が心配です。 不安障害を持っていて、主治医とも相談していますが、やはり、お坊さんに回答をして頂きたくて、相談をさせて頂きます。 普通の予防はしています。 多分、不安障害を持っているので、人より過剰に考えると思います。 テレビなので、なくなった人の情報を見ると自分がなったら、どうしよう、家族がなったら、不安ばかりです。 どうか、今より不安が少なくなるように、お導きください。
数年前に犯した罪について、どのような気持ちをもって向き合っていけばよいか悩み続けています。 私の犯した罪はともすれば刑事事件となってもおかしくなかったような事で、私はたまたま法的な裁きを受けることなく済みました。しかし、自分の罪責から逃れるために、卑怯な立ち回りをしたことも事実です。 私のしたことで、人に怪我を負わせたり、金品を奪ったというようなことはありません。しかし、相手方に大きな精神的苦痛を与えたことは間違いありません。 この数年間、私は、自分のせいで人を大いに傷つけたこと、その責から逃れるために卑怯な立ち回りをしたこと、自分がなんの代償も払っていないこと、苦痛を与えた相手に対してもはや具体的な償いができないこと、自分がまだ相手から恨まれ続けているのではないかということ、に悩み、苦しみ続けています。 先日読んだある本の中に、「許すか許さないかは、自分ではなく相手の責任である」と書かれているのを見つけました。当初は救われたような気持ちがしましたが、しかし、自分は自分のしたことについて責任を負っていない、だから罪は厳として自分の側にあり、そもそも許すか許さないかを相手に委ねる段階にさえ達していない、という思いが募るようになりました。 あれから、自分は脛に傷持つ人間なのだから、そのことを自覚して、謙虚に、親切に生きなければならない、と決心して生きてきましたが、罪の意識は消えません。また矛盾しているようですが、すっかり罪悪感が消え去ってしまうのも、自分が性根の悪い自己中心的な人間であることを突きつけられるようで、恐ろしく、逃げ場のない気持ちになります。そうなれば反省したことも忘れて、また同じようなことをするのではないかという怖れもあります。 そもそも、このような場で質問させていただくのですから、当時の私がしたことの具体的な経緯や状況を明らかにすべきなのですが、私にはどうしても書くことができませんでした。そのこともまた、自分の卑怯さを思い知らされるようで、耐え難い気持ちになります。 大変曖昧な文章になってしまいまして失礼なのですが、これから私は自分の罪についてどう向き合っていけばよいのか、どのような心持ちで生きていけばよいのか、ご助言をいただければと思います。
つらいです、くるしいです はやく会いたいです やっぱりだめみたいです こんなこと言ってたら きっと彼も悲しむのに 会いたいです はやく彼のところへ行きたいです ひとりでいるのがつらいです
初めまして。 供養の仕方について教えて頂きたいです。 昨年末に猫を1匹亡くしリビングに遺骨と写真、お水、お花をあげ毎朝お線香とロウソクを灯し般若心経を唱えています。 しかし、一昨日にお義父を亡くしお義父さんの身につけていたメガネと時計を一時自宅に持って帰ってきたので、同じようにお供えしたいのです。 ここで質問なのですが、 1、同じスペース(サイドテーブル上になります)に置いてお祀りして一緒に供養して良いものか? 2、別々のお水お花を用意して般若心経を唱えるのが良いのか? 宗教は全く異なりますが、自分の出来る範囲で供養出来ればと思っています。 どうかアドバイスをお願いします。
お世話になっております。煩悩即菩提は、よく懺愧の心から起こると聞きますが、親鸞聖人もおっしゃっているように、僕は無懺無愧の人間です。誠に自分勝手ですが、悪い心を持ってしても、全く恥ずかしいと思いません。何しろ、仏様の目から見れば善悪というのは相対的なものであり、人間(世間)が勝手に善悪と判断しているに過ぎません。仏様から見れば善も悪もないはずなのです。だからわざわざ懺愧する意味が分かりません。そもそも、極悪人や罪という言葉をよく仏教では使いますが、それも相対的なものであるはずです。何がどう罪深いのか分かりません。こういう僕には煩悩即菩提の境地は一生理解できそうにありません。
またまた質問よろしくお願いします。 死について漠然とした不安があります。 最初は小学生のころでした。特に何かあったわけではありません。 ただふっとした時に「死にたくない~」と思い泣いていたのを記憶しています。 ヲタクなので、漫画やらアニメやらドラマやらメディアでは死について想像したり見たりします。 ですが、身近な親戚や、友人知人の死に直面したことはありません。 同級生がひとり自殺されたという話は聞いたのですが、同級生との関わりが縁遠くなってしまっているので、実感がありません。 両親の祖父母は健在ですし、自分の家で生活できています。 東北在住なのですが、近くにいる親しい人が震災で被害にあったということもありませんでした。 自身もですが、親戚、家族、友人知人が大病を患い入院しているということもありませんでした。それ自体はとても幸運なことだとは理解しています。 外にいて空の高さや雲の重なりなんかを見て地球や宇宙を感じるとき。 妊婦さんを見かけたりした時。自分が生きてたり生命があるという事を感じます。 今でもふとした時にとてつもなく死に恐怖を感じます。 これからさきどうなるんだろう?まだ20代なのですが、30代に差し掛かるし、求職中で独身です。 死より将来に漠然とした不安を感じているのかもしれません。 これから先も地球や日本は続いていくけど、私は死んだらどうなるんだろう?死んだら終わりだし真っ暗で何も感じられないんだろうと考えると怖くて怖くて堪りません。自分の人生がいつか終わるのが不安で恐怖に感じています。 別の質問で書きましたが、危ない運転をしてしまったことがあります。 それでも生きているけど、いつ死ぬかわからないよね。 と感じたことがあります。そして身近な人の死に耐えられるかわかりません。 自分でも身近な人でも死が怖くて堪りません。 死の恐怖とはどのように向き合っていったらいいのでしょうか? 20代後半でこんなことを考えているのは可笑しいでしょうか?ご教授よろしくお願いします。
私は、高校生ですが、普通一般のきゃぴきゃぴしたかわいい「健常者」の高校生では、ありません(残念ながら)。 知的障がい者で今は、就職するための知的障がい者専用の高等特別支援学校に通っています。(卒業してすぐ障がい者枠で就職、中卒の高校です。) 私は、いろんな人に助けられたし、しかられたり、教えてもらったり、元気をもらったりします。 だから、仏様(-ι-З)にほんと心を救われたので私もお坊さんや尼さんのように人の心を少しでも癒してあげたいな(* ´ ▽ ` *)と思いました。でも、自分は、いままで人間関係で自分の行動や言葉が足りなくて相手ともめたり困らせてしまったこともありました。 あるとき、ふと考えました。「もし、私が尼さんだったら……(○´∀`○)」 でも、現実を見ると…………… 「いや~_(^^;)ゞ私が尼さんかーないない」と思って夢を諦めました。(お坊さんや尼さんの修行の辛さもわかりませんからなんとも言えません) でも、このままで今の自分では、家族に迷惑をかけるだけだし、「今の自分」から抜け出して家族から自立して「温かくやさしい穏やかな人」になりたいなと思っています。 文章らしくなくてごめんなさいm(_ _)m 言葉が伝わればいいのですが、伝わったらそれですね……
お坊さんの回答をみてたら相談者が連続して、「今の苦しみは仏様が与える修行だ」という認識に、お坊さんの皆さんは全く否定されておられません。 「苦難は神が与えた試練だ」はキリスト教の考えではありませんか? 四聖諦を初めとする仏教の思想では現世の苦しみは修行とかいうのは否定されてませんか? 私は、相談者に修行だから我慢しろと言ってるように見えます。救いになってないのではないでしょうか? 苦しみはあるが、それを解決する方法があるとブッダは説いたのではないでしょうか? 生かじりの知識なので解釈を間違っているかもしれません。分かりやすく解説していただけないでしょうか?
先日は客観的かつ優しさに溢れたご回答を、ありがとうございました。 辛さがぶり返した時に読んで励みにしています。 泣いてばかりの時もありましたが、今はとにかく前に進もうと、転居の準備を進めています。 hasunohaで、自分と似た悩みを抱えた方へのご回答を拝見するうちに、仏教のことがもっと知りたくなりました。 そして、生き方など普遍的な悩みを持つ方へのご回答や、人生を穏やかに過ごすヒントになるようなご回答を探して、読むようになりました。 いくつかは画面を保存させていただいて、時々読み返しています。読むたび、少しほっとします。 読書が好きなので、お坊様の書かれた本や、手塚治虫先生の「ブッダ」を読んだりもしました。とても感動し、腑に落ちる内容でした。 ありがたい教えに触れているうちに、私の今までの人生は、執着と寂しさにまみれていたと気づくことができました。 手に入れたいものが多くて、ガツガツ努力して、認められても不安で、環境を恨み続けて…という生き方に、疲れている自分を見つけました。 お坊様のお話に触れているうちは、一人でも生きてていいんだよ、無理しなくても大丈夫だよ、と言ってもらえている気がするのです。 凝り固まった考え方が、少しずつ変わりつつあるのを実感していますが、同時に、私は仏教や、お坊様の教えに依存しているのではないか?と不安が出てきました。 日常でも、人と接する時、フッと辛さが出てきた時、仏教の事を考えます。皆様のお言葉を思い出して心を鎮めています。 他にも書店で関連の本を探したり、近くのお寺を探したり、ネットで用語を調べたり、日常の中で仏教のことを考える時間がかなり増えました。 仏教を知ることで、自分が救われる気がしてならないのです。 周りからの評価や、恋人の存在に依存していたのが、仏教に依存先が変わっただけなのではと思ってしまって、お坊様のありがたいお話を読んでいても、苦しくなってしまうんです。 仏教の考え方に依存するのは、いけないことでしょうか。執着にあたるのでしょうか。 長くなってしまい恐縮ですが、ご教示いただけますと幸いです。
寝ているときは、不安や心配がありません。 すなわち、起きているときに存在する私という感覚(自我)は、不安や心配そのものであると言えるでしょう。 また、自我は問題の生じるところにしか存在せず、問題は善悪を裁く部分にのみ存在すると感じます。 言い換えれば、善悪を裁くことがなくなれば、自我による不安、心配から開放されそうです。 そこで、善悪とは何なのか、何によって生じるのか、仏教においての善悪の解釈を教えて頂けませんでしょうか? 今まで善悪についてあまり考えず、周りに流されてきた気がしています。 よろしくお願い致します。
こんにちは! 突然ですが、仏教では「子作り」はどういう捉え方をされているのでしょうか? 仏教には「生物の幸せを願おう」「傷つけることはやめよう」という考え方がありますよね。それならば、僕は「子作りは産まれてくる子供を傷つけるということなのではないか?」と思いました。 なぜならば、人生は楽しいこともあるけど嫌なこともあるからです。また、赤ちゃんは泣いて産まれてきますよね。産まれた瞬間から「快」ではないのは確かです。 「明るい家庭を作りたい」と夢見たこともありましたが、「人(子供)が傷つくのか...」と思う自分がいます。考えすぎでしょうか。 そもそも彼女ができたことがないし童貞の自分がこんなことを考えても仕方がないのかもしれませんが(^_^;)、皆さまのご意見をお聞かせ頂けましたら幸いです!
出釈迦寺の弘法大師(真魚)のことについて調べています。 以下伝説の内容です ------------------------- 弘法大師が真魚(まお)呼ばれていた7歳の時、我拝師山に登り 「将来仏門に入って、仏の教えを広め多くの人々を迷いから救いたい。この願いが叶うかどうか、お釈迦様の証をお示しください。もしもそれが叶わないなら、この身を諸仏に供養としてささげます。」 と願い、断崖絶壁から飛び降りました。 すると、紫色の雲が湧き、羽衣をまとった天女が舞い降り、雲の中で弘法大師を抱きとめました。 天女が真魚を飛び降りた場所に戻すのと同時に紫色の雲が湧き、釈迦如来が現れ「一生成仏」と宣し、彼の願いが成就されました。 -------------------------------------------------------- この 「釈迦如来が現れ「一生成仏」と宣し、彼の願いが成就されました。」 という意味がわかりません。 生きながらにして仏になったということですか? 空海さんは即身仏になる前から仏だったということでしょうか? 誰かわかりやすく教えて頂きたいです。 よろしくお願いいたします。
最近死ぬことがとても怖いです。今私は20代でまだまだ先の人生があると周りに言われます。死ぬ時よりも死んだ後無になるのだと思うと怖くてたまらなくなり涙が出てきます。今は祖父母も両親も夫も健在で幸せな生活を送ることができています。だからこそこの幸せがいつか無になることが怖いです。また、時間には逆らえないので祖父母、両親が先に亡くなるのだと思いますが、自分が死んでから会えますか?お母さんは必ず迎えにくると約束してくれました。夫も死ぬからといって離れ離れにはならないし、ずっと一緒だと言ってくれています。ただ、死んだら怖いとか迎えにきてくれるとか、そのようなことも思うことすらできなくなくなるのでしょうか。意識が無くなり、思いや感情や記憶も全て無くなってしまうのでしょうか。怖くて仕方ありません。自分が数十年前はこの世に存在しなかったというのも不思議でなりません。死んでも幸せな時間が続くという保証があればきっと怖くなくなるのだと思いますが、そんなことは誰にも分からないし、だからこそ怖いという思いが無くなりません。これまで亡くなってこられた方々も生前にこのような気持ちを持ちながら生活し、気づかないうちに亡くなっていたのでしょうか。文章がまとまらずすみません。辛く、怖いです。
ここ数年でようやく、自分が毒親育ちと理解し 親から離れ独立しなくてはならないと焦燥感を抱く様になりました。 しかし他者との付き合い方がわかりません。 私が親から習い、自分が世界と付き合っていく手段だと思って来たものが、自己を卑下し相手の下に置くことでしか無かったのです。 懸命に話そうとしても、口を開くと卑下にしかならず。 言葉に詰まり変な目で見られ距離を取られるか、卑下をしてしまう私か。どちらかしか出来ない。 それに気づいた絶望感。 そして周りにいる人間が私を小馬鹿にして利用しようと考えているタイプの人ばかりだと理解しました。 人と話す事が怖いです。苦痛にしか思えません。 家から出るのが怖いです。 これでは何も変えられない。 甘えてないで頑張らないとと焦燥感ばかり募るのに、無気力で部屋から出るのも苦労する様になってしまい、何もかもが手に付きません。 本を読むでもなく、テレビを見るでもなく、 ただ呆然として時が過ぎるのを待っている様な日々です。
現在、実家から離れて一人暮らしをしている大学生です。最近就職や結婚について色々考え始めました。私は、将来は関東又は関西で就職したいと考えています。しかし、私は、本家の一人っ子で、私が地元を離れたら家はどうなるか不安です。親は、地元に就職しなくてもいいけど家は継いでほしいといっています。家とか土地とか家を継ぐとかよく分からなく不安です。また、親の介護の心配もあります。 今考えていることは、若いうちは都会で就職して、退職した時に実家に帰るということです。これは、家を継いだことになりますか?また、自分の子どもが家を継いでいくかも分かりません。家を継ぐとはどういうことですか?将来は婿養子をとるつもりですが、その土地に住んでいないと家を継いだことになりませんか? 乱雑になって申し訳ありません。真剣に悩んでいます。ご回答いただけると助かります。
毎回、お答えしていただいてありがとうございます。 今回も、お答えいただけると嬉しいです。 今回は、正直自分でも気分はいいものではないですが・・、 お答えいただけると嬉しいです。 悪いことをしたら、地獄へ、いいことをしたら天国へ行くという認識が 世の中にはありますが、実際は良い事しようと悪いことをしようと、 行く場所は天国、極楽浄土とでもいいますが、実際そこに行けるわけではなく みんな地獄へ行くんですね。 仏教において~(ネットの記事等なので見た感じです)なんて言葉も調べたら出てきました。 生まれながらに、私たちは色んな罪を犯しています。 だから、良いことをたくさんしても、まるで意味がないように感じます。 とても気分は悪いです。抱えて生きていかなきゃいけない訳ですから・・。 辛いです。救いようがないです。 とても不安しかありません。どう生きていけばいいんですか。 教えてほしいです。お坊さんの皆さまよろしくお願いします。
高校生の頃いじめを受けて、勉学に支障をきたすようになり高校を中退しました。その後社会に出て働きお金を貯め、勉強をして専門学校に合格しました。 その専門学校も、家庭の事情で住まいと交通手段が確保できなくなり休学していましたがこの度、退校することになりました。 今後も通えるようになる見込みがないからです。 私が学びたかったことは専門性が高く、実技も含まれるため独学に向きません。 私は、学びたいことを学ぼうとすると何かしら邪魔が入る星の下にでも生まれたのでしょうか?もうウンザリです。 生きてることすら辛い。早く死んでしまいたい。 そこで質問です。 死後の世界は一体どんな世界なのでしょうか。今ある肉体から解放されて、自分を生かし続けるという苦しみから逃れられるのでしょうか?
最近、とても気持ちが不安定です。 心の持ち方を変えなくては…と出来ることを始めようと、お坊さんの書いた本や、ブッタの本、自己啓発の本、写真集や偉人の言葉などを読み漁っています。 例えば、怒りの気持ちを10秒我慢してみましょうとか、普段の生活を見直しましょうとか、あらゆる色々なアドバイスを読んでは実行しようと頑張っています。 でも、そうやって1つ1つの動作に緊張感を持ってるせいか、今まで以上にストレスがかかり、それがあちこち体に出てしまいます。 心が乱れると、食生活も乱れ、家族には手の込んだものを作っていても、自分は菓子パンとか、ごはんだけとか、お菓子で済ませることもあります。 1番治したいところは、すぐにイライラしてしまう事です。接客業なので、仕事中は感情を露にはしませんが、その分些細な事で子どもに必要以上に怒鳴ってしまったり、理由もなくイライラしては甘い物を過食してしまったり… 最後に笑ったのはいつなのか分かりません。 多分、こうして切羽詰まって相談させていただいていますが、その御返事の御言葉も心の奥底では分かっているのだと思います。周囲はそんな私に、更年期だから…と言いますが、そういうせいにはしたくないのです。精神科に行って薬に頼るのも嫌なのです。 心穏やかに、周囲に感謝し、妬み恨みを抱かず、優しく静かに暮らしたいです。もちろんそうならないのは、自分自身のせいだと熟知しています。だから苦しんでいます。 抽象的で矛盾したご相談かもしれませんが、どうか教えていただきますたいです。よろしくお願いいたします。
とても素朴な質問なんですが、寂しさとは何でしょうか? どこから来るのでしょうか? お坊さんとしては、そのことについてどう考えているのでしょうか? 以前も投稿させて頂いたのですが、SNSの利用の仕方について悩んでいます。 これは、SNSに問題があるのではなく、寂しい気持ちをうまくコントロール出来ずに、後で自己嫌悪になるような投稿をしてしまう私に問題があるのだと思います。 自己嫌悪になるような投稿とは、かまって欲しいために、自分の生活のあまり知られたくない部分を書いてしまったり、甘えてみたり、自虐的になったり、変にふざけておもしろくしてしまおうとすることです。 SNSで寂しいことと言えば、反応がないことだと思います。無視されているようで、寂しさが増幅されます。 たとえ、反応があったとしても、なんだか、自分の生活を売り物にしている芸人のような気分、この人たちは、私がおもしろくなかったら、「いいね」さえしてくれないのだな、という気持ちになります。 大げさかもしれませんが、自分を傷つけて相手の気を引こうとしているような感じです。 先日、ついにフェイスブックに手を出してしまいました。 その時、私は酔っ払っていて、とても寂しい気持ちでした。 それで何人か疎遠になっている知人に友達申請したのですが、しばらく経って気がついたのは、やはり、本名でも匿名でも、私は私であって、急に中身があっておもしろい話が出来るようになって、人の気を引くことはできないということでした。 私の理想としては、誰かに承認されたり、依存したりすることなく、一人でも楽しく過ごせる心があればいいな、と思います。 どうすればそんな心になれるでしょうか? そんな、心になるのが無理だとしても、寂しさをコントロールするには、どうすればいいでしょうか? お言葉をいただければ嬉しいです。
勉強することが楽しいです。夢中になりすぎて気持ち悪くなって吐きました。そしてまた落ち着いたら勉強してます。吐かないようにしたいです。何でも自分の納得いくまで突き詰めたくなります。吐かないようにしたいです。 ぼうさんも夢中になることありますか?吐いたらおかしいよね?吐かないようにしたいです。