鍛える、耐える、我慢する、だけが修行じゃないんでは…
いつもお世話になっております。
診察やカウンセリングに通いつつ、早く起きてアパートを
毎朝清掃して、その足で祈願寺(片道約1時間半)の写経道場へ…
祈願寺では写経の後、待ち時間で数学や物理の勉強、
その後護摩行でお経を上げて帰宅後は筋トレ…
というルーティーンを送っていたら…
それはそれは見事に体壊しました。
「鍛えなきゃ!」「強くならなきゃ!」という気持ちだけで
毎日やっていたら、知らぬうちにソッチ側に疲れが溜まっていた
のかえらい事になりました。
そこで湧いた疑問が、いわゆる「鍛える」「忍耐する」
それだけが修行や訓練とは言えないのでは。という事です。
自分自身の器物の大きさや、今の状態に気づくのも
大事なんではないか?と。
私が今まで遭遇してきたトラブルの数々も、
「あれ?おかしいんじゃないか」と野生の勘やいわゆる霊感・
第六感のように感づく前触れや兆候のたぐいはありました。
それらの勘を、「我慢しなきゃ!」「頑張らなきゃ!」
「この程度で大げさな…!」と思い続けたり、
「まぁ、こういう人もいるんだ。悪い人じゃないかもしれない。
突っぱねたら失礼だ」とあえて目を瞑った結果、
最悪の事態に発展するのがお決まりでした。
そこんとこ、どうなんでしょうか?
有り難し 34
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