ここで一度お世話になり、仏門に興味が湧き 元々、下手なりにも書道を趣味としていたのもあって 写経を始めてみようかと思っていました そうした話を友人、知人に話していたら タイトル名のようなことを言われました 知人によると、お経と言うものは修行を積み 徳を重ねた人が唱えることに意味があるのであって 素人がむやみやたらと、お坊さんの真似をするのはやめた方がいい まして写経なんて、なにかおかしなことがあってもおかしく無い程の やってはいけない行為だと言われました 書店では、初めての写経と書かれた本もたくさん見かけます 宗派によって考え方が違うのでしょうか 私の家は曹洞宗のようですが 自分自身、仏教徒ではあると思います。 と言うより、それしか知りません キリスト様より、お地蔵さんの方が気軽に挨拶できます 写経って、やはり辞めておいたほうが良いことでしょうか
永遠の地獄についてお坊様はあると思いますか? 永遠の地獄などないなんて考えは 着るものも食べるものも住む場所もある先進国で生まれた人の平和ボケした考えだと思うんですが 量子力学の光には波と粒が最初から同時に存在する二重性の性質があるという理論において この世界はどうして生まれたのかを究極的に突き止めると全ての根源は量子力学の二重性の性質に行き当たるそうで この世界は最初から有ったと同時に無かったという最初から同時に存在する二重性の性質 何も無い空間でもそこにヒッグス粒子が有るという最初から同時に存在する二重性の性質 全ての根源はこの量子力学の二重性の性質に行き当たるなら 死後の世界において永遠の地獄はなかったと思ってもそれはあるという二重性の性質を想定できますよね だとしたら永遠の地獄があると思うんですが イエスキリスト様はその永遠の地獄から人々を救える全能なる神の力があるんですが 全能なる神ではなくただの人間であったお釈迦様は 瞑想して悟りを開いたことで 永遠の地獄から人々を救える全能なる神の力があるんですか?
外国育ちでよく理解できていないのですが(変な質問ですみません)、祖父母はすでにおらず宗派などもわからず(お墓も不明)、両親も檀家などではないのでお世話になっているお寺もないのですが(あえていえば考え方としてこころにとめている宗派はあるのですが直接信者などというわけではない)、こういう場合、お葬式などでは宗派など聞かれた場合どうしたらよいのでしょうか。キリスト教のように洗礼を受けたりというのもないようですし、たとえば、天台宗の思想がとても自分の考えにちかいからそこでお願いしたい、などそういうことをしてもよいものなのでしょうか。またある宗派の信者になるということは仏教ではどういうことなのでしょうか?(海外の宗教とは違うのでよくわからず、くだらない質問で本当にすみません)
日本には、なんとなく政治と宗教な話は、親しい間でも話しにくいような風潮があると思います。例えば私自身家族の中でも応援している政党が違ったりするとなんとなく気詰まりな感じがします。そういう宗教や政治の話がなかなか気軽にしにくい日本の風潮にお坊さんはどう思いますか? 話は違いますが、うちは曹洞宗ですが、遠くに住んでいる親戚の叔父が韓国の方が教祖のキリスト系の新興宗教を信仰しています。叔父さんはとても元気でタフで明るくて面白くて好きですが、宗教の話をしている時に進化論を否定していることに驚きました。たしかに進化論が正しいかは、私自身教科書でしか教えられておらず、自分で確かめたことはないので、確証や証拠で反駁することはできないのですが。 あと人間だけ霊界があるというその宗教の教えに対しては、全ての生き物が限られた生を命の限り全うするということは同じな世界で、人間にしか霊界が用意されていないという考えがしっくりきませんでした。当然信仰の自由があるので何を信じるかの選択の余地は一人一人あり、全く否定する気はありませんが。その対話をしている時の母がもううんざりといった言動でもう終わりにしてほしいというオーラが全身から漂っていて、とりあえず途中で私が引き下がりました。(こういうところでも宗教の違いを対話するのを嫌がる日本の風潮を感じました。) 比較的歴史の洗礼に耐えて伝統を長く受け継ぐ仏教の宗派のお坊さんは、新興宗教と呼ばれている宗教の特徴や教えについてどういうお考えをお持ちなのか、気になりまります。 お手すきの時にお返事頂けたら嬉しいです。
いろいろな出来事があって、浄土真宗の本(一般書ですが多数)を2年程度読んでいます。癒されるためには懺悔や祈りはとても大切だと思うのですが、どの本を読んでも阿弥陀様はすでに私たちを助けているため懺悔も祈りもしてはならないような解釈がされています。 私にとって叶わないとしても祈りや懺悔は心を安定させるためにも重要で、最近キリスト教会へ行ってみましたが、やはりご先祖様から続く浄土真宗の門徒でいたい思いもあります。 現状でもう救われているでは諦めのような心境になります。祈りも叶わなければそれが仏様の願いであればよいのですが、祈る必要もないと言われると複雑な心境となります。 私の解釈は間違っているのでしょうか。よろしくお願いいたします。
こんばんは 宜しくお願いします。 人との出逢いは、出逢うべくして出逢うのですか? 間違いな出逢いはあるのでしょうか? 一生添い遂げますと誓いをしたのに別れました そして私の中では純愛ですが世間でいう不倫の末再婚しました。 この棘の道をたどらないと出逢えなかったのなら幸せになってもいいですか? ずっと申し訳ない気持ちでいなければならないでしょうか? 相手側は元々破綻していました。 でも私の存在が無ければ一生添い遂げてたかもしれません。 私に試練を与えて正しい道を選ぶか試されたのでしょうか だとすれば正しくないから一生幸せにはなれないです 教えてください。
はじめまして。 現在1年半お付き合いをしているアメリカ人の男性がいます。 お互い結婚をしたいのですが、宗教で問題があります。 彼はイスラム教、私はクリスマスを祝い、初詣に行き、厄払いをする普通の日本人です。 イスラム教では結婚相手は、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教とだけ許されます。 彼は、最低いずれかの宗教に入って神様を信じて欲しいといわれています。 私は正直この3つの宗教に入信するのは抵抗があります。 私は日本人としてのこの独特な宗教感を捨てれません。 お墓参りや七五三など日本人としての宗教的行事はしたいです。 神様の存在は否定しませんが、肯定もしません。 私が、彼のようにすんなり信じれればと思い、イスラム教を必死で勉強しましたが、 やはり私の本心を変えるのは無理だと思いました。 私は、宗教は元を辿れば最初は一つだったのだから みんな仲良くするべきだ思ってしまいます。 彼は神様の言われている事を逆らえないだけで その他はとっても優しくて思いやりのある素敵な彼です。 できれば大好きな彼と結婚したいのですが、 宗教の壁が大きすぎて悩んでいます。 何か彼を説得できる仏教の教えなどありますでしょうか? それとも別れるべきでしょうか? よろしくお願いいたします。
昔から宗教に興味があったので、キリスト系・仏教系問わず、新興宗教でも縁があった時は、資料を受け取ったり、話を聴いたりしていました。 しかし、いずれの宗派も絶対的な確信を持つことは出来ないので、入信することはありませんでした。 その中で、昔からの友人が「あなたを救いたい、あなたのために24時間勤行をする」などと親切心で熱心に勧誘しています。「その気は無い」と断りつつも20年になります。(最近は年に数回程度ですが) そして、数年前、主人の余命宣告を受けた時、私としては人生の中で一番宗教を求めていました。しかしながら、その数ヵ月間はまったく連絡がありませんでした。 その事から、最近は「私が一番必要としていた時期に縁が無かったのだから、あなたの宗教に入ることは絶対にあり得ない。」と明確に何度も伝えています。 「勧誘であれば、話をすることは無い。勧誘の話は聞きたくない。勧誘の電話はしないで」ということも何度も伝えています。 それでも、「そろそろわかってくれた?入信する気になった?」と連絡して来ます。 その友人と同じ仲間が他に数人いますが、熱心に勧誘されているのは私だけです。他の友人たちは最初の頃に断っているためにその後は勧誘していないようです。 できることならば、他の友人のように勧誘を止めてくれたならば、その友人が企画する同窓会にも参加したいのですが、私の顔を見れば執拗に勧誘をするので参加できませんし、他の友人たちとも疎遠になってしまってます。 今まで「宗教に興味がある」という態度をしていた私の責任でもありますが、20年かかりましたが、「入信しない」という結論が出たので、それで納得して欲しいのです。 20年分の期待感があるので、宗教抜きの友人関係は無理なのでしょうか? その子が中心の他の仲間たちとの関係も含めて、バッサリと縁を切るべきなのでしょうか?
(こちらの質問は運営により一部編集しています) 10年ほど前に私の実家の家系の事で悩んでいたのと、お金がないことが重なって、ポスティングされていた無料の姓名判断から相談し始めたとこがありました。 しかしそれはある宗教団体で、知らずにと縁を持ってしまいました。 そこでは仏教的な事とキリスト教的な事をビデオで万学ばされ、家系に成仏できていない人を探すことも勧められ、戸籍謄本をかなりさかのぼって集めて簡易的な家系図を作りました。 あるときに虫の知らせなのでしょうか「その団体ではないかな❓」と直感的に思ったときがあり、その時、そこで色々相談していた方に聞きましたが「違う」と言い張りました。 色々学ぶ❓とか供養とか❓を進めていくなかで、その団体と明かされる時期が来たとき、騙されたと知り、私はかなり怒りました。 私は今まで支払ったお金など返してくれ、もう何も信じない…となり、やっと主人にも事の経緯を話し、警察にも話し、お金を返してもらい、戸籍謄本から、簡易的な家系図を作ってもらい、終わりました。 戸籍謄本と家系図は嫌な思い出はありますが、お金がかかったのでタンスの上の方に入れてとってありました。 2年ほど前から人を信じられなくなり、主人にも子供にも両方の親にも怨みや、良いことを思えずにいました。すべての人を憎み、嫌いでした。 今年になり、向こうの完全なる不注意の私が交通事故にあい、実家の母が脳出血で倒れ、半身が麻痺の状態で、今も入院中。 また悩んだ私は、人から聞いた算明学等から人生をひもとくところへ意をけっして行きました。 言われたことは私が家系図の事を中途半端にしたままだから、先祖が気づかせるために頼って私に信号を出してきているのだと。 戸籍謄本も、家系図も私が集めたから私がその人たち全部の苦悩を抱えなければいけないと。 今、心身ともに疲れきってひとりでこんなに抱えれません。 笑顔を出したいのにもうできません。 何を信じ、私が楽に楽しく、先祖代々よくなる方法はないのでしょうか❓ 戸籍謄本は位牌と同じだから処分してはいけないと言われましたが、おたきあげとかお寺でしてもらえないのでしょうか❓
お忙しいところ閲覧してくださり、ありがとうございます。 常日頃から不思議に思うことがあります。 現代でも崇められている、お釈迦さま、空海さま、キリストさま… のような存在は、現代では新規に現れることはないのでしょうか? 例えば空海さまは、1000年以上も21日に「お大師さまの日」として 民間でも催しが行われたりしますよね。 平成生まれの方だと馴染みが薄れてきているのかも知れませんが、 30代後半の私の祖父母や親の年代の方を見ていると、 まだまだ大衆的に馴染みがあるのかな、と思います。 そのように、一般的にも認知度が高く偉大な存在が、 明治、大正、昭和、平成の世に現れていない?ような気がします。 (無知なだけでしたら申し訳ありません。) ・現代では一般人の信仰心や目に見えないものを 信じる心?が失われてしまったため、現れなくなったのか? ・決め打ち(摂理や何某かの力により)なのでもう現れることはない? ・たまたまここ数百年現れていないだけ? などと考えを巡らせています。 長文失礼いたしました。 また、もし失礼にあたる質問でしたら申し訳ありません。。
最近,自分の心がとても貧しくなっているような気がしてなりません。 大学3年生になりました。 私は人から必要とされていたいくせに,人づきあいを面倒臭がってしまいます。 キリスト教の学校に通っているのですが,主イエス・キリストが掲げ る利他行動がどうしても実行できないのです。もしもかえってこなかったら損をしていると考えてしまいます。何かに対して確実な見返りを心が求めてしまうのです。自分の行動に対する対価が欲しいのです。ただ,それを口に出したこともありません。そのくせ,人に見返りを求められると煩わしく感じてしまいます。 人と人との関係をギブアンドテイクでしか考えられません。更に言うなれば常に人から与えられてられて生きていきたいとさえ考えてしまいます。みんな損して私だけ得をすればいい。そんな私の心情を知ってか知らずか,回りの人間は冷たくなったように感じます。いえ,もともと私のことを助けてくれる友人などいなかったのかもしれません。 大学3年間かけてつくった友人が今私に優しくないなんて,こんなの時間の無駄だったと考えてしまいます。被害妄想かもしれません。私に優しくないやつらみんな不幸になればいい,こういう考えが大半を占めてしまい,自分は貧しい人間だなあと哀しくなってしまいます。 人間不信もいよいよ極まってきました。このような匿名の場でしか悩みを吐露することができないのです。人に話すことが怖いのです。私の悩みなんて人に話してなにになるのか。 理解されないことがたまらなくこわいのです。 そして,人に相談しないくせに一人で解決できないことに不甲斐なさを感じます。 心の貧しい私は,どうしたら豊かな人間になれるのでしょうか。私のような物が社会的生物に生まれてしまったことがそもそもの間違いなのでしょうか。 自分の考えの整理もつかないまま書きなぐってしまい,たいへん読みづらくて申し訳ありません。
こんにちは、お坊さん。早速質問なのですが、ずっとやる気が起きずに困っております。原因は去年の夏にとっていた悪徳NPOでのインターンです。当初私の身の回りで不幸があったため、私は職務経験として一度でいいから世の中のために貢献してみたい、恵まれない人達に愛を与えたい、と思っていました。そんな事で、ある日学校で知り合った人を通してインターンが決まりました。その人はそのNPO法人の活動目的を教えてくれました。「アフリカの内戦で傷ついた人を助け、子供に教育を受けさせ、彼らのために清潔な水を補給してあげられるように井戸を掘る」と。しかし、実際にインターンを始めると幾つもの疑問点が湧いて来ました。第一に、誰もアフリカには行かないこと。第二に、募金のお金の行き先をはっきりさせないこと。第三に、何を質問してもイエスキリストの話しかしないこと、などなど。私は自分で言うのもなんですが、そこそこの大学に行っています。しかし、インターンは高卒程度の仕事しか任されませんでした。ある日、募金活動をしていると、親切な通りすがりの女性と仲良くなりました。そして彼女とランチに行くと、「そこのNPO法人はビジネス目的でお金を集めているだけだから辞めた方がいい」とアドバイスを受けました。私も何となく腑に落ちない所があったので、上司に募金の行き先を尋ねると、「あなたはそんなことは知らなくていい。もし誰かに募金の使い道を聞かれたら、ホームページを見てくれ、と言え。」と言われました。しかしホームページにも募金の行き先は載っていませんでした。上司の仕事内容を聞くと、どうやら政治家などにインタビューをして、それをビデオに収め上映会を開いて募金を集めるのが彼らの仕事だったようです。そして必ず、イエスキリストの話で活動内容を誤魔化すのです。私は逃げるように辞めましたが、こんなことに携わってしまった屈辱と罪悪感で鬱を起こし、授業にもついていけず、人間関係がうまく行かなくなってしまいました。だいぶ良くなった今でも、まだ、就職活動をする力もありません。どうすれば、今の状況を打破出来るのか教えて頂きたいです。
結婚して同居した夫の実家は融通念仏宗(大念仏)の檀家です。 40軒ほどの自治会のほとんどが同じ寺の檀家で、自治会の班(組)毎に檀家会の役が回ってきます。5組あるので5年に1度の周期です。 これまでは義母が檀家会の役をしていましたが、高齢のため今年の役から私が担当することになりました。 春秋の彼岸、夏の施餓鬼、11月の如来さん、年末の大掃除など、ほぼ毎月行事があり、寺の内外の掃除やお坊さんや尼講の方への接待などに終日拘束されます。 行事によって夫婦で来るようにとか女性がという風に決められるので、完全に強制です。 私自信は大念仏を全く信仰していないにも関わらずです。 これは信教の自由に違反しないのでしょうか? 自治会と檀家会が一体化していることにも納得できません。 また檀家には家柄や過去のお布施の額で格付けがあり一覧表が配られます。キリスト教などでは考えられないことです。 考えすぎて体調を壊し、離婚や引っ越しも考える毎日です。 何とか近所の方とトラブルになることなく、個人的に檀家会から抜ける方法はないでしょうか。
痛ましい心揺さぶられる事件が起きて動揺しています。多少違いますが似ていたからです。17年間も精神疾患があって暴れるからと娘を監禁した事件です。たった2畳の冷暖房のない部屋で凍死させられた娘さん。簡易トイレも不衛生で臭いもしたと思うし両親とはインターホンで会話(会話と言えるのかな?)、食事は一日1回。恥ずかしいから外にだせなかったそうですが。わたし的にはこれは殺人事件だと思っています。 この事件を知った時、私と同じめに殺された娘さんは合っていたのだなと悲しくなりました。私も、私をコントロールし思い通りにしようとした二親の仕打ちを思い出しました。でも二親によって命を絶たれてしまった娘さんですが天国にいったのです。今は幸せです。羨ましいです。今は天国(仏教では何と言うのですか?天国ってキリスト教の言葉ですよね)にいる娘さんが羨ましいです。 どうか、私の為にお祈り下さい。おこがましいお願いですが、百も承知しています。
はじめまして。阿弥陀仏を信仰する僧侶で、個人的に月数回程度メールのやり取りを通じてアドバイスしてくれる人を探しています。 私は平和とは「すべての存在の永遠の幸せ」であると考えています。 その為に現在は自分にできそうなこと(書くこと)を行っております。 が、わたしには、助言者がいた方が良いと思います。 私は弱い存在です。ひとりで努力するべきでないと思っています。 より善い存在になろうと努力しています。 今の私は、キリスト教的な教えや助けだけでなく、阿弥陀仏「すべてを救う力」を信仰する僧侶の方々による月数回程度?の助言を求めるべきだと考えました。 書いた内容に対する助言、心を善に保つうえでの助言、より善い自分になるために助言など、を状況に応じた頻度で得ることを希望しています。 貴方様を含め、どなたが助言者になっていただけないでしょうか? あるいは、どなたかご紹介いただければ幸いです。 よろしくお願い申し上げます。
ここ数年、親族が相次いで亡くなっています。 亡くなった大叔母は先祖代々浄土真宗本願寺派で、ご住職とも懇意になさっていました。けれど、跡継ぎの息子さんはキリスト教徒でした。 その大叔母亡き後、葬儀もお墓もキリスト教式でした。 お墓も先祖代々の墓を墓じまいし、他のお寺経営の大規模霊園にうつされました(息子さんの家はそちらが近い)。 先日亡くなった叔父は先祖代々真宗大谷派でしたが、奥様は創価学会の学会員です。 葬儀は学会形式(?)でした。 それぞれ個人が生前にどのような希望をされていたのか存じません。 けれど、亡くなった方の葬儀なのに、当人とは違う宗派での葬儀に疑問と不安があります。 葬儀というのは喪主の都合に合わせて行われるものなのでしょうか? 特に仏教徒だった大叔母がキリスト教のお墓に入っているの見ると、果たして無事に成仏できているのだろうかと不安になります。 祖母のように大変慕っていた方だけに、ずっともやもやしています。 大叔母はちゃんと成仏できているのでしょうか?
私は浄土真宗の檀家です。しかしいくらか私のしている霊的ワークと食い違う面があるようなのです。 1 毎日全ての命が永遠に幸せに暮らせる浄土の到来を1日何十回と祈る →浄土真宗に祈りの習慣は無い 2 敬愛する阿弥陀さまを参拝する →「阿弥陀如来なんて死後しか助けてくれないから自分の死期を早めるだけだよ」と言う人が居る(主に創○学○など) 3 信徒として、マントラでもお題目でもいいから何か功徳を積みたい(「見返り無く人を愛することは当たり前」というポリシーが強いて言えばそれらしきものです) →「ただ阿弥陀さまを信じるだけで浄土に永住できるから何もしなくていいんだよ」と、キリスト教の一部のプロテスタントのような意見がある (浄土永住に向けた生きる道での修練を知りたい) 4 仏壇の仏像には曹洞宗のお坊さんに開眼供養してもらった →浄土真宗に開眼供養は無い ↑それじゃただのインテリアになってしまうのでは… これらについて深掘り解説をお願い致します。ここまで読んでくださった方も永遠に幸福でありますように
私は今、誹謗中傷が中心のいじめを受けてます。 いじめられる動機が全く分かりません。 というのも彼らとは同じ会社で働いてる以外の接点がないからです。 誹謗中傷される理由がないのです。 知らないうちに彼らの逆鱗に触れる事をしたかもしれませんが、喧嘩は売ってないです。 こっちから悪口も言ってません。 なのに誹謗中傷され笑われる毎日、殺意も何度も湧きました。 ですが私は許そうと思ってます。 仏教では許す行為は非常に尊い行為であるとネットに書いてありました。 キリスト教にも一万タラントの負債という話があり神から大きな許しを貰ってるから自分も許してあげるべきだと言う意味だそうです。 勿論、ネットの情報なのでこれらが誤ってる可能性もあります。 許す行為はどれ程の価値、尊さがあるのでしょうか?教えて下さい。
御覧頂きありがとうございます。 カテゴリー違いでしたらすみません。よろしくお願いいたします 映画、ドラマ、アニメ漫画、小説から芸術作品まで、何にしても、見る人の感性や価値観によって大きく感想や印象、好き嫌いが変わると思います。 そこで世間、いわゆる俗世間から離れ、「一般的」とは価値観の変わった御坊さんはどんな作品のどんなところが好きなのかな?と気になりました。 絵画や写真ならまだしも、映画などストーリーのあるものとなると、やっぱり仏教観が影響してくるのではないかなと思うのです。 多くの人がたいして注目していない部分にも「すばらしい、いいね!」と感じたり、またその逆などが起こるのでは?と。 それとも、そこは特に影響しないでしょうか。 普通の作品でも、宗教ものの作品でもありがたいです。好きな作品やその作品のどんなところが好きかお教え下さい。よろしくお願いいたします (ちなみに、セイントお兄さんという仏陀とイエスの友人漫画のクチコミが、キリスト教徒からの高評価ばかりで仏教徒からのレビューはみあたりませんでした(笑)。教徒のそれぞれの宗教観の違いか、教徒の母数の問題かわかりませんが。)
何度か相談しています。優しい回答も頂き、少しずつ苦しみの真相に近づいてる感じがしています。 ヒルティと言う偉人さんの幸福論という本に、書物や人との出会いは導き、と書いてありました。良い事も沢山書いてある本でしたので、それらも合わせて信じてしまいました。当時出会った女性が導きの人だと信じて結婚しましたが、内心ではタイプの方では無く、苦しくなって直ぐに離婚しました。彼女を傷付けた事に私も大変苦しみました。神の導きに従った筈なのに、何故こんな事に?と神も信じられなくなりました。最近は、その偉人さんが間違っている事を書いていたんだな、と少しずつ理解しています。キリスト教も間違いを含んでいるな、とも思っています。必死に生きています、、辛いです。 ブッダの言葉で、修行者の行も誤って行うと地獄に引きずり落とす、とあるのはこの事だと思います。宗教の本でも誤った事を平気で書いてある事に気付いて来ました。