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検索結果: 302件

母が長くない事を聞いて以来立ち直れません。

こんばんは。夜分遅くに失礼致します。かなり前になりますが質問に答えて頂きありがとうございました。 再度このサイトに立ち寄らせて頂いた理由はタイトルの通りです。 三日ほど前に、母が癌である事、余命は二年程度である事などを本人から聞きました。母の体調が悪い事には気づいていたのですが、まさかそのような状態にあるとは思いもよらず、未だに事実を受け入れ難く感じています。 母は今まで非常に苦労をしてきたこともあって、延命治療や手術を望んでいません。私も母が長生きをしたくないと言っていたのは何度も聞いていたので、その意思を尊重したいと頭では考えているのですが、やはり心が着いていきません。 タイミングの悪いことに私自身が今、将来が決まる試験の直前期にあって元々精神的に不安定だった事もあり、ここ数日間泣いてしまうばかりで何にも身が入りません。 このまま泣いていては両親の気持ちを落ち込ませる一方な上、試験に受かる事も親孝行をする事もままならないと分かっているのですが、どうしても立ち直る事ができません。 親が死ぬかもしれないという事はどうやったら受け入れられるのでしょうか。 単純に心が落ち着く方法でも構わないので、一歩前に進む方法を教えていただきたいです。 質問というよりも相談や愚痴のようになってしまい、また長文で大変読みにくい文章になってしまい申し訳ありません。是非お答え頂ければ嬉しいです。

有り難し有り難し 9
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2021/11/01

両親を亡くして一年が立ちました。

二年前に父が余命宣告を受けました。 「話がある、早く帰って来い」 ぶっきらぼうなメッセージだと思いつつ、それに従い、いつもより早く帰宅した私。 ドアを開けると誰も死んでいないのにリビングはお通夜状態で、目に涙を浮かべながら強がる父と、すすり泣く母がいました。 膵臓ガンだと、完治する可能性は低いと、医者曰く余命は3ヶ月か半年だろうと。 母にどうしたいのかと聞くと「一緒にいたい」というので、父も母も仕事を辞めることに。 それから父と母はいつも一緒でした。 どこにいくのにも。 なにをするのにも。 「新婚みたいだね」とからかうと母は嬉しそうにしたあと、少し辛そうに笑ってました。 母は父のためになんでもしました。 外に出るときは父の荷物を母が持ち、支払いは母がして。 父が「あれが食べたい」と言えば作ったり、買ってきたりと。 そんな最後の新婚生活を送っていた時間だけはとても幸せだったのだと思います。 半年を過ぎたころ。 父の体調は一気に変化しました。 歩くだけで疲れるようになり、ベッドで横になっている時間が長くなっていき。 そして余命宣告から一年後に亡くなりました。 棺に入った父から 「お母さんがいたから半年も長く生きれたんだよ」 「ありがとう」 そんな言葉が聞こえました。 父を亡くした母はその後、大変でした。 葬儀中は気力で耐えてたもの。 昔の職場にも戻れるような精神状態でもありませんでした。 精神科にいくことを勧め。 私は普段の生活リサイクルを続けていました。 そんな、ある日。 母が亡くなりました。 脳梗塞だったと。 私が仕事に行ったあと、脳梗塞で倒れ、助けを呼べず、そのまま亡くなったのだと。 父が亡くなってから三か月後のことでした。 父の側にいた母は 父を最後まで救けていたのに 母の一番近くにいた私は 母になにもしてあげていなかった その事実だけが今も胸に残ります 母は生前から「人を騙したり、貶したり、憎んだり、憎まれるようなことはやめなさい」と言っていました。 母は自分のことを後回しして家族を愛していましました 母は私のことを愛していたのに、私は母を愛してあげれてなかった 私みたいな親不孝は生まれてくるべきじゃなかったと 母のことを想うと 自分の不甲斐なさで嗚咽がとまりません 私は生きてていいのでしょうか?

有り難し有り難し 25
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後悔が残ります

先日 叔父が亡くなりました まだ60代と若く 病気が発症してから1年という短い期間でした 私の仕事柄 叔父は冗談の様に 俺が病気なったら頼むなと言われてました 去年までは手術をしながらも まだ歩いたりする事は出来ていました 今年頭に手術後からは状態も悪くなるばかりでした 私は姪という立場でしたが相談され 節目節目に立ち合わせて貰えました 叔父に何か伝える時も 家族と相談し話しを決めてきました 余命宣告され 私は叔父の気持ちが一番だけど家族はどうしたいかを聞き総合的に判断しました 結論を出すのは家族です ただ こんなに身内に対しては動揺するのだと実感しました まさかという思いで受け入れることが中々出来ませんでした 家族から 余命宣告は伝えないで欲しいと言われたので担当医にも伝え 現状を伝えることにしましたが本人は分かっていたみたいです 深くは聞かず話しを聞いてました 色々あり 暫く会いに行けず 間を空けて会いに行くと 叔父は沢山話してくれました ○○は可愛い姪っこだよと まだまだ頑張るよ ○○の事信じてるから大丈夫だよ ○○は人の事より自分の事を考えてと言われました 私は泣きながら会話をしていました 苦しかった筈なのに逆に励まされました 仕事柄もっと何かしてあげることが出来たのではないかとただただ後悔しています 危篤状態となり 私はただただ ずっと手を擦り 温かいタオルで手を拭いてあげることしか出来ませんでした もっと話しておけばよかった もっと元気なうちに沢山会っておけばよかった 余命宣告より数ヶ月も早く亡くなりました 気持ちの準備も整わないまま まだまだ一緒に居られると思っていたから凄く自分を恨みました もっともっと ありがとうと伝えればよかった 可愛いがってくれてたのだから 素直にありがとうと言えばよかった 当たり前が当たり前ではない事 今更知りました あの光景は一生忘れられないと思います ただただ後悔だけが残りました

有り難し有り難し 13
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最後の課題にアドバイスをください

尊敬する大好きな恩師が亡くなって2年。 病気と余命宣告を同時にされる3ヶ月前まで夢を語っていた恩師。半年後に亡くなりました。この現実を受け入れることは出来ません。人はいつか死ぬと分かっていたし、元々敏感な方でした。でも、病気と余命宣告を同時にされる3ヶ月前まで恩師は夢を語っていました。なのに3ヶ月後には夢を諦め死に備えて身辺整理。恩師は自ら余命を聞き、身辺整理をし弁護士に遺言の立ち上げを頼みました。そしてもし自分が死んだらあなに貰った手紙を棺に入れるよう息子に頼んでいいかと聞かれました。妊娠中の私は、促進剤を入れる前に恩師に会いに行ってから出産しました。恩師の危ない状況を聞き、2日退院を早め、その足で恩師の元へ行きました。意識が朦朧としていたけど、頷いてくれました。そしてその日に亡くなりました。産後2日目のことで、痛みを抑えながらお葬式へ行き、自分の手で手紙を入れました。それからは子育ての日々。衝撃的な事で、受け入れる時間もなく今日まできました。あんなに夢を語っていた恩師が亡くなったことで、人の死は無条件に突然訪れるものなんだと初めて強く実感しました。普段は忘れているけどいつも死と隣り合わせなんだと。それから生きるのが怖くて、家族を失うのではないかと不安です。だから後悔しないために、常に最悪の状態を考えています。今車が突っ込んできたらこの位置は危ないとか、もしあの看板が落ちてきたら危ないから走ろうとか。父の癌を早期発見したのも私で私が家族の命を守りたいという気持ちに苛まれています。もし家族の誰かが倒れたら誰に119番を頼んでAEDを誰にどこから持ってきてもらうかなど常に頭でシュミレーションしています。それでも人は死ぬのでこの行動が全て結果になるとは思いません。もっと楽しく生きれる人が生まれたらよかったのに。死の恐怖に潰されるくらいなら最初から無でよかったのにと考えてしまいます。でも、恩師とこの世で出会えた事、恩師と過ごした時間は私にとって最高の宝物です。今までもこれからもずっと私の大切なかけがえのない時間です。恩師が亡くなってから悩んだりしても、自己解決できるようになりました。恩師の教えがあるからです。でも恩師が亡くなったことや受け入れられないこと死の恐怖に関しては悩んだままです。きっと恩師の死は私に与えてくれた最後の課題なのです。どうかアドバイスいただけませんか。

有り難し有り難し 15
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死にそうな父に、もっと息子に寄り添ってほしい

闘病1年ほど、余命数か月の父が近所に住んでおります。 近くに住んでいる孫はうちの息子だけ、息子は小さいころから働く私の私の両親にはかわいがられてきました。 中学にはいったころから、やはり思春期もあり両親の家には付いてこなくなりました。近所なのに。。と思いますがやはり思春期、友達との付き合いが大事なのも分かりますし、幾度とイライラしながらも無理に連れていこうとはしていませんでした。 先月からいよいよ父の体調が悪化し、息子にも「たまに時間があるときに顔見せるだけでいいから行ってほしい」と言っているものの自ら行くことはなく。 そして、今朝、部活もお盆休み中の息子に「じいちゃん元気がないから一緒に行ってほしい」というと、「試験前で友達と一緒に勉強するからむり」と言われました。 近所で車で10分ほど、ほんの少し顔見せるだけ、トータルで1時間もかかりません。「ちょっとでもむり?」というと、「明日試験だから」 と言われました。 悲しくてひとり部屋で泣いてしまいました。 父が死にそうなことと、息子が寄り添ってくれないこと。さみしくて、悲しくて、どうしたらいいかわかりません。

有り難し有り難し 16
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心の整理がつきません

主人が白血病になり、年明けに9ヶ月の闘病をへて旅立ちました。それから5ヶ月、小2の息子と2人で生きています。私の父も義父もすでに他界して、母と姉は主人の発症から1ヶ月で鬱になり、義母と2人で何とかやっていました。元気な頃からも、失礼な言い方ですが癖のある義母とは距離をおいていましたが、発症当初から生存確率の低い遺伝子の種類の白血病と言われていたので生活面での相談など、夫婦している時も、あなた何を言っているのか!と言われたり、一時退院のたびに主人は大好きな酒とタバコで、夜中に帰宅する主人のことを困り果てて相談しても、それじゃあ離婚すれば良い、あなたが決めればよいでしょ?と投げ捨てられたり、本人に余命が伝えられて明日退院したいと主人が言い出した時、息子との生活があり明日はできないけれど1日2日待ってくれと言っても、命のない息子の言うことが聞けないのか!と怒鳴られたり。言い訳すると、あークラクラする、と倒れるふりをしたり。余命を知らせるのもどうしますか?との医者の話に、私が、知らせたら主人の心が折れてしまうのか心配な反面、これから息子と2人の生活もあるので、伝えてもらって本人の言いたいことを聞きたいとも思うと私が言おうとする途中で、この人はどう思ってるのかわからないが、私は余命を伝えるのは許さない、と周りに投げ捨ててさっさと行ってしまったり。主人の親戚にも治る病気と最後まで嘘をついていて。聞かれて何できちんと伝えないんでしょうか?と言っても親戚がかわいそうでしょ?と言われ。おかげで、亡くなった翌日から、おばは、主人に渡していたアレは知らないか?だとか、四十九日は少し立派な食事会場でないと良くないだとか、口だけ出すだけで今まで一度も大丈夫?と電話は一本もしてきません。義母は葬儀の食事の際も、目の前の息子をさておき、義弟の子供にこれあげるとデザートを渡していたり。2人になった今関わることは無く、辛いけれど平和です。ただ、その義母が隠していたおばから毎週のように電話があります。息子だけ遊びによこせと。おば夫婦には子供がいなくて、主人が可愛がられていたようですが、生前から義母と同じく困らされていたので、連絡とりたくありません。亡くなった後も、私は全て投げ出したい中、礼儀として現況のお手紙は何度か出させてもらってますが無視されていました。心が壊れそうで息子にあたってしまいます。

有り難し有り難し 13
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先週親友を病気で亡くしました

友人は同年代で、心から分かり合える親友でした。一昨年、脳腫瘍ということが分かり、その時点で余命1年との宣告でした。 家族以外は親友の私にしか病気のことは伝えられていませんでした。 友人はその時点で他の誰とも連絡を取ることをやめてしまい、私だけが唯一の心の支えとなっていたのだと思います。 家族からも、誰にも言わないでいてほしいと言われていたので、私自身も1人で悩み、事の重さを受け止めきれずにいました。 いつ友人から電話やメールが来るのか分からず、取り乱していることも多かったためしっかりと考えてから返事をしなければと思っていたので、しばらくは外出を控えた生活をしていたほどです。 その後、私が仕事を再開したり、妊娠したこともありマメに連絡をとったり、会ったりすることができない日々が続いていました。 友人も想像していたよりも元気にしており、このままの日々が続くのでは?と錯覚するほどでした。 それが先月急変し、あっという間にしゃべることもできなくなり、亡くなってしまいました。 あまりの事に今も受け入れられず、思い出しては泣いている日々です。 そして、なによりどうしてもっと会ったり話したりしなかったのかと後悔しています。どんなに苦しく、死の恐怖と1人で戦っていたのだろう。くだらない話しでもいいからたくさんすれば良かった。 できることがたくさんあったのに、どうして自分の生活を優先させてしまったんだろう。 いなくなって、どれだけ自分にとって必要な人だったのかを感じています。 ちょうど同じころに私は出産をしました。意識が無くなるほんの数日前のことで、最後に報告できて本当に良かったと思っています。10日も早く急に出産になったのはきっとこの子が生まれたことを友人に知らせるためだったのではないかと勝手に思っています。 友人の家族にも何もできなかったことを謝罪しました。しかし、本当に心の支えになっていたと思う、ありがとうという言葉を頂きました。 それでも私の心は悲しみと後悔でいっぱいです。この悲しみを乗り越えることができるのか不安です。 こんなに深い悲しみの中にいることを友人は望んでいないと言われるのですが、頭では分かっていても心が全くついてきません。

有り難し有り難し 74
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母に感謝を伝えられなかった

今月の12日に母を末期癌で亡くしました。ステージⅣで抗がん剤も効かず6月の段階で余命1ヶ月の宣告を受けていました。母には癌の事は知らせましたが、余命の事は知らせませんでした。 母は自宅で死にたいと希望しており、7月に退院してからは在宅医療を受けていました。私は母に心配ばかりさせていた親不幸娘だったので、母のサポートを通して、親孝行しよう!と思っていました。 母は亡くなる直前までトイレは自分でやりたいと強く思っていました。胸膜へ転移していた事もあり、動くと辛そうでしたが、私は母の思いを尊重しトイレ介助をしました。容態が急変する前日もトイレ介助したのですが、母はもう呼吸が荒々しく本当に辛そうでした。 その翌日容態が急変し、夜中に母は眠る様に息を引き取りました。最期を私が看取りました。耳は最期まで聞こえていると教えてもらったので、私は母に「ありがとう」と伝えるつもりでした。しかし、「お母さん…」としか話しかけられませんでした。 息を引き取る時に何故、感謝を伝える事が出来なかったのか強く後悔しています。 これからもっともっと親孝行したかったのに何も出来なかった後悔もあります。私が母に出来た事はシャワー浴をして全身を洗ってあげた事くらいです。本当はもっと親孝行したかったのに…。 私は最期に親孝行出来たのでしょうか?母は喜んでくれたのでしょうか?毎日そればかり考えています。

有り難し有り難し 43
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