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hasunoha 問答検索結果 : 「私 宗派 」
検索結果: 2552件

家族の新興宗教狂いに困っています

お忙しいところとは思いますが、相談させて頂きたく思います。  わたしの一族は曽祖父母から80年以上仏教系新興宗教にはまっております。 先祖供養を主眼に置いて、修行をすればお寺に頼らず戒名を書けるという団体で、まぁ、継続してお金を払えば「修行」が成り立つような団体です。 そのはまり具合は様々な部分に影を落とし、わたしの直接の家系だけでも祖母の洗脳(疑問を口にした幼き叔父を殴り倒すなど)、信仰に嫌気がさした祖父(マスオさん)との離婚、母子家庭化、貧困。 更にはその流れがわたしの母の代まで来て離婚、母子家庭化、貧困を引きずってきました。 無論、彼らはわたしにも信仰を押し付けてきましたし(非常に苦痛でした)、今でも押し付けてきます。 (わたしの名前も信者として登録されており「会費」を取られてるようです) 「あの団体は我々一族に不幸しかもたらさなかったのではないか?」と以前意を決して口にしましたが、彼らはただ黙るばかり。未だに団体独自のアイテム等を買って送りつけてきます。 わたしは親戚の中では宗教的に四面楚歌です。 わたしは仏教系の大学に入学でき、日蓮宗の教義に触れる事が出来た上に、twitterなどで様々な宗派のお坊さんのお言葉を聴き、親戚一同に浸透している「教え」が如何に仏教のコンセンサスから離れているかは判ります(先祖供養をおろそかにすると罰が当たって地獄に落ちる・悪い事は全て先祖、過去世からの因縁等々)。 実家住まいなら、今頃わたしの気が触れているのではないかと思うほどです。 とはいえ、血の繋がった間柄です。母だけでも最後には「バチ」の恐怖から逃れられるようにお釈迦さまの教えはそんなチャチなものではないと精一杯説得を続けるべきなのか、母は既に70歳近いので距離をとって愛想笑いだけしておくか迷っております。 ちなみに以前、再びやんわりと件の団体を否定したところ「お釈迦さまではなく曾祖母への信仰だ」とまで言い出しました。絶句しました。 「正しいと思って」説得するなりしてわたしも母も苦しむのでは、それは思い切り煩悩による苦しみだと思います。ですので「ほっといた方がいいのかな」とも思いつつ「そんな冷たいのもどうかな」とやはり迷っています。 この件についてお言葉を頂ければと思います。よろしくお願いします。

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亡き母に再会し、謝る事は出来ますか?

初めまして。二点質問よろしいでしょうか。 ・昨年末に母の一周忌を済ませました。 母ロスと言ってしまえばそれまでですが、最近は悲しみの質が変わり、自分がいつかあちらに行った時に母と再会して胸の内を伝えられるのか不安になってきました。 生前は些細な事でなじってしまい優しくなれなかった事、過去の親不孝についてしっかり謝罪出来なかった事、目を見てこれまでの感謝の気持ちをきちんと伝えられなかった事(しかも、母が亡くなったのは私が選んだ施設での窒息事故が原因でした…) 今更ながらあれこれ後悔してばかりです。 未だこんな罪悪感に苛まれるということは、淋しがり屋の母が成仏できていないからなのではないか?私の今までの行いが、母の魂の浄化を妨げてしまっているのではないか?などと考えてしまいます。 良かったと思えるのは孫の顔を見せてあげられた事と、子どもである私が親より早く亡くなることなく 母を看取れた事しかありません。(亡くなる直前、母の耳元で「ずっと側に居るから安心して」「私はしっかりやって行くから大丈夫だからね」とは言えました) お位牌と写真に手を合わせれば、心の中で対話出来る事も頭では理解しているつもりです。が、やはり母とまた会って今度こそ感謝と謝罪の気持ちを直接伝えたいのです。追孝を心掛けていれば、この願いは叶うでしょうか? ・母は戦争孤児で、養父に育てられました。私にとってこの養祖父は、生前自分が亡くなったら今のお墓が絶えてしまう事を案じていたそうです。母が未だ元気だった頃、養父と夫(私の父)どちらのお墓に入りたいか希望を尋ねた時があったのですが、双方に気を遣ってか当時は曖昧な答しか返って来ませんでした。 亡き父のお墓については他に管理者がおり安心な事と養祖父菩提寺の奥様と母との関係が良好だった事から、私の一存にて、母は養祖父の方のお墓で眠ってもらっております。私の目の黒いうちは、父のお墓についてもしっかり守って行くつもりですが、おしどり夫婦だった両親の遺骨を、別々のしかも宗派も異なるお寺に託してしまった事は果たして良かったのか否か?両親の位牌は私の自宅で仲良く隣同士に並べてありますが、亡き父が淋しがっていないか?母はこれで満足だったのか? 今後私の取るべき方法につきご教示いただければ幸いでございます。 お忙しいところ、長文乱文大変失礼いたしましたよろしくお願い申し上げます。

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お布施の額について

このたび家族が亡くなり菩提寺ができました。本家からのご縁のあるお寺さんで、宗派は真言宗です。 お墓を建てた際にお祓いにきていただきましたがそれ以降は法事もなく、檀家にはまだ入っておりませんでしたので深いお付き合いとなるのは今回が初めてです。 昨今の時代もあるのでしょう、お葬式の際はそれぞれのはっきりした金額をお寺さんよりご提示いただきました。お布施のみお気持ちでとのことでしたが、初めてのことでわからなかったため正直に相場をお伺いしました。 必ずその金額でなくともいいですよとのことでしたのでご提示の相場より少々落とした金額でお包みする予定でしたが、私共の故人を供養してあげたい気持ちが強く、お布施をけちけちしてしまうことは故人への供養の気持ちを自ら汚しているような気がして気が晴れず最終的にお寺さんがご提示された相場の金額でお包みさせていただきました。 しかし近所の檀家さんは「あのお寺は何かにつけてお布施の要請があり、それも高額なのでお金がかかって困っている」と仰っておられ、これから長い間お付き合いをさせていただくのに少々不安が残ります。 やはりお布施は私たちにとっては高額で経済的に痛手ともなりますので、できることなら身の丈に合う金額でお願いしたい。しかし小さな集落でとにかく右に倣えの風習があり、本来他の檀家さんと同じようにしておくのが間違いないところを相場以下または大きく下回る金額ですとお寺さんの印象もよくなくなり故人の供養、今後お世話になる後続の家族の供養に差し障りがあるのではと悩ましく思っております。 お布施の額で対応が変わったり、故人の供養に影響したり、また今後私共がお世話になる際にあの家はたいしてお布施をくれないから手を抜こうなどと思われたりされないでしょうか。 どこに相談すればよいのかわからずただ悩んでおりましたため、こちらでお教えいただけましたら幸いです。

有り難し有り難し 13
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高野山真言宗の結縁灌頂のご縁とは?

こんにちは! 以前は高野山真言宗の参与会の半袈裟を着用して他の宗派のお寺に参拝しても良いですか?の質問に回答頂きありがとうございました。 その後の2020年は良いことも悪いこともありつつ概ね楽しく過ごし、高野山への参拝をエンジョイしています。 半袈裟を着用する事によって良い変化があり、それまでも自分は高野山が大好きだと思っていましたが、より身近に感じたり「私はここに帰ってくる」という気持ちが少し強くなりました。 気持ちの面で帰れる場所ができたというか…これは新しい発見でした。 「行く場所」ではなく「帰る場所」に変化して不思議な気持ちです。 今日は高野山真言宗で大切な行事である結縁灌頂について質問です。 参与会に参加しましたし、せっかくなので2020年に初めての結縁灌頂を経験したいなぁ!と思っていましたが、今年は状況が状況のため断念しました。 そこで、現時点で2021年の5月に予定されている春の結縁灌頂に参加して是非ご縁を結びたいと考えています。 …しかし疑問が生まれました。 春と秋の結縁灌頂では金剛界と胎蔵界と違いがあり、それぞれに参加してご縁を結んでも良いし、何度も参加する方がいるとも知りました。 (気持ちを新たにご縁を結ぶぞ!というのは悪い事ではないと知ったので、回数については疑問はありません) 私が疑問に思ったのは、例えば私が春に初めて結縁灌頂でご縁を結び、同じ年の秋に参加してご縁が2つできたとします。 そして次の年の春と秋に再度参加したら4つのご縁になる可能性があります。 適切な言葉がわからないのですが、ご縁の有効期限があるのでしょうか? 有効期限という言葉は全然違うと思うのですが、結縁灌頂でご縁を結ぶぞ!と思い立ち結んだ後に次に結ぶまでがご縁なのか、それとも毎年ご縁は変わるもの(増えて行くもの?)なのか?と疑問になりました。 わかりにくい説明でごめんなさい…。 つまり「今年はこのご縁」なのか、または「気持ちの区切りがご縁」なのか自分なりに調べてみましたがよくわかりませんでした。 前回の質問に引き続きとても初心者な疑問のお導きを頂ければ幸いです。

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2024/03/01

他人がやってる寺を兼務で引き受けたくない

40代独身で、500件ほどの檀家がいる田舎の寺の住職をしております。 近所の住職死亡後、やり手のない寺を数件、兼務しており、合わせると500件ほどになります。 もともと別の自宅住まいでサラリーマンをしてましたが、途中親が病気にかかり、長男で跡取りだった私に、やってくれと親から頼まれて継いだのがきっかけで、仕事を辞めて継いだのですが、もともと私は他人とコミュニケーションを取るのが苦手なので、現在寺の檀家との関りが大変で、葬式が入る都度、寺の仕事が嫌でたまりません。 そのような状態で、精神科に通院しながら、精神安定薬と睡眠薬を処方してもらいながらなんとか寺の仕事をしてます。独身の姉にも協力してもらい、私が檀家の対応全般、姉は裏で火事全般しながらどうしてもの時だけ檀家の対応・・・みたいな感じでやってます。 近所に檀家100件にも満たない兼業住職がおり、結婚してますが子供に恵まれなかったようで、私はその寺のほうるいという立場になってます。 その寺の行事を手伝っているのは私だけで、ほかにもほうるい住職が数名いますが、書類の名前だけで、何かあっても一切かかわりたくないような状態になってます。 その住職が近々危なく、後もいない状態で、その住職の兄弟などの身内はいても、皆仕事をしており、寺なんかやりたくないと皆いっております。 今後その住職はなくなった際は、ほうるいの私がその寺を兼務として引き受けないといけないのでしょうか? 今現在500件ほどの檀家の対応を私と姉で行っており、相当きつく、これ以上ほかの住職がやってる寺の檀家のめんどうまで見れません。 正直な話、もう今なんとかやってる自分の寺の檀家の対応だけでも相当大変なので、これ以上ほかの寺の檀家まで兼務で押し付けられたくなく、関わり合いになりたくありません。 こういった場合、今後その住職がなくなった際、その寺の兼務を断ることは可能でしょうか? 本山に事情を説明し、頼めばだれか代わりの住職を派遣してもらい、後を継いでやってもらうことはできるのでしょうか?

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お地蔵様。

こんばんは。 プロフィールにも書かせて頂いたのですが、幼い頃より祖父の隣で読経したりお墓参りやお供えをしたりしていました。 結婚し子供にも恵まれ、祖父が亡くなってしまったこともあり、なんとなく仏教というものと疎遠になっていたのですが、最近になりまた仏教に関心が出てきて、子供の頃なんとなく諳じていたお経の意味やその他諸々を勉強するようになりました。 まだ子供が2人とも小さいこともあり、毎日のお勤めまではなかなか継続して出来そうもないのですが、いずれは祖父のように、ご先祖様や子や人の為を思いながらお経をあげられるようになりたいと思っています。 さてご相談なのですが、無知なのでこれが仏教となにか関わっているのかさえわからなかったのでこのカテゴリーにさせていただきました。 もういつ頃から始めたのかは覚えていないのですが、多分小さい頃から祖父と墓地に並ぶお地蔵様に手を合わせたりしていて、その癖?なのか道にいるいわゆる事故等で亡くなられた方のためにあるお地蔵様にも手を合わせています。 これは結婚してからも子供が産まれてからも、祖父が亡くなってからも続いています。 運転中にも目には入ると、片手ですが手を合わせる真似みたいにして軽くお辞儀をしていて、毎回通る道なんかは、もうすぐあのお地蔵さんのところだな、と覚えてしまいました。 自分的には、もうこんなに毎回手を合わせなくても…と思ったこともあるのですが、一度やりだすと途中で投げ出すみたいで結局続けています。 しかし人に聞いたのですが、事故で亡くなられた方のお地蔵様に手を合わせたりしていると悪い?霊が寄ってきたり、なにか障りが出るんじゃないかと言われてしまい、どうすればよいのだろうかと思案しています。 この一連のわたしの行動は、仏教的にはどうなのでしょうか。 あまりしないほうが良いのであればやめようと思いますし、大丈夫なのであれば続けていこうと思います。 それとも仏教には関係ないのでしょうか。 ちなみに祖父はお寺に建つ石の柱?みたいな所にも名前が載るほど熱心な真言宗の檀家さんで、亡くなった時はお坊さんが泣いてくださるほどでした。 なのでわたしも他の宗派に触れたことはないですが、偏見や拒絶等はございませんので、是非多角的に教えて頂きたいと思います。 稚拙な文章を長々と失礼いたしました。

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お寺の娘として生まれた意味。

こんにちは。 最近は、春の陽気が気持ちいいですね。 プロフィールに書いてある通り、私はお寺の長女です。 父親がつるっぱげであることを父親参観日にからかわれた幼稚園時代を始め、実家が寺であることをコンプレックスだと感じる経験のほうが圧倒的に多かったです。母親には、「○○寺の看板を背負ってるんだからね」と言い聞かされて、それがまた鬱陶しくて仕方が無く、反抗期からはお寺のイベントは一切手伝わない子でした。田舎だからか、成人した今でも職場で実家がお寺であることを度々話題にあげられ、「そんなに珍しいのか?」と、もはや不思議で仕方ないです。普通の勤め人の家に生まれたかったです。 私の弟なんてもっと可哀想で、跡取りだから好きな道も選べず、小さな頃から不公平なくらい厳しく育てられていました。 お寺の娘にふさわしくないほど、煩悩に満ち溢れているし、優しくもないし、たくさんの人を傷つけてきました。真っ当な人生とは少し違うかもしれない、、。 しかし、成人した今、たまに思うのです。 「私がお寺の娘として産まれた意味はあるのか」と。 もし意味があるのなら、少しはコンプレックスや鬱陶しさは軽減されるかもしれません。 皆様はどう思われますでしょうか?

有り難し有り難し 67
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ゲイ(同性愛)・バイセクシャルを仏教は否定しますか?

過激なゲイのイメージや運動には正直共感できないのですが、ごく「普通」のゲイの友人がいます。社会的に他人に迷惑をかけず一市民としてのルールを守り社会的責任を果たしている以上、そのひとの人格もなにも見ずにただゲイだからという理由で否定されることには疑問を感じています。日本の社会ではまだまだ偏見も強いと聞いたのですが、仏教界ではどうなのでしょうか。 宗派問わず、一般的に日本ではどうなのかという質問なのですが、一部キリスト教やイスラムで弾圧されがちな同性愛(Abominationと強い言葉で否定されることもありSinだとされたり、一部イスラムの国では迫害をうけ罪人として投獄・殺されることも)は日本における仏教界ではどのように考えられていますか? 1.教義(仏教の教えという点からは肯定否定されているのか)、 2.現状(理論などとは別に実際にはどうなのか、仏教界に受け入れられている例などあるのか)、 3.個人的には、ひとりの人間・ひとりの僧としてどう思われるか。(どうあるべきだと思われるかも教えていただければ嬉しいです) 4.もしも1-3の質問にて否定される理由がある場合は、なぜ、否定されるべきなのかを教えて下さい。本当に率直な意見をお聞きしたいだけなので、どんな意見でも参考になりますので(世界にはたくさんの意見があってしかりなので)正直な意見を聞かせていただければとても嬉しいです。 5.日本の社会でまだまだ偏見があるというのは、なにが一番の問題なのでしょうか。ゲイのひとを現実に身近に知らないからおこる偏見なのでしょうか。 NB: 性同一障害などの医学的な病気ではなく、ここでの対象は、 ゲイ=女性・男性を問わず同性のひとのみが恋愛対象、 バイ=性別関係なしにどちらもパートナーとして恋愛対象となる、 という意味で、見かけ・態度・人種・国籍・その他諸々では区別がつかず、どこにでもいる普通のひとをさしています。(いわゆるラブパレードなどでみるような過激な服装の下品なイメージのゲイではなく、ファッション的・ゲーム的なものや、AVなどで表現されるような歪んだゲイの対象は別なので除きます)

有り難し有り難し 56
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何の為に生きているのか

何の為に生きているのか、わからなくなる時があります。 後継の為に生まれたのか、自分の人生とは何か、眠れなくなるほどです。 何故、後継の話が出てくるのかというと、私の実家はお寺だからです。 特に、ここ数年は私が後継として見られるようになりました。 私には男兄弟がおらず妹が二人だけなので、後継として見られるのは自然なことだと思っており、またそれを受け入れているつもりでした。 そんな中で、私は後継の為だけに生きているのかという思いが出てきました。 理由として、周囲の友人が次々と結婚し出したのもあり、自身の結婚を焦っていること、また、難病を発症してしまい、妊娠・出産できるかわからない身体となったことです。 もし結婚できなかったら、もし子どもが作れなかったらと思うと、後継としての意味が無いのでは?と思い悩んでいます。 それでも、まだ若い妹たち(学生)に実家を任せる訳にはいかず、ましてや実家を手放す気にはなりません。 私は何でお寺に生まれたのかと思う始末です。 これも運命ならば仕方ないのですが、今後をどうしても悲観的に考えてしまいます。 家族には迷惑をかけると思うと相談できず、自分でもこんなことで悩むなんて…と泣けてきてきまいます。 長々と申し訳ありません。 少しでも心を軽くできたらと思い、投稿ささていただきました。 よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 80
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お坊さんは、どこまで自分のために贅沢やお金を使っていいの?

誤字等あれば、ご容赦ください。 今回は、先日感じたことについて、色々なお坊さんの意見を聞いてみたいと思い、投稿しました。 聞きにくい事ですが、勇気をもって質問させて頂きます。 お付き合い頂けるお坊さんがいてくれたら幸いです。 自分は先日、菩提寺に行った時に、住職の車が外車なのを知りました。 よく回答して頂いているお坊さんなどはご存知だと思いますが、その時精神的に沈んでて、「外車かよ…」と悪く思ってしまいました。 というのも車整備のバイトをしたこともあり、日本の車道にはやはり日本車があっていること知っていて、実用面よりブランドで選んだ、執着しまくりじゃんと思ってしまいました。 今振り返ると、大人気ないです(-_-;) ただし、お坊さん達は、お坊さん達が上等なものを持つという事に対して、どういう考えをお持ちなのかは、ふと気になることがあります。 「お坊さんだって好きなもの欲しい」「お金があるならいいだろう」というお坊さんもいると思いますし、自分もある程度はいいと思います。 ですが仮に、全うに稼いだお金が潤沢にある一僧侶や一寺院が、ロールス・ロイスやリムジンを持ったとしても、同じことが言えますか?と考えてしまいます。 例えば、超貧乏な檀家さんを前にして。 テレビに良く出演されているある方は、ある宗派の本山の金文字入ったキャデラックに、追い越される際、全身土埃浴びせられ、追いついた際「あなた達の開祖は貧乏な人々に寄り添い、信仰を集め広めていったのに、弟子であるあなた達はなんなんですか、そのヤクザみたいな金文字入った高級車は必要なんですか」と問い詰めたそうです。 清貧であるべき、節度があれば、自身の金なら無問題など、それぞれに仏教的回答があると思いますし、正解があるのかもわかりません。 多分お坊さんによっても考えが違うのではと思います。 ただ、だからこそ現在に生きるお坊さん一人一人の考えを聞いてみたいと思いました。 そもそも、あなた人を金だけで見ないようにでも結構です。 可能な範囲で結構ですので、回答頂けると嬉しいです。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 201
回答数回答 5