こんな夜中に投稿してる自分はなんだかなぁと思います。 ずっと婚活していて、今日は婚活支援をしてくれてるお寺に行ってきました。 小さなお寺で親身になってくれるのが良いなぁと思い、誘われるままにご住職やお寺の若いお坊さんと法話会の後にお食事してました。 最初は和やかな感じだったのですが、お酒も入って、、。 お坊さんの言ってること、仏教的なこととかって割と世間的にはただの綺麗事だよねって、弾かれちゃうのが多数派なんだよねみたいな話しになりました。 私はえーっ?って思って、たとえ少数派の綺麗事でも、多数派に揺さぶりかけた方がいいですって酔っぱらいながらも援護したらつもりでした。 なのに、ご住職さんに「主張が強すぎて彼氏できなそう」とか私が好きで良く坐禅を組んでいるお寺の宗派に対して「あの宗派偉そうなんだよね」など、あん?と思える発言ちらはら。 すみませんただの愚痴ですm(_ _)m 別にお坊さんだからどうとか、美化してないけど、なんで上から目線?とげっそり。 挙句にひとまわり以上歳下の婚約者とラブ雰囲気を醸すご住職。 4人の少数飲みでマジきつい、なんで自分呼ばれたのかな。。 婚活してると、たまに、超上から目線で色々言われます。 「今までさんざん好きなことをしてきたくせに」「子供を欲しい人は35以上の女性を選びませんよ」とか。 お寺じゃなくて普通に公共の機関でも言われました。 それらの説教質問の後に、どんな人がいいの?とか年収いくらがいい、とか聞かれても答える気になりません。。 わー、すみません、愚痴がスパークしてますm(_ _)m。。。 デリカシーないひと撲滅。。 おやすみなさい。。 お寺も仏教も坐禅も大好きなのに。
長い文章になるかと思います。 私は、保育園の頃から今現在を含め、友人が一人もいないのです。 何せ田舎育ちで保育園~中学まで同じ人同士での生活です。私は保育園の時にはもういじめられていますので、中学卒業まで我慢しました。 自分で言うのもあれですが、相当のいじめを受けたと思います。いまだに両親にも誰にも伝えていません。 その時間のせいでしょうか、私はとても嘘をつく人間になってしまったようです。 これに気づいたのは最近で、助けが欲しく精神科に行った際に何について悩んでいるか・体の不調・好きな食べ物や職種まで全て嘘をついてしまいました。ただでさえ少ないお金を無駄にしてしまいました。 今までを振り返ると、保育園の頃には既に親や先生の顔色をみて過ごしていましたし、つい最近も職場の後輩に陰口を言われて自傷にはしるようになりました。 辛いときどうすれば良いのかネットで調べても、自分を変えろ・信頼できる友人に・病院・電話相談…など私には全て不可能なものでした。 冒頭にも言いましたが、友人はおりませんし、これ程までに辛いのに自分を変える努力は出来ません。病院や電話相談は嘘が口から出てしまい、もう恥ずかしくて同じ病院には行けません。 このままではいつか自分が自ら死ぬような気がして、おぞましいです。 自分の宗派の教えが自分を否定しているような気がして悲しくなります。 ここで違う宗派の方のお話しが聞きたいです。よろしくお願いいたします。
最近仕事で行き詰まり、休職中に仏教に興味を持ち始めました。 仏教の基本的なところから、宗派の特徴など見て、なんとなくですが真言宗にひかれ、信仰してみたいなあと思うようになりました。 ですが、実家は地方で、現在の私の家には仏壇も無く、近くでお世話になっているお寺さんもありません。私自身全く宗教に関わってきませんでした。 そこで疑問に思ったことなのですが、 ①真言宗を信じている一般の方はおうちで何をしますか?お坊さんほどの修行をされない一般の方は、おうちでするのはお経を読むくらいなのでしょうか。(日々のおつとめ?というのでしょうか。教えてください。)また、それは一日何回ですか? ②家に仏壇が無く、またスペースも収入も無いので購入も難しいです。おつとめする時は何もない場所でやっても大丈夫ですか?また、かわりにこういう物でも良いよというのがあれば教えてください。 ③お寺さんとはどうご縁を結べばいいのでしょうか。電車で1時間で成田山に行けるのですが、頻繁には行けません。近所に真言宗のお寺がないので、行けそうなときに成田山に行く、でもかまわないでしょうか。 初めての質問なので読みづらかったらすみません。 よろしくお願い致します。
これまで割と異性関係は苦労はしてなかったのですが 前の彼女と別れた時 2人の認識の違いから別れたのですが 学校中にあらぬ噂が広まり それ以来人と話すのが怖くなりました もともといじめられてたのも原因だと思いますが 以前は本当の自分を見せるのが怖く無意識に嘘をついていたこともありましたが その時はまだ無理すれば話せる感じでした でも今は言葉が出なくなるといいますか、 黙ってしまう感じです 3人以上いると会話に入れず そこにいるだけな感じです それからというもの以前のように 女の子から話しかけられることはあるのですが 少し怖いというか悪い想像をしてしまうようになって… おそらくなにも悪意はないとは思うのですが それでも言葉で表しにくいなにかが怖くなります つまりです 僕が質問したいことは 好きという感情がどういうものだったのかと わからなくなりました 人を好きになること 人に心を許すこととでも言えますが とにかく自分以外だったら誰にも当てはまります 家族も例外ではなく ご意見をお聞かせいただけたら幸いです
お寺に関われるような仕事がしたいと思っています。 私は中学生くらいからずっとお寺が好きでした。某有名パークよりお寺に拝観に行きたい、と親にねだるような少し変わった子供でよく不思議がられました。 進学の際も大好きなお寺の近くに住みたいという理由で奈良県の大学を選び、日本史や日本美術を専攻しながら、様々なお寺を巡って過ごしました。 就職する際、何かお寺に関われる仕事がしたいとぼんやりと思いながらも、詳しく調べる訳でもなく、人生の安定感を求めて現在の仕事についてしまいました。 働いて数年が経ち、今後の人生について考えた時、やはり何かお寺に関われる仕事がしたいという気持ちが捨てきれません。 お寺の方から見て、私の様な人間が出来る職業は何か思い浮かびますか。 しかし、失礼ながら、私の好きは信仰心というよりは学術的な興味であり、特定の宗派や寺院に対して強いという訳ではありません。なので、可能で有れば複数の寺院と関われるような仕事を理想としています。
こんばんは。前回はたくさんのご回答有難うございました。また質問よろしくお願い致します。 瞑想の仕方についてお教え頂きたいです。 心は何に集中していたらよいのでしょうか?雑念がすぐに出てきて嫌なことが浮かんだり、しょうもない事が浮かんできそうです。 時間はどれくらいするものなのでしょうか?1回1時間くらいなのでしょうか? 宗派によってもやり方が異なるのでしょうか? 過去のご回答の中に答えがあったかもしれませんが、今一度よろしくお願いします。
お坊さんや、宗派によって答えが分かれると思うので、複数の回答をお願いします。 ①人間の死んだ後の魂の居場所はどこですか? まず、人は死後の魂は入魂儀式で位牌のに入るのでしょうか? 例えば49日に白木位牌から本位牌に「入魂」します。だとすると「遺骨」には魂は宿ってないんでしょうか?遺骨に魂が宿ってないのなら、お墓は単なる納骨施設で、お墓参りする意味も薄れてしまいます。仏壇の位牌に毎日手を合わせる方が遺族にとっても、亡き人にとってもいいと思います… 遺骨に魂が宿っているから、お墓の下で眠っていると信じてお墓参りにも行くし、また自分が死んだ時に一緒にいたいと思うからこそ家族は同じお墓に納骨するのだと僕は思いたいです。もし「位牌」に魂が宿っているなら、位牌もお墓に入れるべきですが、お墓→遺骨 仏壇→位牌というしきたりになってますよね… 死者の魂の本当の居場所はいったいどこなんでしょうか? ②極楽往生と輪廻転生 輪廻転生説:人間は死んだら、その人生の記憶は全部消されて白紙の状態に戻されて生まれ変わるんでしょうか?プラスチックやペットボトルのように、何度も0に戻ってリサイクルされるように、人間も全く別物に生まれ変わるのでしょうか? 極楽往生説:それとも浄土宗の教えのように、極楽浄土で過去の人生の記憶を持ったまま、自分の家族や大切な人と永遠に過ごせるのでしょうか? 僕は生まれ変わらなくていいから、極楽往生説を信じたいです。 大切な家族との思い出も、大切な人さへも、自分が誰だったのかさへも忘れてしまうなんて、余りにも虚し過ぎます(涙) 質問は人間の死後の「魂」についての上記2つです。 宗派や考え方でお坊さんによって違うでしょうが、複数のお知恵を拝借願います。
先日は質問に対しての丁寧な回答をありがとうございます。 今回は写経について質問させて下さい。 私は時々ですが、自宅で写経をしています。 ホントは毎日やりたいのですが、 なかなか時間が………💧 で、この写経を何処かで奉納させていただこうか……と思い、昨日の京都旅行に持って行ったのですが、聞くに聞けずにそのまま持って帰って来てしまいました。 そこで質問です。 自宅で写経したものを、どうすれば奉納出来るのでしょうか。 直接行くのはもちろんですが、郵送でも出来ると聞いた事があります。 もちろんお寺の宗派や、あと、御布施?御心付?が必要かと思います。 お手数おかけしますが、 教えてください。
先日亡くなった祖父の誕生日が明後日です。まだ仏様になっていません。生前好きだったものをあげたいのですが、どうすればいいのでしょうか。豆腐とお酒を遺影の前に置くだけでいいのでしょうか?教えてください。
私は現在、40代独身で、地方の田舎寺で住職をしております。 親の跡を継ぎ、20代で仕事をやめ、本山での修行を終え、僧籍を取得後、何もわからない状態でお寺の世界に入りました。 元々父方の祖父母が寺をやってまして、その後は父が継承し一人でやってましたが、その父も途中病気にかかり、頼むからそろそろ継いでほしいと頼まれたのがきっかけでした。 母は檀家の紹介の見合いで寺に嫁いできて、私と姉が産まれ、結婚後は祖父母と同居しながら檀家の対応までやってましたが、慣れない子育て、田舎暮らしや檀家の突然の訪問などが重なりうつ病にかかってしまい、見かねた父が寺からかなり離れた場所に家を建ててそこで暮らしてました。 私も姉もそちらの一般住宅育ちで寺とは全くの無縁な生活をしてました。 そちらで就職してしばらく働いたのち、寺を継ぐことになったため、姉も仕事をやめ、現在一緒に寺を手伝ってもらってます。 実をいうと、私も寺を継いだものの、人付き合いが元々好きではなく、葬式での檀家との付き合いなどが毎回大変で、精神的に参ってます。 私も姉も独身で、今後結婚は難しく、60ぐらいで還俗し、他人への継承を考えてます。 幸いなことに檀家数は400件前後(近所の住職無住寺を複数兼務でやってます)いて、経済面での苦労は全くありません。 実は、ほかに懸念していることがありまして、私がほうるいになっている近所の住職のお寺の跡継ぎがいません。結婚してても子供がいない寺と独身の高齢住職の寺があり、両者檀家数は150件前後なのですが、そのあとを私にやってほしいみたいなことを言われてます。 書類上、私がその寺のほうるいになってるのですが、私自身の寺の檀家の対応だけでもう精一杯で精神的に参っており、これ以上はとてもじゃないができません。 近所の独身の高齢住職がそろそろあぶなく、一番若い私がその寺の檀家の対応をまた兼務で押し付けられるような感じになってしまうのではないかと心配でなりません。 本来ならその住職が跡継ぎをなんとかしておきべきなのですが、もう高齢化で仕事もできなくなりつつあります。 私の寺は、あと10年くらいしたら本山か宗務所に声をかけて次の跡継ぎ候補を探してもらい、60前には住職を辞めて、姉と寺を出ていこうと思ってます。 高齢住職の寺とはもう関わりたくないのですが、どうしたらいいのでしょうか?
はじめまして、 高校生の息子についてのご相談です。 将来の夢は僧侶になることで 私はあまり詳しくは無いのですが お経の勉強や仏教関連のことを 詳しく調べたり、毎日自作の仏壇?に お勤めしたりしています。 そこまでは いいのですが、高校の勉強は 将来役に立たない、 今の学校(理系)には合っていない、 この学校に行く意味ない とか言い始めて困っています。 私が、 大人になってから 自分で好きにするのは自由だよ、 今は目の前にある勉学に 勤しむべきだと伝えても 教義を持ち出し 私からすると屁理屈を言い出します。 当人は屁理屈とは思っていなくて 私が間違えてるそうなのです。 私は僧侶になることに 反対しているわけではなく、 今は 仏教に関係ないことも 学んでおくことは大切だと 考えております。 入学してから理系が向いて いなかったと感じているのも そのことに 拍車をかけているように 感じます。 まだ高校生活が 始まったばかりで 3年間続けられるのか不安です。 対応のヒントを お願いしたく 質問させていただきました。 よろしくお願いします。
私の家系は先祖代々浄土真宗です。 父は本家から独立して遠く離れた地域で家庭を持ち、近隣の浄土真宗のお寺の檀家になり、私たち子供と暮らしていました。 その父が数年前に他界したので新たにお墓を建てたのですが、近隣の浄土真宗のお寺(檀家となったお寺を含む)や無宗派の墓地に良いところ(空き区画や立地)が無く、色々考えた末に生前父が好きでよく登っていた山の中腹にある真言宗のお寺にお墓を建てました(浄土真宗のお墓を受け入れてくださる真言宗のお寺でした)。 ですので葬儀場で行ったお葬式や自宅での法事は浄土真宗のお坊さまに来ていただいてますが、お墓への納骨の際にはお墓のあるお寺の真言宗のお坊さまに真言宗のお経を読んでいただくことになりました。 私はこの縁で真言宗のお経に少し興味を持ち、今では般若心経を覚えて唱えることもできるようになりました。 ただ、家系的に浄土真宗ですので実際にお墓等で般若心経を唱えたことはありません(浄土真宗では般若心経を唱える必要がないとの教えを少し理解しています)。 今後も自宅の仏壇や法事では唱えるつもりは無いのですが、真言宗のお寺に建っている父の墓前で般若心経を唱えて良いのかを迷ってます。 実際に納骨の際には真言宗のお坊さまに真言宗のお経を唱えていただいた事実もあるのですが、浄土真宗家系の私は、それでも父の墓前で般若心経を唱えるべきでは無いのでしょうか? ご縁で真言宗のお寺にお墓を建てたことですし、父のためにもなるのであれば唱えたい気もしています。 どうかご教示頂けますようお願い致します。
この度46歳の若さで実姉が他界しました。葬儀は東本願寺の系列のお坊さまにお願いし、お経と、法名をいただきました。私の住む近くに系列のお寺さんがある事を教えていただきそちらに納骨、ご供養お願いするつもりでした。ところが母が学会員という事で、三重県のとても不便な学会員専用の納骨堂に納める、法名は処分すると言い出し、今母と姉の遺骨の件で分裂しています。宗派不問の永大供養のお寺さんもあるようですのでそちらも当たってみようと話しましたが、聞く耳を持ちません。現在遺骨は母の家に安置してあり、私の家族、友人姉の恋人みんな近い方がいつでも行けるし、お母さんもいつでも会いにいけますよ、三重は遠すぎますよ、と、説得してくれましたが、五万円で永久に見てくれるし、私はもう嫁に行ったのだから、母と姉の問題だと譲りません。母が入る時にその三重に姉の遺骨も一緒に安置できるようにするから、それまでは近くでいつでも行ってあげたい、と言っても全く耳を貸しません。分骨も拒否されました。遺骨がなくてもお寺さんはご供養してくださいますか?また、法名も新しく、黒のお位牌に掘っていただかないといけないのですが、それを処分するなんて私には考えられません。学会員は母だけで、私たち姉妹は学校を出てからは無宗派です。
こんにちは。 以前Googleで自分の悩みを検索したところ検索結果にこのサイトが出てきたことがあり、それ以来hasunohaを毎晩のように拝見しています。お気に入りのお坊さんをブックマークしているほどです。 生まれた時から仏教徒で、お盆やお参りなど特に考えずそのマナーに従って生きてきましたが、一方で神や仏、また心霊などの類は一切信じないたちです。 しかしながら倫理哲学の勉強は非常に好きで、現在もっとも興味があります。 きっかけは数年前心身共にとても傷つく出来事があり、以来リラクゼーションやアロマ、音楽など、私生活で自己を労る環境を整えていきました。しかしそれらは頭の中、つまり思想の面では自分を疲労から救ってはくれず、そのとき仏教が自分にとって非常に重要なものではないかと気づきました。(軽率な発言続いており誠に恐れ入ります。。) hasunohaをみているうち、信じるか信じないか、お祈りが届くか届かないか、極楽浄土に行けるか行けないか以前に、自分で自分を生きやすい方向に調整していく、大変学びの多い学問でもあることを理解しました。 長くなりましたが質問したかったことは、仏教を学ぶ上でビギナーの私におすすめできる学習方法を教えていただけませんでしょうか。 下記何でも構いませんので、回答いただけると嬉しいです。 ・おすすめの著書(専門用語が多すぎない、噛み砕いてある、原版の理解にふさわしい) ・近所のお寺に通うことも考えたが、用もないのに門を叩いて説法してもらうことなどはできるのか? ・合宿のような形式で学ぶ方法はあるか。どうすれば受けられるか。ある場合、実家は曹洞宗だが宗派を超えても学習はさせてもらえるか ・↑に似ているが、短期的に修行を受けることはできるか。どのお寺でもできるのか?できるお寺はどうやって探すのか ・その他いい方法があれば 可能ならば僧の方に直に毎日少しずつお話を受ける形式が望ましいですが、自分の周りでそう言った人は見かけないし難しいのでしょうか... よろしくお願い致します。
恋人が亡くなり、もうじき49日を迎えます。 49日を迎えると、成仏すると言われていますが。それが永遠の別れの別れとなるのでしょうか。 今ふと彼の気配を感じることがあって、勿論勘違いもあるかもしれませんが…💦、こういったことは無くなるのでしょうか? 写真や心の中で彼に話しかけることもあるのですが、今後は控えた方が良いのでしょうか? 寂しい気持ちから毎日のように泣いていたり、彼の面影を探して好きだったお店に行ったりメールを見返したり、友人から写真を集めたりと、周りから心配されるような行為をしてしまっています。 ですが、彼を留まらせる気は勿論無く、天国で幸せになって欲しいと思っています。 ただ、ご自宅やお墓参りに伺うことが難しい関係のお相手なので、今後どうやって彼の幸せを祈って良いのかわかりません… また私自身もどうすれば、気持ちを落ち着かせていけるのか… 彼のご実家の宗派は浄土真宗だと聞きました。 ご回答よろしくお願いします。
初めて質問をするものです。 3日前に祖父が突然他界しました。祖父は金物の職人で、趣味は仕事と車でした。性格は優しくて、誠実。堅物ですが、家族を何よりも1番に考えている人物でした。 突然死で亡くなる前日に祖父と普通に会話をし、亡くなる直前まで仕事をしていました。そして、好きな車の中で亡くなりました。 急なことで驚きが強かったですが、現在は少し落ち着いて祖父の死を受け入れつつあります。 そんな時に思うのが、10年前に病死した祖母のことです。 祖父と祖母はあの世で出会えているのか心配です。 私の家の宗派は浄土宗です。あまり宗教に詳しくないので極楽浄土がどんな所か想像が出来ません。 祖父は祖母が亡くなってから寂しかったと思うので、出会っていて、楽しく過ごして欲しいのが私の願いです。 あの世や極楽浄土があるなら祖父と祖母は出会えているのでしょうか? そして、私や他の家族が死んだ時、また家族みんな出会うことが出来るのでしょうか? お答えして頂けると嬉しいです。
仏教をテーマにした、お坊様オススメのマンガはありますか? 以前、オススメの本の質問へのご回答で、朔ユキ蔵さんの『お慕い申し上げます』を挙げられていた方がいらっしゃいました。 連載開始時に気になっていたので読んでみたいと思います。 私は最近のWeb連載マンガで、小林ロクさん『ぶっカフェ!』という作品が好きになりました。 宗派の違う三人のイケメンお坊さんが、仏教に触れられるカフェを営む4コマ漫画です。作者さんがよく調べられていて勉強にもなります。 手塚治虫さん『ブッダ』、中村光さん『聖☆おにいさん』も読みました。どの作品もそれぞれ素晴らしいです。(語ると長いので省略します!) 他にもお坊様からのオススメのマンガがあれば、と思い質問させていただきました。 よろしければ、ご回答をよろしくお願いいたします。
このサイトにくるのもしばらくぶりになります。私は寺の生まれで、後継ぎとして育てられたから、仏教には親しみを感じて育ってきましたが、好きなこと本当にやりたいことは他にありました。 最近仏教の専門書はだいぶあったのを、実家の寺に送り返そうかと思っています。大量の本仏教書だけは処分するんじゃありませんよと母が言っていたから。 最近仏教のSP盤聞いて思ったんです。懐かしいなとは思えど、唱えたくないなと。今の坊さんの魚酒肉とか女とかの事情は在家とはあまり変わらない部分がありますが、(これは宗派によって違うかもしれない。私は浄土宗です。) これは還俗したほうがいいんでしょうか?また還俗は最近その概念がなくて僧籍返上というらしいですが、これはどうでしょうか? 一遍上人は(私は元時宗)還俗したあと再出家したそうですが、そういうこともまた可能なのでしょうか? 余談ですが、私の妹たちも得度を受けて?受けさせられて?いましたが、僧籍登録は妹たちはしなかったそうです。
私は中1の時に長崎県の五島市から長崎市にきました。 五島にいた頃は家の近くにお寺とキリスト教会と2つあり今となれば変な感じですが、どちらにも良く行っていました。 長崎市に来てから五島には一切帰る事を許されることが無く、お盆にお彼岸に正月にと時間は過ぎていくばかりでした。 修学旅行と高校受験の時と、グループカウンセリングの時の3回だけお寺や神社にお参りした事を覚えています。 それから好きな人が出来ました。彼の仕事は僧侶で、浄土真宗という宗教だそうです。 全く分からない全く触れた事もない話しをされると頭がパンパンでした。とても不安でした。 『ごめんなさい。よく分かりません』と言うのが怖かったのです。 最近は少しずつですが彼の仕事に対してちょっと興味が湧くようになりました。 勉強とまではいきませんがネットで彼が言っていたあの言葉は何だろうって調べるようにもなりました。例えばですが、門徒さんとか。 でも彼は正月ですらお参りに行かない、宗教に関わる事も無い私を好きでいて不安にならないのでしょうか? とても悩んでいます。
十年来の悩みを解決するためにあちこちの寺社を巡り、現世利益を説かない浄土真宗(現生十種の利益というのがあるのは知っていますがそういうのじゃなくてもっと即効性のある即物的な現世利益が欲しい)を辞めてまで理想の宗派を探している者です。 ただ、割と現世での救いに力を入れて説いていらっしゃるイメージがある日蓮宗のお坊さんに聞いても「現世利益とは久遠本仏を悟り安らかさを得ること」という答えだったので、ちょっと仏教における現世利益を根本から考え直さなければいけないのではないかと思ってしまった次第です。 歴史的に浄土系は来世にしか救いがないと批難してきたはずなのに日蓮系自慢の現世での救いも心の安らかさを得るだけなら浄土系と五十歩百歩ではないのか(阿弥陀念仏だって心の安らかさは得られますから)。 結局のところ仏教における現世利益ってどこの宗派も「直接的に奇跡が起きて悩みが解決するわけではないが、心の持ちようで悩みが軽く感じられるようになる」程度のものなのかと思えてきました。このあたりのお坊様方の現世利益の捉え方(具体性の程度)をお伺いしたいです。 仏教に願いを叶える現世利益は無いとまでは言い切れないでしょうが、自分の努力で一進一退を重ねても最後の決め手に欠けるという時にずっと傍観していた神仏が最後の一手だけ手を貸してくれるというようなものだと思った方がいいでしょうか?