色々な宗派に興味があります それは非難される事ですか? たとえば臨済宗のお経が好きですが、曹洞宗の永平寺の修行にも興味があります また、いつか宿坊に行ってみたいと思いますが煙草やお酒を飲むのでこんな人間が宿坊になんて行けないと考えてしまいます 幼稚園、高校と仏教系で仏縁はあると思っています
子どものころからお寺が好きで、いつかちゃんとした形で、仏教を勉強してみたいと思っていました(とはいっても、頭を丸める覚悟はありませんが…)。 最近、「東京国際仏教塾」という仏教の基礎を学べる塾(https://tibs.jp/)があることを知り、数年のうちに入塾してみたいと考えています。 ただ、1年間のカリキュラムの後半、「宗旨専門課程」でどの宗派(天台、真言、浄土、真宗、臨済、曹洞、日蓮)を選んだらよいか迷っています。 ・実家は天台宗。 ・でも、子どものころから真言宗大好き人間。 ・7年前、本当に苦しいとき、お大師様のご廟をお参りし、そのあと事態が少し好転。助けていただいたと感じた。 ・父方は、どうやら日蓮宗と縁浅からぬ家系らしい。 ・最近、ある方に勧められて、自我偈と観音経を毎日お唱えするようになり、法華経の力を感じている(具体的に書くのは控えておきますが、不思議な経験もしました)。 別に出家しようとしているわけじゃないから、どれか一つに飛び込んでみればよいだけなのでしょうけれど、お坊様でしたらどのようにお考えになるか、伺ってみたいと思いました。 さして深刻な内容でもない、気楽なご相談で、大変失礼いたします。 どうぞよろしくお願いいたします。
ブッダの教えに救われ日々意識して生活しているけれど ◯◯宗派とかが多すぎてよくわからない場合も 仏教徒といえるのでしょうか? 明確に◯◯宗派の信者だ、と言えないとダメでしょうか?
私は元々浄土真宗で、結婚しても浄土真宗です。 ですが、主人の母方の祖父が天台宗の僧侶でした。祖父はもう亡くなり、今は主人の叔父が お寺を引き継ぎ僧侶をしております。 身内には相談しにくいのでこちらに相談させていただきます。 私が主人に出会った時には 義祖父は亡くなっていたのですが ここ最近 5年間排除していたテレビが引っ越しにより復活し、世の中の情勢を耳にし、目にして 天変地異、殺人、事故などで亡くなるニュースが絶え間なく流れていて 死について深く考える事が増え、そんな時、テレビの見る番組を制限し、空いた時間を 義祖父の執筆した本やなどを読む時間に充てるようになりました。 義祖父の本を読んでるうちに天台宗に興味を持つようになり 先日、義祖父が得度した延暦寺や、他 天台宗のお寺を廻って来ました。 仏像も大好きで 自分の守護本尊が大日如来様なので 延暦寺で大日如来様を目の前にした時は 感動というより 感謝 でした。 自分が矛盾しているようですが、宗派は天台宗が好きで なのに 私は浄土真宗、、、こんな矛盾 しているのが 自分でよくわからなくなり、 でも、元は インドの仏陀から始まっているのだし 問題はないのかな と思うのですが 宗教、宗派関係なく 好きなものは好き で構わないのでしょうか? 全ては自分の心の中に留めて 自己流の信仰をすればいいのでしょうか?
宗教は自分の考えで選ぶ事が出来るのでしょうか? ある人から創価学会への入信を勧められています。 私の実家は禅宗です。違う宗派の家に嫁ぎましたが離婚しました。 この場合、実家の宗派に戻るのか?新しく自分で選ぶのか?判りません。その家に伝わる宗教は先祖と自分を繋ぐ絆のような気がするので新たに自分の代から変えるのは不安です。 自分で抱えきれないような悩みがある時,人はどうして乗り越えていくのでしょうか?
外国育ちでよく理解できていないのですが(変な質問ですみません)、祖父母はすでにおらず宗派などもわからず(お墓も不明)、両親も檀家などではないのでお世話になっているお寺もないのですが(あえていえば考え方としてこころにとめている宗派はあるのですが直接信者などというわけではない)、こういう場合、お葬式などでは宗派など聞かれた場合どうしたらよいのでしょうか。キリスト教のように洗礼を受けたりというのもないようですし、たとえば、天台宗の思想がとても自分の考えにちかいからそこでお願いしたい、などそういうことをしてもよいものなのでしょうか。またある宗派の信者になるということは仏教ではどういうことなのでしょうか?(海外の宗教とは違うのでよくわからず、くだらない質問で本当にすみません)
先日、パートナーに連れられて念佛宗という宗派のお寺の無量寿寺という所へ一般参詣で参加してきました。 広大な敷地に煌びやからな装飾に圧倒され、更にはこの建造物は韓国の人間国宝が制作した、今まで各国の要人が訪問して仏像を奉納したなど自慢とも取れる内容の説明が多く、これまでの仏教に対するイメージが良くない方向に傾きました。 これまでの物を建築するのにいくらかかってそのお金の出所は。 調べてみると入信するのにも40万近い御布施をし、毎月二千円ほどの支払いをしなければならないが他の宗派もそうなのか。 私のこれまでの考えによるものでは金額は御布施する側によってその多寡が決められるものであるし、決して宗派から金額を明示されるものではないと思ってまいりました。 そして念佛宗こそ仏教の総本山であり、幸せの答えはここにある、極楽浄土にも行けると断言されておりました。 上記の事から私の不信感は強くなり、帰宅後パートナーと話し合い今後どうすれば良いのかわからなくなりました。 近い将来、結婚も真剣に考えていただけに一晩中話し合っても答えは出ず。 私としては確信がないもののこういった布教活動をする宗派は信用するに値しない、パートナーにやめてほしいがそれは強制するものではないし出来ることではないと思います。 そしてパートナー自身(両親に連れられて小学校低学年から入信)やめる気もないし、完全に信じていると言っていました。ただ私の言う事も理解が出来るし、説得はしたいが教えの内容は伝えられない。だから入信して話を聞いてもらいたいと。その結果、信じられなくてやめてもいいと言っていました。 しかし念佛宗にはもう関わりたくないというところが本音です。 ちなみに私の実家は浄土真宗で幼い頃に何度か話を聞いた経験があり、仏教自体に偏見もなく、その教えや歴史に興味はありました。 また、これまでに高野山のあるお寺で奉仕させて頂いた経験もありますが、凄く高尚な地で好意的な印象を持っていただけに、今回のことが残念でなりません。 良い宗派だと感じられれば入信も考えておりました。仏教を学ぶに良い機会だと。 念佛宗は仏教の総本山を謳っていますが、日本の他宗派の僧侶の方々はどうお考えでしょうか。 無量寿寺建設の費用はどこからなのでしょうか。 パートナーとの関係について何かアドバイスがあればよろしくお願い致します。
私はお寺参りが好きで色々なお寺に行きます。宗派関係なく、お寺の雰囲気が好きであちこち出掛けます。 私にとってはワクワクしてしまうのですが、節操なく色々な宗派のお寺にお参りに行くのは失礼でしょうか。
初めまして、くろたと申します。 知りたい事を検索していた最中、此方の場所を知ったのも何かの御縁だと思い質問をさせて頂きます。 質問タイトルの「子」というのはわたしが当てはまるのですが、母が真言宗、父が臨済宗、という様にそれぞれが違う宗派に身を置いています。 しかし、その子どもであるわたしと姉はどこにも属しておりません。 両親に直接「この場合わたしたちはどちらの宗派になるのか。父方の方になるのか」と質問をしましたが、どちらも「好きにしなさい」との返答でした。 ですがこの事で余計に迷ってしまい、姉とも話し合いましたが宗派の違いについて良く分からないことが多く、未だ答えは出ていません。 「両親の宗派が違う場合、子はどちらを継ぐべきか」 「実際に宗派を決める時の注意点やアドバイス」 「どうすれば宗派に属する事ができるのか」 以上三点について、回答頂けたらと思います。 どうぞよろしくお願いいたします。
義父が数年前にお墓を購入しました。 実家から近くとても見晴らしが良い所でした。 義父は末っ子なので分家になります。家系は天台宗ですが購入したお墓は日蓮宗だそうです。葬式も日蓮宗でやると言っています。 主人は長男なので私達もそのお墓に入ると思います。先祖代々の決めた宗派をコロコロ変えても良いものですか? あと離婚し名字をそのまま変えていない義妹もそのお墓に入れると言っています。大丈夫ですか?
先日親が他界し自分の家の宗派が解らず、葬儀屋さんに実家の仏壇の写真を見せて浄土真宗大谷派と判断して頂きその宗派で葬儀致しました。その数日後宗派が本願寺派とわかり以前にお世話になっていたお寺さんもわかり早速お寺さんに相談し最初は連絡無しに引越ししてしまいお寺さんにお叱りを受けましたが満中陰法要をお引き受けして致けました。 その満中陰までの間に親が元々住んでいた所が好きだった事からその町内のお寺さんの敷地内の墓地を契約しました。ただその墓地のお寺さんは法華宗でそのお寺さんいわく他の宗派のお寺さんも墓地に来てもらってお経唱えて頂いても問題ないですよと言われました。 その事を今お世話になってるお寺さんにお願いしたらウチはそれは致しませんと断られそこの宗派の違うお寺さんに今後面倒見てもらってくださいと突き放されまた。。 私自身は宗派に拘りなく親戚も僕に一任しております。 ただ先祖代々続いて来た浄土真宗本願寺派をここで変えて良いのかなやんでます。御葬儀の時も大谷派と間違えたのにどうして良いのかわからないのでアドバイスよろしくお願い致します。
見ていただきありがとうございます。 タイトル通りの質問をさせてください。 私は自分に(普通に生活をしているだけですが)仏教徒という自覚があり、 出来れば自分がどの宗派であるのかも名乗っておけるようになりたいのです。 私の母親(母方の家系)は曹洞宗であり、 父親は宗教全般が合わないと感じるのか無宗教を名乗っています。 私が継いでいるのは父方の家系なので、本来であれば 祖父(故人)の宗派である浄土真宗を名乗るべきなのでしょう。 しかし、浄土真宗は私と考えがあまり合わず、 葬儀での作法も少し面倒になるそうなので、親戚への負担を 考えると納得がいきません。 唯一父方の家系で生きている父方の祖母が天理教に傾倒しており、 会って口を開けばお前は馬鹿だという罵倒や学歴の話とマルチ商法などの 話ばかりをする人なので…連絡を取りたくないです。 父親も私も今はそれを避けるようにして父方の家系とは疎遠です。 そこで質問なのですが、 私はどの宗派を名乗り属せばいいのでしょう? 好きにしてしまってよろしいのでしょうか? 墓地や寺に関してはいつも宗派不問のところに お世話になっているので大丈夫そうなのですが。 可能ならば、考えが合う人や優しい人が多いと感じる 曹洞宗に属したいのですが…
以前も似たような質問したのですが回答が少なかったので、もう一度質問させてください。 私は仏教が好きなのですが、どの宗派が自分に合っているか決めかねています。 だからどの宗派を信仰しようかと悶々と悩んでいるのです。 そこでお坊さんに聞きたいのです。 所属する宗派のいいところはどこか? どんなところに惹かれて信仰しておられるのか? 不躾な質問でごめんなさい。
義父が3年前に亡くなった直後、どこの宗、お寺にてお経を読んでもらうか、生前義父が言っていたことを忘れていて、同じ真宗ですが、最近葬儀を行った宗派とは違う宗派でした。 義父が亡くなる3年前に義母が亡くなった時、義父が言っていた宗派と違う宗派で葬儀をしたので、 義父が亡くなった時、義母と違う宗派の葬式はまずいと思って、そのままその宗派で葬儀をあげました。 それで、せめて分骨だけでもと思いまして、調べたら檀信徒のみ納骨できるとのことです。 私たちがそこの宗派の寺の檀信徒になれば納骨できるなら、宗派替え、お寺を替えないといけないと考えてます。 替える場合、今のお寺さんにはお墓も作ってないのでお墓もなく、檀家というほどの付き合いはありませんが、どう言ったらいいのでしょうか。 また、宗派替えまですることもないのでしょうか。 生前、嫌がられてもはっきりと聞いておけばと後悔してます。
私の婚家は真宗(東本願寺)なのですが、傾聴の会で知り合ったお坊様は浄土宗です。 何度かお話しするうちに心安くなり、私の性格や心情をお汲み取りいただけて信頼をしています。 万一私が亡くなった場合このご住職にお葬式をして頂きたいのですが、違う宗派のお坊様でもお葬式をしていただけるのでしょうか? ご住職にその旨をお話したら、承りましたと仰ってくださいましたが、主人の両親や親族がどう思うかわかりません。数年前に大病をして以来、最期の時のことをよく考えますが、お葬式の時ぐらい私のことをよくご存じのお坊様にしていただきたい、末期の望みですが叶うのでしょうか? エンディングノートにはご住職の名前を書き、必ずこのご住職にと記載してありますがいかがなものでしょうか? よろしくおねがいします。
仏教では 宗派が違うとあの世で別れ別れ 霊になっても生き別れになる と言う解釈になるのですか? 私は歴史小説などを読むのが好きです そこで出てきた話ですが 徳川家康が亡くなる前、病床で藤堂高虎(伊勢国津藩主)に対して 「宗派が違うからあの世では会うこともできない、今が名残惜しい」 のようなことを言い 藤堂高虎が 徳川家康と同じ宗派に改宗した と言う話があります。 これは 仏教では当たり前の考え方ですか? もし仏教ではなく、結婚や養子縁組などで 相手の宗派だけでなく宗教そのものまで違っていた場合 あの世ではもう会えないという考え方が一般的なのですか? ちなみに 徳川将軍家の菩提寺は 増上寺と寛永寺があったと思うのですが 宗派は違います。 どちらに葬られるかはそれぞれの将軍が遺言を残していたと思うのですが 先代将軍と違う寺に葬ってほしいと遺言した場合は 父親、兄、養父などには会えないで構わないという気持ちだったのでしょうか? そうなると 徳川家の血筋で かつ 江戸時代後期は 養子縁組を繰り返した 会津藩の場合は 代々仏教ではなく 神道でしたが 養子に出る→死後は親に会えない と言う覚悟が必要でしたか?
夫が急死しました。 50歳前とまだ若かったため、葬儀や宗教のことなどあまりよく話あわないままでした。 葬儀に際して、夫の兄弟が宗派のお寺に連絡をとってくれて無事に葬儀は済みましたが、その後の法要をお願いするにあたり妻である私に入信するように言われ、夫の供養のためにと思い入信しました。 (結婚した当初に宗派の話はでましたが、戒律が厳しいので無理に入信しなくてもいいと夫に言われ、その時は入信しませんでした) 夫自身も特に熱心な信者ではなかったため(お寺には行かなくても、墓参りなどはまめに行き先祖供養には熱心でした)私もあまり夫の信心する宗派のことをよく知らないままでいました。 しかし葬儀を行い、その後の供養のことなど確認すると、他の宗派に比べて色々と違うことがあり戸惑うばかりです。 そもそも私自身にその宗派の教義に心打たれての入信ではないから、その決まりごとの多さがなんだか狭量な気がして仏様とはもっと心が広いものではないのかとなんだか悲しくなってしまいます。 とはいえ、若くして亡くなった夫のためにきちんと供養はしてあげたいとう思いも強いです。 四十九日も近づき、仮祭壇を返却する日ももうすぐです。 色々用意しなければいけばいのに、仏壇がその宗派専用のものでなければいけないとか、位牌はおかないとかの決まりごとがいちいち気になって気持ちが滅入ります。 供養は残されたものの気持ちなのだから、私の好きにしたらいいんだという思いと夫をきちんと供養してあげたいという気持ちがせめぎあって夜も眠れません。 どうしてもっと一般的な宗派を信心してくれなかったのかと今は亡き、夫の両親をうらめしく思う気持ちさえわいてきます。 熱心でなかったとしても夫が入信していた宗派の戒律を守り、そのしきたりに則って供養するのが正しいことでしょうか。 それとも戒律に違反しても私がこんなふうにしたい、というやり方で供養してもいいのでしょうか。 何卒ご教示ください。
いつもありがとうございます 前回母が余命一ヶ月と言われたと相談したものです。 私たちや、医者の先生の予想を裏切り、たった8日で旅立ちました。病状も安定してると言われ、直前まで好きなものを食べ、具合が悪くなって数時間で苦しい時間も少なく皆んなに看取られて旅立ちました。 本人の希望で、葬儀は無宗派で、ご住職も呼ばず家族だけで母を囲んでお話ししながらおくることになりました。 お墓も散骨して欲しいと生前から強く願っていたので希望を叶えてあげたいと思います。ただ、私たちの気持ちの区切りのため通夜、葬儀の形式をとり、位牌は作るつもりです。 参列するのもたった数人、お経もほとんどなくですが母は導かれていけるでしょうか まだ気持ちの整理もできてなく、乱文で申し訳ありません。
例えば浄土宗の檀家で、普段は念仏を唱えているけれど、ときどき座禅や阿字観に参加したり、お護摩に参加する。 そう言う人が知人に居ます。 私の場合、浄土宗で冠婚葬祭も勤行も、阿弥陀様メインではありますが、同時にお不動様と大黒天様に惹かれ、こちらも勤行しています。 (浄土宗のお寺にも多くは無いですがお不動様をお祀りしている所があるので、大きな軋轢は無いだろうと思いました) 最近、一般向けの仏教の啓蒙書でも、そうした「宗派にこだわらない」立ち居地から仏教を紹介している本も少なくないように思います。 私も、とある有名な仏教解説者の影響を受けて、こうした立ち居地が、個人的に合うように思い、そうしてきました。 ただ、色々と仏教を勉強していると、「そうした信仰はよくない、宗派は1つに絞るべき」と言う意見にも、しばしばぶつかります。 最近では、浄土宗の檀家の私が、護摩に参加するぐらいならともかく、結縁灌頂まで受けるのはやり過ぎかな? と悩んだりもしています。 お坊様は「宗派にこだわらない信仰」についてどう思われますか? この質問は聞きずらいですし、お坊様がたもお答えしずらいかもしれませんが、「宗派にこだわらない」一般仏教啓蒙の影響を受けた者には、けっこう切実な悩みです。 よろしければ、ご意見を伺えたら幸いです。
いつも拝見し、様々な方のご質問やお坊さん方のご回答を読ませていただいては多くを学ばせていただいており、ありがとうございます。 初めて勇気を出して質問させていただきます。。。 少しずつ本を読んだり話を聞かせたいただいていますが、まだまだ初心者です。 本来ならばいずれかの宗派に特化して学ぶべきなのでしょうが、まだそこまで絞れておりません。 少し学んだレベルなのですが、自力の仏教も他力の仏教も頷かされることが多々あります。 どちらの仏教も並立するんやないかなと思うこともあるくらいなのですが、他方、それぞれで相反する考え方もあります。お経さんでも同じです。 元はお釈迦様から始まった同じ根っこなのに何故なんやろう…と不思議でした。 これは、対機説法、応病与薬が具現化した結果だと理解するべきものなのでしょうか? そうであるとするならば… 浄土真宗では、煩悩はなくならず、自力では決して救われず、悟ることはできないと聞かせていただいています。 他方、禅宗では、煩悩を減らして行き修行を重ね悟りに至ることを目指すものと認識しています。 ということは、人それぞれによって(対機)、自力で救われる人もいれば他力で救われる人もいる、 煩悩のままで救われる人もあれば、煩悩を減らして(なくして)救われる人もいるということでしょうか。 どの様な人に、どの様な説法=教えが適切なのでしょう⁇⁇ 屁理屈の様な、ド素人の、アホな質問で大変恐縮ですがご教示頂けますと有難いです。 もしかして過去にどなたかが似た様な質問をされて回答がある様でしたら申し訳ありません。 宜しくお願いいたします。