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hasunoha 問答検索結果 : 「先生 人生 」
検索結果: 1657件

子供をこの世にうむことの是非

はじめまして 最近、正信掲、歎異抄、大無量寿経、スッタニパータを読んでいます。 読んでいて、不勉強ゆえ以下の疑問が湧いています。 子供を作ることは、愛すべき我が子を、厭うべきこの世に呼び出す行為とも思われ、子を思えばこそ作るべきではないように思えます。以下、詳述しますのでどうかご指導ください。 ブッダは、欲望の支配からの自由、ひいては輪廻転生からの解脱を説かれます。 その前提として、人(を含む生き物は)煩悩具足の凡夫であって、他の生物を殺生し食べねば生きられず、醜い体をもつ哀れな存在だと捉えられていて、「再び母胎に入ることのないように」と仰います。 つまり、私達が子供を作ると、上記の哀れな存在を生むことにはならないでしょうか。子供を作らねば、輪廻転生の苦もなくなるのではないか、と思えているのです。 しかも、子を遺して自分が世を去る時後ろ髪を引かれ、絶つべきこの世への執着が、子供の存在によって強まるようにも思えます。 確かに、「人身受け難し 今既に受く」「大海に浮かぶ板の節穴から盲た亀が顔を出すより難しい」とも言われます。しかし、これは、どうせ生まれるなら、他ではなく、仏法を聞ける人身に生まれることの有難さを説かれたものであって、生まれること自体の素晴らしいとのお考えでないようにも思えます。 また、生まれることの幸不幸は本人の捉え方次第とも思われます。しかし、もし子が生まれ、「生まれたくなかった。なぜ厭うべき仮の世に産んだのか」と言われたら、答えに窮してしまいそうです。 この問に答え得るブッダのお考えをご指導ください。できれば、それが書かれている文献の名前と場所(第何章のどの辺りか)もお教えくだされば幸甚です。 どうか、宜しくお願い申し上げます。 (以下、ご参考です) 一五二 さまざまな欲望の対象への、深層の欲望から超脱するようにせよ。そうすれば、もはやふたたび母胎へ入って輪廻転生することはなくなるであろう。(スッタニパータ 荒牧典俊著) 二三五「過去の業は絶えた。未来の業もあり得ない」と、賢者は、来世に執着せず、種子を絶やし、自己存在の芽を未来にまで伸ばしたいとの願いを捨て、油の切れた灯のようにふっと消えてしまう。 三三九 二度と輪廻の世に舞いもどってはならぬ。 三四〇 たえず身体に注意を向けて、その醜さを思い知れ。厭い離れる心に満ちてあれ。

有り難し有り難し 67
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生きる意味がわからない

最近、どうしてここまでして生きなければならないのかわからなくなりました。 イジメで同級生に家畜以下の扱いをされ存在否定され、病気になってもなかなか周りからの理解を得られず、苦しみながらそれでも生きてきました。 ハッキリ『あぁ、私は周りにとって家畜以下なんだ』と実感したのはレイプされてからです。親は私をひどい言葉でセカンドレイプしましたし医療関係者からもひどい言葉や行動をされました。 最近まで通っていた心療内科の医師は私を半ば人体実験していたとさえ思います。きちんとしたインフォームドコンセントもなく、診断も下されたこともない重篤疾患と同じ量の薬すら出されていました。 周りの私への対応、メインは親と医師ですが、彼らから感じるのは私の存在が如何に迷惑か、不幸にしているかを痛感させられています。 親は私にことあるごとに『私だって辛い、貴女が世界一辛いと勘違いしないで』と言われました。私からすると理解もされず一人で苦しんできた部分はたくさんあります。その上で不妊治療で体調を崩した母に必死に元気になってもらいたいと学校での辛さ孤独さを全て隠して笑顔でその時は接してきました。私のその努力はとても力不足だったかもしれませんが、私も私なりに苦しみながら生きてきました。その後も私からすればいつも私は色んな愚痴聞く役で私はそんな愚痴をいう母を心配させまいとずっと辛いこともこっそり涙してきました。でも両親は私の愚痴をいつも聞いていた、と思っているみたいでしょっちゅうメールでやり取りを私に内緒でしています。何度もその内容は見ました。母が携帯が疎くしばしば私が操作を頼まれるからです。今日も私の愚痴のやり取りしていました。 もう私の存在価値はないことも十分承知していますし、所詮家畜以下扱いを受けるに等しい、人権も保証されなくて当たり前だと言うのも承知しております。それなのにどうして死ねないのでしょうか?

有り難し有り難し 61
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仏教徒に対する疑問パート7

前回の質問で回答したお坊様に言いたいことがあるんです 実は僕は丹下様が薦める瞑想をやってるんですよ 瞑想やってて気づいたんです 瞑想で雑念を払いリラックスしてるとヒッグス粒子みたいな赤や黄や青の粒が見えてきて そしてその状態でいるとだんだん神妙な気分になって 我欲の全てがその粒の流れと共に消えていく感じになってボーっとするんです その状態でいるとだんだん無になってく感じで無になったような瞬間 瞑想してたことも忘れたかのようにハッとしてまたさっきの状態に戻るんです この繰り返し まるで息を吸って吐くように 煩悩と悟りが交互でくるように 蕎麦食ってまた腹へって蕎麦食ってまた腹へってそれを繰り返してたら なんで腹減らなきゃいけないんだなんで蕎麦食べなきゃいけないんだ 誰がそんなルール先に作ったんだってなりません? そうなると人間もこの世界も全てを先に作った原因と結果だってなりますよ でもそれを作ったのは?それすらも作ったのは?それすらも作ったのは? こうなると原因はわからないでもなんかの原因と繋がってて結果が出る 因のわからない果の法則じゃないですか そうなると悟り開いても原因はわからないでもなんかの原因と繋がってその結果で煩悩が湧くと思うんです この因のわからない果の法則が悟りであればなぜ人は煩悩があって生まれるのか?それが煩悩ならば悟りは諸行無常で形を変えただけの煩悩ではないのか? それが量子力学みたいに悟りと煩悩なら両者とも同じ境地にいるのではないか? とにかく悟り開いても原因はわからないでもなにかの原因と繋がり煩悩が湧くと思うんです この因のわからない果の法則や因果関係は実体があって悟りは空だから悟り開けばそことは無縁になれるってぶっ飛びすぎじゃないですか? 実という原因あっての結果の空なんですから その空に行ったお釈迦様の前に過去仏がいるって変ですよね それが居座る場所をまるで因のわからない果の法則がすでに結果となって作ったような 因のわからない果の法則や因果関係から解脱できなければ悟りと煩悩は共存し続けると思うんです だから悟り開いたお釈迦様は梵天に煩わしい娑婆の世界に行かされたと お釈迦様が煩悩のない悟りを開いたと証明できないなら そんな人は全知を知りえないそんな人の教えは瞑想を神格化して ありもしない悟りという虚像の神を拝んでるだけじゃないですか?

有り難し有り難し 112
回答数回答 7
2025/08/09

信用できないお坊さんがいる

私は仕事柄お坊さんと関わることがあります。 お会いする多くの方は本当に良い人ばかりで、宗派は様々あれど皆さんそれぞれに仏教を大切にされているのが伝わってきます。 また、そういった方々から仏教の話を聞かせていただくこともとても楽しいです。 しかし、お会いするお坊さんの中には人を傷つける様な方もいらっしゃいました。 セクハラをしたり、人の噂をあることないこと言いふらして評判を下げたり、あからさまな言いがかりで人を怒鳴りつけたり、そんな現場にであったこともありました。 そういった方々に出会うと悲しくなります。 お坊さんも1人の人間で完璧な存在ではないということは理解しています。 それぞれに性格があって考え方も違うものを持っているということも分かります。 ただ、仏教に日常的に触れていながら何故人を傷つけたり、尊厳を傷つける様なことをするのだろうと疑問に思います。 私は今の仕事にやりがいを感じており、色んなお坊さんたちとお話しするのも楽しく仕事を続けたいと思っています。 ただ、前述した通り時折傷つくこともあるので仕事を変えようかと悩むことが増えました。 どのように心の折り合いをつければよいでしょうか。 アドバイスをいただけますとありがたいです。 よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 49
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これからの母との付き合い方

初めて相談いたします。よろしくおねがいします。誰に聞いてよいかわからず、悩んでおります。 私の母のことなのですが、心の持ち方についてご教授願いたいと思っております。 両親は私が15歳の時に離婚し、それから母親だけで育てられてきました。ちなみに私は一人っ子です。 大学、大学院はバイトと奨学金でなるべく母には迷惑をかけずに勉強し、就職後は毎月母の収入以上の仕送りをしています。 母は私が就職をしたころから、依存するような発言をしており、それが不快です。 また私の生活に色々とアドバイスをくれるのですが、その発言が耳障りでつい辛く当たってしまいます。 母の面倒は生涯に渡って見るつもりでいますが、何か納得してないような気がしています。 心のどこかで、両親のせいで貧しい思いや嫌な事があった上に、就職してからも仕送りをし続けている私は何のためにこんなことしているんだろう?と考えています。 見返りが欲しい訳ではないのですが、私が苦労する(労力を使う)意義が母親のためだけなのか?と思うとやりきれないです。 自活してちゃんと働いて生活しているのに、どうして色々言われないといけないのか。と思ってしまいます。 最近私が結婚して、母がより一層私に依存してきます。 今は別々に暮らしていますが、いずれ一緒に住むと思うと不安です。 どのような心の持ち方をすれば、母に優しく接することができるようになるか教えて欲しいと思います。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 108
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南無阿弥陀仏をおとなえする意味について

私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。

有り難し有り難し 742
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葬式をあげてほしくない

死後の事についてご相談があります。 私は宗教という考え方やそれに基づいた慣習、イベント自体は好きですが、私自身が何かの宗教に属することは避けたいと思っています。 私の知る上では各々の宗教の考え方と私自身の観念が合うことが少ないからです。 ただし、宗教のパロディである空飛ぶスパゲッティ・モンスター教には共感いたしておりますので、自称するときはパスタファリアンを名乗っています。 そこで、私が死んだ後、葬式をあげてほしくないと思っています。 特に仏教式の葬式です。 なぜなら、戒名をいただいた時点で、仏教徒になってしまい、仏教という枠に囚われてしまうからです。 悟りも輪廻も御免被りたいです。 衛生的な観点からは火葬自体はしても構わないのですが、法律が許しませんが、できればその後はゴミ箱にでも捨ててもらって処分してもらいたいと思っています。 家族にそのことを話すと、死んだら終わりだから死後の事など心配するなと言われるのですが、そうではなく、私がそのくくりにとらわれてしまうことを決定づけられることが不服なのです。 死後の世界云々は信じておりませんが、生きているうちはそのことが囚われであり、心配であります。 ただ、信じずとも無いことの証明は極めて難しい以上、ある可能性は0ではないというのが論理であり、公理です。 (論理、公理とは数学上の意味です。) ですから、その0ではない可能性で、仏教の枠に入ることで、悟れなければ輪廻を繰り返してしまうという観念に囚われてしまっているのです。 ただし、重ねて申し上げますが、悟り自体は御免被ります。 渇愛は人間の人間たる、また、人間の動物たる所以と思います。 私は人間らしさを捨てたくはありません。 仏教に従事していらっしゃるお坊さま方には相容れない考え方かも知れませんが、これが私の中の公理です。 さて、これは私の考え方を変える努力をして見たほうが良いのでしょうか? それとも、家族を説得するようにしてみたほうが良いのでしょうか? 相談する相手を間違っているような気もしますが、意見を伺えるかもしれない機会を捨てることはないと思い、ご相談差し上げます。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 412
回答数回答 14