六道輪廻では、ヒトと動物を明確にカテゴライズする立場があるかと思います。(あくまで大雑把な区切り、とする見解があることは知っております) 遺伝子工学(ヒトの遺伝子を含んだブタの誕生、デザイナーズベイビーなどの事例)やペット葬儀が発達する昨今、葬儀をすべき生命としなくてもよい生命の区切りを、どのようにお考えでしょうか? もしその区切りが恣意的なものであれば、無縁仏は困るから供養してくれ!みたいな話は一体なんだったのでしょうか?というか、過去の葬儀文化そのものが、疑わしく思えてしまいます。 まさに諸行無常や諸法無我を見える化するような技術が、更に発展していく見通しです。仏教界は死刑制度などの発信にも慎重なようですが、個人的には今こそ仏教の出番だと思います。 https://www.google.com/amp/s/www.kyoto-np.co.jp/articles/amp/149140 そのあたりは、どんな状況になっているのでしょうか?宗派ごとの見解というより、お坊さん個人ごとの発信ばかりを目にします。組織的な働きかけを期待して待つのは、間違っているのでしょうか? よろしくお願い致します。
今まで死んでしまいたいと思ったことが何度もありました。 辛すぎてその辛さから解放されるために死にたい、嫌な気持ちや嫌なことから逃れるために死にたい。と思っていました。 でも最近は特になにか大きな出来事がった訳でもなく、ただただ生きる気力がわかず死になくなります。 最近20歳になりましたが、私は幼い頃から何故か全然大人になりたいと思えず、大人になることが寂しく感じます。どんどんなにかが無くなっていく感覚です。 成人すると税金、年金など、今まで以上に生きるためにお金が必要になりますが、そんなお金を払ってまで生きる必要が私にはないと思います。 ほんとに何も価値のない人間なんです。 生きる気力がないです。 たった20年でなんだかすごく疲れました。 それなのにこの先も、疲れることしなきゃいけないなんて本当に嫌です。 周りと同じように生きていけない=普通じゃない=人間じゃない そんな感覚です。 じゃあ死ねばいいのにと思われていると思いますが、何故かほんとに行動に移すことは出来ません。 まだ人生いい事があるかもとかバカな期待をしているんでしょうか。 自分の気持ちもいつからか全くわからないんです。 こんな感覚でこんな感情なら死んでも同じな気がします。 どうしたらいいですか。 何をどうしたらいいのかも分からないのですが、1番楽になれる方法が知りたいです。
お世話になってまります。 先日私の父が、事故に遭い他界致しました。 私も母も大好きな父と会話出来ません。 私の二人の兄たちは、色々あって手配や準備をしてくれています。私も父の弟、私の叔父も手伝ってくれてます。 私は母のサポートを任されたのですが、逆にパニックになり、母を逆に困らせています。 私だけ、何も出来ず心を痛めてる状態です。 私はこれからどう受け止め、進んでいけば良いでしょうか。 よろしくお願い致します。
現在、うつ病の治療を受けながら人生再起を賭け、お世話になった看護師の方を見て自分と同じような人を救いたいと思い看護専門学校の受験に奮闘しましたが結果は第一希望の学校を二回受験するも不合格、次は来年頭の1月と受けるなら2月の計二回が最後の受験。もしこれがダメなら自殺を決行したいと考えてます。正直いうと受けずに自殺を決行してもいいかなと考えてます。葬儀代も合格したら払う入学金等を使用すればいいかなと思ってます。 私は昔からの夢で人の為、お国のために命を捧げる覚悟で自衛隊に入隊しましたが志半ばで挫折しずっと後悔が残っており今回の受験失敗で看護師を諦めたらもう目指す物が無いです。精神保健福祉士もいいかなと考えてはいますが自分は一度目指したものを挫折すると何時までも引きずる人間なので仮に精神保健福祉士になっても看護師になることは諦めきれないし、精神保健福祉士なるにしても看護専門学校同様受験もあるから勉強は辞めれない。両方落ちたら何もない棺桶に入って燃やされるだけ。 自分学生時代はいじめられ、社会人になってもパワハラ、いじめでうつ病になり今生きている意味、産まれてきた意味がわかりません。たまたま家にあった霊鑑を見てみたら自分が産まれる前に何人か水子や流産しており自分もそうなっていれば今苦労してなかったと思いますし、母にもおろしてくればよかったのにや産まないでほしかったと伝えてますが産まれて20数年たっているので意味はないですが...お金もなく予備校に行きたくても行けない、産まれてきて苦労しかなくしまいにはうつ病発症で無職になり生きている生きている意味がわかりません。人生は山あり谷ありと言うが私の場合ずっと谷底で這いずったままで、あの世で言ったらこちらは魂の修行場であり越えられない壁は神様仏様は与えないと言うが私の場合ベルリンの壁のような分厚くて高い壁しかありません。しかも自殺したら修行の放棄だと言って天国にも地獄にも行けずさ迷い続けると聞きました、現世でこんなに辛い思いをしてるのになぜ死んでリセットできないのでしょうか?世の中現世もあの世も理不尽すぎる真面目な人間や優しい人間が何故自分と同じ様に潰れて、努力は実らないのだろうか?自分が死んだらあの世で居るかわからないが神、仏を倒して説教して次こそまともな人生をおくれるようにしてほしいし無理なら今、現世で助けて欲しい、死こそ救済
嫁姑の問題が警察沙汰にまでなり こじれにこじれ、主人は私と共に 姑から離れました。 まさに絶縁状態になりました。 しかし姑は超高齢。 主人は実の息子ですから もしもの時に後悔のないよう 連絡は取るように言っていたのですが、、、取り合ってくれません。 義母と連絡取り合ってた親戚から 「最近連絡取れない」とのことを聞き 主人に連絡とるよう伝えましたが 「何かあれば連絡くるはず」と言われてしまいました。 高齢の義母の側には義姉がいたので 安心はしていたのですが、その義姉が とんでもないことをしたんです。 . 絶縁状態ですから私のことも主人のことも 許せない気持ちだったのかもしれません。 でも、それでも連絡してほしかった、、 しかも親戚にも義母の弟にも、孫にも誰にも内緒にしていました。 あり得ないことです。 . おそらく昨年の5月ごろに入院し、8月に亡くなっていたんです。 あまりに連絡取れないので戸籍謄本を取り寄せて知りました。 . あまりに非道で 怒りというより 許せないというより 気持ちの整理がつきません。 . もう誰のことも恨みたくないのに 気持ちがついていきません。 お墓も某宗教のやりかたで埋葬したようで墓参りもできません。 . それでも御供養がしたいのです。 色々という言葉では片付けられない関係ではありましたが御供養したいのです。 墓にも行かれず、仏壇もない。 どのように御供養したらいいのでしょうか? 主人の後悔の深さを想像すると心配になります。 . 何卒よろしくお願いいたします。
子供の頃から続く希死念慮に悩まされています。 昔はこんなことを考えては駄目だとできるだけ自殺など考えないように してきたのですが最近その気持ちが段々大きくなって抑えきれなくなりそうです。 2年前、以前違う会社に勤めていた時、両親に 「どうしても昔から死にたいという気持ちがなくならない」と相談して両親に 「死ぬのだけはやめてくれ、頼むから生きてほしい子供が親より先に死ぬのは間違ってるし最大の親不孝だよ」 と言われ親には悲しんで欲しくない、せめて両親を看取るまでは生きようとその時は思いとどまったのですが希死念慮は薄れることはなく両親を悲しませたくないという気持ちだけで耐えています。 両親を愛していますし、恩も感じています。 ですが、できれば私以外の子供を産んで欲しかったなどと考えます。 私は生まれてきたくはなかった、存在していたくなかった。 自分で自分を責める癖も影響しているのかも知れません。 今年転職したのですが、うまくやらなきゃという強迫概念に捕らわれ逆に初歩的なミスをしたりしてしまい、さらに気をつけなくてはと思うの繰り返しでどんどん自分が嫌いになってしまいます。「まだ来たばっかりだから~真面目だから大丈夫」と言ってくれる職場の先輩もいますが自分はでも何回もやってるのになぜできないのだろう?と家の中でも仕事の事について考え、心が休まる時がありません。 それにメモをとり家でも仕事について考えなるのは真面目だからではなく そうしないとついていけないからです。 果たしてこれから先やっていけるのだろうか?という不安と早く楽になりたいという気持ち、そして両親に悲しんでは欲しくないという気持ちで心の整理が追いつきません。
生きてればいいことがあるというが、それを楽しみにもがき苦しむのが限界で消えたいです。 一方で、今まで良くしてくれた両親に申し訳なく死ねません。 希死念慮に近いものが毎日わたしを襲ってきて、何をしても楽しくなく、暇な時間は損害賠償で両親を苦しめることもない死に方を考えることに費やしています。 精神科にも通っていますが自殺未遂がないので、投薬と規則正しい生活をと主治医から言われるのみです。 規則正しい生活と言いますが、生きる希望もないので食事、水を飲むことすら億劫です。 薬を飲んでも希死念慮は消えることなく、強制的に眠ることによって解決を先延ばしにしているだけかもしれないと最近は思います。 希死念慮は本当に死にたい訳じゃなくてこの永遠に続く苦行から逃げ出したいというのが本質だとは思っているので、色々転職しました。 ただ周りの目を気にしすぎる、希死念慮が渦巻くこのマインドのせいか職場ではミスの連続かオドオドで試用期間でクビはザラ、プライベートも何をしていても楽しくない。 マインドが原因なら!とマインドセットのため未来を憂うことなく今だけを感じその中で精一杯頑張れる方法、考え過ぎないようにする方法を探し、散歩、瞑想や日記をつけたことがありますが続きません。 継続できないことに関し自分で自分を客観的に見て、言い訳するなんておこがましいと思い、さらに自己嫌悪に陥ってしまうことに気づき、できなかったという事実のみを見るようにし、できた日はひたすらに褒めることを繰り返していますが、疲れました。 自分が動かないとと何も変わらないと思って必死に自分を鼓舞してきましたが、鼓舞して苦しんでの繰り返しに疲れてしまいました。 死ぬのはとても怖い、両親の悲しむ顔は見たくないけど、その1歩がわたしとってはすごく眩しいです。 唯一の希望の光に見えます。 ①繊細な人、所謂HSPや希死念慮は消えることはなく付き合っていかなければならないものだと個人的には考えておりますが、消えることはあるのでしょうか。お考えや付き合い方についてご意見をお聞かせ頂けませんか。 ②調べ、憂れ、考えることだけしかせず、実行、継続しない、穀潰しで怠け者の私の尻を叩いて頂けませんか。 何故すぐ諦めてしまうのか自分でも分かりません。 ③パーソナルな質問で恐縮ですがお坊さんの生きる活力を教えて下さい。
ここ最近亡くなった祖父母のことを思い出していて疑問に思ったことがあるので、お坊さんの意見を聞きたくて質問しました。 私の祖母は生前、「友達もみんな死んでしまった。早くお迎えが来てほしい。」とよく言っていました。 しかし、それと同時に毎月大量の健康食品を買っていました。 82歳で亡くなったので長生きした方だと思いますが、やはりお年寄りでも死ぬのが怖いのでしょうか。 私はまだ16歳なので、やりたいこともたくさんあるし、死ぬのが怖いです。 でも、80歳にもなれば自分の死を悟ってくるものだと思っていました。 父は、「歳をとると、ある程度悟ってくるもんだ。」と言っていましたが、 母は、「そんなこと考えたことない。」と驚いていました。 お年寄りがよく「お迎えに来てほしい」と言うのは、どういう心境で言っているのでしょうか。
薬の副作用で死にかけて入院しました。 死ぬことに恐怖を感じました。 それから死ぬのが恐ろしくなりました。 今まで鬱を患ったせいか、死に対してあまり恐怖を感じたことが無かったのですが、今は怖いです。 これは普通の感情ですか?
昨年の秋頃に、NHKのドキュメンタリー『ありのままの最期 末期がんの“看取り医師”死までの450日』が放送されました。医師で僧侶の田中雅博さんが、末期がんとなり亡くなるまでを記録した番組です。 田中さんは「死ぬのは怖くない。看取った患者から死に方を学んだ。」と語っておられました。 とはいえ、現実には思い通りにはいかないこともあり、言葉を失うくらい壮絶な内容でした。 私にも一応、理想の最期のイメージはありました。誰でもいつかは死ぬのだからじたばたしても仕方ない、自分らしく生き、寿命が来たらそれはそれで受け入れるだけだなと。 でも、実際にそれを間近に感じた時には不安だらけ。じたばたしまくり。私はこんなに弱かったのかと愕然としました。 この時は単なる体調不良でしたが、現実は自分が死ぬなんてそんなに簡単に割りきれるものではないことを経験し、分からなくなりました。 「死に行く者の死に方から学べ」と田中さんはおっしゃったそうです。 “人の生き死には思い通りにはいかない。それでも、なるべく冷静に過ごすにはどうすればいいだろう” 今度は慌ててしまわないようにと、以来ずっと考えていますがまだ答えが出ていません。 お坊さんはたくさんの方の最期に向かい合っておられるので、ご自身に関しても既にイメージがあるのではないかと思います。 例えば病気で余命宣告されたとしたら、暫くの間は痛みや不安など心身の変化に耐えることになりますよね。 今回お尋ねしたいのは「最期の、耐えて待つ生き方」です。どのような心境で、どのように過ごしながらその時を迎えようと思いますか? お坊さんとして、でもいいですし、一個人としての思いがあれば教えていただきたいです。参考にします。 よろしくお願いします。
中学のころ、親しくしていただいた友人が亡くなったと先ほど共通の友人を通じて知らされました。中学の時にはかなり救われていた相手であったこともあり、かなり衝撃的ではあったと思います。 しかし卒業してからは疎遠になってたこともあり、どこかぼんやりとした気持ちで泣く友人から報告を受けました。 その上で通話が終わってから気づいたのですが自分は泣く気配が全くないのです。 かなり疎遠だったからなのでしょうか、それともそんな私は冷血なのでしょうか。かなり救われた相手だったはずの友人の死に何も感じてないようで自分の事ながら信じられません。涙を流せない自分がわからないです。 どうして泣けないのでしょうか?お坊さん方のご意見をお聞かせ願えたらと思います。厳しいご意見も是非お聞きしたいです。
お世話になっています。僕はこれまで、「お念仏は1日10回程度でいいだろう」と思っていました。何なら、1回でもいいと思っていました。ところが、あるお坊さんから聞いたのですが、「お念仏というのは、瞑想みたいなものだ」と言っていました。ただ手段が違うだけだと。瞑想では、呼吸や身体の感覚に集中することで、「今」に心を置きます。お念仏も瞑想と同じで、お念仏を唱えている時だけ「今」を生きることができると言っていました。自力の計らいというのも、瞑想でいうところの雑念なのでしょう。また、阿弥陀様や如来というのは、この世の大いなる働き(空、因果律)のことだと言っていました。浄土真宗はとにかく比喩表現が多いんだと。これらのことは本当なのでしょうか?もし、本当だとしたら煩悩を自覚する意味が分かりません。また、煩悩即菩提の概念もよく分からなくなってしまいます。僕は今まで本当に浄土(死後の世界)があり、阿弥陀様も実在する「人」だと思っていました。 しかし、内心では疑いを持っていました。南無阿弥陀仏と唱えれば浄土に往生でき、それが出来なければ地獄行きというのは疑問に思っていましたし、大宇宙の法則がなぜ「この人は浄土、この人は地獄」と判断するのかもおかしいと思っていました。もし、このお坊さんのいう通りなら、色々と納得できる部分がありますが、実際のところはどうなのか気になります。回答お願いします。
私には性同一性障害の彼がいます。 彼は父親のことをとても尊敬しています。ですが彼の父はお坊さんで彼に起きる不幸などは全て自然に反して生きてるからだといいます。 女性として生まれたからには女性として生きていくのが正しいと。このまま男性として生き続けたら穏やかな最期も迎えられないと、悲惨な死を遂げるとも言われてきたからなのか彼もそれを信じてそう感じてるみたいです。自分は生まれてきたのが間違いだともいいます。 頭では父の言っていることが正しいとわかっているんけど気持ちがついていかないといいます。彼の父が言うようには男性として生きていくより女性として生きていく方が幸せだと言います。でも彼は苦しんでいます。 私は彼にそんなことはないよとありのままで生きていいんだよとと伝えたいんですが上手く伝えられません。 仏教では彼の父の考えが正しいんでしょうか? 彼はどうして生きていけばいいのかわからず苦しんでいます。どう支えてあげればいいんでしょうか? よろしくお願いします。
お世話になります。 社会人大学院生として、仏教とターミナルケアについて学んでおり、臨床宗教師・ビハーラ僧の活動に惹かれ得度したいと考えております。 終末期における死の恐怖に対して宗教は有効だというのがその理由です。 そのために所属寺を探しておりますが、このような理由で得度したいがために寺を所属する旨は許されるものでしょうか? お寺様に対して非礼であったり、何か問題がありましたらご指摘下さいませ。 なおビハーラ活動で生計を立てるつもりはございません。 (高齢化社会において、そうした体制作りは必要と感じてはおりますが) また、そのような特殊な活動は、僧侶としての基本を身につけた上であることも承知しております。 どたうぞよろしくお願い致します。
曹洞宗のお坊さんしか出来ないって聞いたけど本当ですか?その家の宗派が違っても枕経だけは曹洞宗のお坊さんがするって聞いたけど本当ですか?どうしてか不思議です。 静かに死んでいきたいです。
死にたいとか死にますとか思っている人に対して思うのですが、なぜ彼ら彼女らはお世話になっている人へあいさつ回りもせずに死のうとするのでしょうか? 順序が違うと思います。 両親、友達、仕事場の上司や部下、学校の恩師、その他諸々の感謝を頂いた人たちできるだけすべての人になるべく対面で、誠に申し訳ないのですがこのような理由で自らの人生に終止符をうたせていただきますと連絡をして返事をいただき、了承を得てから行動にうつすのが最低限の自殺のマナー?だと思います。 鬱病等病気がそうさせるのはわかりますが、だいたいの病気で亡くなりそうな人は家族など縁のある人たちから声をかけたられたり、お別れを言われたりするので死ぬときにもマナーがある気がします。 報連相も行わずに勝手に行動し、いなくなるのは僕は許せないし納得できないのですが間違っていますか? びっくりするようなタイトルをつけてすみません。 もし、これを読んで気分が悪くなるような方がいましたらすみません。 そもそも、お坊さんだから大前提として自殺はだめとかえってきそうですが(笑)
いつもこちらではお世話になっております。 沢山の教えの中に日々気づきを頂いております。 ありがとうございます。 今日相談させていただきたいのは、檀家というお寺との関わりに関してです。 以前にも相談したことがあるのですが、私には歳の近い親戚が突然死したこともあり、不安症なところがあり、発作的に「家族の死」を考えて落ち込みます。 ですが、従姉妹の死が「その時が来たら、自分が見送られる側じゃなくて、見送る側だったことを見つめるんだよ」「あなたがこっちにきたら私も、祖父母も、みんないるから、会えるから寂しくないからね」と、教えてくれているようで、時間を要しながらも、今目の前にいる家族を大事にしよう。と、顔を上げることが出来ています。 そして、いつも思うのが、 わたしには今恋人も、自分の家族もいないので、いつか一人になった時に、誰にもこの悲しみを言えずに悲しみから抜け出せずに潰れていくのではないかということにも不安の要素があるのだと気付きました。 そこで思ったのが、 自分が日頃から関わっているお寺があれば、日頃からもっと仏教に触れることはもちろんですし、葬儀でお経をあげていただくことになっても、知っているお寺の方でしたら気持ちが落ち着きますし、法名の相談もできるかもしれません。 何より一人で辛い時には説法を聞きに行けたりして、孤独ではない、自分が生きているのは今であるということを感じる時間を持つことができるのではないかと思いました。 ですが、我が家は既に地域の納骨堂を用意しており、お墓のことを含めて檀家にというのは難しく思います。 更にお寺によるかと思いますが、お金もだいぶ掛かると聞きます(収入はそんなに高くないので) この場合、檀家になったり、馴染みのお寺を見つけることは難しいことなのでしょうか。 もちろん一番大事なのは場所ではなく、気持ちだというのはわかっているのですが、未熟者ゆえ、このように考えてしまいます。
現在大学生四年生です。ふとした瞬間に人は死んだらどうなるのかなと考え込んでしまいます。 死んでしまったら、今のわたしの意識は消えてしまいますよね。だとしたら今頑張っていることも、それを感じる意識がないのですから無駄なことになるのではないでしょうか。 わたしは、わたしが消えてしまうことがとてもこわいです。最近こんなことを考えてばかりで、がんばろう!と思っても、すぐ「頑張っても死んだら関係ないよなあ」と思ってしまい、怖くなって何もできなくなってしまいます。 恥ずかしいことに現在就活がうまくいっておらず、本当ならもっと努力をしなければならないのに、無意識にそこから逃避しようとしてこんなことを考えてしまうのかもしれません。 今考えなくていいことを考えてしまい頑張れない自分が情けないです。この悩みに区切りをつけて、また頑張れるようになりたいです。 破茶滅茶な文になってしまいすみません。
救急車のお話、確かに午前中、載せました。実際のお坊さんに直接、載せた救急車のお話をしたら、馬鹿馬鹿しい、と言われてしまったので自信がなくなり書き換えました。 昨日から、ハスノハでの、いろいろな「死」にまつわる問い、命のやり取りを拝見致しました。読んだからこそ救急車の話を載せました。 私が今、生きているのは、どなたかがハスノハに辛いことをお坊さんにご相談された勇気があったから、私は大事な事を思い出した。頑張ろう!と思えたから。 「死」にまつわる投稿の中に救急車の掲載をすれば誰かの「生きる希望」に少しでもなるのでは、と思ったから。「あなたが必要なんです」と言いたいから。 だけど、鼻で笑うほど馬鹿馬鹿しいんですか? 消えそうな命の炎を小さな手で、勇気で繋ぐ事は尊いと思うの。私は消防でそう教えられたから。
はじめまして。私は音楽が大好きで、ラルクが1番好きなアーティストです。 ふと、お坊さんでもパンクやロックを聴いて、ヘドバンしたりするのかな?と思い、質問致しました。 キリスト教徒の方は、宗教色の強い音楽を聴いたり、礼拝のときにも歌ったりすることが多いですが、日本のお坊さんも宗教歌を聴かれますか? それとも、私のように大衆音楽を聴きますか? ご回答お待ちしています。