hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
hasunoha 問答検索結果 : 「お坊さん 死 」
検索結果: 859件

死以外の楽になれる方法が知りたいです。

今まで死んでしまいたいと思ったことが何度もありました。 辛すぎてその辛さから解放されるために死にたい、嫌な気持ちや嫌なことから逃れるために死にたい。と思っていました。 でも最近は特になにか大きな出来事がった訳でもなく、ただただ生きる気力がわかず死になくなります。 最近20歳になりましたが、私は幼い頃から何故か全然大人になりたいと思えず、大人になることが寂しく感じます。どんどんなにかが無くなっていく感覚です。 成人すると税金、年金など、今まで以上に生きるためにお金が必要になりますが、そんなお金を払ってまで生きる必要が私にはないと思います。 ほんとに何も価値のない人間なんです。 生きる気力がないです。 たった20年でなんだかすごく疲れました。 それなのにこの先も、疲れることしなきゃいけないなんて本当に嫌です。 周りと同じように生きていけない=普通じゃない=人間じゃない そんな感覚です。 じゃあ死ねばいいのにと思われていると思いますが、何故かほんとに行動に移すことは出来ません。 まだ人生いい事があるかもとかバカな期待をしているんでしょうか。 自分の気持ちもいつからか全くわからないんです。 こんな感覚でこんな感情なら死んでも同じな気がします。 どうしたらいいですか。 何をどうしたらいいのかも分からないのですが、1番楽になれる方法が知りたいです。

有り難し有り難し 10
回答数回答 1

人生再起を賭けた受験に失敗 死こそ救済

現在、うつ病の治療を受けながら人生再起を賭け、お世話になった看護師の方を見て自分と同じような人を救いたいと思い看護専門学校の受験に奮闘しましたが結果は第一希望の学校を二回受験するも不合格、次は来年頭の1月と受けるなら2月の計二回が最後の受験。もしこれがダメなら自殺を決行したいと考えてます。正直いうと受けずに自殺を決行してもいいかなと考えてます。葬儀代も合格したら払う入学金等を使用すればいいかなと思ってます。 私は昔からの夢で人の為、お国のために命を捧げる覚悟で自衛隊に入隊しましたが志半ばで挫折しずっと後悔が残っており今回の受験失敗で看護師を諦めたらもう目指す物が無いです。精神保健福祉士もいいかなと考えてはいますが自分は一度目指したものを挫折すると何時までも引きずる人間なので仮に精神保健福祉士になっても看護師になることは諦めきれないし、精神保健福祉士なるにしても看護専門学校同様受験もあるから勉強は辞めれない。両方落ちたら何もない棺桶に入って燃やされるだけ。 自分学生時代はいじめられ、社会人になってもパワハラ、いじめでうつ病になり今生きている意味、産まれてきた意味がわかりません。たまたま家にあった霊鑑を見てみたら自分が産まれる前に何人か水子や流産しており自分もそうなっていれば今苦労してなかったと思いますし、母にもおろしてくればよかったのにや産まないでほしかったと伝えてますが産まれて20数年たっているので意味はないですが...お金もなく予備校に行きたくても行けない、産まれてきて苦労しかなくしまいにはうつ病発症で無職になり生きている生きている意味がわかりません。人生は山あり谷ありと言うが私の場合ずっと谷底で這いずったままで、あの世で言ったらこちらは魂の修行場であり越えられない壁は神様仏様は与えないと言うが私の場合ベルリンの壁のような分厚くて高い壁しかありません。しかも自殺したら修行の放棄だと言って天国にも地獄にも行けずさ迷い続けると聞きました、現世でこんなに辛い思いをしてるのになぜ死んでリセットできないのでしょうか?世の中現世もあの世も理不尽すぎる真面目な人間や優しい人間が何故自分と同じ様に潰れて、努力は実らないのだろうか?自分が死んだらあの世で居るかわからないが神、仏を倒して説教して次こそまともな人生をおくれるようにしてほしいし無理なら今、現世で助けて欲しい、死こそ救済

有り難し有り難し 20
回答数回答 1

死後半年もたって知った義母の死

嫁姑の問題が警察沙汰にまでなり こじれにこじれ、主人は私と共に 姑から離れました。 まさに絶縁状態になりました。 しかし姑は超高齢。 主人は実の息子ですから もしもの時に後悔のないよう 連絡は取るように言っていたのですが、、、取り合ってくれません。 義母と連絡取り合ってた親戚から 「最近連絡取れない」とのことを聞き 主人に連絡とるよう伝えましたが 「何かあれば連絡くるはず」と言われてしまいました。 高齢の義母の側には義姉がいたので 安心はしていたのですが、その義姉が とんでもないことをしたんです。 . 絶縁状態ですから私のことも主人のことも 許せない気持ちだったのかもしれません。 でも、それでも連絡してほしかった、、 しかも親戚にも義母の弟にも、孫にも誰にも内緒にしていました。 あり得ないことです。 . おそらく昨年の5月ごろに入院し、8月に亡くなっていたんです。 あまりに連絡取れないので戸籍謄本を取り寄せて知りました。 . あまりに非道で 怒りというより 許せないというより 気持ちの整理がつきません。 . もう誰のことも恨みたくないのに 気持ちがついていきません。 お墓も某宗教のやりかたで埋葬したようで墓参りもできません。 . それでも御供養がしたいのです。 色々という言葉では片付けられない関係ではありましたが御供養したいのです。 墓にも行かれず、仏壇もない。 どのように御供養したらいいのでしょうか? 主人の後悔の深さを想像すると心配になります。 . 何卒よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 8
回答数回答 1

子供の頃からある希死念慮とどう付き合えばいいのか

子供の頃から続く希死念慮に悩まされています。 昔はこんなことを考えては駄目だとできるだけ自殺など考えないように してきたのですが最近その気持ちが段々大きくなって抑えきれなくなりそうです。  2年前、以前違う会社に勤めていた時、両親に 「どうしても昔から死にたいという気持ちがなくならない」と相談して両親に 「死ぬのだけはやめてくれ、頼むから生きてほしい子供が親より先に死ぬのは間違ってるし最大の親不孝だよ」 と言われ親には悲しんで欲しくない、せめて両親を看取るまでは生きようとその時は思いとどまったのですが希死念慮は薄れることはなく両親を悲しませたくないという気持ちだけで耐えています。 両親を愛していますし、恩も感じています。 ですが、できれば私以外の子供を産んで欲しかったなどと考えます。 私は生まれてきたくはなかった、存在していたくなかった。 自分で自分を責める癖も影響しているのかも知れません。 今年転職したのですが、うまくやらなきゃという強迫概念に捕らわれ逆に初歩的なミスをしたりしてしまい、さらに気をつけなくてはと思うの繰り返しでどんどん自分が嫌いになってしまいます。「まだ来たばっかりだから~真面目だから大丈夫」と言ってくれる職場の先輩もいますが自分はでも何回もやってるのになぜできないのだろう?と家の中でも仕事の事について考え、心が休まる時がありません。 それにメモをとり家でも仕事について考えなるのは真面目だからではなく そうしないとついていけないからです。 果たしてこれから先やっていけるのだろうか?という不安と早く楽になりたいという気持ち、そして両親に悲しんでは欲しくないという気持ちで心の整理が追いつきません。

有り難し有り難し 20
回答数回答 1

HSPが希死念慮と付き合う。物事の習慣化

生きてればいいことがあるというが、それを楽しみにもがき苦しむのが限界で消えたいです。 一方で、今まで良くしてくれた両親に申し訳なく死ねません。 希死念慮に近いものが毎日わたしを襲ってきて、何をしても楽しくなく、暇な時間は損害賠償で両親を苦しめることもない死に方を考えることに費やしています。 精神科にも通っていますが自殺未遂がないので、投薬と規則正しい生活をと主治医から言われるのみです。 規則正しい生活と言いますが、生きる希望もないので食事、水を飲むことすら億劫です。 薬を飲んでも希死念慮は消えることなく、強制的に眠ることによって解決を先延ばしにしているだけかもしれないと最近は思います。 希死念慮は本当に死にたい訳じゃなくてこの永遠に続く苦行から逃げ出したいというのが本質だとは思っているので、色々転職しました。 ただ周りの目を気にしすぎる、希死念慮が渦巻くこのマインドのせいか職場ではミスの連続かオドオドで試用期間でクビはザラ、プライベートも何をしていても楽しくない。 マインドが原因なら!とマインドセットのため未来を憂うことなく今だけを感じその中で精一杯頑張れる方法、考え過ぎないようにする方法を探し、散歩、瞑想や日記をつけたことがありますが続きません。 継続できないことに関し自分で自分を客観的に見て、言い訳するなんておこがましいと思い、さらに自己嫌悪に陥ってしまうことに気づき、できなかったという事実のみを見るようにし、できた日はひたすらに褒めることを繰り返していますが、疲れました。 自分が動かないとと何も変わらないと思って必死に自分を鼓舞してきましたが、鼓舞して苦しんでの繰り返しに疲れてしまいました。 死ぬのはとても怖い、両親の悲しむ顔は見たくないけど、その1歩がわたしとってはすごく眩しいです。 唯一の希望の光に見えます。 ①繊細な人、所謂HSPや希死念慮は消えることはなく付き合っていかなければならないものだと個人的には考えておりますが、消えることはあるのでしょうか。お考えや付き合い方についてご意見をお聞かせ頂けませんか。 ②調べ、憂れ、考えることだけしかせず、実行、継続しない、穀潰しで怠け者の私の尻を叩いて頂けませんか。 何故すぐ諦めてしまうのか自分でも分かりません。 ③パーソナルな質問で恐縮ですがお坊さんの生きる活力を教えて下さい。

有り難し有り難し 4
回答数回答 1

皆さんの考える最期の迎え方とは

昨年の秋頃に、NHKのドキュメンタリー『ありのままの最期 末期がんの“看取り医師”死までの450日』が放送されました。医師で僧侶の田中雅博さんが、末期がんとなり亡くなるまでを記録した番組です。 田中さんは「死ぬのは怖くない。看取った患者から死に方を学んだ。」と語っておられました。 とはいえ、現実には思い通りにはいかないこともあり、言葉を失うくらい壮絶な内容でした。 私にも一応、理想の最期のイメージはありました。誰でもいつかは死ぬのだからじたばたしても仕方ない、自分らしく生き、寿命が来たらそれはそれで受け入れるだけだなと。 でも、実際にそれを間近に感じた時には不安だらけ。じたばたしまくり。私はこんなに弱かったのかと愕然としました。 この時は単なる体調不良でしたが、現実は自分が死ぬなんてそんなに簡単に割りきれるものではないことを経験し、分からなくなりました。 「死に行く者の死に方から学べ」と田中さんはおっしゃったそうです。 “人の生き死には思い通りにはいかない。それでも、なるべく冷静に過ごすにはどうすればいいだろう” 今度は慌ててしまわないようにと、以来ずっと考えていますがまだ答えが出ていません。 お坊さんはたくさんの方の最期に向かい合っておられるので、ご自身に関しても既にイメージがあるのではないかと思います。 例えば病気で余命宣告されたとしたら、暫くの間は痛みや不安など心身の変化に耐えることになりますよね。 今回お尋ねしたいのは「最期の、耐えて待つ生き方」です。どのような心境で、どのように過ごしながらその時を迎えようと思いますか? お坊さんとして、でもいいですし、一個人としての思いがあれば教えていただきたいです。参考にします。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 21
回答数回答 2

比喩表現なのか...謎

お世話になっています。僕はこれまで、「お念仏は1日10回程度でいいだろう」と思っていました。何なら、1回でもいいと思っていました。ところが、あるお坊さんから聞いたのですが、「お念仏というのは、瞑想みたいなものだ」と言っていました。ただ手段が違うだけだと。瞑想では、呼吸や身体の感覚に集中することで、「今」に心を置きます。お念仏も瞑想と同じで、お念仏を唱えている時だけ「今」を生きることができると言っていました。自力の計らいというのも、瞑想でいうところの雑念なのでしょう。また、阿弥陀様や如来というのは、この世の大いなる働き(空、因果律)のことだと言っていました。浄土真宗はとにかく比喩表現が多いんだと。これらのことは本当なのでしょうか?もし、本当だとしたら煩悩を自覚する意味が分かりません。また、煩悩即菩提の概念もよく分からなくなってしまいます。僕は今まで本当に浄土(死後の世界)があり、阿弥陀様も実在する「人」だと思っていました。 しかし、内心では疑いを持っていました。南無阿弥陀仏と唱えれば浄土に往生でき、それが出来なければ地獄行きというのは疑問に思っていましたし、大宇宙の法則がなぜ「この人は浄土、この人は地獄」と判断するのかもおかしいと思っていました。もし、このお坊さんのいう通りなら、色々と納得できる部分がありますが、実際のところはどうなのか気になります。回答お願いします。

有り難し有り難し 13
回答数回答 2

いつかその日が来た時に

いつもこちらではお世話になっております。 沢山の教えの中に日々気づきを頂いております。 ありがとうございます。 今日相談させていただきたいのは、檀家というお寺との関わりに関してです。 以前にも相談したことがあるのですが、私には歳の近い親戚が突然死したこともあり、不安症なところがあり、発作的に「家族の死」を考えて落ち込みます。 ですが、従姉妹の死が「その時が来たら、自分が見送られる側じゃなくて、見送る側だったことを見つめるんだよ」「あなたがこっちにきたら私も、祖父母も、みんないるから、会えるから寂しくないからね」と、教えてくれているようで、時間を要しながらも、今目の前にいる家族を大事にしよう。と、顔を上げることが出来ています。 そして、いつも思うのが、 わたしには今恋人も、自分の家族もいないので、いつか一人になった時に、誰にもこの悲しみを言えずに悲しみから抜け出せずに潰れていくのではないかということにも不安の要素があるのだと気付きました。 そこで思ったのが、 自分が日頃から関わっているお寺があれば、日頃からもっと仏教に触れることはもちろんですし、葬儀でお経をあげていただくことになっても、知っているお寺の方でしたら気持ちが落ち着きますし、法名の相談もできるかもしれません。 何より一人で辛い時には説法を聞きに行けたりして、孤独ではない、自分が生きているのは今であるということを感じる時間を持つことができるのではないかと思いました。 ですが、我が家は既に地域の納骨堂を用意しており、お墓のことを含めて檀家にというのは難しく思います。 更にお寺によるかと思いますが、お金もだいぶ掛かると聞きます(収入はそんなに高くないので) この場合、檀家になったり、馴染みのお寺を見つけることは難しいことなのでしょうか。 もちろん一番大事なのは場所ではなく、気持ちだというのはわかっているのですが、未熟者ゆえ、このように考えてしまいます。

有り難し有り難し 13
回答数回答 2