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検索結果: 822件
2021/06/02

HSPが希死念慮と付き合う。物事の習慣化

生きてればいいことがあるというが、それを楽しみにもがき苦しむのが限界で消えたいです。 一方で、今まで良くしてくれた両親に申し訳なく死ねません。 希死念慮に近いものが毎日わたしを襲ってきて、何をしても楽しくなく、暇な時間は損害賠償で両親を苦しめることもない死に方を考えることに費やしています。 精神科にも通っていますが自殺未遂がないので、投薬と規則正しい生活をと主治医から言われるのみです。 規則正しい生活と言いますが、生きる希望もないので食事、水を飲むことすら億劫です。 薬を飲んでも希死念慮は消えることなく、強制的に眠ることによって解決を先延ばしにしているだけかもしれないと最近は思います。 希死念慮は本当に死にたい訳じゃなくてこの永遠に続く苦行から逃げ出したいというのが本質だとは思っているので、色々転職しました。 ただ周りの目を気にしすぎる、希死念慮が渦巻くこのマインドのせいか職場ではミスの連続かオドオドで試用期間でクビはザラ、プライベートも何をしていても楽しくない。 マインドが原因なら!とマインドセットのため未来を憂うことなく今だけを感じその中で精一杯頑張れる方法、考え過ぎないようにする方法を探し、散歩、瞑想や日記をつけたことがありますが続きません。 継続できないことに関し自分で自分を客観的に見て、言い訳するなんておこがましいと思い、さらに自己嫌悪に陥ってしまうことに気づき、できなかったという事実のみを見るようにし、できた日はひたすらに褒めることを繰り返していますが、疲れました。 自分が動かないとと何も変わらないと思って必死に自分を鼓舞してきましたが、鼓舞して苦しんでの繰り返しに疲れてしまいました。 死ぬのはとても怖い、両親の悲しむ顔は見たくないけど、その1歩がわたしとってはすごく眩しいです。 唯一の希望の光に見えます。 ①繊細な人、所謂HSPや希死念慮は消えることはなく付き合っていかなければならないものだと個人的には考えておりますが、消えることはあるのでしょうか。お考えや付き合い方についてご意見をお聞かせ頂けませんか。 ②調べ、憂れ、考えることだけしかせず、実行、継続しない、穀潰しで怠け者の私の尻を叩いて頂けませんか。 何故すぐ諦めてしまうのか自分でも分かりません。 ③パーソナルな質問で恐縮ですがお坊さんの生きる活力を教えて下さい。

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皆さんの考える最期の迎え方とは

昨年の秋頃に、NHKのドキュメンタリー『ありのままの最期 末期がんの“看取り医師”死までの450日』が放送されました。医師で僧侶の田中雅博さんが、末期がんとなり亡くなるまでを記録した番組です。 田中さんは「死ぬのは怖くない。看取った患者から死に方を学んだ。」と語っておられました。 とはいえ、現実には思い通りにはいかないこともあり、言葉を失うくらい壮絶な内容でした。 私にも一応、理想の最期のイメージはありました。誰でもいつかは死ぬのだからじたばたしても仕方ない、自分らしく生き、寿命が来たらそれはそれで受け入れるだけだなと。 でも、実際にそれを間近に感じた時には不安だらけ。じたばたしまくり。私はこんなに弱かったのかと愕然としました。 この時は単なる体調不良でしたが、現実は自分が死ぬなんてそんなに簡単に割りきれるものではないことを経験し、分からなくなりました。 「死に行く者の死に方から学べ」と田中さんはおっしゃったそうです。 “人の生き死には思い通りにはいかない。それでも、なるべく冷静に過ごすにはどうすればいいだろう” 今度は慌ててしまわないようにと、以来ずっと考えていますがまだ答えが出ていません。 お坊さんはたくさんの方の最期に向かい合っておられるので、ご自身に関しても既にイメージがあるのではないかと思います。 例えば病気で余命宣告されたとしたら、暫くの間は痛みや不安など心身の変化に耐えることになりますよね。 今回お尋ねしたいのは「最期の、耐えて待つ生き方」です。どのような心境で、どのように過ごしながらその時を迎えようと思いますか? お坊さんとして、でもいいですし、一個人としての思いがあれば教えていただきたいです。参考にします。 よろしくお願いします。

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比喩表現なのか...謎

お世話になっています。僕はこれまで、「お念仏は1日10回程度でいいだろう」と思っていました。何なら、1回でもいいと思っていました。ところが、あるお坊さんから聞いたのですが、「お念仏というのは、瞑想みたいなものだ」と言っていました。ただ手段が違うだけだと。瞑想では、呼吸や身体の感覚に集中することで、「今」に心を置きます。お念仏も瞑想と同じで、お念仏を唱えている時だけ「今」を生きることができると言っていました。自力の計らいというのも、瞑想でいうところの雑念なのでしょう。また、阿弥陀様や如来というのは、この世の大いなる働き(空、因果律)のことだと言っていました。浄土真宗はとにかく比喩表現が多いんだと。これらのことは本当なのでしょうか?もし、本当だとしたら煩悩を自覚する意味が分かりません。また、煩悩即菩提の概念もよく分からなくなってしまいます。僕は今まで本当に浄土(死後の世界)があり、阿弥陀様も実在する「人」だと思っていました。 しかし、内心では疑いを持っていました。南無阿弥陀仏と唱えれば浄土に往生でき、それが出来なければ地獄行きというのは疑問に思っていましたし、大宇宙の法則がなぜ「この人は浄土、この人は地獄」と判断するのかもおかしいと思っていました。もし、このお坊さんのいう通りなら、色々と納得できる部分がありますが、実際のところはどうなのか気になります。回答お願いします。

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2021/09/27

いつかその日が来た時に

いつもこちらではお世話になっております。 沢山の教えの中に日々気づきを頂いております。 ありがとうございます。 今日相談させていただきたいのは、檀家というお寺との関わりに関してです。 以前にも相談したことがあるのですが、私には歳の近い親戚が突然死したこともあり、不安症なところがあり、発作的に「家族の死」を考えて落ち込みます。 ですが、従姉妹の死が「その時が来たら、自分が見送られる側じゃなくて、見送る側だったことを見つめるんだよ」「あなたがこっちにきたら私も、祖父母も、みんないるから、会えるから寂しくないからね」と、教えてくれているようで、時間を要しながらも、今目の前にいる家族を大事にしよう。と、顔を上げることが出来ています。 そして、いつも思うのが、 わたしには今恋人も、自分の家族もいないので、いつか一人になった時に、誰にもこの悲しみを言えずに悲しみから抜け出せずに潰れていくのではないかということにも不安の要素があるのだと気付きました。 そこで思ったのが、 自分が日頃から関わっているお寺があれば、日頃からもっと仏教に触れることはもちろんですし、葬儀でお経をあげていただくことになっても、知っているお寺の方でしたら気持ちが落ち着きますし、法名の相談もできるかもしれません。 何より一人で辛い時には説法を聞きに行けたりして、孤独ではない、自分が生きているのは今であるということを感じる時間を持つことができるのではないかと思いました。 ですが、我が家は既に地域の納骨堂を用意しており、お墓のことを含めて檀家にというのは難しく思います。 更にお寺によるかと思いますが、お金もだいぶ掛かると聞きます(収入はそんなに高くないので) この場合、檀家になったり、馴染みのお寺を見つけることは難しいことなのでしょうか。 もちろん一番大事なのは場所ではなく、気持ちだというのはわかっているのですが、未熟者ゆえ、このように考えてしまいます。

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