お釈迦様の時代のインドでも宇宙については盛んに語られていたと聞きます。 お坊さんの皆様にとっての宇宙とは何でしょうか? 自由気ままにお話をお聞かせ頂けると嬉しいです。
現在自営でお店をやっていますが、今年いっぱいで閉店します。自分の人間性の欠如を感じ、人間性の修行をまたは学びを目的として今の仕事を手放し、自分と向き合う時間が作ることでした。 現在は北海道に住んでいて、奈良県に移住してそれを実行しようとしました、住居先を決めるにいたり、就職先が確定しないと入居条件を満たせず、仕事探すことになりそして来週面接のため奈良県にいきます。また決まるとは限りませんが、なんとなく決まりそうなふいんきです。 その仕事しながらも、修行したいです。 お坊さんたちはどんな修行してるのか教えてほしいです、時間なくてもどんなことに意識を持って生活していけば良いですか? (修行に場所は関係なんでしょうけど、奈良県や京都に憧れもありました)
こんにちは。 動画で仏教の勉強をしている時に、難しい話ばかりで 長時間勉強が非常に集中が続かなく、飽きてしまうのですが お坊さん達はどうやって、 仏教の勉強をしましたか? 実践ないことには身につかないことは承知なのですが、 実践の仕方、歴史を学ぶためにその動画を見ています。
現在、京都の佛教大学に通ってます。浄土宗の教義を勉強しております。家の仏壇や大学の礼拝堂で、半年間ほど開経偈から真身観文までの助行と本願念仏を唱えてきました。 しかしながら、阿弥陀仏の浄土の存在と死後浄土へ往生できそうだという手応えを一度も感じることができず、今は念仏をやめてしまいました。 例えば、自転車に乗る練習を何回かすれば乗れる手応え感じるはずです。 しかし、念仏に関してはそれが無いのです。 善導大師や遊蓮坊園照は証覚を得たと言います。私も手応えを得れば、今後の人生を明るく有意義に暮らせるとおもいます。 念仏をされてるお坊さんで、浄土の存在と死後往生できそうだという手応えを得てる方はおられますか?それともやはり、極楽浄土は絵空事のフィクョンなのでしょうか? よろしくお願いします。
最近とあるきっかけで曹洞宗のお坊さんの書籍を拝読させていただいたきました。 自分の中で仏教の考え方や生活がとても腑に落ちて仏教徒になりたいと思うようになりました。 ただ自分なりに調べてみたところ、キリスト教徒のように教会に通うだけのような感じではなく、仏教徒になるには仏教に通ずる大学を出たり、出家をしなくてはなれないと伺いました。 現在は会社勤めをしているので出家も現実的ではないし、高校時代に仏教に出会えなかったことを後悔しています。 まだ年齢的には遅くはないと思うのでこれから深く関わっていきたいと思っているのですが、具体的にどう行動に移していくのが良いですか? 大学に通い直したり、出家をして修行することにも興味はありますが、会社勤めなので会社をやめると収入がなくなり生活が厳しいです。 何か良いアドバイスをお願いいたします。
先日は母の四十九日法要でした。 私は檀家等のつながりが無く某密林サイトにてお坊さまを依頼させていただきました。 来られたお坊さまはきちんと経をよんでくださり法要としてはとても満足のいくものでした。 ただ、経が終わり帰り支度をしながら「次は100日の法要を必ず実施してください。でないと故人はお釈迦さまの元へはいけなくて追い返される」みたいなことを言われました。 今後の法要の予定として言われたのだろうとは思いますがその話だけをしてサッと帰られました。 私はこのお坊さまのおっしゃられた事に間違いはないとは思いますが、もし私がお坊さまの立場なら、お金の余裕が無く簡素なお供えではあるけども、故人を思い一生懸命な遺族に対して今日の四十九日法要を無事に実施できたことに対しての労いと、これで故人も安心して旅立てます、だから残されたあなた達は安心してしっかりと生きていきなさいよくらいのことは言ってあげると思います。 死んだ人だけでなく残った遺族に対しての救いになるような言葉かけて道を照らしてあげるのもお坊さまの使命ではないでしょうか。 単に法要の管理だけならCDで流すお経とあまり変わりはないのかな?なんて思いました。
見つけてくださいまして、ありがとうございます。 私は昔から第六感が少しだけ強いらしいです。それゆえなのか、普通の人には見えない人や動物を見たり、声を聴いたりします。 今、うちに普通の人には見えない方々がかなりいます。 幼い子供も、大人も、ずっと昔の人もいます。なかには、話しかけちゃいけないような人もいます。彼らはただいるだけで、悪さはしません。(かわいいイタズラをする人もいます。)私自身、彼らがいることについてはなんとも思いません。いたいならいればいい、いたくないならでればいい。そんな感じです。 彼らは、心の中になにかしらの問題があり、苦しんでいます。彼らは本当は優しくて楽しい人のようにおもうのですが、今、彼らは心の中の何かがチクチクして、怖い人になっています。 お坊さんでもお寺関係者でもない素人がお経をあげてもよいのでしょうか。お経をあげたお坊さん独特のお経を読むときの声であげたほうがよいのでしょうか。 今、新生活で疲れがたまってしまい、なかなか彼らとお話できる体力がありません。前までは、ちょいちょいお話ししたりお茶を飲んだりしていました。 私ができることならば、無理がない範囲でやらせていただきたいです。
中3女子です 何回も似たような質問をしてしまい、申し訳ございません。 自殺を考えているのですが、タイミングに迷っています。個人的には、衝動的な死にたいという欲求が抑えられなくなったら死のうと思っていますが、タイミングも重要かな と思いました 私は、中高一貫校の私立に通っています。なので恐らく、このまま悪い成績を取らなかったら上に上がります。公立の学校より何十倍も学費がかかるし、自分で受験すると言って入ったので何か罪悪感があって… スケジュールを言いますと、10月に修学旅行、11月に文化祭、2月に合唱コンクール、3月に制服採寸、卒業式 と言う感じです。 せめて、卒業式までは頑張ろうと思っていたのですが、中高一貫校だからか制服の採寸が早めな上ものすごく高額な入学金の手続き、制服の代金等があると思うので、死ぬなら今のうちに死んでしまった方がいいのかな…と思いました。 本当に辛いんです。病院には行けないし、相談しようにも言葉に出来なくなってしまう上にパニックになってしまいます。 今自分が苦しいのは恐らく全て自業自得なのは分かってはいるんです。 お坊さん相手に失礼な質問をしてしまいますが、自殺するとしたらいつがいいんでしょう? (自殺をしないという考えは無しでお願いします。)
こんばんは。 以前に質問させて頂きましたが、またこちらで質問させて頂きます。 私は現在、社会人をしながら様々な哲学や思想について勉強してきました。 勉強をする理由は、様々な思想がある中で、真理(正しいこと)を知りたい、あるいは自分の納得できる考え方を見つけたいと強く思ったです。 そして、これまで学んできた中で、仏教の考え方(特に空の思想)が最も真理に近いものだと考えるに至りました。 これ以上は、学問ではなく座禅などの修行をしないと真理は分からないと思っています。 しかしながら、修行の道に踏み出すことにもためらいがあります。 理由としては ・社会人としての現実の生活があり、それを捨てて修行の道に入ることは現実から逃げているのと同じではないかと考えること。 ・出家して何かしら悟りのようなものを開いたとしても、後の生活がつまらないもののように予測してしまうこと。 ・仏教の教えが一番真理に近いものだと思うが、自分が惹きつけられる思想が他にあり、そちらの教えの方が自分が納得できるのではないかと考えること。 (具体例 三島由紀夫から西部邁先生に連なる保守主義、フライトからラカンに連なる精神分析、キルケゴールやカントなどの実存主義的哲学、大本開祖の出口王仁三郎に代表されるスピリチュアリズム) これらの理由があり、様々な思想のどれにも惹きつけられて、どれかに決めて一歩を踏み出せていないのが現状です。 また、仏教の教えの中でも様々な考え方がありますが、私は最近ご活躍されている南直哉和尚の本に非常に納得させられることが多いです。 特に、この前出版された「超越と実存」という本の中の、親鸞と道元についての文章には深く納得させられました。(どちらも、超越的存在を排除しつつも、実存を受容するための思想として紹介されていました。) しかしながら、批判をする方もいます。 このように、様々の思想の中で混乱しているのが現状です。 お坊さんにお伺いしたいのは、「私の文章を読んでどう思われるか、私はこのままでいいのか、それとも何かを変える必要があるのか」ということです。 現在、28歳ですが、17歳から今までずっとこのような思想的混乱状況から抜け出せていません。 このまま人生が終わるかもしれないと思うと発狂しそうです。 何でも良いので、何かアドバイスを頂けたら幸いです。 よろしくお願いします。
いつもお世話になっております。ふと、思う事があったのでまた相談させていただきます。自分の中で流れが良くないな、と感じた時どうしたらいいのかという事です。 鉄道従事者なので接客が主要ではありませんが、仕事上でどうしても嫌な旅客に当たる事が多く余りにも酷い場合は頭に血が上る事も少なくありません。 それが所謂縁起の良い日、例えば大安の日だったり吉日というものは数多くありますがそういう日に上記のような事があると余計に嫌な気持ちになります(縁起の良い日は前向きでいたいと思っているので) そんな日々を過ごしていて思ったのが、ポジティブ思考の人はどんな時でもポジティブでいられるのだろうかという事です。別の例であれば、一流のプロ野球選手でも「練習したくないな」とか「試合に出たくないな」といった気持ちになる事があるのかどうか…という事でしょうか。 お坊さんであれば、日々の修行であったりとかお経を読んだりとか…なさってる事は沢山あると思います。そういったことを「もう続けたくないな」とか「悟りなんて開けないのでは」といった気持ちの時どうするのだろうと思いました。 ポジティブ思考の人には良い事がやってくると言いますし、お金持ちの人は自分は運が良いと思っている人が多いと聞きます。そういう方々は、どんなに辛い目にあっても前向きでい続けられるのか、運が良いと思い続けられるのか自分には想像がつきません。 戦争が現実として存在するからこそ、平和という概念を理解出来る(喜怒哀楽も同じ?)と言う人もいますし、100%のポジティブ思考は存在するのだろうかと疑問に思っています。もし存在しないなら、自分は運が良いと思う人にも運が悪いと思う瞬間もあるのではと考えています。 そうだとしたら、その時に何かしらの考え方としての対処法があるのではと思いました。ポジティブな人、運が良いと言える人に悪い事が起きないとは言い切れないはずなので… 100%のポジティブ思考、悪い事なんか寄せ付けない強運体質になれるに越した事はないと思う一方で本当はそんなものがあるのかと疑問に思っています。回答お待ちしてます。長文でわかりかくてすみません。
以前にも臨終の相と来迎に関しての弁長上人の言葉が納得できなくて質問させていただきました。 それ以外にも例えば弁長上人は聖浄兼学しなきゃ念仏のありがたみはわからないと言っていますが、これは法然上人が否定した「学問をして念のこころを悟りて申す念仏」ではないでしょうか。 どうも僕の目には弁長上人は法然上人の教えを歪めまくっているような気がするのですが、浄土宗のお坊さんはこの矛盾を心の中でどう消化しているのでしょうか?
いつもお世話になっております。 新しいお寺様では大変に元気を頂いているのですが、ふと疑問に思ったのでご質問申し上げます。 ✳︎ お護摩などのご祈祷の際は、どのような心構えを持ってお受けするべきでしょうか。 最近また色々あったので少しお休みを頂いていて、よくご祈祷に参拝します。 休んでいる間毎日の様にお上がりして、かなり本気でお経を上げる(「僧侶と一緒にお経を」と明記)ので「なんだこの女は、遊び半分に来ているのか」などと思われていないか心配です。 他にも毎日いらしているご信徒様もおられるのですが、その皆さんはお坊さんと親しくお話していたりして、どうやら特別的なご寄付や申し込みをしていると思われます。 ✳︎ 私も背広や半袈裟をつけたりして礼儀を正しているつもり(そうでもしないと礼儀が正せず、気が緩んでえらいことに)ですが、 それでまたご縁が…となってしまうのはあまりにも情けないし、悲しく存じます。 どうか、ご教授願います。
こんにちは。 いつもお坊さんからの素敵な助言や、 考えを拝見させていただいております。 一つ質問させていただきたいのですが、 お坊さんは、避けられない運命というものは存在すると思いますか? 私の体験なのですか、ちょうど一年前 何をやっても上手くいかず前に進めないということがありました。(仕事に関してのことです。) 最悪の事態を避けようと様々な手を打ったもののすべて裏目に出てしまい職を失いました。 私が苦しんでいるのを見て面白く思っている同僚や、先輩も多くいると知り、夜眠れなくなり、何故自分だけという思いから前向きな考えや、未来に期待することにも疲れていました。 このような出来事は起こるべくして起こっているのですか? それともたまたま、私であったのですか? 神様は超えられる試練しか与えないと聞きますが、あまりにも辛く私は諦めて逃げ出してしまいました。(逃げたてしまったことは、とても後悔しています。) また、そこから何か新しいことに挑戦することも怖くなりました。 あの経験は必然であったのか、それとも 偶然であったのか、今でも毎朝考えてしまいます。 私がなぜ、自分だけと考えてしまうのが 間違っているのですか? しかし、私は自分なりに全力を 尽くしていたと自負しております、、、 もし、お返事頂けたらありがたいです。
最近たまたま儒教について調べました。 儒教には先祖が自分を助けてくれるから敬い大事にするという教えがあるそうです。 仏教でもお葬式などの際にそのような話をされたような記憶が薄らあるのですが、これはたまたま釈迦の考えと孔子の考えに共通点があったということなんでしょうか? また輪廻転生するのであれば先祖は既に別の生き物としての人生を歩んでいるはずで、助けてくれる先祖と輪廻転生した先祖で2つに別れると言うことなんでしょうか? 先祖が助けてくれる ということと輪廻転生自体が相反することを言ってるいるように感じました。 仏教を否定している訳ではなく単純な疑問なのです。 時代によって少しずつアップデートされたということなのかもしれませんが、この点を現在のお坊さんはどのように解釈しているのでしょうか?
もしかしたら同じ質問あったかもしれませんが、見つけきれなかったので質問させてください。 現在私達夫婦は20代後半ですが、何気なく自分達が亡くなった時の事を話し合った時があり 葬儀の事やお墓の事など色々疑問が出てきました。 まず私達夫婦の実家はどちらとも南無阿弥陀の仏教ですが、私の両親は嫁ぎ先の宗教や慣しに従いなさいと言っていて、 夫の両親は夫は次男だから家の墓には入れないから好きなようにやれと言われました。 そこで、私達には娘が2人なので跡を継ぐ事は無いと思うし、市の共同墓地と言うのでしょうか…子供達にお墓の手入れなど負担をかけない様なお墓に入りたいと思っています。 ただお葬式を家族葬にしてお坊さんを呼ばないお葬式(できるだけお金のかからない方法)にしようかと話してたのですが、その場合四十九日や、三回忌七回忌等も無くなると思うのですが、魂は成仏されるのでしょうか? そもそも私の勝手なイメージですが、お墓=お寺というイメージがあり、お経を上げないお葬式を行ってもいいのでしょうか? 今回は明日死ぬかもしれないという体で話し合ったので、多分十数年生きたら考え方が変わるのかもしれませんが… 直接お坊さんから知恵を頂ければと思い相談しました。 よろしくお願いします。
永遠の地獄についてお坊様はあると思いますか? 永遠の地獄などないなんて考えは 着るものも食べるものも住む場所もある先進国で生まれた人の平和ボケした考えだと思うんですが 量子力学の光には波と粒が最初から同時に存在する二重性の性質があるという理論において この世界はどうして生まれたのかを究極的に突き止めると全ての根源は量子力学の二重性の性質に行き当たるそうで この世界は最初から有ったと同時に無かったという最初から同時に存在する二重性の性質 何も無い空間でもそこにヒッグス粒子が有るという最初から同時に存在する二重性の性質 全ての根源はこの量子力学の二重性の性質に行き当たるなら 死後の世界において永遠の地獄はなかったと思ってもそれはあるという二重性の性質を想定できますよね だとしたら永遠の地獄があると思うんですが イエスキリスト様はその永遠の地獄から人々を救える全能なる神の力があるんですが 全能なる神ではなくただの人間であったお釈迦様は 瞑想して悟りを開いたことで 永遠の地獄から人々を救える全能なる神の力があるんですか?
日本のお坊さんがお葬式をするのは、もともとは儒教の影響なんでしょうか。 昔、読んだ中国史関係の本に、孔子は尼山の巫儒(祭祀を執り行う人)の一族の生まれで、巫儒は亡くなった人の魂(鬼神)を沈めるためにお葬式を執り行っていたとありました。孔子の意志とは無関係かもしれませんが、そんな流れで儒教には先祖や目上の人を尊重する思想が組み込まれていったのかも…? 日本は、神道がありながら仏教と儒教を取り入れたことによって文化のごった煮体質になったみたいなことをよく聞きますが、実は神道や仏教より、儒教の影響のほうが大きい気がします。 儀式的なところは神道と仏教だけど、根本的な考え方(○○すべき論とか)は儒教っぽいし。 寺社仏閣はごまんとあるのに、いまいち宗教が根付いてない感がするのは儒教の影響が大きいから、な気がするのは私だけでしょうか。
三面大黒天さまをお祀りしている者です。 ご本尊(阿弥陀さま)、個人的な念持仏のお不動さまと共に、毎日お勤めをしております。 大黒様のお祀りの仕方を読んだ本には書いていなかったのですが、人づてに「天部の神様は怖い」と聞きました。 (聖天さまやダキニ天さまの噂は聞いていたので、遠慮しました。) 大黒様には怖い噂は当初は聞いていなかったので、大丈夫だと思っていたのですが。 しかし何人かの方々から、総じて「天部」の神様は、人間に近く感情をお持ちなので、気をつけなければならないと聞きました。 聞いたところによりますと、 ・粗末に扱う、罰当たりなことをしゃべる ・礼拝をさぼる ・信仰をやめる ・お祀りの作法を間違える ・お坊さんの真似をして、在家が本格的な祈祷をやる これらが要注意だと聞きました。 その後、いろんな人の意見を聞いたのですが、「怖い」、「いや怖くない」と意見はバラバラでした。 いずれも在家の人々です。 (開眼は大きな寺院で集団で行いましたので、そのお寺のお坊さんとは連絡しずらい状況です・・・) そこでお坊さまがたのご意見を伺いたくて、ご質問をした次第です。 よろしくお願い致します。
なぜ死ぬことが悪いのか未だに理解できません。 周りの人たちが悲しむのはわかります。私は一般的に幸せな子だから。 でも、本人にとって生きることが死ぬことより辛いとはどうしても思えません。 楽になりたいとは、どうして思ってはいけないのでしょうか。 10年以上考えています。 お坊さんの考えを教えてほしいです。
このような質問をしてよいものか迷いましたが 悩みが深まるばかりでしたので、質問することにいたしました。 本当に汚い文章で申し訳ございませんが、よろしくお願い申し上げます。 お坊さんは、煩悩である性欲とどのように向き合っていらっしゃいますか? 私は大変悩んでいます。 大学生になってから1人暮らしを始めて性欲が強くなってしまい 2、3日に1度は自慰行為をしてしまいますし、 アダルトビデオ(AV)もみてしまいます。 しかし、人格形成のうえで良いこととは思えません。 できることなら自慰もAVもやりたくも、みたくもありません。 にもかかわらず、自然と性欲が湧き上がってきてやってしまいます。 このままじゃ駄目だと、ひたすら自慰やAV鑑賞を我慢したこともあります。しかし、寝れなくなったり、学業に集中することができなくなりますし、我慢することも違うように感じています。 それでいま、 「人として道を踏み外さないようにするために、性欲とどのように向き合えば良いのか」 ということで悩みが深まっていました。 そこでお坊さんにご意見をいただこうと思って質問いたしました。 人として道を誤らないために ・自慰行為はやめるべきなのか ・アダルトビデオをみることはやめるべきなのか あとは自由に性欲についてお答えいただければ幸いでございます。 ご指導のほどよろしくお願いします。