「三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰」、 「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経」 この辺は私には全く理解できていませんが、最も注目すべきは、当然、呪文の「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 般若心経」でしょう。 花山先生の訳によれば、「往きて彼岸に往き、完全に彼岸に到達したものこそ、悟りそのものである」という意味だそうです。 これは多分、前回お話しした梵天勧請事件の経緯のように、喜びと共に生涯を終える実践をした時のことを表現したのだと思います。 「彼岸」が実在していることを示し、それは梵天勧請事件で生き返ることを三度も拒否したほど素晴らしい眺めのようです。 (完)
初めて質問を投稿いたします。 るると申します。 私は学生時代うつ病を患い、生きていくことのつらさ苦しさと死への恐怖に悩み、救いとなる教えを求めて父方の宗派のお寺である東本願寺へ参りました。 そこで、どのような人間であってもすくい取ってくださる阿弥陀様の教えを聞き、何があっても必ず助けてくださる存在があるということに強い安心安堵感を得ることができ、その後は真宗の教えを聞く機会を定期的に作り心の支えとしてきました。 数年後、大学は無事卒業し就職すると私は非常に忙しい部署に配属され、激務と過労で再びうつ病の兆候が出てきて頭の中があらゆる雑音でいっぱいになっているような感覚に陥りました。 その時心の支えとなる教えをまた求めてお寺に行こうと決心したのですが、何故か今回はいつもとは異なる直感のような感覚で母方の宗派のお寺である永平寺に参りました。 永平寺で禅の一端を体験し、その後禅に関する本を読む中で、あるがままを冷静に見つめ自らの内の欲や煩悩を統御する教えを学び深く感動し、禅の教えをこれから生きていく中で実践したいと思いました。 前置きが大変長くなりましたが、二つの宗派の教えと出会いわたしは今どちらを信じたら良いのか迷っております。 煩悩を否定せず阿弥陀様が必ず救うとする真宗か、煩悩を統御し坐禅を通して自ら悟りを目指す禅宗か、全く異なる教えに触れどちらも捨てられないと悩んでいます。 両方を信じる道もあるのでしょうか。 拙い文章になりましたが、僧侶の皆様から何か教えをいただけたらと思います。 何卒よろしくお願いいたします。
コロナ禍の中、さまざまな意見も飛び交っていますが、私は少数の富裕層が、その他の人間の生き方や社会をコントロールできる今の世の中に疑問を感じています。 例として、ブラック企業で働く人々は、ブラック企業で働きたいと思っていないにも関わらず、そこで働かなければ生きていけないと思い込まされ、被雇用者は経営者に利用され、結局ブラック企業は淘汰されず残り、富は資本家に集まります。どこかで救ってほしいと思っていても、立ち上がることができないのです。 世の中で、また個人の人生のなかでも、全く似たようなことが起こっているのを、友人や知人を見ていてわかってしまいます。しかし、それを言葉にして本人に伝えるのは難しいことも知っております。 ですから、私は少しでも良い社会のために、と署名活動への参加や、できるだけ納得したものだけを購入するといったことを、完璧は不可能ですが実践するように心がけていますが、そういった生き方に対し、ある友人は「私はそこまでして生きたくない、世界はどうなってもいいし、責任を取りたくない」と言い、そういう方こそ生き方に難しさを感じていたりしていてよく相談されたりします。しかし「あなたの行いがあなたの人生を作っている」と正論をぶつけることもできず、難しいものだと思います。どこかで頼られていたり、羨ましがられていると思うこともあります。あなたは頑張っている尊敬する、と言われることが多いですが、その裏には彼らが何かを抱えているのが見えます。 仏教では、こうした社会的な搾取や過ちも肯定し、受け入れるのでしょうか。 最終的には、人類全ての行いとして、その集大成として私たちが絶滅する運命をたどるのだとしたら、それに違和感を感じている私も運命共同体として何もしないべきなのでしょうか。 私は社会に対して、行動をし、考えている人たちを、「やりすぎだ」などということは決してできません。きっとお釈迦様も悟りを得るまでに沢山の思考を重ねたものだと思います。 ワクチン等も強制に対し、「でもそうしないと生きていけないから」と言うのは、あらゆる強制を受け入れた先の、超支配社会を肯定することにつながりかねません。そうしたことに反対し続けるのは、無駄で、現在の人間の行いを無感情のまま受け流すのが、正しいことなのでしょうか? そこに違和感を感じてしまう私は、人として未熟なのでしょうか。
悟るにはどうしたらいいですか? 坐禅をする? 仏教の本をたくさん読む? 悟るにはどうしたら良いのか教えてください。
そもそも地球上の生命体は、なぜ生まれ、生かされているのでしょうか? 神や霊魂を説かない仏教では、空の思想がありますが、すべてが一体である意識の集合体がいわゆる他宗教で云う処の神 なんでしょうか? お釈迦さまは無記とされていて、信じる人は信じるで良いという姿勢だと思います。 しかしこれで、苦を抜いても、生かされている意味は分からないし、目指すところの解脱は、単に無になることと誤解されやすいと感じます。 神や霊魂については仏教では賛否両論ありますね。どう思われますか?
生きる意味を見失っいます。 私は虐待を受け育ってきました。父親からの暴力、暴言、包丁で刺されたこともあります。父親はアル中で母親にも暴力をふるい入院したことも何度かあります。 最近まではこの状態が普通じゃないと理解すること難しかったように思います。 中学時代は父親に復讐を誓いました。どれだけ否定されようとこいつより社会的位置も収入も超えてやる、それだけで勉強を頑張りました。もちろん勉強の参考書に水をかけるような邪魔、学年で1位取ろうが褒められることもなく馬鹿にされ続けました。らが、その結果大学に行き、希望の業界に入社3年目になる時には会社での成績も上位、父親の収入2倍以上、社会的地位も超えたと、目標を達成出来たと自身の中で満足してしまったように思います。 その時から人生全ての目標を失い、自分は何のために生きてるのか分からなくなり鬱病が発病しました。薬で抑えても外に出ることも出来なくなり、自分の役目が終わったと希死念慮も出ました。会社も自主退職しました。 とにかく認められたかったという思い、そして今にして思えばずっと精神的に支配されてると思います、進行形で。 それから虐待を受け同じような経験を持つ女性と出会い付き合うことになり一緒に治療していきませんかという提案を受けそれに乗りました。治療に関しては過去の記憶を一つ一つ思い出して書き換えるというもので半年かけてやり切りました。 その間、トラウマを思い出して感情のコントロールも出来なくなったり父親から包丁で突きつけられ彼女が警察に通報し父親が殺人未遂で捕まり接見禁止になりました。 その後彼女からは鬱を原因に別れを切り出され私は拒絶されたように感じ周りに味方がいないように感じどんどん落ちていきました。 今はそれから数年が経ち業界大手に転職も果たしました。ですが生きる目標が分からない。ただただ死なないように生きているだけ。人は死という絶対的未来に進んでいくのに対しそこに意味を見出そうとする事で生きているように思います。意味を見出せなくなった時点で魂的には死んでるのだと。 生きることは修行であり魂を磨く為に輪廻転生を繰り返す等、宗教によって様々な捉え方はあると思います。 ほとんどの宗教でも大前提で自殺する事は悪である。しかし人によればこれは救済ではないのか?とにかく生きるとは何か本質を知りたいです。
以前よりお世話になっております。毎回真摯なご回答を頂き、本当にありがとうございます。 今回お聞きしたいことは、八聖道によって死の恐怖が消せるのかということです。以下、詳細な私の現状です。 私は「死んだ後自分がどうなるかわからないことへの恐怖」と、「自分と世界が存在している(五感で感じ取れる)ことの恐怖」を常に抱えています。 そこで仏教を自分なりに勉強した結果、四諦と八聖道を知りました。恐怖克服のため、ぜひ八聖道を実践しようと思いました。 現在は在家で修行がしたいと思っています。正思、正語、正業、正命、正精進、正念は、日常生活の中でなんとなく「これに気をつけて生活すべきなんだな」という具体的な実践が思いつきます(といっても、素人の浅知恵で、悪口を言わないなどの程度です。ここに関しても今後もっと勉強していきます)。 しかし、正見と正定は、瞑想(座禅)などを行なって会得するものだと拝見しました。 私は禅宗(臨済宗や曹洞宗など)の教えも好きなので、座禅を日常に取り入れたいと考えています。ですが、禅で有名な一休さんでさえ、「死にとうない」と言って死んでいったと聞き、正直とても怖くなりました。 座禅を含め、八聖道を実践していっても、死や存在の恐怖は克服できず、怯えたまま生きて死ぬしかないのか?と不安です。 hasunohaでは、座禅の中で悟りのような経験をされている方や、「実践を伴って初めて仏教がわかる」とご回答されている方をよくお見受けします。そのため、知識を学ぶだけではダメで、具体的な実践をして初めて、疑り深い私でも「仏教を知識だけでなく心で納得する」ことができるのだと考え、八聖道を実践しようと思いました。 長々とすみません。以上の流れから、 1.八聖道(座禅含む)を実践していったら、死と存在の恐怖を消すことができるのか? 2.もし出来ないなら、私は今後どうしていったら良いのか?(恐怖に苛まれるのは本当につらいので、なにか解決策があればご教示頂きたいです) の2点をお伺いしたいです。 また、私の現状の中でも、間違ってる行動や考えがありましたら、ご指摘頂ければと思います。 長文になってしまい申し訳ございません。お時間ある時で構いませんので、ご教示頂けますと幸いです。何卒よろしくお願い申し上げます。
お世話になっております。六波羅蜜の忍辱と因果応報について、合わせてお聞きしたいことがあります。六波羅蜜の忍辱の修行は、人それぞれの解釈というか、正解があると思います。僕は忍辱は、自分の考えかたや、捉えかたを、変えることだとは思います。ですから、僕に自因自果、というか悪因悪果の報いが現象化してきた時に、「それ」をどう捉えるかということを、意識して変えようとするのですがうまくいかないです。どうしても瞬間的な怒りが湧いてきて、そのまま精神を持っていかれたりするからです。さらに言えば、悪果が理不尽なことであればあるほど、何か月も思い出すたびに相手やその出来事を恨んだりしてしまいます。これは、僕自身が因果応報を心の底から信じられないよう所為な、己の無知の所為なのかもしれないです。ということは、因果応報を心の底から信じられるように、自分の解釈を変えられたら怒りや恨みが抑えられるのかもしれません。このように、自分の信念を変えることが忍辱なんでしょうか。
私はとても辛い人生を送らされています。 4年前に15歳の愛犬を亡くしました。その次の年に私の大好きだったお義母さんをガンで亡くし、その次の年に父を亡くし、その次の年には可愛がってくれてた叔父を2人も亡くし、今年は7月に母をガンで亡くし、今月になってお義父さんを亡くし、今日は14歳の愛犬を腎臓病で亡くしました… 特に母は父が亡くなってから認知症になり、介護が大変でした…それが一段落した途端に愛犬の腎臓病…ご飯を大好きだった子が何も食べなくなり、毎日朝晩流動食を食べさせ家で点滴までやっていましたが、心臓が耐えきれず虹の橋を渡ってしまいました… ずっと辛い思いをしてきていましたが、今年は特にひどいです… なんでこんなことばかり?私が何か悪いことをしたのでしょうか?何かの罰なのでしょうか? 子供の頃、虐待や言葉の暴力をしてきた認知症の母も最期まで頑張って見送ったのに…大切な家族である愛犬まで亡くしてしまい、母に子供の頃言われてた私は仕方なく産んだ子でこの世に生まれてきてはいけない存在だったという言葉が頭から離れません…だから、こんなに辛いことばかり私に来るのでしょうか? 私は肺に難病を抱えているので、次男が私の代わりに仕事をしながら家事をやってくれています…長男は親の反対を押し切って結婚をし家を出て行ってしまいました…次男は私がこんな体ではなかった時に自立したいと言っていたのですが、私がこんな体になってしまったので諦めて家に居てくれています。 私は次男の足かせでしかないのです。自由を奪い、人生を狂わせたのです。だから、罰としてこんな辛い思いをしているのでしょうか? やはり、母の言う通り私は生まれて来なければ良かった存在なのかも知れません… どこに行くにも5キロの酸素ボンベ入りのリュックを背負い、少し歩いただけで息があがり、ろくに歩くことも出来ないし、直ぐに疲れてしまう。周りから見たらだらけてるようにしか見えないみたいです。 足かせの私が消えてしまった方が次男は幸せになるじゃないかと思ってしまいます。 周りに迷惑ばかりかけている私が生きる意味や価値があるのでしょうか?今はただ、次男を楽にさせてあげたいといつもそう思ってしまいます。
はじめまして。 姉と一緒に33箇所めぐりを去年からしています。 GWに竹生島に姉といきました。 竹生島の弁天様の幸せのダルマというのがあるのですが その写真を撮り、わたしがブログにのせました。 知人がそのブログをみて ダルマさんの写真に良くないものが写っているので 削除したほうがよいといわれました。 ブログも写真も削除はしたのですが。。。 よくよく考えてみたら 写真を撮ってくれたのは姉でした。 姉にも写真のデーターを消すように言ったほうがよいのでしょうか? あと、その写真内容もお寺などに行き みてもらったほうがよろしいでしょうか? 姉は去年のはじめ離婚をし その後、33ヶ所めぐりをはじめました。 最初はどんな気持ちで はじめたかはわかりませんが 今は、わたしと旅行気分で楽しく回っているので このことを言うと、すこし気落ちするのではと心配です。 あと、あまり33ヶ所めぐりなどでお寺に行ったとき 写真などは控えたほうがよいのでしょうか? (写真撮影禁止のところは守っていました。) 知人が人の怨念などがあるからよくないと言われたました。 長くなりましたが、よろしくお願いいたします。
私は小学校3年生まで、人の気持ちが考えられなくて怒りっぽい子供でした。 身体的な特徴をからかったり、友達が嫌がっているのにわがままを言って泣かせてしまったりしていました。 逆に私がからかわれた時は相手に暴言を吐いて10倍返ししてしまった事もありました。 大きくなるにつれて人の痛みがわかるようになり、言わなくなりましたが当時傷つけてしまった人に対してとても申し訳ない気持ちでたくさんです。 その方の親の気持ちになったら最愛の子供がいじめられるなんて怒りでいっぱいなのもその当時は考えられてませんでした。 あと母親に迷惑かけてしまった事も いつも後悔しています。 特に街中で子供を見ると心が痛くなります。 傷つけた人が今もトラウマで苦しんでないか不安です。 本当に謝りたいけど転勤族だったので昔の同級生とは繋がりが一切ないので出来ないです。
お寺詣りのお焼香の前などに、お坊さんに向かって手を合わせて合掌しておられる方がおられます。正しい作法なのですか?
はじめまして。 この夏に父が永眠しました。 実家に仏壇はあるものの、自分の家でも父を供養したいと思い、写真と蝋燭、お線香、お花、おりんをおいて毎日拝んでいます。 ただ、これは自己満足であり父の供養になっているのかと考えるようになりました。自分の中で、父にもっと親孝行したかったという気持ちがあり、その気持ちを整理するためだけではないかと。 供養とは誰の為のものなのか、なぜ供養が必要なのか、正しい供養の方法はどうすることなのか、教えていただけると幸いです。 よろしくお願いいたします。
20代の会社員男性です。主体的に動くことを面倒に感じる自分の心を治したいです。 毎日仕事に向かうことに苦痛を感じ、かといって没頭できるほどの趣味も無く、毎日をただ何となく生きており心が磨り減っているように感じます。頭ではこのままではいけないと思うのですが、新しい出会いや趣味を探してみようと考えてみる度に頭の中に最初に浮かぶ言葉は「面倒くさいなぁ」なのです。特に仕事ではこの傾向が顕著に現れるので、毎朝「仕事に行きたくない」という心の声と格闘しています。 自分の人生を振り返ると自ら意欲的に動いたことが無く、たとえ動いたとしてもそれは常に必要に駆られたから又は誰かが用意した餌に釣られたからでした。 こんな自分を変え、挑戦することに喜びを感じられるようになる方法は何かあるのでしょうか。よろしくお願いします。
救われる道を探して仏教を学んでみたもののやはり合点がいきません。 具体例 これまでお釈迦様しか成し遂げられていないらしい解脱を一般人が目指しても無理だろうに解脱を掲げるのは合点がいきません。方便でしょうか? 中道が大事と言っているのにこの世に楽はない一切皆苦と極端に偏ったことを言われます。 仏教に救いの道はあると思えず何を頼りにしたらよいか途方に暮れています。
潮干狩りとか釣りとか、それを生業にしてる人が殺生をするのは当然ですが、自分が遊びでやる事への罪悪感があります。 生命の維持のために他の命を奪う事は世の理です。しかし、第一次産業に携わる方々が、自分達消費者の代わりに殺生をしてくれているのに、その仕組みを超えて、わざわざ自分が快楽を得るために殺生を行うのは、単なるエゴであり、それは捕まえた生命に対し非常に失礼なのでは?と常々感じます。 実際、潮干狩りとか釣りをしている間は楽しいのが、その考えを裏付けるようで辛いです。 しかし、捕まえてしまった以上は、なるべく苦しまないように殺して、美味しく食べようと思います。それが、無駄な殺生をしてしまった自分が出来るせめてもの償いなのではないかと思います。 やはり、潮干狩りや釣りは悪いことなのでしょうか?
おはようございます。 今日は文化の日で、イジメが原因で中退させて貰いましたが母校では文化祭を催しています。実の妹も母校の出身なので必ず来ているので私は行きません。私がイジメに遭っている時はまだ妹も小さかったので話しませんでしたが二親は無視でした。有名校なので卒業して欲しかったんです。でも出来なくてもう、この時点で不名誉な子になったんだと思います。おまけに高卒止まり。妹は有名な大学2つ出ましたし。笑えます。 座間市の事件はその猟奇さが際立っていますが大抵の人は信じられない、遺体の一部と生活なんてetcと言っている人は沢山います。私もそう思いますが容疑者は想像し得ない闇を抱えているのでは?と思っています。私もイジメに遭って家族の中でも孤立してから闇を抱えていると思っています。誰かしらあるのでしょうが深ければ深いと厄介なものです。闇に潰されない様に私はお坊さま方や周りの人に助けられながら四苦八苦していますが、私はこの容疑者を非難する人達よりは、闇を持つ容疑者に近いと思っています。自分を律しないといけないなと思いました。どうかお坊様方お祈り下さい。お願いします。
私は昔からライバルがいる方が頑張りがきくタイプでした。受験勉強の時などは友人と点数を比べ合って競いあうことで、最後までモチベーションをキープすることができました。 しかし、仏教ではあまり他人と比べたり、競争心を持ったりすることは奨励されていないというイメージがあります。 たしかに他人と比較する事で、自分も他人も傷つける事がある、という事は私自身が身に染みております。 でも、他人と比較し競争心を持つことは人間の成長過程ではやはり必要な気がします。仏教では競争心の利点については認めていないのでしょうか?
小さな頃からなにか困ったことが起きると私が我慢すれば良いと相手を優先し自分で自分の気持ちを押し殺してしまいます。 人のために自分の限界を超えるまで行動して後から逆に迷惑をかけてしまうこともあります。 そしてそのような状態の時幸せかと言われるとむしろ苦しみを感じていて、心も体も悲鳴をあげて、誰もいない時にほっと幸せを感じます。 最近自利利他という言葉を知りました。 この言葉について調べてみたのですがわからないので詳しくお聞きしたいです。 特に自利とはどういうことを言うのでしょうか? このままでは誰も幸せになれず自分も潰れてしまいそうで怖いです。 よろしくお願いいたします。
散々聞かれた質問だと思いますが なんでですか?? だってコンビニより多い数あるお寺で 二足のわらじの方だっていらっしゃると聞きました。 他になりたい職業はありましたか? 今他になりたい職業ありますか??