ハスノハのお坊さんも他人です。血のつながりがあっても愛されたり信じてもらった事もないのに、他人に信じてもらえるはずがありません。愛されるわけもありません。いつの間にかハスノハのお坊さんには愛されてると勘違いしていました。そんなくだらないものは、あるわけがありません。
以前こちらで質問する機会を頂き、とても気持ちが軽くなったこともあって今回また、性懲りも無く投稿することをお許しください。 私は現在、正社員として働いています。 自分なりに日々なんとか働いてはいますが、最近限界を感じています。 ・就いている職種が、自分の中で最も苦手としている事柄であること。 ・仕事の拘束時間が周りよりも多いのに給料はとても安いこと。 ・上司(いわゆるお局様)との関係に、プレッシャーや恐怖を感じすぎて疲れていること。 ・時間とお金がかかる趣味を嗜んでいますが、仕事と趣味の両立がとれないこと。 以上のことから、仕事を辞めて、パートで働きたいと考えるようになりました。 しかし、それを周りに相談しても「3年は働け」と言われるばかり。 周りがそう言う気持ちは、私にも分かるのです。なにせ私は、社会で生きるのに向いていない。責任感はないし、働くより休みたいし、人とはなるべく関わりたくはないし、マイナス思考で、取り柄もない。実家暮らしで周りに頼りっぱなし。我儘で、人よりも理解力がなければ、学力もない。今の職場で正社員として働いていることは、まさに奇跡に近いのでは?と思うのです。 パートに転職したい、と情報を探ってみても、「正社員のほうが将来安泰」、「パートはやめた方が良い」という意見が多いです。 でも、自分の人生に期待もできず、将来も変わらず底辺なのだろうなと思うと、人生80年というのはあまりにも長い。 それなら、誰か他の人に私が生きる分生きて欲しいですし、私も楽です。 ならば、30歳を目処に死にたいと思うようになりました。 そう思っても、「死にたくない」し、「将来への不安」は捨てきれず、自分でもなにが正解か分からないのです。 自分がなにを思ってるのかすら、分からないのです。 人に相談するのもどうしてか苦手で、難しいのです。 「仕事を辞めたい」し、「30歳で死にたい」 でも、「将来への不安」「死への恐怖」は拭いきれず、結局毎日、地球の酸素を無駄遣いしています。 我儘で、矛盾ばかりの甘えた自分がこれから何を信じて頼りにしていけばいいのか、どなたかお手すきの際にご教授頂けると幸いです。 長々と申し訳ありませんでした。
このまま車に電車に川に飛び込んで死にたい
初めまして、私は仏様を側に感じたい時やお寺で参拝する時に印を結び、真言を唱えている破戒するヒトと申します。 私の結ぶ印や唱える真言は師に習ったものではありません、ネットや書籍で調べたものです。 本当は出家をして師に習うのが一番だと言うのは分かりますが、どうしても人が苦手で集団に溶け込んで修行する自分が想像出来なくて、独学でまったりと学ぼうとしています。 このように独学で印や真言を調べるなかで「印は行者しか結んではならない」「印や真言は誰が行おうと構わない」「師に習わない印や真言に効力は無い」「軽い気持ちで印を結べば仏罰がくだる」…など様々な情報が入り乱れて混乱します。 ただそれでも私自身に「印を結び、真言を唱えたい」という欲求が合ったので都合の悪い情報は気にしないようにして印と真言をしてきました。 ちなみに理由は魔法使いみたいで格好が良いから、または自分はいま仏様に近付く修行している…といった心地のよい感覚があり、このまま根気よく続けていれば仏様との間に、より濃密なご縁を頂けるかも…なんて期待をしつつやっていました。 しかし時に後ろめたさの様な物を感じる事があります。この行為はもしかしたら仏様に対し失礼に当たるのではないかと。 とある質問サイトでこのような事を質問してみても意見はバラバラでどうすれば良いか分かりません。 このような混乱と欲求と後ろめたさが入り乱れ撹拌されてか、今朝の夢のなかでお坊さんに「真言や印は欲望で行うものではない、貴方が好意でそのように行動しても仏様は迷惑だと感じるだろう」と言われました。 すみません、あくまで夢の中のお話です でもとても鮮明な夢で「仏様は迷惑だと感じるだろう」という言葉が突き刺さり、堪らずこちらのサイトに登録を行い質問をさせてもらいました。 もしも夢など紛い物で無いお坊さんにそのように言われれば、私はキッパリと印と真言の欲求は断ち切るつもりです。 しかし私の欲求として仏様の迷惑にならないなら印を結び真言を唱えたいです。 どうしたら良いでしょうか。 分かりにくい所があったらすみません。 混乱と欲求が激しく渦巻いてそれ以外の事が考えられません。 どうか回答お願いします。
はじめまして、悟りについていくつか疑問があるので教えて下さい。 お釈迦さんはどうやって悟りを開いたのでしょうか? お釈迦さんは悟りを開く前は苦行をしたり様々な修行法を試しましたが、 最終的には瞑想によって悟りを得たのでしょうか? 悟りを開くと何か特殊な能力が手に入りますか? 悟りを開いたとはどうしたら分かるものなのでしょう? 悟りを開いたお坊さんは次にどうするのでしょうか? お坊さん以外に、この質問に正しく答えることができる人がいないと思う(教えてgooでは正確な回答が返って来るとは思えない)のでお願いします。
失礼な内容です、すみません。 元々無宗教ですが、最近、般若心経を覚えてみようと思い少しずつ覚えようとしています。 これまでお坊さんやお友だちなどが言ってるのを聞いたことはあるけれど、興味もなくなんとなく聞き流していました。 でも今回いざ般若心経を覚えようと思うとまず読みにくいしじゃあ意味付けて覚えようとしてもそれもかなり難しく、私には無理かもと思えてくることもあります。 それでも、「いつまでに覚えなくてはならないというのがあるわけではないのだから、ぼちぼち取り組める時に取り組めばいいから」と一応続けています。 そうしてるうちに、般若心経はお経で一番短いことを知り、「えっ!これで一番短いの?」ってか、覚えて言えるようになるのもなかなかできないのに、そういえばお坊さんってこれ何も見ずに書けるのかな?これより長いお経も?! と思い、それはさすがに無理か?さすがのお坊さんもそんなことはできないのかな?と疑問に思いました。 そんなことお坊さんはできるのですか? できるとしたら、どうやってできるようになるのですか?ひたすら反復練習ですか? また、ゴールはあるのですか? ばかばかしい質問ですみません。
引き寄せを信じている人から以下の話をしていました。 『畑は自分を信じる心、種は願い事、肥料は現状に満足出来る気持ち いい状態の土(心)は、良い土(心)を作る事 良い土(心)の状態は自然体な状態で心が喜んでいる状態で、 その時々の気持ちに忠実になり自分が自分に寄り添ってあげる事 自分を好きで信じてるからこそ、他者を好きになれて信頼できて、人を許せるようになり、世界を愛せるようになる 世界を愛せるようになる頃には、自然に日常の幸せに気付いて感謝出来る心が自然に育っている これが畑でいう肥料になる』 そして、 ブログを書いてるお坊さんも… 『仏道を歩む上で大事なのが、 最近よく耳にする【引き寄せの法則】 「思考が現実化する」「自分の心が現実を作る」 仏道を歩む上で大事なことは、「いい気分でいる」ということこそ大事で、 自分の「今その時の感情がとても大事」 この感情がまわりと共鳴して、 また、「嬉しい、楽しい、良かった」と思えることが起こってくる。 「投げかけたものが返ってくる」という引き寄せの法則そのもの。 たとえ念仏していても、気分や感情が不平、不満、愚痴等なら、それらを味わう現象が起こってくる。 だから、仏様を味方につけたのだから、 この娑婆世界、どうにも汚い世界かもしれないけど、この至らない私もそこで精一杯生きているし、生きていく。 その人生をやはり「幸せなもの」にしたいと願う。 だから、そのためにお念仏して、自分に起こり得る 全ての事を仏様にお任せして、 現世での起こる結果は、お任せした結果の「ギフト」と受け取り、最後は、死後、極楽へ往生させていただく。 その過程の中で、 自分の機嫌は自分でとって、いい気分でいる時間を増やす。 ネガティヴな思いが出てきたら、仏様にすべてを聞いてもらい、お任せをし「念仏瞑想」を実践していく。 そして、常に自分に与えられた現実の中から 「しあわせ、ありがたい、よかった、うれしい」と思える事を探して、今の現状を満足して感謝していれば 仏様ご先祖さまから更なるお導きが得られ、引き寄せられるようになってくる。』 仏教でも心は畑のようなお話はあるのでしょうか? 「心は畑」「マザーテレサ」の言葉も引き寄せに繋がっていると言っていまして、お坊さんまで引き寄せを話していましたが… 仏教と引き寄せは何か繋がっている部分があるのでしょうか?
ただ、漠然と死にたい気持ちになります。 私は小さい頃から、家庭で疫病神、貧乏神と言われ続けて、劣悪な精神状態の中で育ちました。 環境も悪く、それが原因でいじめられました。 親族から悪戯され、未だによく夢を見て眠れないこともあります。 私がその環境から逃げたから、置いてきてしまった私の犬は餓死しました。 それでも、私は、今仕事をして誰かの役に立っていきたいと、他人の人生を守りたいと、必死に働いています。 しかし、最近、急に思い出しているのです。私は汚くて、疫病神で、貧乏神で、大事だと言っていた自分の心の支えさえ守れないクズであるのに、一体子どもたちの、母たちの、何が救えるのかと、息が詰まります。 死にたくてどうしようもないのですが、 そんな、恐ろしい過去を、誰にも相談できません。 何かお言葉をいただきたいです。 よろしくお願いします。
母が亡くなって11年経ちました。 母の魂は今苦しんでいるのでしょうか? 重い肺炎を患い、私たちきょうだいに迷惑をかけまいと死を選んだ母。 母は無宗教で戒名つけてほしくない、菩提寺もない、お葬式は好きだった曲を流して親戚だけでお別れ会のように執り行いました。 その後お坊さんとの御縁があり、自殺した人の魂は自然死の魂と違って成仏するのに修行がいったり時間がかかったたりするとお坊さんから聞きました。 そこで高野山に行って母の回向をしていただいてきました。 去年は10年の節目なので、ペット供養でお世話になっている市内のお寺で、母の供養をしていただき、13回忌とのことでそのお経もあげていただきました。 私は母の魂は存在すると思っていますが、宗教に関して全く無知です。もちろん仏壇はありますが、一般的なお線香をあげて祈るくらいのことしかしません。 母の魂は今苦しんでいるのでしょうか? 生きてるときに私たちや他人のために人生を捧げてきた人です。 たくさんの苦しみがあった人です。小さい頃からとてもたくさんの苦労をしてきた母が、死の選択をしてもまだ苦しんでいるのかな…と思うと、今生きている自分に何かできないかなと思っています。お金がないので、お線香をあげたりご飯やお水をあげるだけなんですが、何か母のために今の私ができることがあるんでしょうか? 前に質問させていただいたのを見ていただくとわかるのですが、私自身今気持ちの病のような症状が出ていて、母はこんなときにどうしていたんだろう、こんなに病んでしまった私を見て悲しんでいるのだろうかと思ったり…。 たくさん苦労して、たくさん自分を犠牲にして、そうやって私を育ててくれました。 私も今は辛くて辛くて死にたいときもあります。でも母のおかげでこうして主人と小さな幸せを毎日どうにか見つけているんだと思います。 苦しくて死んでいった母にもう苦労させたくないです。 何か私みたいなのでもできることがありますか? 母は今苦しいですか?
主人の父は、気が小さく心配症なのか、自分以外の人を信用できないようで、大変気難しい人なんです。 その、義父のおかげで、現在、9年前に他界した義母のお墓はいまだなく、遺骨は主人の実家の『仏壇』という箱の中に保管されています。 『仏壇という箱』とは、どういうことかというと、仏壇に魂入れをしていないのです。 火葬が無事終わり、初七日は義父が大々的な法要にせず、義父だけで静かに済ませ四十九日までに仏壇もきちんと納めていただき、親せきらにも来ていただいて法要をしたいということでしたので、主人はじめ、主人の兄家族らも、義父の意向に従うことにしました。 ところが、四十九日になっても、法要の連絡もこないので、いつするのか聞いてみたところ、お坊さんはもう呼ばず、自分ら家族だけで集まって供養しようと言い出したのです。 よくよく聞いてみると、初七日の法要に来ていただいたお坊さんから、早く仏壇を買うように勧められ、仏壇屋さんまで斡旋してきたとのこと。 義父は、それがどうも気に入らなかったようで、『マージンをもらってるからと商売の話ばかりをする』と完全に、お坊さんをシャットアウトしてしまい、四十九日も来てくれるなと言って追い返したようなのです。 なかなか限られた文字数で説明するにはあまりに難しいのですが、とにかく義父は一度シャットアウトしてしまうと、だれが何を言おうと聞く耳を持たないどころか、説得しようとする人までも悪者にしシャットアウトしてしまいます。 現に、そのころの義父は、何度電話しても電話にでないし、連絡がつかないから直接実家に行ってみても居留守を使うという状況でした。 三男の主人には一番、心を許していたようなので、私が主人に説得するように言ったのですが、主人は、説得や意見することで自分までもお父さんの敵になってしまったらパイプ役がいなくなるから、義父の話を聞くだけで説得などはしません。 そのため、当初、亡くなって2年は手元においておいてその後はいいお墓を探して納骨すると言っていたのが未だされてません。 私たちでお墓を作れればいいのですが、正直、いつかは!という思いはあっても、今現在、このご時世、自分たちの生活で精一杯で、お墓を購入する余力がありません。 やはり、お墓がなければ、義母は成仏できませんか? 義母を偲ぶだけでは供養になりませんか?
私は仏教哲学を勉強し始めたばかりの凡夫でありますが、仏教の縁起説に関して一つ疑問に思うところが有ります。 もちろん、縁起説の欠点だとかそういう物ではありません。 仏教には時間的生起を認める「此縁性縁起」と、時間や空間を論理的に関係づける「相依性縁起」の二つが代表的だと聞きます。 主に前者は釈尊の説かれた縁起とされ、後者は龍樹大師の説かれた縁起とされていますが、これらは学者によって意見が真っ二つであることを、最近本で知りました。 例を挙げるならば松本史朗博士が「龍樹は此縁性縁起を説いた」といった感じですね。 1.果たして今現在の仏教界(?)のこれらに対する見解の主流はどうなっているのでしょうか? 2.また、以下の二つのリンクに対するご感想を伺っても宜しいでしょうか? ネットの意見を鵜呑みにするのもどうかとは思いますが、個人的にはこの方の縁起説は大変興味深いものだと思われます。 http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku02.html http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku03.html
お疲れ様です。北風小僧と申します。 今回の質問は 自分自身が自殺したい云々では無く、 仏教的な観点から見て "自殺"とは一体何なのか。 そこに興味を持って質問させて 頂きたく思います。 まず、なぜそう思ったのかと言うと 趣味で歴史や宗教について 調べていたところ、 様々な方が論文やブログ等で 自殺とは仏教において "許される"のか"許されない"のか という点に触れておりました。 人によって 「お釈迦様が自殺について明確に咎めた記述は無いから許される。」 という方、 「動物に対する殺生をそもそも禁じているのだから人間も動物だし、自らを殺めることは許されない」 という方、 十人十色の見解があり、非常に興味深かったです。 そこで、 「お坊さんの考えはどうなんだろう?」 と思いました。 是非とも多くのお坊さんにお答え頂きたいです。 どうかよろしくお願い致します。
父が亡くなり来週で49日になりますが、お坊さんの都合で、今日49日の法要がお寺で行われました。 墓は未定のため、三回忌くらいまで家にお骨を置いておくつもりでしたが、曹洞宗のお坊さんに、家にお骨をもって帰ると故人が亡くなってから修行したのがもとに戻って無駄になるから、もって帰らないで寺に置いておいた方がいいと勧められ置いてきたと母に言われました。 そのようなことはあるのでしょうか? 将来、そのお寺に埋葬するとか、そのようなことは何も決めていない状況です。母は檀家と信徒の区別もわからず、父の葬式に際し檀家になったとかで、契約書もありません。某県の田舎のお寺です。
悩みは妻が葬儀の時に、霊前で焼香の時安らかにお眠り下さいと願ったあと、地獄に落ちろと思ったようです。とてもお父さんが好きだったようでなんでそんなの事思ったのか、ずっと反省と後悔をして不眠症で病院に通っているのですが良くなる気配がないです。本人は生き地獄の末、死んでからも地獄に落ちると仏教の教えにあると、言っています。どうすれば抜け出せるでしょうか?一度、お坊さんと話をしようと連れて行ったのですが、怖くて行かないと言うので。回答をお願いします
私は…スピリチュアル的な物(パワーストーンとか占い)にハマった→流行りの御朱印集めにハマった→神社とお寺の参拝にハマった(その過程で神様や仏様と摩可不思議過ぎるご縁を頂きました!)→現在、神道と仏教の知識(書籍やネットが主)を学んでいるといったプロセスを踏んでいる者ですが… そんな私が「イスラム教」や「キリスト教」など世界の宗教を“なんとなく書籍やネットで学んで”良いのか…“仏教のお坊さんに”教えて欲しいです 何でそんな事聞くかと言うと…うまく説明出来ないのですが “神道の神様や仏教の仏様”に「こいつ異国の宗教に浮気しやがったな!?」って思われたり「こいつが我々に抱く信仰心はこんなものなのか…」って思われないか…どうか ちなみに何故私が日本にあまり馴染み無い宗教を学ぼうと発想したかと言うと単に他国の神の考え方捉え方を知りたくなった…それと 【高次元の存在は確かに存在するのだろうが、仏教神道といった宗教という人間の作った1つ2つの枠組みには捉えきれないものであろう、より多くの宗教(高次元の存在の考え方)を学べば、より高次元の存在と近しくなれるのではないか?詳しくそれらの存在を定義が出来るのではないか?そもそもその宗教に高次元の存在はいるのか】と発想がふと浮かんだからです こういったある種の実験(?)または知識欲の充実を図りたいのですが…どのような結果が付きまとうのか不安なんです “影響されやすい自分”が新たな知識や信仰を得てどのように仏教と神道を見直すか、場合によってはどのような報い(天罰とか仏罰)を受けるのかとか… あまりこんな事言うべきじゃないと思うのですが宗教は教義の違いからともすれば互いを否定しがちですもんね 私はそもそもお坊さんではないし在家信者の定義にも当てはまらない只の“神道仏教ファン”に分類されると思うので失礼は承知なのですが… 恐らくお坊さんの中には私と同じ事を発想された方がいらっしゃるのでないかな?と もしかしたら私のようにビビってまごついてる前に実践された方もいらっしゃるのでないかな?と思って質問させてもらいました どうか回答お願いします
いつもお世話になっております。 辛い時、苦しい時、hasunohaがある、以前質問に答えて頂いたお坊さんやどなたかの悩みを晴らしてくださるお坊さん方と感謝で繋がったご縁がある、と思い、日々を乗り越えていくことができています。有難うございます。 悩むことが多い人生、書籍やこうしたインターネットの情報源に頼り多くの意見に触れています。 ご相談したいのは 「受け入れるべき指摘/受け入れたくない指摘、 これを自分の判断で分けて良いものか?」という事です。 率直に、自分の判断に自信がない人間です。 「お前は変だ」と学友に言われ育った子供でした。なので、他人の意見をまず調べ、取り入れる習慣が有ります。 中にはこちらを否定するような、辛辣な意見もあります。 真実は耳が痛いもの、「受け入れがたいことこそ真実なのでは」と考え、それも信じていました。 日々情報収集の結果、今では真実は無いと悟りました。 では、都合のいいことだけを信じて良いものか? 悩んでしまいます。 私が最も恐れるものは「裸の王様」「井の中の蛙」になることです。 謙遜しすぎるとまた「卑下ばかりする態度にいらいらする」と思う人がいるそうです。 丁度、ここで「謙遜する私でも認めてくれる人がいるだろう」 と信じるのと、 「謙遜してばかりの卑屈な人間は嫌われ者だから、直すべき」 と捉えるのと どちらが良いのだろうというご相談になります。 他人を気にせず前向きに生きよう!という教えがマジョリティ側と感じていますが、 欠点を直さずに開き直っていることにならないのかな…と迷ってしまいます。 自分の判断で分けて良いのか、といいましても個々誰かに相談できるわけではないので、 いつも悪い方ばかり取ってしまうため、新しい見解を取り入れたいです。 自分より遥かに長くお知恵と経験を積まれたお坊さんは どうお考えになるのか、教えを請いたいと思います。 長文失礼致しました。どうぞよろしくお願い致します。
自分は長い間1人っ子の1人親で2人暮らしをしていました。 そしてその親の葬儀での事です。 葬儀の日が近くなった時、元々来る予定でなかった、遠縁の家族が参列するとの連絡が入りました。 そして当日になって、その家族が時間に遅れるという連絡が入りました。それ自体は仕方のない事だったので、お坊さんに伝えたところ時間を調整してくださる事になりました。 そしてその家族が到着し、葬儀が始まりました。するとその家族の子供が騒ぎながらあちこちを歩き回り始めました。 子供が来る事は分かっていたし、そちらの親族は大人がかなり多いので自分はそこで面倒をみてくれると勝手に考えていました。実際は子供が騒ぐままにさせて歩き回らせていました。 自分はただでさえ悲しみでいっぱいなのを堪えてきていて、しかも喪主でしたから、ただ子供が大人しくしてくれる事と誰かが面倒をみてくれる事を祈りながら黙って座っていました。子供が仏具にぶつかって倒しかけた時は気が遠くなりました。 自分は人の居ないところで訳も分からず泣く事しかできませんでした。 葬儀がひと段落したところで、そちらの家族に近い親族に、「子供が騒いだけど 〇〇さんの葬儀も語り出してお経止めた人が居たよね」と言われました。ただの世間話だったかもですが、その時の自分はまるで「よくある事だから許してね」と言われたように感じました。自分が悲しんだところでもう味方は居ないような気になりました。 「子供のした事だから」「今後も親戚付き合いがあるから」と感情を抑えながらなんとかその家族達を笑顔で送り出そうとしました。コロナでマスクをしていて本当に良かったと思いました。 この事について謝罪を送ってきたのはその子供の祖母に当たる人だけです。 後で聞いたところ、この家族は遊びに行った帰りに葬儀に参列した過程で遅れて来たそうです。それを聞いたせいでしょうか、親の葬儀をアトラクションの延長にされたような気持ちになりました。 自分はどうするのが正解だったのか分かりません。自分が上手くやっていたらこんな事にはならなかったと自分を責めたくなります。 そしてその家族と、その周囲への怒りも湧いてきます。どうしたら良かったのでしょうか。そしてどうやってこの怒りを消化したら良いですか。 知見をお貸しくださると幸いです。
質問、宜しくお願い致します。 私の母方は、元々お寺であったらしく、先祖代々のお爺さん、また、その上のお爺さん又 …と、皆んなお坊さんの自画像の家系図がありました。しかし、私は、今、何も信仰をしている訳では無く、この先、私が信仰を持つとすれば、どうすれば良いのでしょうか?因みに、私は、幼い時、兄からの性的虐待がトラウマになり、未だに、精神的に、立ち直れません、親にも相談しましたが、兄がしていないと言っていると、解決にもならず、私は、家族が、嫌いで、お墓参りも行っていません、この家に生まれなければよかったと、心底思うのです。話が、まとまらず、申し訳有りませんが、宜しくお願い致します
大変失礼な質問だと思いますが、何卒ご了承いただけると幸いでございます。 私は、長らくサービス業に従事しております。 ここ5年の間に、2人の祖母、叔父、母親、旦那の親友が亡くなり、その都度お葬儀に参列いたしました。 宗派の違いはありましたが、通夜・火葬・葬儀・法要とそれぞれにおつとめをいただき、『ありがたいお経のおかげで、故人は仏になるために旅立つんだな』と故人の冥福を祈っておりました。 そういった機会も多かったためか、ご縁あって葬祭会館へ転職いたしました。 まだ1ヶ月も就業しておりませんが、すでにたくさんのお葬儀に立ち会わせていただき、さまざまな宗派のご住職様にもお会いしております。 何件ものお葬儀に立ち会うと、知りたくなかった裏の部分も見えてまいります。 『お葬儀をしておつとめを頂くのは、故人が無事に仏になるためではなく、残された遺族が大切な人の死を受け入れるための段階の儀式』なのかな、とも考えてしまいます。 お葬儀をする意味とは、そういった死を受け入れる儀式的な理由も含まれているかと思いますが、住職様から見た『お葬儀の際におつとめをすること』には、どのような意味があるのか、お伺いしたいです。 無知故の不躾な質問で大変申し訳ございません。 よろしくお願い申し上げます。
なぜ死ぬことが悪いのか未だに理解できません。 周りの人たちが悲しむのはわかります。私は一般的に幸せな子だから。 でも、本人にとって生きることが死ぬことより辛いとはどうしても思えません。 楽になりたいとは、どうして思ってはいけないのでしょうか。 10年以上考えています。 お坊さんの考えを教えてほしいです。