母親って何なんでしょう? 子育てが辛いです。 何をどう言っても伝わらない。しばらく様子を見ようと、言いたいこともグッとこらえていれば、やりたい放題。 深夜徘徊、遅刻、サボリ、喫煙etc 結局、親のしつけが悪いからだ!親の責任だ! と言われる。 反抗期なのは分かっているけれど もう、どうしたらいいか分かりません。 耐えるのが母親なんでしょうか? 母親なら、子供の全てを受け入れなければいけないんでしょうか? もう、全部投げ出してしまいたい。
小さい頃から努力することはそう苦ではありませんでした。 頑張って結果を出せば出すほど、周りの人に褒められることが嬉しくて、また頑張ろうと思えました。 けれど、虚しさもありました。周りの人はみんな結果しか見てくれず、私の内面を知ろうとする人がいなかったからです。 クラスメイトや友達の私に対する印象はいつも同じで、どれだけ頑張っても結局は上部しか見てくれませんでした。 しばらくして、私には親友と呼べる存在ができました。その子だけでなく、新しくできた友人はみな私のことをちゃんと理解してくれました。 その時から、私の中で努力をする意味が無くなりました。今まで頑張ってきたのも、全て私を理解してくれる人を待っていたからです。 でも、努力せずとも私を理解してくれる人が現れてからは、頑張ることができなくなりました。 このままではダメだ、頑張らないといけない、でも頑張ることができない。悩んでいたある日、ふと心の中である疑問が湧き上がりました。 それがタイトルにある、「頑張ることはどうして偉いのか」です。 その疑問が浮かんだ瞬間、私は頭の中が真っ白になりました。それからずっとこの問いの答えを考えていますが、一向に納得のいく答えを見つけることができずにいます。 どうかお願いです。どうして頑張ることが偉いのか、私に教えてください。 答えを見つけることができたら、昔のようにとは言わなくても、また頑張ることができると思います。 どうか、お願いします。
夫がなんちゃって鬱です。 昼間は寝まくって夜に起きて、俺は鬱なんだー眠れないとかいいます。 ちょっときつく言うといじけて布団から出てきません。 子供と遊ぶ約束をしてても平気で反古します。 注意すると、俺を追い詰めるなーといじけます。 優しくしろと言いますが、子供が乳児の時には一度も夜泣きの時にはあやしてくれず、私が泣きながら助けてと言っても無視で、疲れて帯状疱疹になって、入院してくださいと言われた時も、むりーと一言…結局家で療養です。 そんなこんなで、私が辛い時は助けてくれなかったくせに!と優しくできません。子供が近頃不安定になっていけないと思いつつあの時が頭をよぎり優しくできません。 どのように心を持てばよいでしょうか どうか教えてください
私は進学校に通っているのですが、最近何の為に勉強しているのか?やりたいこともないのに大学に行く意味はあるのか?といったことばかり考えてしまいます。 お坊さんが思う勉強する意味は、何ですか?
お坊さんになりたいと思っています。 どうすればお坊さんになれるか知りたいです。 年齢的なものは関係ありますか?40才近くになると難しいですか?
人間は何のために生きるのでしょうか? 私の大好きな漫画の『ジョジョの奇妙な冒険』の第3部で、DIO(ディオ)は、『人間は誰でも不安や恐怖を克服して安心を得るために生きる』と答えています。 なるほど確かに。人間の営みにおいて、この言葉はすべてに当てはまるのではないかと思いましたが、なんだかこの言葉に当てはめてしまうと生きる希望をもてないというか、元気に前向きに生きようという気持ちにはなりません。 この質問に対して、前向きに元気になるような、また人生の応援歌となるような、そんな回答や言葉が欲しいです。
昨日のことです。 保育園で仲の良い友達と遊ぶことになり、うちに来てもらって遊ぶことにしました。 息子は普段からもおふざけばかりで、落ちつきがないのですが、誰かが来るとさ嬉しすぎてさらにテンションが高くなり、常に大声になったりします。 近くの公園で遊んでいたら息子が友達を優しくですが叩いていたので、私も叩いたらダメーと優しくいいました。 そしたら息子は私に「ママだって叩くやんか!すぐ怒るし、ウソつーきー」と私の悪口をずっと言い出し、わかったから、もうやめて。と何回も落ちついて話しましたが、どんどんエスカレートしていき「もう家に帰ってこやんといて。ママなんか大嫌い。ママの作ったものなんか食べやん!」等言い出し友達もほっといて1人で歩いて家に帰ろうと歩き出しました。ずっと我慢してきましたかさすがに、友達が来てくれてすぐにこんな状態で友達も困ってるし、私ももうどうしたらいいかわからず、もういい加減にしてよ。せっかく友達来てくれてるのに!と起こりました。でもなかなかおさまらず、ホントに泣きそうでした。 今まででもお友達ともめると、すぐに拗ねて プイッと違う方向へ行ったり走って行ったりします。 お友達ともめて息子が悪い時に少しだけ起こっても逆に切れて拗ねたりします…。 もうどうしたらいいのですかね…。 もうこんな事したらい次にお友達と遊べないからやめて。と言ったりしますがダメです…。 こんな事になるなら友達と遊ばせる機会を作りたくなくなります…。 いったいなぜ私を困らせる事をやりすぎたり、いいすぎたりするんですかね…。私はどう対応したらいいですか? アドバイスよろしくお願いします。
昨年、年下の男性と結婚しました。 主人がカルトと言われる宗教団体に入っています。 結婚前から知っていましたが、趣味だと割りきろうと思いました。 その他は不満がなく、真面目ないい人です。 でも、あやしげな機関誌が届き。気持ち悪くなりました。 常識ではとても考えられないような内容の記事ばかりです。 その宗教は、他の宗教を否定しています。 一緒に初詣や、観光地の寺社にもいってくれません。 そういう所に行くと、不幸になると言います。 だんだん夫のことが薄気味悪くなりました。 このまま結婚生活を続けていけるか、不安です。 お坊さんという立場から、アドバイス下さい。
また、カキコさせていただきます。 よく、テレビコマーシャルでやっているビルで管理している霊園、カード一枚で仏様に会えるという自動化したお墓、ご住職さまにはどうゆうふうに見えるでしょうか?まあ市営霊園、お寺の敷地にはもう限界が来てこれ以上墓は作れないという事情があるとおもいます。 通常の石だとお金何百万とかかりますしね。 過去にもこういう質問が有ったかと思います。 また聞かせてくださいませ。
初めまして。 三歳の一人息子を持つ母です。 親の都合で一人っ子にしてしまう事への意見を頂きたく相談します。 経済的理由、 私の未熟さからこれ以上の子供を育てる自信がない事、 息子が大事すぎて二人目を妊娠・出産する事になった時に息子に寂しい思いをさせるのが嫌な事、 前回の妊娠中に私の体調面で周りに迷惑をかけた事、 などから一人っ子にしようと思っています。 主人も特に二人目を望んではいません。 でも周りは違うんです。 「2人目はまだ?」と何度も言われ、「一人っ子は可哀想」攻撃。 息子を同時期に出産したママ友はみんな二人目を出産済み。 四人家族の楽しい話を聞くと、息子に兄弟を作ってあげられない事に 罪悪感も感じます。 本当は私自身が二人目の子供を欲しいのかもしれません。 でもこれからの生活費の不安や、やっとらくになってきた子育て、 また一から新生児のお世話をする精神的余裕がないんです。 もう出産しなくていいんだと思うと心が楽になったりもします。 周りは子供が2人・3人が当たり前の環境で一人っ子を育てていく アドバイスを頂けませんか。 こんな親の都合で兄弟が持てない息子は、やはり可哀想な子なのでしょうか。
人間とは偽善と悪の塊だとは思いませんか?
初めてこちらで質問させていただきます。よろしくお願いします。 私は現在、大学院で社会学を専攻しているのですが、同時に仏教に対しても強い関心を持っております。今後の人生は仏道を中心に据えて歩んでいきたいと思っております。 現代の日本の政情を私なりに研究した結果、日本の将来には期待できるものがほとんどないという結論に至りました。日本の政治・経済・文化における凋落は民主主義・資本主義体制が崩壊するまで続くだろうと予測しております。 この現状を踏まえて、私が歩むべき道は仏道以外に見出せないと思いました。しかし、日本仏教を信仰するにはいくつかの問題点があるとも感じております。 まず、第一に宗派があまりにも多くどの宗派を信仰して良いか分かりません。様々な宗派の本を読んでは見ましたが、どの教えにも深く納得することができず、悩み続けている状況です。(最近では、禅とテーラワーダ仏教の教えに惹かれております。) 第二に、日本仏教はもはやその求心力を失ってしまっているのではないかという問題です。鎌倉時代など、社会状況が大きく変化した時代には仏教は多大な求心力を持っていましたが、現代では賞味期限が切れた宗派もいくつか存在していると思うのです。(例えば、私の家の宗旨は浄土真宗ですが、個人的には信仰することに困難を覚えます。もちろん、歎異抄などの著作には深い感動を覚えます。)それが、さまざまな新興宗教を生み出す原因になっていると思うのです。 これらの点を踏まえて、私は禅かテーラワーダの教えを学んでいきたいと考えているのですが、同時に躊躇もあります。その教えに賭けて救われなかった時のことが怖いのです。ここに非常な葛藤があります。 結局、私がお尋ねしたいのは「私はどう生きるべきか?どの宗派を信仰すればよいか?」ということです。何かアドバイスがありましたら、どうかご回答下さい。よろしくお願いします。
初めまして。 私は、横浜で会社員をしている伊藤と申します。先日、テレビでこちらのサイトが紹介されていまして、仏教の教理に関して長年疑問に思っていたことがありましたので、質問させて頂こうと思い書き込みを致しました。 私は、大学生のころから仏教に興味を持っておりまして、仏教に関する本をいくつか読み、修行の真似事もさせて頂いたことがあります。仏教との出会いは、私の人生の中で非常に貴重なものでした。これからも、修行を重ねていきたいと思っています。 ただ、その中で未だに釈然としないことがあります。それは仏教の説く「死後の世界観」がなぜ宗派によってここまで大きく異なるのか、ということです。 仏教では、もともと「輪廻からの解脱」が一番の目的であったと聞いています。それが、現代の仏教では死後の世界観について「極楽浄土で仏弟子となる」といった立場や、「死後のことなど考えず、今を生きる」といった立場など、様々に分かれています。 私は、どうしても理屈っぽいので、このように死後の考え方が異なっていることに疑問を感じてしまいます。例えば、「極楽浄土に行けるなら、今は努力せず楽をしていた方が良いではないか。」と思うこともありますし、「死後の輪廻転生を否定するなら、そもそも修行する必要さえないのではないか」と思うこともあります。 先日、上座部仏教のお坊さんの著書を拝読して、私の考えに近いことが書いてあって共感を覚えました。そのお坊さんは、「死んですぐ極楽浄土に行けるのなら、どうして早く自殺しないのでしょうか。」といったことや、「輪廻転生が無いなら、どうして修行する必要があるのでしょう」といったことを述べておられました。 もし、輪廻転生があるのであれば、私もなるべく善行をしようと努力すると思います。逆に、輪廻転生がないと考えると、やる気を削がれ厭世的な気分になってしまいます。 人間がこのような気分になることを見越して、お釈迦様は死後の輪廻を説かれたのかもしれません。しかし、今の私にはそれ抜きで前向きに生きる心構えを持つこともまた難しいです。また、死後の輪廻を否定するならば、自殺を否定することもまた難しくなるのではないでしょうか。 こういった点を、お坊さんはどう考えているのか、どうしても気になったので質問させて頂きました。失礼なことを伺ってしまい申し訳ありません。
阿弥陀様のお力でどんな悪人も浄土へ生まれ仏になれるという教えは、現在うつ病で死にたい人の背中を押してしまうものではないでしょうか? 私は救いのお力が決まっていることの安心感で今をより力強く生きていけると思うのですが、それは私が健康で、頑張れる心身の状態だからだと思います。 うつ病の人は今の状況がつらすぎて、ただでさえ消えたい、死にたいのに、死んだら悟りを開く仏にさせていただけるとわかったら、その言葉は非常に魅力的で、喜んで死んでしまうと思うのです。 私にはそういううつ病の人に、阿弥陀如来の誓願に包まれて強く生きてほしいのです。 どう考え、お話すればいいですか?
昨年祖母が亡くなりました。 葬儀は密葬で行い、お寺を通さなかったので祖父や曾祖父母が入っているお墓に納骨しておりません。 当方は結婚して実家を出ている為、このお墓に今後入る予定はないのですが実の両親はこのお墓に入りたくないので祖母のお骨も入れていません。 両親がこのお墓に入りたくない理由としては祖父が他界した時(約20年前)このお寺から戒名代もかなりな高額で、その時の住職さんやお寺関係者の態度も傲慢だったのが父には我慢出来なかったそうです。 その後、事あるごとに実家にとって高額なお布施やとうば代を要求するお寺のやり方についていけないのもあり、お寺の方針を受け入れられないのです。 その為両親はお寺に不満が溜まり、祖母と話し合った結果、祖母のお骨は手元に置いておくという約束を生前の祖母としたみたいです。(当方は祖母から実際にこの話を聞いていないので両親が本音で話しているかは不明ですが…) しかしこの決断を受け入れられない叔父や親戚から「祖母をきちんとお墓に入れるべき・お金の問題ではない・祖母が可哀想」と言ってきます。 父は断固として叔父や親戚の意見を受け入れずにいます。 私は嫁に出た立場なので何も言えませんが、故人のお骨で家族や親戚がいざこざ起こすのは祖母が一番悲しむと思います。 私は今後どのようにしたら良いでしょうか? 私は祖母の意思を尊重してあげたいとも思うし、交友があった親戚が祖母をお参りしたい気持ちも分かります。 ただ喪主である父の意思が固すぎるので何を言っても父は受け入れてくれません。
人生の中で苦しい時に勇気づけれられるようなイイ言葉をお坊さんに聞きたいです。このサイトを見ている皆さんの応援歌となるような勇気づけられるような言葉をお願いします。お坊さん自身が勇気づけられている言葉でも大変ありがたいです。
仏教は日本人の死生観に深く根を下ろして文化として素晴らしいものがあると思います。 しかし、こんな歳になるまで不勉強で恥ずかしいのですが、大乗非仏説を初めて知りました。 そして原始仏教と日本の仏教はかなり異なる事、律蔵があまり重視されなかったので、日本の僧侶は在家と変わらない事を知りました。 よく、キリスト教徒が進化論や地動説を信じないのを不思議に思ってきましたが、日本の仏教は実は(全てではないでしょうが)偽経だったと分かってどのように折り合いをつけているんでしょうか? 釈尊は口伝でしか伝えなかったから、全ての経蔵は直説でないとか、全て仏の御心から方便として出た物だとか、あまりに苦しい言い訳に見えます。また鰯の頭も信心からと言いますが、信心とは受け容れる事から始まるから信心はそこを問題にしないと言うのもそこに身を捧げる者としては辛い選択ではないでしょうか。 大乗非仏説は新しい概念ではないですが、時代を経るに従って消えることもないでしょう。今後、このまま伝統を重んじて変わらない事を良しとしていくのか、それとも時代と共に新しい研究成果を反映して変化していくのか、どのように考えられてますか?