こんにちは。 中学だったか高校の時、人間関係の苦しみから人を呪い、自分の幸せを願いました。 その人は私の願ったとおり怪我をしたり部活が変わったりしました。 私は今夫もいて、いろいろあって彼を好きだけど愛せずにはいます、 しかし、物質的には幸せで、困ることはありません。ある意味幸せをつかみました。 ただ、自分の願ったとおり幸せになったので、怖くなり人に見てもらったところ 低級霊の悪霊と契約してしまっているといわれました。多分神社仏閣などのお祓いでは祓えないといわれました。 もし、カルマをなくしたいなら、ボランティアとか寄付などして見ると少しは軽減されるかもしれないともいわれました。 悪霊は、私の健康と寿命を引き換えに契約したそうで、確かに今私は精神的病と糖尿病を患っており、思い当たるふしがあります。 今はもう呪いもしていませんが、契約は続いているそうです。 どうしたら、この状況を打破できるでしょうか? 一応寄付などはしていますが、ボランティアをやる気力が今はなく落ち込んでいます。 何かそういったものを取り除くお経や方法などありますでしょうか? 呪いをしてしまったこと今とても反省しています。 どうかご教授ください
どうしても避けられない 仕事や地域での人との付き合いで 気にいらない人や 馬が合わないといいますか 考え方が違うの人と絡んでいかなければならない時など、どう付き合って行ったらよいのか悩んでます。 性格上、短気な方なのですぐ衝突してしまいます。 短気は損気ってのはわかりますが この性分はなかなか直りません。 波風立てずに上手く付き合うすでなどごさいますか? 修行されたお坊さん達は、どんな人でも受け入れられますか?
日本のお坊さんがお葬式をするのは、もともとは儒教の影響なんでしょうか。 昔、読んだ中国史関係の本に、孔子は尼山の巫儒(祭祀を執り行う人)の一族の生まれで、巫儒は亡くなった人の魂(鬼神)を沈めるためにお葬式を執り行っていたとありました。孔子の意志とは無関係かもしれませんが、そんな流れで儒教には先祖や目上の人を尊重する思想が組み込まれていったのかも…? 日本は、神道がありながら仏教と儒教を取り入れたことによって文化のごった煮体質になったみたいなことをよく聞きますが、実は神道や仏教より、儒教の影響のほうが大きい気がします。 儀式的なところは神道と仏教だけど、根本的な考え方(○○すべき論とか)は儒教っぽいし。 寺社仏閣はごまんとあるのに、いまいち宗教が根付いてない感がするのは儒教の影響が大きいから、な気がするのは私だけでしょうか。
〔編集部より。規約により投稿の一部を修正しています。〕 はじめまして! 私は5人家族でした。母と姉は4.5年前からある宗教に入っています。しつこく勧誘をされ、自分の親が意味のわからないことを延々 と話している姿に毎日涙がとまらず、私は家にいることが嫌になり、家を出ました。 お父さんはすごく優しい人で、理解はしようとしました。 でも結局、確証のない話ばかり聞かされて毎日言い合いばかりしていたようです。 兄は全く聞く耳も持っていませんでした。私が実家に帰るといつもその愚痴や、昔から仲が良かったのでたくさん話をしてくれました。とゆうか私も本音で話せる家族は兄しかいませんでした。 ですが去年の11月から兄は鬱病になりました。私はこの原因はその宗教にあると思っています。 仕事が大変なのは聞いていましたが、兄はもう9年ほど同じ所に勤めていました。今さらその原因が仕事だとは思えないです。 そして5月10日、兄は薬を大量に飲み、自殺を図りました。 病院に搬送され、一命は取り留めたものの、13日の夜、亡くなりました。 集中治療室の中、他にも生きようとしている患者さんがいる中でも御構い無しにお経を読む。 睨みつけてやりました。 お前らのせいで大好きな兄が死んだと。言ってやりました。 親族内で散々揉めました。葬儀はその宗教方式でやると聞きません。 そのせいで兄がなかなか葬儀をできないのも可哀想なので、もうそれで決まりとゆう運びになりました。でも私は兄が嫌がっていたお経を唱えないと決めたので、その意見だけは絶対に曲げません。 私が話を聞かないなら縁を切ってくれても構わないと言われました。上等です。 親戚の叔母や叔父は、もうあんな奴を親だと思わなくていい、こっちの娘になりなさい、実家に帰らなくていいと言ってくれました。 私は一生その宗教を、押し付けた母と姉を恨みます。 あんな奴らの元では兄も供養できないと思ったので、分骨をして私の手元で好きだったラーメンをたくさんお供えしています☺️ こんな事しかできませんが、少しでも天国で楽しく過ごしてくれたらと願っています。 長文で失礼しました。 毎日悲しくて悔しくて、一生この気持ちが離れないと思うと死んでしまいたくなります。 こんな悲しい出来事をもう他の誰にもして欲しくないです。切実な願いです。兄の死を無駄にしたくないです。
三面大黒天さまをお祀りしている者です。 ご本尊(阿弥陀さま)、個人的な念持仏のお不動さまと共に、毎日お勤めをしております。 大黒様のお祀りの仕方を読んだ本には書いていなかったのですが、人づてに「天部の神様は怖い」と聞きました。 (聖天さまやダキニ天さまの噂は聞いていたので、遠慮しました。) 大黒様には怖い噂は当初は聞いていなかったので、大丈夫だと思っていたのですが。 しかし何人かの方々から、総じて「天部」の神様は、人間に近く感情をお持ちなので、気をつけなければならないと聞きました。 聞いたところによりますと、 ・粗末に扱う、罰当たりなことをしゃべる ・礼拝をさぼる ・信仰をやめる ・お祀りの作法を間違える ・お坊さんの真似をして、在家が本格的な祈祷をやる これらが要注意だと聞きました。 その後、いろんな人の意見を聞いたのですが、「怖い」、「いや怖くない」と意見はバラバラでした。 いずれも在家の人々です。 (開眼は大きな寺院で集団で行いましたので、そのお寺のお坊さんとは連絡しずらい状況です・・・) そこでお坊さまがたのご意見を伺いたくて、ご質問をした次第です。 よろしくお願い致します。
はじめまして。仏像彫刻を習っているヨソと申します。 仏像に対して疑問があり、悶々とした日々です。①②③と質問を書きましたので、お答えいただけたら幸いです。 ①お釈迦さまは偶像崇拝と呪文(お経)を唱えることを良しとしなかったと見たことがあるのですが、それは本当でしょうか。 それが本当であれば、お釈迦さまの嫌がることを積極的にやってることを、どのように肯定してきたのでしょうか。 ②お釈迦さまは実在されていますが、多くの仏は、人々の願いや願望から生まれたという認識でいます。インドや中国や日本に伝わる過程で他の神様と混ざったり意味合いが変わったり、そうして生まれた仏をどういう気持ちで信仰したらいいのかがわからず、教えていただきたいです。今は丸ごと受け入れることに抵抗があります。 ③地元では高名な仏師(兼ご住職)に彫刻を習っていました。片付けの苦手な先生でしたが、ある時先生の作品展を開催するにあたり、ゴミの山の中から見つけて展示した作品に、来場者が手を合わせお布施をされていました。 仏は仏像ではなく祈る者の心に宿る言われますが、ショックを受けた場面でした。 仏像とはどういう存在だとお考えでしょうか? 浅識な上に不勉強なもので、見当違いなことばかり言っているかもしれませんが、このモヤモヤに自分の答えを見出したいと思っています。 どうか宜しくお願いします。
初めまして。 私は、横浜で会社員をしている伊藤と申します。先日、テレビでこちらのサイトが紹介されていまして、仏教の教理に関して長年疑問に思っていたことがありましたので、質問させて頂こうと思い書き込みを致しました。 私は、大学生のころから仏教に興味を持っておりまして、仏教に関する本をいくつか読み、修行の真似事もさせて頂いたことがあります。仏教との出会いは、私の人生の中で非常に貴重なものでした。これからも、修行を重ねていきたいと思っています。 ただ、その中で未だに釈然としないことがあります。それは仏教の説く「死後の世界観」がなぜ宗派によってここまで大きく異なるのか、ということです。 仏教では、もともと「輪廻からの解脱」が一番の目的であったと聞いています。それが、現代の仏教では死後の世界観について「極楽浄土で仏弟子となる」といった立場や、「死後のことなど考えず、今を生きる」といった立場など、様々に分かれています。 私は、どうしても理屈っぽいので、このように死後の考え方が異なっていることに疑問を感じてしまいます。例えば、「極楽浄土に行けるなら、今は努力せず楽をしていた方が良いではないか。」と思うこともありますし、「死後の輪廻転生を否定するなら、そもそも修行する必要さえないのではないか」と思うこともあります。 先日、上座部仏教のお坊さんの著書を拝読して、私の考えに近いことが書いてあって共感を覚えました。そのお坊さんは、「死んですぐ極楽浄土に行けるのなら、どうして早く自殺しないのでしょうか。」といったことや、「輪廻転生が無いなら、どうして修行する必要があるのでしょう」といったことを述べておられました。 もし、輪廻転生があるのであれば、私もなるべく善行をしようと努力すると思います。逆に、輪廻転生がないと考えると、やる気を削がれ厭世的な気分になってしまいます。 人間がこのような気分になることを見越して、お釈迦様は死後の輪廻を説かれたのかもしれません。しかし、今の私にはそれ抜きで前向きに生きる心構えを持つこともまた難しいです。また、死後の輪廻を否定するならば、自殺を否定することもまた難しくなるのではないでしょうか。 こういった点を、お坊さんはどう考えているのか、どうしても気になったので質問させて頂きました。失礼なことを伺ってしまい申し訳ありません。
私は、今スペインの大学院で、宗教学について学んでおります。 お恥ずかしい事に、日本に住んでいるときはあまり仏教について考えた事がなかったのですが、今自分が海外にいる事で、改めて日本が仏教国であり、数々の素晴らしい文化、そしてそれにともなう言語・思想等を生み出してきたという事に気付きました。 そこで、今仏教について、スペインで本格的に研究しているのですが、どうしてもスペインにある仏教に関する本ではわからない事がございまして、ぜひお坊さんたちに答えて頂きたい質問がございます。 ドイツの宗教学者であるルドルフ・オットーが、「ヌミノース」という言葉で表している、言葉では言い表す事のできない他者では経験不可能な不思議体験・神秘体験(?)が一体どのようなものであるのかを、教えて頂きたいのです。 恐らく日本語で表すと、『見性体験』というものだと思います。ルドルフ・オットーも「聖なるもの」という著書の中で、この経験の内容に関しては体験者の唇は固く閉ざされると言っておりますが、仏教を研究している以上、私はどうしてもこの体験がどのような物なのかが知りたいのです。 もし言葉で深く説明できないのであれば、本当にキーワードだけでも良いので、どのようなものなのかを教えて頂きたいです。 難しい質問かもしれませんが、どうぞ宜しくお願い致します。
年賀状書いたので出します。年賀状出すってことは来年も生きるってことかと思います。3枚くらい返事くるといいです。見返りを求めている時点でまだまだ修行が足りません。年賀状で生存確認です。年賀状だけの付き合いの人がいます。そんなものかなって思います。年賀状もらうとほっこりします。手紙を書くことが好きです。 お坊さんはたくさん年賀状書くイメージあります。勝手にイメージしてます。
5月2日に兄が自死しました。 何年間も連絡をとってなく、特別仲が良かったというのもないのですんなり自分の中で受け入れていたつもりですが、 死後の世界や自死だとどうなるのかが気になってしまい、ずっと調べてしまいます。 ただでさえ自死してしまうほど悩んで苦しんでいたのに、自死は地獄に堕ちるだの現世にとどまるだの救いのない事ばかりでてきて悔しいです。 もちろん、良いことではないですし親不孝者だというのもわかります。 ですが『生きていればいいことがある』『生きてさえいてくれればそれでいい』なんて綺麗事だと思ってしまいます。 兄の人生を歩むのは兄自身です。 その兄が一生懸命たたかって、考えて、悩んで苦しんでだした答えが自死なのに、そんなに間違っていることなんでしょうか? 自死してしまった人にこれ以上、苦しんで欲しくないと願ってしまうのは贅沢ですか? 話は変わってしまいますが、夜や鏡が怖くなってしまい、眠るのが難しくなってしまいました。 兄がみえてしまうんじゃないか、なにか心霊現象なるものが起きるんじゃないかと思ってしまいます。 きちんと心からお祈りして成仏してほしい気持ちと、兄が怖くて怖くてたまらない気持ちが入り交じってしまいます… 火葬場が空いていないため、お経も火葬もまだですが、兄はいまどういった状況にあるのでしょうか? 何が聞きたいのか、なにが言いたいのかまとまってなくてすみません。 とにかく、兄には成仏してもらい、楽になってほしいと願っていますが実際はどうなんでしょうか? また、なぜこんなにも怖いと思ってしまうのかなにかご存知であれば教えていただきたいです。
本来は質問を書き込みする場で、お礼をどうしても言いたく場違いを承知で書き込みさせて頂きます。 今まで色々と質問や相談をさせて頂き、お助け頂き、ありがとうございました。 昨日、無事に亡母の一周忌法要を行いました。 といっても、兄家族とは疎遠ですので私1人でした。しかし、お寺様も快くお越しくださり、お経を頂戴し、母だけでなく、父やご先祖様もお喜びになっておられますよと温かいお言葉を頂戴しました。まだ、納骨や、来年は三回忌と続きますが、 ここまでなんとかできたのも、ご回答頂きました皆様と仏様のお陰だと、どうしてもお礼を申したく失礼を承知で書き込みさせて頂きました。本当にありがとうございました。まだまだこれから供養、法事と続けて参ります、また迷うことも多かろうと思いますので、お導き頂きますよう、お願い致します。
初めまして、さきといいます。 最近、聞き上手や話し上手になる為の本を、書店でたくさん目にします。 それだけ現代人が人間関係に悩んでいる証拠なのかなと思いました。 そういった本とブッダの言葉が書かれた本とでは、書かれている内容がところによっては真逆といってもいいほど違うように思います。 聞き上手になる為には、少しオーバーリアクションになったり、ひどい時には、凄いなと思っていないのに凄いと言うことも、相手を喜ばせて話を引き出す為には良いと書かれている本さえありました。 私的には自分を偽ることが嫌いなので、素直な感想を言うことが多いですが、話を盛り上げる為には、多少のオーバーリアクションも必要だと感じる時があります。 お坊さんたちは、こういった本についてどのようにお考えですか? 是非、ご意見をお聞かせください。お願いします。
あるきっかけで、職場の人に密教のお寺に連れて行かれました。 お寺に行くと霊がたくさん憑いていると言われ、住職の方に上半身と下半身に分けて除霊をすると言われました。 下半身の除霊は性行為でする。と密教の本を見せられて説明されました。 今まで除霊の経験もなく、そんなことがあり得るはずもないと思いその場では断りました。 それでもその方法で除霊を受けている人もたくさんいて、料金をとられるわけでもありません。 除霊せずにこのままいると、手遅れになるなどと除霊をせかされます。 人助けをしている住職がそんな卑劣なことをしたりするのでしょうか? 私を連れて行った職場の人は、その方法で除霊を受けています。 誰にも相談できずとても悩んでいます。 宜しくお願い致します。
私は 以前 お不動さん、観音巡りもしたことがあります。五戒をおこさないようにと思い 写経をしたりもありました。 日蓮聖人の教えを弘教している人達に 会うことが 多くなり 仏教の教義 謗法について 回想することになりました。その時から 幻聴が始まりました。 救いや懺悔を 日蓮聖人のご本尊にすればよかったのでしょうが 攻められているようで 他の宗教や念仏に救いを求めてしまいました。 キリスト教の本を読んだりして 教会に行ってみたり 新興宗教から日本神話を読んでみたり 神社に行ったり しましたが 原因になった仏教が気になりました。 日蓮聖人は 法然さんを 立正安国論で 謗法といい 布施までやめるように 国に論じてました。法華経を捨ておき 念仏を信心しなさいと言われたから法華経に対する謗法だということでした。法然さんは 他のお坊さんからも意見が多かったようですが。法然さんは 他は 気にしないで 念仏をしなさいといっています。 法然さんの教義では 念仏以外を謗法とは言わず 雑行と言われてますが 気になります。 法然さんは 法華経を学ばれた上で 念仏を選びとられたのだと思いますが 私は 自分が救われるのかが不安です。かといって 日蓮聖人の教義に没頭するには 不動巡りや 法然さんに 執着があったのだと思いました。 お寺にいってもお坊さんには 聞きづらく またどういって伝えたらいいのかもわかりませんでした。 幻聴があることでの死への恐怖があります。克服したくて 介護の勉強 カウセリングの勉強をしています。 幻聴がなくなり 仕事として 役立てたいのです。が 幻聴があることで自信がありません。 幻聴は大分落ち着いたのですが 仏教を正しく学ぶことで 良くなることを願ってます。 メールで お話しできることが 救いです。 祈祷を頼むのもいいのかなぁと思ったこともありましたが 思いも定まってなく 内容も深そうで 迷惑かなぁとも思いました。 お墓は 宗派問わずとありますが 質問も宗派問わずでいいですか? 法華経と 念仏は 敵対してるのですか? 私は 宗派より 心が整理できて 赦され 勉強している介護やカウセリングが 人に役にたつ仕事が できるようになりたいのです。 よい方法はないでしょうか?
以前よりお世話になっています。 ニックネームを変更しました。 家族が他界してから毎日お務め、花、茶水、お供えと自分なりに供養してきました。 これまで5人のお坊様とお世話になりました。(実際にお会いした) それぞれ個人的な考えや思い、派の違いにより仕方がないことかも知れません、違うところが言動にあります。1人のお坊様は色々な勉強を幅広くされたのか、お話はとても立派なのですが、そのお言葉を自ら覆す行動をします。 細かい内容は言えませんが、色々と矛盾を感じ、お寺に伺いにくい状態になり、別のお坊様にも法事に来ていただけない状況です。 今年の法事は菩提寺の住職が他県から来ていただき、なんとか両親、先祖の供養ができました。 仏教とは、御坊さんとは、供養とは…何が本当なのか分からなくなり、段々と仏壇のお務め、供養もいい加減になりつつあります。 最近は若い方も気軽にお寺の門をくぐれルように、お寺カフェや座禅、説法、写経や癒しを求めてお寺巡り、朱印本など流行りつつあり、高野山1300年のPRもよく見かけます。お寺や神社巡りが趣味と言う若い方々もいます。 一方、無信仰だから、山や海に散骨する方、墓仕舞いして樹木葬等、普通に家代々のお墓に入る人も減っているとか。と言うことは檀家さんも減ると言うことですね。 大変失礼ですが、葬式坊主なる葬式業者数社と契約?して、葬式ばかりして儲けるお寺もあると聞きました。 5人のお坊様のうち4人にとって私は檀家でなく、業者の紹介やあるお寺の催しで出会っただけで、特に大きな収入源にもならず、どうでも良いのかも知れませんし、中には若いお坊様もいますが、頭でっかちの知識先行型なのかもしれません。 これも私の受け取り方一つなのかもしれません、お坊様に対するイメージが固まっていて、そのイメージと違うから違和感なのかもしれません。 当然、お坊様も人間、修行の身であり完全完璧でないことはわかります。ただ法事で頂いたお経は本当に、亡き家族のためになっているのか、六道の話を伺いましたが、畜生界、地獄に落ちていないか、毎日、お務めすることで両親、先祖のためになっているのか疑問が沸きます。 それまでは完全に仏教を信じ、お務め、供養が仏となった家族のためと信じきっていました。 今は半信半疑、これから供養を続けていく自信が無くなりました。
こんにちは。どうしようもなくなってしまい、悩んだ末、相談させて頂きます。 今日、祖母の一周忌に行ってきました。祖母は父方のお母さんです。父のお父さん(わたしの祖父)は、わたしの父が小学生の時に亡くなって、それ以来、父は祖母と二人暮らしをしてきました。祖母と母は、とても仲が悪かったです。なぜなら、祖母がありえないくらい自己中心的な人間だったからです。(亡くなったのにこんな言い方をしてごめんなさい)父も父で、祖母のことばかり庇って、いつも祖母の味方です。なので、家族はよくけんかをしていました。 一年前に祖母が亡くなりましたが、それでも父は祖母ばかり気にしています。今日、一周忌に行ってきましたが、行く前にいきなり父が、「仏壇に置くご本尊様を買ったから。」と言い出したのです! わたしは父がご本尊様を勝手に買ったこと、そして一周忌の際に命を入れてもらう?ことを待合室で知りました。わたしは聞いたときは意味がわかりませんでした。勝手にそんな大切なことを決めて勝手に買うなんて。 わたしは、毎日仏壇と神棚のごはんやお水をあげて手を合わせます。家族のために、就職活動頑張りますって言います。わたしは、家族が幸せになるように、と思い、全力で信心してきたつもりでした。 なのに父に勝手なことをされて、お坊さんがお経をあげてくれている最中も怒りしかありませんでした。みんなでご本尊様を置こうねって話し合って納得しなくては命入れなんてできないと思っています。みんなで大切にするから買おうね。って納得しなくちゃただの木だと思っています。 大泣きしながら、みんなが納得してないのに命なんて入らないよと言うと、父は、「俺がやりたかったんだよ!!!」とだけ。 信心って、今生きている人を大切にした上でするべきものだと思っていました。なのに、父はいつも家族の大切なこれからのことや、問題を解決しようとしません。でも死んだ祖母のことは考えられるのです。その考える容量があるなら生きてる家族のことを考えてよ、と怒っています。 私がこれは悪いのですが、お墓詣りのとき花束を地面に投げつけてしまいました。父や祖母に腹が立ってしまって。父とは今、口をきいていません。 長くなりましたが、信心するって何かわからなくなりました。 また、父がこんなので、わたしの家はどうなるのか…と不安な気持ちでいっぱいです。
お上人方にご相談です 私自身は、寺の長男一人っ子として生まれで父が実父であり師匠となっています 父は、都会の檀家1000件の大きなお寺の三男として生まれ、修行はどこへも行っていません。人の紹介があって、今のお寺(地方寺院、檀家200件)に婿にきて私が生まれました。 先代(私の祖父)はもう20年前に亡くなり、父が新住職として主導しております。 私は、幼い頃から父とは親子仲はよくなく、高校卒業と共に大本山の小僧として入り、その後、父から「うちにはお前の給与はだせないから、他で勤めなさい」と言われ、昨年末まで都会のお寺で勤めさせて頂きながら、そこのご老僧に配慮を頂き宗門の修行はすべていくことができました。(費用は寺から出なく自費で出だしてきました) 昨年末、勤め先のお寺もご老僧から若上人へ代が変わり私も仕事が無くなり、言わば退職となり、自分の年と両親の年など考え、正月から実家の寺に戻りました。 僧侶となってはじめて、師匠と一つ屋根の下で暮らし始め、いろいろ気づくことが増えてきました。 1、お寺のお金をおよそお寺の活動とはほど遠い趣味の分野としてお金を使っていること 2、お経を法事葬儀以外朝夕のお経などを一切あげない、本堂にすらはいらないこと 3、風俗へ通っていること 4、母への暴言 5、私には仕事はさせないこと(することもないので、自費でゴミ袋と箒を買って掃除をします。それも嫌な顔をされます) 6、給与は月に50000円頂いています(食事は三食寺で頂き、寝るところは幼少の時の部屋があります) お寺には貯蓄はなく、借入金もあるそうです。(総代さん曰く) 親子とは言え、出家した時点で親子でなく子弟であり、僧侶として師匠と弟子との関係は絶対であるという認識でいます。しかし、上記の理由など疑問に思うことが多くここのところ悩んでいます。 師匠の僧侶としてのあり方に異を唱えることは果たしていいことなのか? それとも、黙って反面教師としてでも仕えるということが進みべき道なのか葛藤しています。 ことあるごとに、「だれがここを継いでもいい」と後継はお前で無くともということをちらつかせています。今まで一度も反論したことはありません。 恥ずかしい話し、仲間にも顔を合わせて聞けずにいます。 どうすべきなのでしょうか?
納骨についてご相談させていただきます。 昨年の夏に配偶者を亡くし、現在遺骨を自宅の仏壇に安置しております。 昨年の葬儀の際、突然であったこと、郊外の自宅近くで葬儀を行ったこと、コロナ禍でもあったことから、家族葬で簡素に行いました。その際に、少し様子を見たいので、納骨は一周忌の時にとしました。その後、四十九日、百箇日は、お経を読むことができる親族に来てもらい、これまた簡素に自宅でお経をあげていただきました。 一周忌まで一か月となったのですが、墓のある霊園の法要室はコロナのため使用不可、おそらく導師の方も来ることはできそうにありません。一周忌、納骨法要はきちんと行いたいと思っていましたが、難しい状況です。霊園の方では、法要を行わず納骨だけはできるようです。 納骨に関して調べてみると、時期等には特に決まりはなく、遺骨にもあまり執着しないようにした方がよいという記載が多かったように思います。 きちんとした法要等を行って納骨したいという気持ちと、いたずらに納骨を遅くすることへの抵抗の間で悩んでいます。 納骨を行いたい気持ちとして、今は在宅勤務ですが、コロナ禍の状況が変われば、元々出張族であるため自宅を離れることも多くなりますし、故人との思い出の地を訪ねたりといったことも行っていきたいと思っています。 納骨を遅らせる気持ちとして、簡素な葬儀であったため、納骨法要はきちんと 行いたいこと。このような状況が、「納骨はまだ待って」と故人に言われている ような気持ちにもなることがあります。 僧侶の皆様のお考えを教えていただければと思います。 ------------------------------ 以前に「義父、義母の菩提寺へのご供養依頼」という質問を行い、和田隆恩さま、日延さまにご回答いただきました。義父母の菩提寺と連絡を取り、追善のご供養が無事できました。田舎に伺うことができなかったのですが、ご住職さまが 読経、塔婆を立て、その画像をメールでお送りいただきました。また、墓地のお世話をしてくださっている本家の方にもお話をしていただいたようです。 こちらでの回答をいただき、追善供養を行ってよかったと思っています。 ありがとうございました。
不躾な事を相談させて頂くのですが お寺を変える事は可能なのでしょうか。 理由は、お寺の方の対応に嫌な思いをしたからです。 以前、大切な身内の法事がありました。 住職は体調が悪いとの事で代理で女性の方がいらっしゃいました。 恐らく身内の方なのでしょうが、その方は法事をあげる人の名前を間違え何回忌かも把握していませんでした。 後ろにいた身内から名前を訂正され、何回忌かを振り向いて聞いてました。 怒りの気持ちでいっぱいでしたが親族がいたので堪え、ぐだぐだな法事になり説法も説得力なしでとても嫌な気持ちになりました。 慣れてないのか仕方ないです。 お経も間違えても仕方ないです。 せめて名前と回忌をきちんとしてほしかったです。 これから身内が亡くなった時などこんなにいい加減なお寺にお葬式を任せたくないです。 お寺を変える事は可能でしょうか? また変えるにはどうしたらいいでしょうか?
報いきれるほどの恩ではない。この世でどのようなことをしても、お坊さんの大恩に及ばないのです。私の参じたお方に報いきれないのです。 大概の僧侶志望の方は、僧侶という型枠に収まり、呆けた顔をしたいだけでしょう。(違う人も当然、いるでしょうけど) このhasunohaに南伝仏教の本を勧めるお坊さんがいました。 なぜ浄土宗門徒ならば一心に念仏を唱えよ。と言われないのか? そうでないなら、この宗派は貴方の要求に応対できないと、 宣伝して回っているようなものである。師の恥だ。 煩悩を滅するのが道であるなら、すぐに南伝へ飛び出して出家すべきでしょう。 命はいつ果てるとも知れず、呑気に書き込む時間などないはずである。 一宗派の門徒ならば、師から伝えられた安心を絞り出し、絞り出して、 与えるべきである。南伝なんぞの教えは不要でしょう。 青白い顔をして訪ねてきた人に、この本を読んでみろと言うのか? 崖に捕まって、落ちそうな人間にこの本を読めと言うのか? 本を勧めるのが悪いのではなくて、相手の心に真に向き合うべきでしょう。 頑張る気力が湧かないと嘆いて苦しんでいる人間に、 「努力にこそ価値がある」と答えを返した僧侶はいないだろうか? 砂漠のど真ん中にいて、飢えて苦しんでいる人間に、 雑巾を絞って、絞って、ひねり出した一滴を捧げるが如く、 求むる者に注ぐべきである。 真に苦しむものは雑巾の水でも礼拝して飲む。 例え地球に宇宙人が攻め込んで、インデペンデンスデイの如く、 飛行機で宇宙船に突っ込み、地球の危機を救っても、 お坊様の恩に報いきれるものではない。 未来永劫に輪廻して善行善業を積み続けても、報いきれるものではない。 hasunohaで答える程に頑張っているお坊様がこの程度(すみません、ごめんなさい)なので、現状の日本仏教界の内実を察するに十分ですよ…すいません。 意識の低いものが跋扈し、仏を貶めるだろう。 正法は、ロウソクの火のように弱ってこのまま絶えるのではないかと、 心配するばかりです。 門徒の恥は師僧の恥であり、師僧の恥は宗祖の恥だと思います。 碌な返答も出来ず惑わすようであるならば、黙していた方がマシです。 偉そうに説教みたくなってごめんなさい。 ただ反省はいくらしても、一円も掛からないので損はしないと思うのです。 私も道の途中ですので、頑張ります!合掌