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頑張っても報われない気持ち

息子が大学受験を控えています。 大変厳しい部活をしていたので、受験勉強はまともに出来ませんでした。本人は、部活とても頑張っていましたが、強豪校なので選手に選ばれることもなく試合に出ることも出来ませんでした(朝6:30に家を出て、夜は22:30に帰宅。土日も、試験勉強期間も部活) 今は、希望している大学に入れるか分からない状況で、本人を見ていてとても辛いです。 同じ部活の友人達はもともと頭が良いからこんなに頑張って勉強してる奴はいない。こんなの俺ともう一人ぐらいだ。 と、精神的に相当参っているようで、食欲もなく、眠れていないと言っており、とてもげっそりしています。 そんな時は、親である私が大きな気持ちで支えなければならないのに、 なんで息子ばかりがこんな目に会うんだろうという気持ちが強くなり(いわゆる母親失格)私も参ってしまい、優しく対応できません。 息子は高校受験で第1希望校に行けなかったので、何とか希望大学には合格して自分に自信を持たせてあげたいと思いますが、私の気持ちと行動が真逆になり、息子に余計なストレスをかけてしまっているのです。 親として最悪です。息子がこんな大事な時期なのに。 こんな親ならいない方が、息子は伸び伸び育つと思います。 もう、親である事に自信がないし、疲れてしまったし、そんなことを考えるようなダメ人間で、もう、どう考えたら良いか分からなくなってしまいました。 どうして息子は頑張っても良い結果が出ないのでしょうか。 やっぱり、私のダメ人間が遺伝しているからどうしようもないのでしょうか。 そう思うと、息子が不憫すぎて見ていられないし、そんな息子をみたくないので、私は早く病気にでもなって死んだ方が良いと思っています。 弱すぎて自分から死ねないという最悪な奴です。 もし、良い考え方や息子への対応方法があるのなら、お聞かせ下さい。 わがままな内容ですみません。

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南無阿弥陀仏をおとなえする意味について

私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。

有り難し有り難し 712
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