数年前、まだ学生の頃、ピーちゃんというとても可愛いオカメインコを飼っていました。 ある朝ピーちゃんが口呼吸をしていることに気づきました。 その日は両親は仕事で私は学校が休みでしたが自分一人で動物病院に連れて行くこともできませんでした。 そしてこの時はみんな口呼吸をおおごとには思っていなくて、両親が帰ってきてから一緒に病院に連れて行ってあげる予定でした。 その日ピーちゃんの呼吸は荒くなっていき、私は何度も「もう少しで帰ってくるからね」「がんばれ」と呼びかけながら両親の帰りを待ち、様子を両親にメールで伝えていました。 私は家にひとりぼっちで、目の前でどんどん息が苦しくなっていくピーちゃんを見てとても焦っていました。助けようとしたのに気が動転してしまっていました。 病院用に行くためのケースに入れてあげようとしましたが部屋の中に飛び立ってしまい、 ずっと口呼吸をしていて喉が渇いてそうで、ピーちゃんに水をあげなければ死んでしまうと思い、飲みやすいように工夫して細いストローに水を入れて少しずつ飲ませてあげようとしたけどうまくいかず、「少しでも入って!お願い」という思いでストローの少量の水を口元にビシャっとしてしまいました。 思い返すと私は焦って気が動転していました。誤飲になってしまっていました。 水を飲んだピーちゃんが一瞬元気になったような気がして「もっと飲んだら生き返る」と本気で思い込んで「もっと飲んで元気になって」と小さなスプーンで何度も必死に水をあげてしまっていました。今思えば鳥は少量しか水を飲まないし口呼吸で苦しんでいたのにです。 ピーちゃんはくしゃみをして苦しそうにもがき、私は泣き叫びピーちゃんを手のひらですくいました。私の手の中で目をゆっくりと瞑ってしまいました。その後父が帰宅して私はたくさん泣きました。 数年経ち当時の事を振り返って考えられるようになりましたが書いていて胸が締め付けられ涙がでます。助けたかったのに私がパニックを起こしたせいで大切な命が失われてしまったんです。 父は水をくれてありがとうと言っているよと言ってくれたのですが自分を許せません。 思い返せばピーちゃんは私のせいでとても苦しかったはずです。「苦しいよ」とピーちゃんは言ってたはずです。会いたいし悔やむ日々です。私のせいなんです。精神的に生きていくのが辛いです。どう償えば、、
現在、貯金を切り崩して生きています。 このまま稼ぐ手段が見つからなければ死にますが、自分が野垂れ死ぬことには納得がいくというか、客観的な視点で「こんな奴死んだ方がいい」と自分にずっと思いながら生きてきました。 問題のある人格に対して「そんなんじゃ生きていけない」と家族から「厳しくも厳しくもありがたいお言葉」をいただきながら育ちました。結果、その通りになりました。 この世界がうまく回っていて、私だけに問題があるのならばまだ生きる希望がありました。しかし、現実はそうではない。私が生きていてもいなくても、この世界はどんどんと悪くなっていく。そもそも、生きることそのものが欠陥だとしか思えません。 人生は「他人にどう見られるか」が全てです。完全な自給自足ができない以上、何かの手を借りなければなりません。そのためには他人に好ましい印象を与えなければなりません。私はそれができませんでした。 この世界は私が生きようが死のうがどうでもいいものです。生きていられる人間は、「自分を大事にしたい」という動物的本能を疑わないでいられるから生きられるのです。しかし私はその本能こそが全ての苦しみの元凶と憎み、「全ての生命は存在しないほうがいい」という強固な思想に囚われています。これを打ち破る根拠をこの世界に見出せれば良いのですが、その機能が私に備わっている気がしません。何を論じられても、申し訳ないことに、「わざわざ生きる根拠」にはなり得ません。この世界には私よりもずっと有能で賢い人間が沢山いるのに、全生命を安楽に絶滅させる方向に行かないのは、私が決して感じることのできない「それでも生きる意味」があるからなのでしょう。 私の人格や感性が望まれたことなどありませんでした。それとも、関わる人間の誰からも死を望まれながら、殴られながら生きるのが修行でしょうか? 未来を捨て、この世界や他の人間に「生きさせてください」と頭を下げ、心身を削る「労働」を辞めた今が人生で一番安楽です。つまり、私の幸福は死の直前にしかありませんでした。 私の望みは、「物質世界から解放される」「五感、痛覚、あらゆるものを感じる機能を失う」「誰からも観測されない状態になる」こと、つまり、「永遠の死」「存在しないこと」です。そして、これこそがあらゆる生命が目指すべき地点だと思っています。こんなことを考える人間だから生きられないのです。
ここ2〜3年ほど悩み続けてる事なのですが、倫理とか道徳とかといったものは、結局生活が安定した者によるエゴでしかないのではないか、という仮説が頭の中で離れません。 我々は、教育過程で戦争行為に対する嫌悪を嫌というほど刷り込まれます。それ自体は社会が自滅しない為に必要な事として納得しています。 しかし、その事を基軸として戦争行為に走った国や戦地に赴く人々を安直に批判する事に私は納得しきれない部分があります。 というのも、大半の人は戦争をやりたくてやっている訳ではないと思うからです。 情報を得る手段や暇がないので断定はしかねますが、今起きている戦争も二度の世界大戦のように経済的、国際的に追い詰められた者たちが最後の生存手段として選んだものだと思うのです。もし他に生き残る為の選択肢があれば、迷わず武器を捨てて、そっちのやり方で営みを続けるものだと思います。どうしても戦争をやりたい少数の者同士による小競り合いは起こるかもしれませんが、いずれ自滅して鎮火するでしょう。 これは自然界においても同じ事が言えます。動物が脅威に対応する時、まずはそもそも脅威から逃げる事、隠れる事、棲み分ける事を選択します。戦う事は追い詰められた時の最後の手段です。 であれば、対岸の火事を鬱陶しいと思っているだけの自分が戦争なんてやめろと文句を言った所で、何の説得力も持たないと思います。切迫した状況に置かれた彼らにとって、闘争は唯一の命綱です。戦争をやめろという説得は、彼らにとって「飢えて死ね」「1人で死ね」と無責任に言い放つ事にならないでしょうか? 本来救わなければならない筈の者たちを、自分たちの都合で一方的に切り捨てていいのか私は心配です。 ここまで素人の憶測を一方的に吐き出してきたのですが、今対岸で起こっている大火事に対しては、自分より遥かに賢い方々が全力で対応に回ってるものだと思っています。私ができる事はただ一刻も早い鎮火を願い、自国で火が上がらないように営みを続ける事だけです。 ただ、戦争というのが異常行為ではなく、人間、ひいては生命の営みの延長線上で起こりうるものであるとしたら、そして、その上で本気で戦火をこの世から消し去ろうとするならば、我々がやるべきは生命の灯火を断つことになりませんか? 正直なところ、私は自分のろうそくの火加減を見るのも精一杯です。
私は今大学生です。私は自分が悪い人だと思います。今まで悪いことばっかりしてしまいました。そのことを考えて呼吸が苦しくなったりお腹が痛くなったりしています。小学校5年生のときから大切に育てているめだかちゃんの水槽のお掃除をテストを理由に後回しにしてしまいました。ご飯は毎日あげなくて大丈夫と父に言われたので、忙しいときはご飯があげられない日もありました。うさぎちゃんについて、中高のとき私が拒食症ぎみになったり、学校がつらかったりしてあまり遊べませんでした。私自身中高のときは思春期で(これを理由にしてはいけないのですよね)まわりが見えていなくて自分を見失っていました。本当に大切なことがわからず、何も知りませんでした。それでも、悪いことは悪いです。めだかちゃんに新しい水草を買ったりめだかの赤ちゃんは水槽を分けたり、うさぎちゃんにはサラダを作ったりたくさんなでなでしたり、そういうこともちゃんとしてきました。その他には、化粧品などがどのように作られているのか詳しく知らず、化粧品を使ったり薬を飲んだりしていました。知らないから、ではなくて、知らないということも罪だと思います。小さいときありにひどいことをしたり命の大切さを知らず虫をつかまえて、虫かご?(小学生がよくもっている)に入れたりしてしまいました。今まで私がどれだけ悪いことをしたか、心から反省していて、心からどうしたらいいか考えたいと思っています。動物実験をなくすための団体に寄付?をしたり、外で困っている生き物がいたら助けるようにしたり、蚊がとまっても殺さないようにしたり、たくさんのできることを見つけて行動しています。でも(逮捕されるのが怖い臆病な私ですが)私は自分が逮捕されるくらいひどい人間だと思います。これから私はどうしたらいいのでしょうか。これからももっと生き物を助けるためにたくさん行動したいです。ご意見お願いします。(また、中高のときに家族親戚に暴言暴力などもしてしまいました。生き物だけではなくてリビングや私の部屋のドアやお風呂のドア?にもひどいことをしてしまいました。親とケンカしていてお風呂のドアを割ってしまったりドアをバタンと閉めたりしてしまいました。蚊や虫にひどいことをしてしまったときもあります)こんな悪い人が生きていていいのですか?自分が許せません。私よりひどい人はあまりいないと思います。ご意見お願いします。
はじめまして。 物事の説明が苦手なので、文章中もお見苦しい点があるかと思いますが、宜しければお目通し頂けますと幸いです。 私は今、婚活系マッチングサイトで知り合った少し年上の方と3ヶ月ほど付き合っています。 彼からの告白でお付き合いが始まりましたが、彼は愛情表現が苦手なタイプで、私自信もネガティブな考え方をするタイプなため、彼から想われているのか事ある毎に不安になってしまいます。 要因の1つとして、彼と私の価値観の違いがあります。彼はかなりの倹約家です。 デートは必ず割り勘で、プレゼントの交換も好きでは無いようです。たまにお泊まりする時も負担は半分ずつにしています。 私自身、割り勘を嫌ってる訳ではないのです。 ただ、私は家族や友達、恋人など大切な人に対してお金をかける事が"友好の証"のように捉えている部分があり、彼の徹底的な倹約ぶりには少し寂しい気持ちを抱いてしまいます。 さらに、本当は私の方がかなり収入が少ない状況で、割り勘を求められる事に引っかかる気持ちがあるのです。 私の考え方が未熟なだけかもしれませんが…バレンタインのお返しについて、"時間とお金をかける気が向いたらね"と言われた時は悲しくて帰宅後に1人で泣いてしまいました。笑 ただ、それ以外では、彼のお家(実家)に遊びに行かせてくれたり、私が動物好きなのでペットの写真を送ってくれたり、毎日LINEを送ってくれたり、デートの予定は私に合わせてくれたり…きちんと向き合ってくれていると思います。 なので、やはりこのモヤモヤした気持ちは相手にぶつけずに自分の中で折り合いをつけるべきかと思い、考えては落ち込んで、を繰り返しています。 出会ったばかりの相手ですし、まだお互いの事を知っていく段階なんだと思います。 また、価値観の違う相手の気持ちを勝手に想像して凹むのも意味のない事だと分かっているのですが…まだ彼に恋をしてる気持ちが強く、彼からの愛情を求めてしまうため、堪らなく寂しい気持ちになってしまいます。 どうか、価値観の違いを受け入れ、前向きに考えるコツを教えて頂けませんでしょうか。 ここまで読んでみると、カネカネ言ってて自分でもうんざりしちゃうのですが…お手隙の時に何か少しでもアドバイス頂けると有り難いです。 どうぞよろしくお願い致します。
お釈迦様の時代は托鉢やお布施により頂いたものをなんでも食べていましたが、 現代日本において、托鉢でもお布施でもないのにお坊さんが肉食をするのは何故でしょうか。 仏教とは慈悲の心が根底にあり、生命に対し、苦しみを与えないようにするのは当然のことです。 お釈迦様の時代、今のような方法にて動物が囲われ、無理な出産を繰り返し強要され、体の一部を切除され、まだ寿命に程遠い若齢の家畜を殺していたとは思えませんし、 お釈迦様が肉を食べていたのを理由に、肉を食べてもいいんだよ〜というのは間違っています。 残り物を頂くのと、スーパーにて肉を買い調理するのは違います。 漁師のように職業にしている人もいるし仕方ないという話も見ましたが屠殺業に嫌気がさして仕事を変えた人もいます。 出された肉をありがたく食べれば生き物も報われるというなら、人間が死んでも葬式などせず、ありがたく調理して食卓にのせて頂くべきだということになります。 植物も生き物ですが、植物に意識はないですし、もし痛みや意識があるならば、家畜の餌にされている大量の植物を減らすべきです。 穀物や水、家畜を育てるのには大変膨大な資源が使われる一方、穀物さえ食べられずに飢餓で苦しむ人々が沢山います。 日本仏教が妻帯肉食をはじめたのは、その時代において必要な選択だったのかもしれませんが、現代日本にてまだ呑気にそれに甘えているのはどうでしょう。 肉食が許されるのは、病気で肉が必要であったり、高山地帯や極寒地帯において作物が育たない地域の人々であり、 豊かな国では肉を食べたいという煩悩をできるだけなくして、もっと全体の生命に対して心を配る必要があるのではないですか。 仏教は拘りをなくし、解脱をえるのが最大の目的ですが、戒律を手放してよいのは聖人に達したもののみて(仏は存在が慈悲ですから) 煩悩だらけの人間がなんでも手放したら、欲に溺れてしまうだけで、仏教の意味がありません。 また念仏を唱えたなら救われるというのは、一時的な救済で、本当にその人を救うことにはなりません。念仏を唱えようが、殺生をしたならば、やはり因果の報いは受けます。 肉食の許容は、屠殺業を放任し結果的にその人たちをも破滅させます。 私は直接屠殺していないし、肉を食らっても極楽浄土に行けるから、それでオッケーというのは仏教では無いと思います。
別の問答で、 「したいけどしないが大切な修行」というアドバイスを見ました。 なるほどなと思いました。 人間は、他の生き物より高度に自分で環境を調整する能力を身に付けてしまいました。それゆえ、環境に左右されず、いつでも欲望を発動することができるようになってしまいました。 高度な社会を秩序整然と維持していくには、社会への適応の仕方や欲望の押さえ方を学ぶ必要があると思います。 最近の5歳児に対する虐待死事件は、悲しい事件ですが、事件から学ばないと、同じような事件は繰り返されると思います。 母親がやったことは悪いこと。しかし、母親の立場になると、生育歴の中で歪んでしまったり、元のパートナーや現パートナーから家庭内暴力を受けていたりしたのではないかと思います。あくまで推測です。現パートナーに頼らなければ生きていけない母親の事情もあったのかもしれません。他の動物で行われている子殺しが行われていたのかもしれません。 父親の方にも原因があるはずです。 逮捕された両親には罪を償ってもらうのと同時に、しっかり治療(自己を真正面から見つめる)してほしいなと思います。周りも自立するための手立てを講じる必要があると思います。心理士の力が必要かもしれません。 物事の道理を理解すると、あらゆるハラスメントはなくなるのではないかと思います。 例えば、セクハラ。女性は、生理や妊娠、出産、閉経でホルモンバランスを大きく崩しやすいです。どれぐらい崩れるかというのは、個人や置かれた環境によって違うのだと思います。体の大きな変化は、気分や感情に大きく影響します。男性は、女性のそういう体の特徴をしっかり理解していないといけないと思います。女性の中でも、マタニティーハラスメントをする人がいますが、同性なのに何で想像力がないんだろうと思います。一方、男性は、絶えず種を作り続けています。それが貯まってくると、性欲を抑えられないのかもしれません。男女の体のことを理解していると、少しは自己コントロールできるのではないかと思います。 人間はどうしてもこれまでの経験から、人生のルールを無意識に決めてしまいます。これは、自分の勘でも何でもなくて、アメリカの精神医学界で考え出された認知行動療法で、患者側が自助努力で解決できるように書かれた本に書いてありました。文字にして唱えると、人生のルールは書き換えられると思います。
親の子育ては失敗ですよね? 子供の頃は親から 「お前はどうせ何をやってもダメなんだからやめろ、諦めろ」 「なんでこんな事もできないの?」とか言いまくって褒めてくれた事なんてないのに いざ自立してから 「やれる事は全てやってからだ、全て諦める人生になるぞ」「もう30才で大人なんだから、しっかりしてよ」 と言われます。 確かに私は社会常識のないクズですけど あんたら親が幼少期の人格形成に重要な時期に自尊心の育たない子育てとしつけばかりしてたから 私みたいな人間が育ったんだよ、お前らのせいじゃんと思います。 小さい頃親に悩み事や弱音を言うと頭ごなしに否定され怒鳴られるばかりで、 具体的なアドバイスをもらった事がありません。 小学校低学年で親に何をいっても無駄と言う考えになり、それが対人関係にも影響しお陰で人に頼るとか、相談するとか甘えるとか、悩みを自分の中で溜め込み 社会に出てからホウレンソウが出来ず苦労しました。 幼少期の実家は掃除もしてないので散らかり放題。 キレイな家が当たり前と言う感覚がないので、 一人暮らしの今でも掃除や整理整頓が苦手です。 私は両親のデキ婚の子です、妊娠当時両親にどんな背景があり出産したかわかりませんが まともに子育て出来ないなら産んで欲しくなかった。人生あと数十年生きるのがばからしい。 結婚は無理なので、動物が昔から大好きでペットを家族にお迎えしたら私の生活も少しは変わるでしょうか。 でも、 私に飼われるペット達がなんだか可哀想なのであとは自殺か何か消える方法を教えて下さい。
男に生まれ、性欲という呪いにかかった悲しき男という性。 生きることは苦なのに、なぜ、子供を産もうとするのか? そして、男には性欲という呪いがかかっていて苦痛なのか。 (動物として仕方ないですが) 私は原始仏教を少し独学で学び 「生きることは苦である」と知りました。親を恨んでいませんが、今まで勉学や課外活動、仕事には手を抜かず、完璧主義に辿り着くほど、努力をしてきました。 ですが、結局のところ、クリアしたら次の苦が待ち受けるだけで、キリがありません。 ですので、欲をなるべく抑え、テレビなどを見ず、ネットの広告もブロックしました。 普通に働き、不必要な欲を捨てて、世俗に惑わされずに生きてます。 お釈迦様がおっしゃる解脱は、あくまで、この世は苦であるという前提で、徳を積むと本当の意味で輪廻転成から抜け出せるとおっしゃったと認識しています(間違ってますか?) ですが、科学技術が発展したこの世界で、徳を積むことが輪廻転成から逃れ、解脱に至るとは考えられません。 所詮、人間はタンパク質などの物質の結合体でしかありません。それならば、生きる意味もなく、新しい命を生み出す必要もないと考えています。そして、男にかけられた性欲という呪いがそれを一瞬だけ忘れさせ、新しい苦しみの命が産まれてしまうと。 自分はこの世界の常識や日本の常識には合ってないかもしれません。それで良いですが。 子供を持ちたくもなく、呪われた性欲処理だけ都合の良い女の子に任せ、自分は精神的には世俗から離れ、仕事はきっちりして、税金を納め、それなりに好きな趣味に触れながら、生きていこうと思います。 今の時代、子供を持つリスク、結婚するリスク(貞操観念が低く、浮気する女性が多く、夫をATMのように、モノ扱いする女が多いです。離婚すれば、婚姻費用や財産分与、養育費を取り立てるヤクザと変貌する)が大きすぎて、子を持つ、結婚することによる、男の負担やデメリットが多すぎます。 それらをトータルで勘案すると、男の自殺率、鬱病発症率が高いように思えます。なんて男はしんどいのだと何度も何度も思いました。(女性も特有の大変さがありますが、社会が"かわいそう"と判断して、保護しますよね。) 男の貧困は自己責任、女の貧困は社会問題。男として生きることの苦痛、子供を産むことの愚かさ、女と結婚することの恐ろしさ。男の性欲という呪い。
今自分が悩んでいることには四つほどあります。 しかしまずはプロフィールを読んでからの上で、宜しくお願いします。 まず自分は"継続的になにかする"ということがとても苦手です。それゆえ、何度も何度も後悔する場に至りました。ある時は世話をうまくできずに動物や植物を殺し、枯らしてしまいました。 1度折れてしまうと、ずっと折れてしまったままのように、俺は1度できなくなるとずっと出来ない思考にあるようで、世話もそうでした。 まずこれで後悔し、毎日悔み、絶望しています。 二つ目、私の母は俺が"朝起きれないこと"に関して容赦なく毎日当たります。これについて毎日苦しく、反論はできずにおります。 俺が朝起きれないことは睡眠障害が原因で、治ってたのですが悪い性格(継続ができないこと)が発生したのが起きれなくなりました。 三つ目、私には兄がおりますが、当然、兄が上で俺がしたです。生まれが遅い俺が下、格下という事実が苦しく、苛立ちます。 四つ目、俺は精神的にかなり来ているのではないかと思っています。1年以上頻繁に測るうつ病チェックは毎回重度ですし、最近は夢で自分が号泣し、起きてまで泣いているという謎の現象にもたちあいました。中一の頃リスカをしていたのですが、またしたいと、なぜ我慢しなければと心が揺らぐことも多々あります。 思いたくはありませんが、ストレスがたまり、爆発しそうな気がします。 正直全ての問題を解決することはできないと思っています。世の中そう甘くはありませんし、そう出来ていますから。 ですが、せめて、せめてどうか、このストレスを和らげる方法が欲しい、提案が欲しい、慰めがほしいのです。 お金はないですし、バイトの禁じられております。小遣いはなく、であるけるもあまりできません。 心休まる場所などありません。 自室はあるものの、そこにいても「なぜそこにいる?」と母にリビングへこいと言われます。 もう限界な気がします。 どうか助けてください。
長年一緒に暮らした愛犬が亡くなりました。 愛犬は数年前に突然体調を崩して、当然家に1人きりには出来ませんし、急激に介護が必要になっていきました。 夜中も何も関係なく頻繁に吠えて私たち家族を呼びます。動物病院に通う毎日。私たちは、体力的にも経済的にも大変でしたが、できる限り治療や介護を続けました。 この時私は、何年も前からですが、精神的に体調を崩していました。 そんな中、体調が悪いのは愛犬も一緒なのに、それに寄り添う優しい気持ちを持てませんでした。 私が家に1人で世話をする間など、響く声で頻繁に吠えて呼ぶので私はイライラして、時々、手を振り上げる動作をしたり、愛犬をヒステリックに怒鳴りつけることもありました。 そのあと私が実家を出てからは、たまに帰っても「私のことは嫌いよね?きっと怖がらせてしまう」と思い、時々撫でるくらいで、あまり近づきませんでした。 私が家を出てから数ヶ月後、愛犬が亡くなりました。 体調があまり良くないと聞き、顔を見に行こうとしていた矢先の出来事でした。 私は動かない愛犬に「優しくできなくて本当にごめんね」を繰り返しました。 愛犬が生きてる時にも何度も本人に謝りました。ですが、頭でわかっていても、その頃は自分もいっぱいいっぱいでイライラは止めることができませんでした。 毎日怒鳴ったりしたわけではありませんが、文句一つ言わない犬に対して酷いことをしてしまったのは事実です。 いなくなってからの遅すぎる後悔、どうしたらいいかわかりません。今、私には謝ることしか出来ないのでしょうか? 私が与えた寂しさ、怖がらせてしまったことなどを、まだ愛犬は感じていますか?
2回目のご質問になります。前回も真摯なご回答を ありがとうございました。 尚、今回のご質問も優先ではありませんので、深刻な ご相談を優先させて下さい。 仏教を学ぶ上で「空」の概念が定まりませんので、 ご教示頂ければ幸いです。 世俗諦としての表現でしか質問できませんので、 質問の意味も理解されるのか心配でもあります。 これまでの仏教の学習から、全ての物事は「現象」 であり、その瞬間の状態であり続ける「実体」は なく、全て川のように流れていくものだと理解し ました。=無常・無我 →この理解で正しいでしょうか? 物事が「ある」でもなければ「ない」でもない。=空? この意味が正直、理解に苦しんでいます。 「空」(から)という世俗諦としての言葉のイメージ だと、「からっぽ」のように感じます。 でも、何もないと定義すると六根センサが何も作動 しないと思います。 「見えた」「聞こえた」・・・は、実際にあります。 私の理解したことは、 全ての物は「地水火風」の構成のされ方で、現象 としての現れ方が異なる。 →物質、人、動物、植物・・等々 全ての物は、エネルギーと言えるのではと、感じました。 エネルギーという表現が適切かわかりませんが。 物質には、質量というエネルギーがある。 生命にも質量もありますが、心があり、生存欲求や色々 な欲求がある。これらをエネルギーと表現しました。 このエネルギーが他のエネルギーとぶつかりあって変化 を生み、因果法則によって、現象として常に変化し続ける。 物質も空気に触れ、物質と空気のエネルギーのぶつかり 合いで酸化し、そのもの自体も変化し続ける。 自分の心(本当は自分という実体はないのでしょうが)も 六境が六根センサにぶつかり、物事を認識し(エネルギー がぶつかる瞬間)、六識で心が何らかの反応をする。 ぶつかるという表現より影響し合う方が適切かも しれません。 ですから、「空」とは、ある/ない(虚無)ではなく、 あるエネルギーが他のエネルギーとぶつかり(影響)、 因果法則によって変化し続ける現象と理解するのは 誤りでしょうか? 空=無常=無我と感じられます。 以上、初歩的な質問で恐縮ですが、宜しくお願いします。
私は29歳の女で、1月から現在までお付き合いしている2つ下の男性がいます。 彼はとても真面目な性格で、仕事が忙しい中でも毎日こまめにメールと電話の連絡を取り、休みの日の計画もしっかりしてくれる本当に優しい人です。 彼と私はお互い独り暮らしで、私の方が9月にマンションの更新があり、付き合って3か月の時に更新を機に一緒に暮らしたいと何度か言われていました。 ですがいざそろそろ更新するか決めなければいけない時に彼が悩みだしたのです。 簡単な気持ちで考えていたけど、今すぐしたいという気持ちにはなれないと…。 私は最初それを聞いたときとてもショックで、自分の存在が否定された気持ちになり、怒った口様で電話を切ってしまいました。 それから2日置いて一度電話で仲直りはしました。 2週間後に会い動物園と映画館へ行ったのですが、私は大人げなく終始不機嫌で彼に接してしまいました。まだ同棲が延期されたことがショックで変に距離を置いてしまったんです。 それでも最近彼は終電帰りで、連絡とれていなかったことを良くないと思ったそうで次の日からまめにメールをしてくれるようになりました。 ですが電話となると無言が多く、話が盛り上がらないのです。何日かは聞いてもなんでもないと言ってたのですが、昨日ようやく元気のない理由を教えてくれました。 同棲と結婚に対してこの3日間ずっと考えて、考えすぎてもうどちらも当分したいと思わなくなってしまったと。自分がいかに軽く考えていたのかがよくわかったと。元々付き合うということ=結婚を前提に考えていた彼としては、今彼自信が結婚をしたいと思うことができないのにこのまま続けていいのか悩んでしまっているそうです。このまま続けていって、2年後も気持ちが変わらないかもしれないし、と。私が嫌いになったでも、将来隣にいてほしくないというわけでもないそうですが…。 もう今までのように笑ったりふざけたりして接せないと思うとも言われました。 私は、彼にそこまで思い詰めて考えてほしくないです。 できれば結婚も視野に入れてお付き合いしていきたいですが、今は彼の存在に感謝して、ただそばにいたいです。彼に思い直してもらうには今後どのように接していけば良いのでしょうか…。
私の兄と母の体験談なのですが、母が子供の頃塾の帰りにある場所の前を自転車で通った時、急に自転車が重たくなり、振り替えってみると後ろの荷台に霊が乗っており、顔は見なかったけど普通のおばあさんが乗っていたと言っていました。驚いた母は、急いで必死に自転車をこぎました。しかし、ある家の前で急におばあさんは居なくなって自転車も軽くなったそうです。母は、二度とその道は通りませんでした。 また、母が小学生の学校行事で、お寺に泊まった時、夜部屋に居る母を含む半数が、日本髪を結った数百年は前の人で在ろう霊が、部屋をスーっと横切っているのを見たそうです。金縛りになった子も居たそうです。そこの住職もお経を上げているが、なかなか成仏をして頂けないって言っていたそうです。 兄は、幼少の時に、自宅で落武者の霊を見ました。髪は、長く下ろしてあってお腹から上だけがある姿だったそうです。兄は母に「お侍さんがいる」と言いましたが、その時、大人には見えなかったそうです。自宅があるところは山を切り開いて住宅街が立てられた所だそうです。 また兄なんですが、自宅から十分県内にあるお家でお葬式が上げられていたある日、小学生の兄がそのお家の前に白い着物を着たおばあさんの霊がたたずんでいるのを見たそうです。 またまた兄ですが、家から20分位のところにある神社があります。そこは、山の中にあり、私と兄と母でカブトムシを探しに行きました。 そこで、兄が急に「白い着物を着た巫女さんみたいな女の人が見えるけど大丈夫?」って聞いて来ました。私達は、直ぐにその場を離れました。 兄も母も中学生以降からは見えなくなったそうです。 私も、霊は見えませんが、感受性がかなり強く人や動物の気持ちに敏感で人なら、離れている人の感情や話声まで必要以上にキャッチしてしまいます。その為、見たくないものや聞きたくないものを感じてしまう人の気持ちも分かります。 よく霊は、心の中でその人を思う気持ちが強いから見えた幻想のようなものと言いますが、何故普通の心理状態で知らない人の霊まで見えるのでしょうか? この様に霊が、日常で普通に見えてしまう人は、霊は、サンタクロースのようなものと言われたらどうしたらいいんでしょうか? 見えた者の存在をそのまま認めるのは、おかしいんでしょうか?
お世話になります。 旦那の義父母と義姉の付き合いに悩んでいます。 義父母は私の住む主屋から徒歩1分以内の近い所に住んでいます。義父は動物も虐待しますし、笑いながらカマキリの羽をちぎるところを孫に見せようとする人です。義母も昔ながらの考えの人で、価値観が違うので性格は合いませんが、割り切ってそれなりに義父母と付き合って来ました。私の住む主屋は私が嫁ぐ前まで義父母と旦那が3人で住んでいました(私と結婚して義父母は放れに引っ越しました)なので、家は離れていても、私の家の庭や物置きなどは全て義父母の物しかなく、家の中にも義父母の荷物がある状態です。荷物に用事がある時は勝手に家に入って来ます。正直言ってストレスです。 義父母だけなら何とか過ごせていましたが、来年から義姉が義父母の放れの家に帰って来ます。私はこの義姉がとても苦手です。貸した物は返ってこないし、旦那によくお金も借りに来るのですが、もちろん返って来ません。余裕も無いのに新車が欲しいとか言います。あまり良いイメージが無く、なぜか顔を見ると不愉快になり暗い気持ちになります。心底から合わないのだと思います(笑)たまに顔を見る程度なら我慢も出来ますが、これからそんな義父母と義姉と近くで生活して行かなければなりません。最強にストレスです。この義父母と義姉に対して、どのように接すれば前向きに明るく過ごせますか? 私の嫁いだ先は農家で、他にもいろいろ面倒な事が沢山あります。旦那さんはとても良い人なのですが、ここに嫁いだ自分を後悔してしまいます。孤独を感じたり疎外感もあります。別居か離婚でもして出て行きたい気持ちです。が…子供の事を考えるとそんな度胸もありません。私の母は10年以上前に亡くなっていて、愚痴るところも甘えるところもありません。自由に生活する核家族の友達を見ると羨ましくなります…。
先日、1年9ヶ月を一緒に過ごしてくれた家族のシマリスが亡くなりました。 彼は私の大切な息子でした。 年齢は1歳10ヶ月でした。 寿命の半分も生きていさせてあげられませんでした。 お迎えした時から、嘔吐したり、薄毛になったり、病院に通うことが多い子だったので、いろいろと情報を集め、いつか大きな病気をしないようにと予防を考えながら暮らしていました。 彼の1日は私たち人間の10日分。彼の1日1回の食事は私たちの30食分。比較すること自体が意味のないことかもしれませんが、大切に、大切に育てていました。 急に元気がなくなって1週間。突然旅立ってしまいました。家族で交代で24時間見守って、私が仮眠する順番の時に亡くなってしまいました。 もっと一緒に居たかった。もっと一緒に遊びたかった。生きていてくれるだけで幸せだったのに。 私がどれだけ大切にしていたかを知っている家族が、私の事を心配して、新しい家族を迎える事になりました。早すぎるのは理解しています。心配してくれる家族に申し訳ないのと、何より私自身が弱いせいで苦しいから、そうする事にしたのだと思います。 亡くなった子の代わりではありません。新しい家族も、ひとつの命として、大切にします。 ただ、別な動物だけど、亡くなった子が許してくれるかな。怒らないかな。私だけ楽しそうにしてたら嫌だよね。と不安で仕方ありません。 私は亡くなった子に、生まれ変わってまた私のところに帰って来てねと伝えていますが、もう来てくれなくなるのではないかと不安です。 他の子をお迎えしておいて、自分は愚かで自分勝手なのはわかります。でも、亡くなった子が生まれ変わったらもう一度、私のところへ来てほしいのです。いつでも迎える準備はできています。私はどうすればいいのでしょうか。
今はまだ、世界規模で見れば幸福な環境の中に居ることがわかります。しかし、いつかは死ななければならないし、死んだ後はどんな残酷な世界に産まれるかもわかりません。この世界で起こっているあらゆる残酷なことが、いつかどこかの自分が体験する可能性がある。それが恐ろしくてたまりません。 この人生は、これから繰り返す過酷な自我の前の休憩地点でしかない、と最近感じるようになりました。自我を作っているのは脳味噌と感覚器官なのですから、自分が死んだ後はまた別の生き物の感覚器官が「自分」になってしまいます。だから、できるならばこの命が終わった後はもう存在していたくない、もう二度と物質的世界に生まれたくありません。 けれど、この「生まれたくない」「存在していたくない」「他者から加害されたくない」「とにかく自分の安全がほしい、安心したい」といった煩悩が強い中で成仏などできるのでしょうか。南無阿弥陀仏と唱えればお浄土に導かれるとも言われていますが、信じるのが難しいです。物質的世界とは違った世界があるという確固たる証拠があれば安心して生きられるのですが、そうではないから毎日を不安と絶望の中で過ごしています。 科学によって生き物の在り方が判明し、政治によって私達の未来はどうしたって暗いことが判明してしまいました。故に死を意識するようになり、死んだ後の残酷さに気づいてしまい、繰り返される死へと至る苦痛に怯えるようになりました。これは「死にたかった」私への罰なのでしょうか。 物質的世界の残酷さが強すぎて、精神的世界の温かさや理想論を信じられなくなっています。人間も動物なのですから、自分を守るためならどんな残酷なことだってします。こんな世界なのに、どうすれば「死んだ後は極楽浄土に導かれる」と信じることができるでしょうか。希望を持つことも何かをすることも怖いです。何をしようとしても、「途中で自分の人生が終わらされる」と感じてしまいます。家畜や戦争地帯に生まれる覚悟、できていますか? 私にはできる気がしないのですが、今の世界の仕組みを変えることもできないと諦めている時点で、この世界の残酷さに加担しているという罪を背負っています。いつかは世界のために自分を犠牲にしなければならない時がくるのでしょうか。 この世界の残酷さからは逃れられないという事実に狂いそうになります。どうしたってたどり着く先は絶望。
犯罪は全て世の中のバランスにより生み出されたものではないのかと思います。 世の中の真理で、善と悪のバランスがうまく保たれてるから平和なのではないのかと考えるようになりました。 善か悪どちらに強く傾いてしまえば極端な話、人類は滅亡してしまうのではないかと思います。 世の中でなくともバランスはどこにでも存在すると私は考えます。 それこそ、宇宙そのものも、何かがバランスよく存在してるから、そこに在るんだと思います。 何が言いたいのかというと犯罪が全くない世界は人間として生活する上で何かが欠けてしまうのではないかと思うのです。 そんな世界は未来永劫来ないと思いますがね。 さて、相談の題名にある犯罪は運命的なものではないのかという質問ですが、犯罪者は自然の摂理、つまり自然災害と同じではないかと私は思ってしまいます。 冒頭にも書いた様に、世の中は、宇宙はバランスで成り立っています。 善と悪もその一つです。 そんな中、善ばかりが増えるのは一見良い事の様に思えますが、そうではないと私は考えます。 これもさっき説明したので省きますが、犯罪は自然が生み出したものの一つだと仮定すると大量に人を殺してしまって死刑判決をされた人はその為に生まれてきたのか?と疑問が生まれます。 こんな不条理があるかと思うと怒りを覚えます。 よく、世間から批判が殺到する「死刑になりたくて殺しました」が動機の事件がありますが、あれも自然が生み出した悪人かと思うと非常に可哀想だなと思います。 それから、犯罪者は人権を奪って動物実験などさせたら良いとかいった意見もありますが、私はこれから先の未来、犯罪者になる可能性も0ではないと思ってる為、心が痛いです。(勿論、現段階で犯罪をしようとは微塵も思ってませんがね。) 以上を述べた上で是非お坊さんにお聞きしたいのですが、犯罪は突き詰めていけば運命的なものではないのか?という質問、難しいと思いますが真剣に考えてお答えして頂ければと思います。 だいぶ文章が下手くそですが、全文読んでしっかり回答して頂ければ幸いです。 ※尚、私は決して犯罪は良い事であるという事は言ってません。犯罪は許せない行為です。あくまでこういう考え方もあるよねという視点を変えただけなので、そこの所よろしくお願いします。
男vs女、子持ちvs子無し、独身vs既婚。 ネットの悪い部分に感化されたのか、動物園のゴリラが汚物を投げつけてくるが如く、現実世界で他人に攻撃する人が増えてきたように感じます。私は敵意も悪意も対象相手に持たないのに。 少子高齢化の為か、身近で黄門様の印籠ばりに子どもがいる事を誇ってくる人がいます。子持ち様と称される人です。 女に生まれたのは罰ゲームのような気がしてなりません。平安時代から女性に生まれただけで罪が深いのか、女性はどこまでいっても男の庇護のもと縋らなければダメなのか、御仏にすがり出家しようかと悩み倒す描写が見られます。 子持ち様や先の世代が無駄に攻撃するからでしょうか?当人の子どもが成長したら不倫、離婚、セックスレス、不妊、子無し選択、未婚、性的虐待被害、男性不信、障害児出産に苦しみ悩む現実があります。全て誰彼構わず攻撃したものが跳ね返ってきているのでは?と感じます。 せっかく生まれた子もお金欲しさにパパ活と称し気楽に足を開く現状、不妊治療で授かった先は気楽に費用を披露する。 お金で子どもを買う時代のようです。 その反対に気楽に中絶もあります。 某芸人の嫌なら見るな気にするなはもう通用しません。 某氏はどの歴代政府も日本人を減らしたいんだろうねと言い、某政治家は子無しを生産性のない人間扱いをし、某市団体は1人ものから独身税とりましょ♡とか提案しだし、他人女性から私の子どもに世話なんかさせない!年金も渡さない!とかマジな攻撃されるのです。 赤ちゃん工場じゃないし攻撃されても生むわけないじゃないですか。生めと言う癖に、ある程度の年齢超えると障害児うむ確率が〜とか脅して産ませないようにするんです。 お坊さん方、このような女性の現状を承知で独身子無し女がこの世をどう過ごしたら良いのかヒントを下さいまし。 正直日本人の肩書きに拘る限り、苦しみから逃げられない気がします。 家族友人知人、自身の周辺だけは幸あれと願うばかりです。生きづらい。 苦しみの連鎖を我が身ひとつで断ち切る。その考えは罪なの?女性の価値観や立ち位置も混乱する時代になりました。
年代別によって 悩みって色々変わりますが 悩みが無かった時なんてあるのかなと思います 子供時代は 震災など テレビ中継を 何となく見てましたが 大人になって 災害などで 崩れた家や 建物など 洪水などで 失われた 町の状況など 見てると 何故こんな試練ばかり 起きるのかと 見ている側も 辛くなります。 いつの時代も色々な事で 皆んなで協力して 生きる力を 養われてきたと思いますが 戦争などなく 自然災害などなく 平穏で穏やかな 日は来るのでしょうか?本当に今このIT時代になって 色々な事が便利になってますが 今この時代だからこそ 手を合わせていく事が 大事だと 気づくべきなのではと思います。 人の勝手で 戦争など 大気汚染など 人の手で 地球を 大地を破壊して きてます。 人が豊かに暮らせるようになり犠牲になってる事もあるという 実感を持って 自然を 壊し 動物を殺して生きている それは人が生きていくうえで仕方ない事かもしれないですが 謝って生きていかないといけないとも 思うからです。 あの世があって 神様仏様がおられて この世をみてられて 皆様が 手を合わせていく そういう 心を持つ事が この悩みを無くす事に繋がる気もします。 お寺様に足を運ぶ心を持つ事が 苦しみを無くす事に 繋がってるんでしょうか? 仏様と向かい合う事が 心穏やかになる事に繋がるのでしょうか? 私の先生が 布施行の事を よく話されるのですが 私は、正直 ケチだったんですが お寺様に 護摩木を購入したり 瓦の奉納をさせて頂いた事によって 心清らかになっていると思うんです。 布施行は 心の汚れを無くす事に繋がるのでしょうか? 何せ お寺様に行く行動を起こす事が 悩みを無くす事に繋がるのでしょうか?