2015年の4月に離婚し、ばつ二回になりました今は一人で派遣社員の仕事してます、二回の結婚で実の子供が三人いまが子供たちにわ 父親らしいことは何一つ出来てなく養育費も渡してない状況ですこんな自分が情けなく子供たちに申し訳なく日々、死にたい気持ちと格闘してます。 でも死ぬ勇気がない自分が情けなく思います こんな自分がこの世の中、生きてる意味有るのでしょうか、こんなくそみたいな世の中、生きてる意味有るのでしょうか?お金がないと何も出来ない世の中…
私はよく自殺についてネットで検索をしてるのですが、 自殺をすると地獄に落ちますよ! という投稿をしばしば見かけます。 自殺=自分を殺すことと同じ、つまり人を殺したも同然なので地獄へ行くというのです。 特に知恵袋などで多い気がします。 それで自殺防止になるならいいのかもしれないけれど... でも病気などで自殺する人もいるじゃないですか。 私は統合失調症ですが、幻聴に耐えられずその声に従って自殺したというケースもあるみたいです。 それで地獄に落ちるなんて可哀想だと思います。 自殺したら地獄に落ちるのですか?
はじめまして。 私は昔から他人の成功を喜ぶことができない性格なのです。 例えば、友達が仕事で成功したり、難しい資格に合格したりなどの話を聞 と、表面的には一緒に喜びますが、心の中では悔しいような、寂しいような、 不安な気持ちが沸いてきます。 親しい関係であればあるほど、その気持ちは強くなります。親友や恋人に 対しては特に強く感じます。逆に親しくない関係の人の成功は素直に喜ぶ ことができます。 自分でも嫌な性格だな、と思ってはいるのですが、どうしようもないのです。 誰でも少しは似たような嫉妬の気持ちはあると思いますが、自分は特に強く 嫉妬してしまいます。 この気持ちはどう整理すればよいのでしょうか。
結婚も出来ず子供もいません。 好きな人には好きになってもらえない運命だったんです。 死にたいくらいの嘘つかれました。私には存在価値はないとわかりました。 死んだ後も苦しみが続くとか聞きますが生きてても苦しみは続きますから自殺する事に決めました。自殺した罪を死んでから償えば極楽浄土にいけますか?
仏教は日本人の死生観に深く根を下ろして文化として素晴らしいものがあると思います。 しかし、こんな歳になるまで不勉強で恥ずかしいのですが、大乗非仏説を初めて知りました。 そして原始仏教と日本の仏教はかなり異なる事、律蔵があまり重視されなかったので、日本の僧侶は在家と変わらない事を知りました。 よく、キリスト教徒が進化論や地動説を信じないのを不思議に思ってきましたが、日本の仏教は実は(全てではないでしょうが)偽経だったと分かってどのように折り合いをつけているんでしょうか? 釈尊は口伝でしか伝えなかったから、全ての経蔵は直説でないとか、全て仏の御心から方便として出た物だとか、あまりに苦しい言い訳に見えます。また鰯の頭も信心からと言いますが、信心とは受け容れる事から始まるから信心はそこを問題にしないと言うのもそこに身を捧げる者としては辛い選択ではないでしょうか。 大乗非仏説は新しい概念ではないですが、時代を経るに従って消えることもないでしょう。今後、このまま伝統を重んじて変わらない事を良しとしていくのか、それとも時代と共に新しい研究成果を反映して変化していくのか、どのように考えられてますか?
死後の事についてご相談があります。 私は宗教という考え方やそれに基づいた慣習、イベント自体は好きですが、私自身が何かの宗教に属することは避けたいと思っています。 私の知る上では各々の宗教の考え方と私自身の観念が合うことが少ないからです。 ただし、宗教のパロディである空飛ぶスパゲッティ・モンスター教には共感いたしておりますので、自称するときはパスタファリアンを名乗っています。 そこで、私が死んだ後、葬式をあげてほしくないと思っています。 特に仏教式の葬式です。 なぜなら、戒名をいただいた時点で、仏教徒になってしまい、仏教という枠に囚われてしまうからです。 悟りも輪廻も御免被りたいです。 衛生的な観点からは火葬自体はしても構わないのですが、法律が許しませんが、できればその後はゴミ箱にでも捨ててもらって処分してもらいたいと思っています。 家族にそのことを話すと、死んだら終わりだから死後の事など心配するなと言われるのですが、そうではなく、私がそのくくりにとらわれてしまうことを決定づけられることが不服なのです。 死後の世界云々は信じておりませんが、生きているうちはそのことが囚われであり、心配であります。 ただ、信じずとも無いことの証明は極めて難しい以上、ある可能性は0ではないというのが論理であり、公理です。 (論理、公理とは数学上の意味です。) ですから、その0ではない可能性で、仏教の枠に入ることで、悟れなければ輪廻を繰り返してしまうという観念に囚われてしまっているのです。 ただし、重ねて申し上げますが、悟り自体は御免被ります。 渇愛は人間の人間たる、また、人間の動物たる所以と思います。 私は人間らしさを捨てたくはありません。 仏教に従事していらっしゃるお坊さま方には相容れない考え方かも知れませんが、これが私の中の公理です。 さて、これは私の考え方を変える努力をして見たほうが良いのでしょうか? それとも、家族を説得するようにしてみたほうが良いのでしょうか? 相談する相手を間違っているような気もしますが、意見を伺えるかもしれない機会を捨てることはないと思い、ご相談差し上げます。 よろしくお願いします。